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7.優しい想い、優しいウソ(6)

 食欲はなかったが、それでもやはり身体はエネルギーを欲していたのか、うどんはあっという間になくなってしまった。瑞穂は完食したサチを安堵したような表情で見ていた。


「少し、顔色よくなりましたね」

「……そんなにひどかったですか?」


 サチは自分の頬に手をあてながら聞く。すると彼女は「とても」と深く頷いた。


「気づいてなかったんですか? 足下だってふらついてたし、今にも倒れそうな感じでした」

「そんな大げさな――」

「大げさじゃないですよ。明宮先生は、もっと自分のことに興味を持った方がいいと思います」


 その言葉にサチは思わず目を見開く。そんな反応に驚いたのか、瑞穂は戸惑ったように「え、わたし何か変なこと言いました?」と首を傾げた。


「ああ、いえ。ちょっと」

「ちょっと?」

「――同じような事を、言われたことがあったので」

「そうなんですか」


 瑞穂は微笑むと腕時計を見た。


「じゃ、わたしは先に戻りますね。今日、小テストする予定なので準備しなくちゃ」


 言いながら彼女は弁当袋を持って立ち上がる。


「あ、わたしも戻ります」


 サチも立ち上がってトレイを持とうとしたが、それよりも早く瑞穂がスッとトレイを手に取った。


「え、先生?」

「わたしが戻してきますから」

「いやいや。それくらい自分で――」

「いいから。待っててください」


 瑞穂は笑みを浮かべてそう言うとトレイを返却口へと運んでいく。

 なんだか今日は瑞穂がとても優しい。いや、いつも彼女は優しい。しかし今日はいつも以上に優しい気がする。同時に、突き放されたような気分になるのはなぜだろう。考えていると、ああ、そうかと思い当たる。


 彼女はもう、聞き出そうとはしないのだ。何も聞こうとはしない。ただ受け入れてくれている。


 さっきだってそうだ。誰に同じことを言われたのか、サチだったら気になる。でも彼女は聞かなかった。サチが言わなかったから、あえて聞かなかったのだろう。そんな彼女の気遣いに心が少し楽になるのを感じた。

 息苦しさが和らぐ。いつの間にか胃の痛みも消えていた。ほんの少しだけ、穏やかな気持ちを取り戻せていた。


「じゃあ、戻りましょうか。先生」


 戻ってきた瑞穂はそう言うと、先に立って歩き出した。サチはその後ろについて行く。騒がしい食堂を出て廊下を歩き、階段を上がって、そして「あの、松池先生」とサチは彼女の細い背中に声をかけて足を止めた。瑞穂も立ち止まって不思議そうに振り返る。


「ありがとうございます」


 すると瑞穂は微笑んで首を傾げた。


「何がですか? あ、うどんを奢ったこと?」


 言いながら彼女は再び前を向いて歩き出す。サチは笑って「それも含めて、です」と彼女の後ろについて歩いた。


「どういたしまして」


 答えた瑞穂の声は、温かかった。

 職員室に戻ると瑞穂は、まだテストのプリントが準備できていないのだと慌てて準備室へ行ってしまった。サチは今日は午後の授業がない日なので、溜まっている雑務と次の授業のための資料作りをしようとパソコンに向き合う。

