7.優しい想い、優しいウソ(9)
車はゆっくり田舎道を走り抜け、やがて市街地へと出た。
平日の夜。帰宅ラッシュは過ぎたのか、車の流れは穏やかだった。車内には小さく音楽がかかっている。流行の洋楽なのだろうか。流れる曲はどれも知らない。
サチはそっと運転席の瑞穂を見る。彼女は無表情に前を見て運転していた。アパートを出てから何も言わない。無言のまま、何も聞かない。
「あの、松池先生」
声をかけると彼女は一瞬、視線だけをサチに向けた。
「……えっと」
なんと聞けばいいのだろう。瑞穂はどこまでわかっているのだろう。サチの気持ちや今の状況を、どこまで……。もし何も知らないのだとしたら、そのままにしておきたい。
「知ってますよ」
迷っていると瑞穂が言った。サチは思わず彼女の顔を見つめる。瑞穂はさっきと変わらぬ表情で運転を続けながら「知ってます。先生が御影さんのこと好きだってこと」と続けた。
「――いつから、知ってたんですか」
「んー」
瑞穂は考えるように唸ってから「先月、御影さんの様子を見に行ったときになんとなく」と答えた。
「それから、先生の誕生日パーティのときに確信しました。御影さんも、先生のこと好きなんだなって」
「……そうですか」
「あんな顔でお互いを見てたら、嫌でもわかっちゃいますよ。御影さん、先生の隣を死守してましたし」
瑞穂はフッと笑ってから「だから、我慢しようって思ってたのに」と呟いた。
「え?」
聞き返すと、瑞穂は「いえ」と笑みを浮かべた。そして広がる沈黙。
知らない曲が終わり、また別の知らない曲が始まった。対向車のヘッドライトに照らされたフロントガラスに水滴が落ちてくるのがわかった。
――また、雨だ。
小さな水滴がポツポツとフロントガラスに模様を作っていく。そしてそれを一気にワイパーが掻き消した。
「――高知さん、先生に何かしたんですか?」
ふいに瑞穂が低い声で言った。サチは、ついては消えていく水滴を見つめながら「いえ」と答える。
「じゃあ、御影さんに何か?」
「それは……」
美桜を脅した、ということになるのだろうか。三奈は溢れてしまった自分の気持ちをさらけ出しただけ。それが悪いことになるのだろうか。
「すみません」
考えていると瑞穂が言った。
「話したくなければ、聞きませんから」
そう言って瑞穂は「それより夕飯は何食べます?」と声のトーンを上げた。
「先生の好きなもの作りますよ」
「あ、いえ。わたしは大丈夫です。まだ胃が、ちょっと」
「じゃあ、おかゆでも作ります。食べないっていうのが一番ダメですから」
「……ありがとうございます」
言うと、瑞穂は「はい」と頷いた。彼女の横顔に浮かぶその笑みにどんな感情が込められているのか、サチにはわからなかった。
車が到着したのは五階建てマンションの駐車場だった。駅からも近く、学校からもさほど遠くない立地で便利そうである。瑞穂の部屋は三階にある角部屋。
「どうぞ」
瑞穂はドアを開けて先に入り、電気を点けた。
「すごい。部屋、広いですね」
「これ、半分に分けて二部屋にもできるんですよ」
「へー、すごい。なんかオシャレな感じ」
サチは「すごい」という言葉を繰り返しながら部屋を見渡す。家具はシンプルでモノトーンに統一されていた。生活感がないわけではないが、綺麗に整理整頓されていて無駄なものがない。
「あまり見ないでください。恥ずかしいですから」
「あ、すみません。つい」
瑞穂は笑って「その辺に座っててください」と言うとキッチンに立った。
「すぐに晩酌の準備しますから」
「晩酌って……」
サチが思わず笑うと、瑞穂も笑って冷蔵庫からジュースを取り出してテーブルに置く。
