7.優しい想い、優しいウソ(3)
サチは階段に座り込み、手擦りに寄りかかるようにしながら踊り場の窓から外を眺めていた。強い雨は、さきほどの雷を合図にしたかのように少しずつ弱まってきているように思えた。
校内は静かだ。足音一つしない。美桜たちはどこへ行ってしまったのだろう。
三奈はどうするつもりだろう。ネットにでも上げるつもりなのか。それとも教頭か校長に言うのか。サチは息を吐く。
いつも三奈からは敵意を感じていた。それはサチがこの学校に来たときからそうだったが、最近はさらにその感情を強く感じていた。理由に思い当たる節はなかったが、今になってようやくわかった。
彼女は知っていたのだ。美桜の気持ちを。
美桜が、誰よりも近くにいたはずの自分を差し置いて、突然現れたサチに想いを寄せていたことを。
それが何よりも許せなかったのだろう。
きっと彼女は美桜のそばからサチを遠ざけようとするだろう。どんな手段を使ってでも。
「それも、いいかな」
そうすれば美桜はまた普通の高校生活に戻れるのだ。サチがここへ来る前の、普通の生活に。
そうなったら、自分はどうやって生きていこうか。もう学校で働くことはできないだろう。美桜と同じアパートに住むこともできない。実家にだって、きっと戻れはしない。世間体を重んじる母にとってサチは今度こそ恥でしかなくなってしまうだろうから。
――遠くに、行きたいな。
誰も知らない土地で新しく生活を始めたら何か変わるかもしれない。美桜のことも忘れることができるかもしれない。何もかも、忘れてしまえるかもしれない。
そのとき、ポケットに入れていたスマホが揺れた。サチはぼんやりとそれを取り出すと、相手の名を見もせずに耳に当てる。
「あ、先生? 今どこですか?」
聞こえてきたのは瑞穂の声だった。彼女の声はいつもと変わらない。
「……今、職員室に戻ろうと思って」
サチの言葉に瑞穂は「先生?」と怪訝そうな声を上げた。
「どうしました?」
「いえ。松池先生こそ、どうしたんですか? 電話なんて」
すると彼女は「あ、そうでした」と続けた。
「実はこのあと、またかなり強い雨が来そうなんですよ。だから教職員も今日は早く帰宅をということになりまして。これから校内放送で残ってる生徒たちにも周知して、部活顧問が見回りをして帰宅するという流れになりました。だから、先生も今日はもう帰宅して大丈夫とのことです」
「……わかりました。ありがとうございます」
サチは言って通話を切ると、ゆっくりと立ち上がる。そして深く息を吐き出してから両手で顔をパンッと叩いた。
いつまでもここにいたって仕方がない。帰ろう。そして辞表を書こう。最初からそうすれば良かったのだ。
仕事を辞めて、あのアパートを出る。それですべては元通り。三奈が誰かに何かを言わずとも、そうすることが正解。そのはずだ。
「よし……」
力なく気合いを入れたサチの声は、鳴り響いた校内放送のチャイムによって掻き消された。
職員室に戻ると、すでに教職員たちの姿は少なかった。サチは少し顔を俯かせて自席へと戻る。瑞穂がこちらを見ていることに気づいたが、サチは彼女の方を見ないようにして椅子に座った。
「明宮先生、今日の仕事はもう切り上げてくださいね。雨、またかなり降りそうですから」
サチが戻ったことに気づいた教頭が言う。サチは教頭に軽く会釈をして「わかりました」と答えると、パタッとノートパソコンの蓋を閉じてデスクの上を片付ける。
「明宮先生……?」
瑞穂の声が聞こえる。サチはバッグを手にすると、俯いたまま彼女に頭を下げた。
「お先に失礼しますね。お疲れ様でした」
できるだけいつもと変わらぬ口調を装いながらサチは職員室を足早に出る。
顔を上げられない。今は、とてもいつも通りの表情なんてつくれない。笑みを浮かべることすらできない。
顔を上げてしまえば、また涙が溢れてしまいそうだった。
サチは俯いたまま廊下を走りながら昇降口へと向かう。誰が見ていようと構わない。とにかく早く車に乗り込んでしまいたかった。車の中で一人になりたかった。
投げるようにして下駄箱から靴を出すと乱暴に上履きを押し入れる。そして靴を履こうとしたそのとき「待ってください、先生!」と腕を捕まれた。反射的に振り返ると、息を切らせた瑞穂が驚いたような顔でサチのことを見ていた。
彼女はサチの腕を掴んだ手にグッと力を込めると、一度深呼吸をしてから「何が、あったんですか」と静かに言った。
「さっき御影さんと何があったんですか?」
「――別に、何もないですよ」
瑞穂から顔を背けてサチは言う。
「何もない? 泣いてるのに?」
「泣いてませんって」
「目が腫れてます」
「これは、ちょっと埃が目に入ってしまって――」
「先生!」
瑞穂はサチの腕をグイッと引っ張ると顔を近づけた。
「何があったんですか?」
――誤魔化せそうにない。
サチは目を伏せて沈黙する。瑞穂はしばらくサチのことを怒ったように見つめていたが、やがて「話してくれないんですか」と悲しそうに言った。
「わたしじゃ、頼りないですか」
「……そんなことは」
「じゃあ、わたしのこと信用できない?」
瑞穂の声は悲しそうだが、どこか怒っているようにも聞こえる。サチはそっと瑞穂へ視線を向けた。彼女はまっすぐにサチを見つめていた。
「先生は、どんなことでも全部自分で解決しようとする。そんな先生のこと、わたしはすごいと思うし尊敬してます。だけど、苦しいときや悲しいときは頼って欲しいんです。わたしは先生の力になりたい。先生に泣いてほしくない。笑っててもらいたい」
だから、と彼女は力なく微笑んだ。
「何があろうとわたしは先生の味方です。どんなことでも、わたしは受け入れますから。御影さんとのことだって――」
ハッとサチは目を見開いた。瑞穂は悲しそうに微笑んでいる。全てを察しているかのように。しかしサチの腕を掴んだ手は、少しだけ震えていた。
「わたしを頼ってください。先生」
「――今は、無理です」
サチは絞り出すように言った。
「今は一人になりたいんです。お願いします」
瑞穂は短く息を吐くと、そっと手を放した。そして「すみません」と俯きながら謝った。消え入りそうな声で。
サチは俯いたまま靴を履くと車へ走った。運転席に乗り込んで昇降口へと視線を向ける。瑞穂の姿は、もうそこにはなかった。




