7.優しい想い、優しいウソ(5)
翌日、起床したサチは鉛のように重い身体を無理矢理に起こして洗面所へ向かった。そして鏡に映る自分の顔を見て深いため息を吐く。
ひどい顔だ。目は真っ赤に充血し、瞼は腫れ上がっている。顔全体がむくんでいて、顔色も最悪だった。
「……学校、行きたくないな」
思わず呟く。しかしすぐに頭を振って、冷たい水で顔を洗った。美桜に言ったのだ。
元通りの関係になる。ちゃんとできる、と。
最初から逃げるわけにはいかない。それに、たとえもう美桜が見てくれないとしても彼女の顔を見ることはできる。それくらいは、きっと許されるから。
なんとか濡れタオルとメイクで目の腫れを誤魔化してから出勤したサチだったが、職員室に入って席に着いた早々に小松が「明宮先生。なんか今日、顔が変じゃないですか?」と言ってきた。あまりにも直球。小松が独り身である理由の片鱗が見えた気がする。
サチは苦笑しながら「少し体調が良くなくて」と誤魔化した。小松は疑うこともなく「そうなんですか」と頷いている。
「たしかに顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
「はい、まあ」
「雨が続くし、蒸し暑いから身体にもきますよね。生徒たちも気をつけてやらないと」
「ですね」
サチは頷きながらノートパソコンを開けて、昨日やりかけていた雑務を再開する。そうしながら視線を感じて顔を上げると、自席に座る瑞穂が心配そうな表情でサチのことを見ていた。そういえば、昨日は瑞穂に悪いことをしてしまった。せっかく心配してくれたのに、余裕がなくてつい邪険にしてしまった。
――謝らなくちゃ。
思ってサチは席を立つと瑞穂の元へ向かう。彼女は近づくサチを少し強ばった表情で見つめていた。
「あの、松池先生」
瑞穂の隣に立って声をかけると、彼女は緊張したように背筋を伸ばしてサチを見上げてきた。
「昨日は、すみませんでした」
しかし瑞穂は答えない。
「心配してくれたのに、ひどい態度をとってしまって。本当にすみません」
瑞穂は無言でサチを見つめていた。何かを待っているかのように。しかし、サチがそれ以上何も言わないとわかると小さく息を吐いた。
「やっぱり、話してはくれないんですね」
「……大丈夫です。もう、大丈夫ですから」
瑞穂はサチの目をまっすぐに見つめ、やがて「わかりました」と悲しそうに微笑んだ。そして首を傾げる。
「でも、いつでも何かあったら言ってくださいね。頼りないかもしれないし、それを解決してあげることはできないかもしれない。でも、聞くことくらいは、わたしにだって出来ますから」
「はい……。すみません」
サチの返答に瑞穂は目を伏せた。そして、それきり口を閉ざしてしまった。
瑞穂のことを信用していないわけではない。頼りにしていないわけでもない。ただ、話してしまえばきっと瑞穂は優しく励ましてくれる。それに甘えてしまう自分が怖かった。だから話せない。しかし、そんなサチの態度が瑞穂を傷つけていることもわかっている。
――なにもかも、上手くいかない。
そんな気持ちが心に広がっていく。
自分がいることで、自分に優しくしてくれた人たちが傷ついているのではないか。悪いのは、ここに居続けようとする自分ではないか。
そんな考えがサチを支配していく。どうにもできない暗い気持ちを胸に抱え込んだまま、サチは教室へ向かった。
いつもと変わらぬ、朝の気怠い空気が漂う教室。
担任が来てもすぐには静まらない生徒たち。
日直の号令によって響き渡る椅子を引く音。
サチに向けられる生徒たちの視線。
その視線の中に、美桜はいない。
彼女は日直の号令に立つこともせず、無表情に机に頬杖をついて空を眺めているようだった。昨日までの大雨は止み、どんよりとした雲に覆われた梅雨の空を。
ホームルームが終わっても、彼女の視線は梅雨空に向けられたままだ。一度もこちらへを向くことのないその横顔は、まるでそこだけ教室から切り取られた絵画のように綺麗だった。そしてその姿は初めてこの教室で教壇に立った日の美桜の姿に重なる。しかし、あの頃と違うところがひとつ。彼女の目元は赤く腫れていた。教壇から見てもわかるほど、泣き腫らしたように。
今日ほど時間が経つのが遅いと思った日はない。そして、今日ほど時間が経たないでほしいと思った日もなかった。
廊下で偶然すれ違っても、授業をしていても、授業が終わって休憩時間に入っても、美桜は一度もサチを見ようとはしなかった。頑なに窓の外を見つめている。そんな美桜のことを心配する友人たちの声にも美桜はぼんやりと返答しているだけだった。
まるで魂が抜けてしまったかのような彼女を見ているのが辛くて、そんな彼女を見続けるのが苦しくて、時間が止まってしまえばいいとすら思った。
巻き戻すことができないのなら、せめて止まってしまえ。
そんな子供みたいなことを思ってしまっていた。
「――明宮先生?」
呼ばれて顔を上げると、弁当の袋を持った瑞穂がどこか遠慮がちにサチの後ろに立っていた。
「お昼休憩ですよ。戻ってこないから心配しました」
「あ、すみません」
言ってサチは左右を見回す。授業を終えて職員室へ戻る途中、つい立ち止まっていたようだ。
「すぐ準備を……」
言いかけてから今日は何も昼食を買ってきていないことに気づく。サチは笑みを浮かべて「自販機、寄ってから行きますね」と自販機コーナーへ向かう。
「え、ご飯は?」