「準備できるまで、テレビでも見ててください」
「いえ、手伝いますよ」
「いいから」
瑞穂はサチの頬に触れて「まだ、少し顔色が悪いですから。大人しく待っててください」と微笑んだ。
頬に触れた瑞穂の手が温かく、しかし美桜の手の温かさとは違う。
サチは一歩、彼女から離れると「テレビ、見てますね」とテーブルの前に腰を下ろした。瑞穂はサチの頬に触れていた手を握ると、少し悲しそうな笑みを浮かべて頷いた。
平日のゴールデンタイム。地上波で流れている番組はバラエティばかりだ。しかしどれを見てもつまらないと感じてしまう。しばらくぼんやりテレビを眺めてから、サチはボリュームを小さくしてスマホを開いた。
美桜とのメッセージは誕生日の日から止まったまま。きっとここに新たなメッセージが届くことはないのだろう。
「おかゆ、できましたよ」
聞こえた声にサチはハッと顔を上げた。瑞穂はトレイに一人用の土鍋と器を乗せて運んでくる。
「わー、土鍋もあるんですね。わたしも買おうかな」
スマホを床に置き、サチはできるだけ明るい声で言った。瑞穂はテーブルに土鍋と食器を置きながら「あまり使いませんけどね」と笑う。
「一人でお鍋とか寂しくて。この土鍋も買ってから何年も経ちますけど、使ったのは数えるくらいですよ」
「へー。でも、なんかいざというときにはあった方がいいですよね」
「いざというときって、いつですか」
瑞穂は笑って言いながら再びキッチンへ戻ると、今度はご飯と餃子、そしてビールの缶をトレイに乗せて戻ってきた。
「あ、松池先生は本当に晩酌っぽい」
思わず言うと瑞穂は「食べたかったらどうぞ」と言いながらトレイをテーブルに置いて座る。
「餃子、昨日の残り物ですけど。しかも中身は野菜のみ」
「野菜餃子ですか」
「けっこう美味しいんですよ。あ、ビールもまだありますよ? って、胃が痛いのにビールはダメですよね」
「そうですね。お酒は……。あ、松池先生は遠慮せずに呑んでくださいね」
サチが言うと、瑞穂は「そうさせてもらいます」と缶を開けた。そしてグビッと最初に一口呑む。その姿を眺めていると、瑞穂が「どうかしました?」と首を傾げた。
「いえ。先生がお酒を呑むイメージ、あんまりなかったもので」
ああ、と瑞穂は笑って頷いた。
「家でしか呑みませんから」
「そうなんですか。お酒、強い方なんですか?」
「まあ、明宮先生よりは」
何か思い出したのか、瑞穂はクスリと笑った。そして餃子をひとつ食べてから再びビールを呑む。
「わたし誕生日のとき、そんなに酔ってましたか?」
聞くと、彼女は「それはもう」と深く頷いた。
「酔ってないって言い張ってましたけど」
サチは深くため息を吐いた。
「ダメだな、わたし」
「そんなことないですよ。お酒に弱い明宮先生、可愛いかったですし」
「可愛……。いや、そういう問題じゃなくて」
言いながらサチはレンゲで掬ったおかゆを食べる。薄すぎず、濃すぎない味付け。優しい温かさが胃に広がっていくのを感じる。
「――おいしい」
思わず呟くと「よかった」と瑞穂が微笑んだ。そして彼女はテレビへ視線を向けてビールを呑む。サチは再びレンゲでおかゆを掬って食べる。
もう一口。また、一口。
カチャカチャと食器がぶつかる音が小さく響く。ふいに瑞穂は席を立つと、冷蔵庫からビールの缶を二本持って戻ってきた。
「もう二本目ですか」
聞くと彼女は「今日は、ちょっとペース速いかな。三本目も持って来ちゃいました」と苦笑した。そして再びグビッとビールを呑む。まるで、何かの感情も一緒に呑み込むかのように。




