8.幸せ、冷たい心(2)
すべて話し終わると、ミナミは「そっかぁ」とため息交じりに言った。サチは顔を覆っていた手を下ろすとミナミの顔を見上げる。彼女は困ったような表情で「そいつは、参ったね」と言った。そしてサチの頭を撫でながら沈黙する。その沈黙が、なぜか心地良い。
少し気持ちが落ち着いてきたサチは額のタオルを取ると、ゆっくり身体を起こした。
「あ、平気なの?」
「……ちょっと、楽になった」
「そりゃよかった」
ミナミはニカッと笑う。そしてトレイに乗せていたポカリのペットボトルをサチに手渡した。
「飲みなよ」
「ありがとう」
「でも、まあ、そりゃ苦しいよね」
ミナミは言って「みんな苦しい状況だわ、それ」と続けた。サチはペットボトルを握りしめて俯く。
「美桜も瑞穂も、どっちも明宮のためを想って行動したわけだ」
「わたしのため……」
「そうでしょ?」
「そう、だね」
サチは頷き、ペットボトルを開けてポカリを口に含む。その様子を見ながらミナミは「明宮も、二人のためを想ってるんだよな」と呟いた。
サチは手を止め、少し中身の減ったペットボトルを見つめる。ミナミは「だから苦しいんだ」と静かな口調で続けた。
「自分のことじゃない。誰かのためを想ってるから、そんなに苦しいんだよ」
その言葉にサチは目を見開いて顔を上げた。ミナミは優しい笑顔で「気づいてなかったんでしょ、自分で」と言う。
「明宮がそんなになるの、本当は高校生の頃に見たかったよ。できれば、わたしのことでさ」
彼女は笑ってから深く息を吐いた。
「……ごめん」
「謝ることじゃない。むしろ良いことだよ。他人に興味なかった明宮が、誰かの為を想って苦しんでるんだから」
彼女はそう言うと、ベッドに背中をつけて「わたしさ」と天井を見上げた。
「瑞穂の気持ち、すごくわかっちゃうんだよね。自分と被っちゃうっていうか」
サチはミナミへ視線を向けた。彼女は天井を見つめたまま「明宮のことが大好きで」と続ける。
「でもどうしたらいいのかわからなくて空回ってるところとか、一生懸命、明宮の近くにいようとするところとかさ。昔のわたしにそっくりじゃんって、最初に美桜の部屋で会ったときに思った」
「……あのときから、気づいてたの?」
ミナミは自嘲するように笑う。
「さすがにわかるでしょ、あれは。それとも明宮は気づいてなかったわけ?」
サチは口を閉じ、両足を抱えて膝に顎を乗せた。その無言を答えと受け取ったのだろう。彼女は「でも、瑞穂はわたしよりも強かったんだね」と続けた。
「明宮が別の誰かのことを好きでも、それでもそばにいてくれってさ。普通、そこまで言えないよ。誰だって好きな人のことは自分のものにしたいって思うじゃん。代わりでいいなんて、わたしには無理。瑞穂は強いよ。あんな天然なのにさ」
すごい、と彼女は呟くように言った。サチはミナミを横目で見つめる。
「柚原さんは松池先生の気持ちに応えるべきだって、そう思ってる?」
訊ねると、彼女はチラリとサチを見てから「んー、どうかなぁ」と唸るように言った。
「それはわたしが決めることじゃないでしょ」
その通りだ。サチは膝に顎を乗せたまま頷く。でも、とミナミは続ける。
「客観的な意見としては、そうかな」
「でも、わたしは――」
「明宮が瑞穂に恋愛感情がないのはわかってるよ。でもさ、付き合ってみたらそのうち恋愛感情が生まれることだってあるわけだしさ」
ミナミはベッドから背中を離してサチを見た。そして「わたしみたいに」と困ったように笑う。
「そうなのかな……」
「ま、そういう例もあるってことだよ。だけど親友としての意見は――」
ミナミはそこで言葉を止めて、考えるようにテーブルへと視線を向けた。
「意見は?」
「――明宮に、幸せになってもらいたいなぁ」
テーブルを見つめたまま、ぼんやりとした口調でミナミはそう言った。サチは答えることができず、同じようにテーブルを見つめる。
そのとき「ただいまー」という二つの声が響いてきた。男の声と、幼い少女の声。そしてバタバタと廊下を歩いていく二つの足音。
「あ、帰ってきた」
「先生と娘さん?」
「うん。ちょっと待ってて」
ミナミはそう言うと部屋を出て行った。
「おかえり」
ミナミの声が響く。それに答える二つの声。
「なんだ、誰か来てるのか?」
ドアのすぐ前で話しているのか、会話が微かに聞こえてくる。答えているのは懐かしい声。柚原のものだ。
「うん。明宮がね」
「明宮……。あの明宮か?」
「他にどの明宮がいるの。ちょっと体調崩してるみたいでさ。連れてきちゃった」
「そうか」
柚原の声にサチは身を固くする。
考えてみれば、柚原にとってサチはミナミのそばにいてほしくない存在ではないだろうか。彼は高校時代のミナミの気持ちを知っているのだから。
そう思ったが「具合悪いのか。大丈夫か?」と心配そうな声が聞こえてきた。
「風邪か? たしかあいつ、今は一人暮らしなんだろ。栄養が偏ってるんじゃないか?」
「あー、まあ、それもあるんだろうけど。ちょっと別のこともあってね」
「明宮さん、来てるの?」
聞こえたのは少女の声だった。
「うん。来てるよ」
「会える?」
「んー。今はちょっとやめておいたほうがいいかもなあ」
「えー、会いたいよ」
「そうだね。お母さんもコウに会わせてあげたいんだけど」
「コウ、明宮は具合が悪いんだって。元気じゃないんだ。だからゆっくり休ませてあげないといけない。今は我慢しよう?」
「……わかった」
そしてサチのことを心配する会話が続いていく。
どうやらこの家ではサチのことを全員が承知のようだ。そしてみんながサチのことを心配してくれる。きっとミナミが色々と話していたのだろう。
ミナミにとってサチとの再会はそれほどまでに意味があることだったのだ。家族に話してしまうほどに。嬉しい。そのはずだ。しかしミナミたちの会話を聞けば聞くほど、なぜか寂しさが募る。
ミナミと柚原の会話は互いのことを全てわかっているかのような夫婦独特の雰囲気があり、そしてコウへ向けるミナミの声はサチが聞いたことのないほど穏やかで柔らかく、優しさに満ちたものだった。
彼らの会話には他人が入り込むことのできない特別な雰囲気がある。
――家族なんだなぁ。
そんな当たり前のことを思う。きっとミナミの母親も、この輪の中には当然のように入るのだろう。この家の中でサチだけが他人だ。
サチだけが、ひとりぼっちだ。
サチは立ち上がると、そっとドアを開けた。瞬間、会話が止まった。