 もうすぐ昼休憩も終わる。余計なことは考えずに集中して仕事をしよう。そう決意した矢先のことだった。


「明宮先生、いますか?」


 聞き覚えのある声と供に、職員室の戸が開いた。一瞬にして治まっていたはずの胃痛が蘇る。


「先生、呼ばれてますよ」


 隣席の小松が親切にも教えてくれる。サチは笑って「ああ、はい。すみません」と頷くと席を立った。そして職員室の入り口に立つ女子生徒の元へと向かう。


 足が重い。動悸がする。彼女の顔を見たくない。けれど、逃げるわけにもいかない。


 サチはグッと息を呑み込んで笑みを浮かべた。


「なに? 高知さん」


 すると三奈は、あの敵意しかないような視線でサチを見ると「ちょっと、話しませんか」と顎で職員室から出るよう促した。

 サチは一度深く呼吸をしてから、小さく頷いた。


 三奈が向かったのは昨日の放課後、美桜と話をしていた屋上へと続く階段の踊り場だった。昼休憩終了のチャイムが校内に鳴り響く。


「休憩、終わったよ。高知さん」


 サチは距離を置いて向かい合った三奈に言う。しかし彼女は「先生は授業ないから大丈夫でしょ?」と肩を竦めた。


「高知さんはあるでしょ」

「授業よりも大事な話をしたいから」


 彼女はそう言うとサチを睨む。サチはつい視線を逸らしそうになるのを堪えて彼女の視線を受け止めていた。


「何? 話って」

「わかってるでしょ。美桜のことだよ」

「……うん」


 胃が痛い。サチはわずかに眉を寄せた。


「昨日ここで聞いた話、誰にも話さないから安心してよ」


 彼女は薄く笑った。そして「それからわたしと美桜、付き合うことにしたからさ」と続ける。キリキリと胃が締め付けられる。


「それを、条件にしたの?」


 サチは震える声を抑えながら低く問う。彼女は薄く笑みを浮かべたまま「そうだよ」と頷いた。


「わたしと付き合ってくれるなら誰にも言わないって約束した」

「なんで、そんな」

「なんでって?」

「そんな交換条件出して、御影さんがどんな気持ちで――」

「あんたのせいでしょ」


 サチは目を見開いて三奈を見た。彼女は笑みを消し、サチを睨みながら続ける。


「わたしは美桜のそばにいられたらそれでよかった。それ以上は望まないって思ってた。だって、きっとわたしは美桜の恋愛対象には入らないって思ってたから。なのに何なの? いきなり現れたあんたがズカズカと美桜の中に入ってきてさ。意味わかんない。美桜があんたを見る顔。あんな顔、わたしには一度だって……」


 三奈はそこで言葉を切ると「あんたのせいだよ」と繰り返した。


「わたしがこんなことしてるのは、あんたのせい。あんたのせいで変わっちゃった美桜を、わたしが元に戻すんだから」

「元に……?」

「そう。元の、ウソをつかない綺麗な美桜に」


 サチは眉を寄せて彼女を見つめる。三奈は一度、自分を落ち着かせるように息を吐くと「わたし、あんたが大嫌い」と言った。


「あんただけじゃない。大人も、子供も、人間が大嫌い。だって、あんたたちはウソしかつかないじゃん」


 その言葉にサチは腹に当てていた手に力を込めた。美桜も、同じような事を言っていた。なんと言っていただろう。たしか――。


 考えている間にも三奈は続ける。


「わたしだってそう。ウソばかりついて生きてきた。そうしなくちゃ、この世の中上手く生きていけないでしょ? だから親も友達も誰も信用できない。でも、美桜だけは違った」


 彼女はふっと優しい表情を浮かべた。


「あの子はウソを言わない。誰に対しても、思ったことをそのまま正直に話して、反感を買って、孤立してた」


 サチはじっと三奈を見つめながら話を聞く。


「誰も正直者のそばになんていたくないもんね。だって、みんな自分を褒めて、認めてもらいたいんだから。自分のことウソでも認めようとしない奴、友達になんかいらないでしょ? でも、わたしはそんな美桜が欲しいと思った。絶対にウソを言わない。嫌いなことは嫌いって言う。悪いと思ったら謝る。相手が悪いことしてると思ったら容赦なく攻撃して、弱ってる子を見ると助けてあげる。まっすぐに。ウソ偽りのない言葉と態度で。そんな美桜はとても綺麗……。ウソしかないわたしには、美桜が必要だって思った」


 そして、と三奈はサチを見る。その顔は優しい表情のまま。

 サチは両手を握りしめて俯く。胃がさらに締め付けられたかのように痛んだ。


「正直でまっすぐな美桜にはウソしかないわたしが必要なの。だって、わたしがウソで守ってあげなくちゃ、あの子はきっとそのうち壊れちゃうでしょ?」


 吐き気が込み上げてくる。彼女の話を理解して納得してしまう自分が嫌だ。だけどわかってしまう。彼女の言う通りだ。

 美桜はまっすぐで正直で優しくて、そして繊細で。だけど、きっと周囲が思うほど心は強くなくて……。

 サチは深く息を吐き出して「それで」と三奈を睨んだ。


「そんな御影さんに、ウソをつかせたの?」


 三奈は眉を寄せて首を傾げる。


「ウソ?」

「だって、御影さんはあなたのこと――」

「ウソじゃないよ。美桜はわたしを好きになってくれるって言ったの。今はただの友達かもしれない。もしかすると恨まれてるかもしれない。でも、美桜はわたしを好きになってくれるって言った。もうあんたのことは忘れるって。だから、わたしは黙ってることにしたの。美桜が悲しむことはしたくないから」