「今日は食欲ないので水だけでいいかなって」
事実、空腹ではなかった。昨日の昼食以降、何も食べていないというのに食欲が沸かない。
「すぐ行きますから、先に教室行っててください」
しかし瑞穂はサチの腕を掴んで立ち止まらせると、怒ったように「ダメです」とサチを引っ張って歩き始めた。彼女が行く方向は自販機コーナーでもなければ多目的教室でもない。
「先生? どこへ」
「食堂です」
「いや、でもわたしは――」
「自分が今、どれだけ顔色悪いかわかってますか?」
振り向きもせずに彼女は言う。
「きっと、昨日帰ってから何も食べてないんでしょう?」
サチは答えない。瑞穂はちらりと振り返って「何か食べてください」と言った。そして再び前を向くと「何も話してくれないのなら、せめてわたしを心配させるようなことはしないでください」と低い声で言った。サチは短く息を吸い込み「――すみません」と謝るしかない。
「何に対して謝ってるんですか」
瑞穂の口調は冷たい。けれど、腕を掴んだその手はとても優しかった。
瑞穂がサチを引っ張って歩く姿は生徒たちの注目を集めていた。あきらかな好奇の目だったが、瑞穂は気にした様子もなく食堂へと向かう。しかし、その入り口近くで「あ……」と立ち止まった。ちょうど反対側の階段からやってきた二人の生徒と鉢合わせたのだ。その二人を見てサチの心臓がドクンと脈打つ。
瑞穂がそっとサチの腕を放した。そして「高知さん、御影さん。二人も今日は食堂?」と穏やかに声をかけた。
「まあ、たまには」
答えた三奈の手は美桜の腕を掴んでいる。ちょうど瑞穂がサチの腕を掴んでいたように。美桜は俯いたまま顔を上げない。どんな表情をしているのかすらわからない。サチは唇を噛んで俯いた。
「行こ。美桜」
「……ん」
微かに聞こえた美桜の声にサチは顔を上げる。美桜は三奈に引っ張られるがままに食堂へと入っていった。彼女の後ろ姿を見つめていると、瑞穂がそっと背中に手をあてた。
「わたしたちも行きましょう。席、なくなっちゃいますよ」
瑞穂は言ってサチの背中を押しながら食堂へ入る。中は生徒たちで溢れかえっていた。その中に美桜の姿を探したが、もう、彼女を見つけることはできなかった。
「先生、何食べますか? 胃に負担かからないものなら麺類ですかね。うちの食堂、麺類がけっこう美味しいんですよ」
瑞穂が気を遣ったように言いながら水を持ってきてくれた。そういえば食堂に来たのは初めてだ。メニューもよくわからない。メニュー表は食券機の隣に置かれているが生徒たちに埋もれて見えなかった。
「じゃあ、うどんにしようかな」
「わかりました。買ってきます」
「え、いや、自分で」
「良い子で待っててくださいね」
瑞穂は微笑んで子供に言い聞かすように言うと、サチの言葉など聞かずにさっさと食券の列に並んでしまった。サチはため息を吐いて瑞穂が持ってきてくれた水を口に含む。
食券の列に並ぶ瑞穂の姿はひときわ目立っていた。あまり教職員がいないということもあるだろうが、やはりスタイルが良い。男子生徒と同じくらいの背丈があるが身体は細く、頭が小さい。何頭身あるのだろう。並んで歩けば、きっとサチのような平均的な体格の女性はちんちくりんに見えることだろう。
周囲の生徒たちは物珍しげに瑞穂を見つめ、そしてチラチラとサチの方へと視線を向けていた。以前の瑞穂なら、こんなに注目を集める食堂に来ることはなかっただろう。それなのに苦手な視線を我慢してサチを連れてきてくれた。
食券が買えたのか、瑞穂が微笑みながらサチの方を見て手に持った券をヒラヒラ振った。その場が軽くざわついたが、彼女は気にした様子もなくそれを持って注文カウンターへ移動していく。
瑞穂は変わった。以前のような、周囲を威嚇するような冷たい雰囲気はすっかり消えている。そのおかげで生徒からも教師からも信頼度や人気が上がっている。彼女の変化は良い方向へと転がっているのだ。
それに比べて自分はどうだろう。自分だって変わったはずだ。以前よりも良い方向へ変わったはず。だってこんなにも誰かを想うことができるようになった。それが悪い変化なわけがない。なのに、なぜこんなに苦しいのだろう。
なぜ、誰かを傷つけてしまうのだろう。
ふいに見覚えのある後ろ姿がカウンターに並ぶ瑞穂の隣に立った。瑞穂が何か声をかけ、それに対して怠そうに答えている。そしてチラリと彼女は振り返った。
三奈と、目が合った。
サチは反射的に目を逸らしてテーブルを見つめる。胃がキリキリと痛み、手で腹を押さえる。
彼女の視線には相変わらず敵意が込められている。美桜を手に入れた彼女は、これ以上何を望むというのだろう。
――わたしにはもう、何もないのに。
そのとき、ふわりと良い香りがしてトンッとテーブルにトレイが置かれた。
「お待たせしました」
顔を上げると瑞穂が優しい表情でサチに微笑みかけている。彼女はサチの顔を見ると一瞬心配そうに眉を寄せたが、すぐに笑みを浮かべて「残しちゃダメですからね」と箸を差し出してくる。サチは力なく笑って「ありがとうございます」とそれを受け取った。すると瑞穂は嬉しそうに頷いて弁当を広げた。
いつもならくだらないお喋りをする昼休憩。しかし今日は何を話すでもなく、瑞穂もサチも静かに食事を続けた。きっと普段なら煩いと感じてしまう生徒たちの楽しそうな喧噪が、今は少しだけ気を紛らわせてくれる。
久しぶりにも思える食事は、優しい味がした。




