7.優しい想い、優しいウソ(4)
学校を出たサチはアパートに向かって車を走らせる。雨の影響か、車列の動きは遅い。車内ではエンジン音と、再び降り始めた大粒の雨の音だけが響いている。ノロノロと車を走らせながら、サチの気持ちは不思議と冷静になっていた。
もう過ぎてしまったことは元には戻らない。その事実を受け入れるしかない。半ば諦めにも似た気持ちが強かった。
アパートに着くと、傘も差さずに土砂降りの中をナナキの小屋へ向かう。
ナナキの小屋の上にはトタンが置かれ、雨が小屋の中に入らないよう調整がされていた。昨日まではなかったはずだ。今朝、美桜が置いたのだろうか。
ちょうど散歩の時間帯のはずだが、ナナキは小屋の中で満足そうに眠っていた。そんなナナキから視線を逸らしてサチは美桜の部屋の窓を見る。電気は点いていない。きっとまだ帰っていないのだろう。なんとなくホッとしながらサチは小屋から離れ、自分の部屋の玄関を開けた。
そのままシャワーを浴びて冷えた身体を温め、気持ちを無理矢理リセットさせると、髪を乾かすこともせずにテーブルの前に座る。そして頭からタオルを被ったまま、そっと畳を撫でた。
昨日の今頃、この部屋にはミナミがいて瑞穂がいて、そして美桜がいた。
人生で一番楽しい誕生日パーティ。
人生で最高の日だと思った。
そして美桜に触れてドキドキして、幸せな気持ちを一瞬でも味わって。
サチは畳を撫でていた手を握りしめると、棚に置きっ放しにしていたノートパソコンを持ってきてテーブルに置いた。そして久しぶりに起動させる。しかし、どうやら更新プログラムがあったようで、なかなか起ち上がらない。まるでサチが退職届を書こうとするのを邪魔するかのように、更新進捗のパーセント表示は変わらない。
じっとモニタに表示される変わらない数字を見つめていると、微かにコンッと音が響いた。雨が窓を打つ音ではない。不思議に思っていると、コンコンッと再び響く音。それは玄関のドアから聞こえてくるようだった。
誰かがドアをノックしている。なぜインターホンを使わないのだろう。不思議に思いながら立ち上がって玄関へと近づく。
「――先生、いる?」
サチは一瞬、足を止めた。微かに聞こえたのは美桜の声だった。くぐもったように聞こえたのはドアが閉まっているから、そして雨が強いからだろう。サチは少し迷ってから、ドアノブに手をかけるとそっと押し開ける。しかし、すぐにドアは何かにぶつかったように動かなくなってしまった。
「このままでいいから」
先ほどよりもクリアに聞こえた美桜の声は、緊張しているように固かった。
「御影さん、いま帰ったの?」
「うん」
「雨、大丈夫だった?」
「うん」
美桜の返事は短い。サチはかける言葉が思いつかず「あ、ナナキちゃんの小屋、大雨仕様になってたね。えっと、散歩は大丈夫?」と空回った会話をする。すると美桜は「今日はママが行ってくれたみたい。雨が弱い間に」と言った。そして笑ったような息遣いが聞こえる。
「また先生、人の心配ばっか」
その一瞬だけ、美桜の声から緊張の色が消えたように思えた。しかしすぐに「あのね、先生」と固い口調に戻ってしまった。
「三奈と話してきた」
「……うん」
「三奈、黙っててくれるって」
「え――」
サチが思わず声を上げると「約束してくれたから、大丈夫だよ」と美桜は言った。なぜか、悲しそうな声で。
「そう、なんだ……」
「うん。だから学校辞めないでよ」
サチは無言で息を吐いた。美桜は続ける。
「このアパートから出て行ったりしないでよ」
――ああ、やっぱり。
サチはドアに額をくっつけながら思う。
――彼女には。
「ここにいてよ。じゃないとさ」
「じゃないと?」
「寂しいじゃん」
――彼女には、すべて見透かされてしまっている。
「うん。ありがとう。御影さん」
「うん……」
美桜は微笑んだような声でそう言うと「それからね、先生」と続ける。
「わたし、三奈と付き合うことにしたから」
瞬間、目の前が真っ白になった気がした。彼女の口調は変わらない。微笑んだような穏やかな声。
「だからね、明日からわたしと先生は元通り何でもない関係に戻ろう?」
「――何でもない?」
「そう。ただの教師と生徒。他に何の感情もない、それだけの関係」
「そん、なの」
――無理だよ。
「できるよね? ポンコツ先生」
ハッとサチは言葉を呑み込む。穏やかな美桜の声は、泣いていた。サチは答えず、ただドアを押す手に力を込める。しかしドアはそれ以上開いてはくれない。美桜の顔を、見せてはくれない。
「先生?」
「……ん。わかった」
精一杯、声を振り絞ってサチは答える。しかし我慢できずにしゃくり上げてしまう。
「ありがとう、御影さん」
泣きながらサチは言う。その瞬間、泣き声を我慢するような吐息が聞こえてドアを押さえていた力がなくなった。そしてバタバタと足音が響き、隣の部屋のドアが乱暴に閉められる。
サチはドアを半分開けた状態のまま、その場に座り込んで泣いていた。美桜の気持ちに、涙が止まらなかった。