「なに、言って……。高知さん、言ってることがめちゃくちゃだよ? だって、もう御影さんは悲しんでる。今日の御影さん、あんなに――」

「だから、あんたのせいでしょ!」


 三奈が声を荒げた。彼女は目に涙を溜めて、肩で大きく息を繰り返す。


「あんたが美桜のそばにいると美桜はウソをつく。そのたびに美桜は苦しい思いをするの。悲しい思いをするに決まってる。あんたのせいで……」


 サチはハッと息を呑んだ。


「あんたと付き合うのとわたしと付き合うの、どっちが自然なこと? どっちがウソをつかずにすむ? あんた、教師なんだからわかるでしょ? わたしと一緒にいた方が美桜のためなんだよ」

「御影さんのため?」


 サチは泣き出しそうな気持ちを堪えて三奈を睨んだ。声を荒げると泣いてしまいそうだ。だけど言わずにはいられない。

 大きく息を吸って「それは、あなたのためでしょ?」と絞り出すように言った。三奈の顔がわずかに強ばったのがわかる。


「今あなたが言ったことは全部、あなたのため。あなたは御影さんのためって言いながら、結局は自分のことばかりだよ。たしかにわたしは御影さんのそばにはいない方がいいのかもしれない。わたしだってそう思った。だけど、それを決めるのはあなたじゃない」


 サチは浅く呼吸を繰り返しながらズキズキする胸に手を置く。


「どうしてあなたが御影さんの気持ちを決めるの? 御影さんの選択肢を奪うの? やっぱり御影さんにウソをつかせてるのはあなたじゃない」

「違う! わたしは――」

「あなたが御影さんを悲しませてる。あなたのせいで御影さんが傷ついてる。全部、あなたのせいで」

「わかってるよ!」


 三奈は泣きながら声を荒げた。そして溢れる涙を拭こうともせずにサチを睨むと「だって好きなんだもん!」と言った。


「わたしだって、あんな美桜を見たくない。あんなに弱った美桜なんて見てられない。笑ってる美桜を見ていたい。わたしの隣で笑っててほしい。だからあんたに言いたかったの!」


 肩で息をしながら三奈は言葉を切ると「もう、美桜を見ないで」と消え入りそうな声で言った。


「本当はあんたにいなくなってほしいけど、それはきっと美桜が本当に悲しむから。だからせめて、もう美桜を見ないでよ。どうせ付き合う気もなかったんでしょ? さっき自分で言ってたじゃん。だったらもう、あの子のこと見ないでよ。美桜は、わたしを好きになるんだから……」


 しんと静かになった空間に聞こえるのは、三奈とサチの短く荒い吐息だけ。

 やがて「――言いたかったのは、それだけだから」と三奈はぐいっとブレザーの袖で涙を拭うと、走ってその場から去って行った。

 残されたサチは彼女が降りて行った階段を見つめながら「勝手なことばかり……」と呟いた。

 勝手すぎる言い分だ。だって、そんなの三奈には関係のないことだ。美桜とサチの問題になぜ他人が口出しをするのだ。

 思ってから、きっと同じ気持ちを三奈も抱いたのだろうと理解もする。

 きっと最初に美桜の笑顔に癒されて、最初に美桜のそばにいたいと思ったのは彼女で、ずっとこの心地良い関係が続くのだろうと彼女も思っていたはず。それがサチの存在によって、あっけなく壊れてしまった。

 サチが彼女の立場だったら、きっと同じことをしただろう。だけど、彼女のやっていることにはやはり納得ができない。

 腹が立つ。

 美桜のことを想う気持ちは自分が一番だとでも言うような彼女の態度に、どうしようもない怒りがこみ上げてくる。


「……っ」


 吐き気を覚えてサチは手すりに寄りかかる。

 この、やり場のない怒りに満ちた感情をどうしたらいいのだろう。人生で一度だってこんな感情を抱いたことはなかった。こんな自分を見たら、美桜はなんて言うだろう。


 ――我慢せずに、泣けばいいのに。


「……無理だよ」


 聞こえた幻聴にサチは答える。

 だって、きっと一度溢れ出した涙は止まらない。美桜が近くにいなければ止まりそうもないのだから。


 今、この場に彼女がいてほしい。

 美桜の体温を感じたい。

 美桜の声が聞きたい。

 美桜の香りに包まれたい。

 きっと、美桜だって……。


 ――人間はウソばかりつくし、自分の考えを押しつけてくるし、身勝手だし。


 ふいに蘇った美桜の言葉に、サチはその場に座り込んだ。

 今の自分も、そして三奈も、まさに美桜が嫌いと言っていた人間そのものだ。

 どうしようもない、自分勝手な……。

 懸命に涙と吐き気を堪えながら、サチは両手で顔を覆った。


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