7.優しい想い、優しいウソ(1)
土砂降りの雨は止むことはなく、翌朝には雷雨となって降り続いていた。そんな大雨の中、出勤したサチはバタバタと廊下を走って職員室に滑り込んだ。
「おはようございます!」
息を切らせながら挨拶をして自席へと向かう。すると隣席の小松が「間に合いましたね」と笑って言った。サチは苦笑する。
「ギリギリでした」
「遅刻かと思いましたよ」
言葉と供にふわりと頭にタオルがかけられた。顔を上げると、瑞穂が「雨で渋滞とかしてました?」と首を傾げながら立っていた。
「ああ、いえ。普通に寝坊しちゃって」
すると瑞穂は思い出したように微笑んだ。
「かなり酔ってましたもんね、昨日」
「え? お二人、昨日一緒に呑まれてたんですか?」
小松が羨ましそうな口調で言った。瑞穂は笑みを浮かべたまま頷く。
「明宮先生のご自宅で友達と一緒に」
「へえ、そうなんですか。いいですねぇ」
「二日酔い、大丈夫ですか?」
「あー……」
二日酔いなどするわけもない。アルコールは、あのとき全部吹き飛んでしまったのだから。サチはタオルで髪を拭きながら自然と俯く。
「先生?」
瑞穂の声にサチはハッと顔を上げた。そして微笑む。
「大丈夫です。あ、タオルありがとうございます。駐車場から校舎まで走ったんですけど、それだけでもかなり濡れてしまって」
「雨、今日はすごいですよね。警報も出てるみたいだし」
瑞穂は窓の向こうへ視線を向けながら言った。サチもつられてそちらを見る。風もあるのか、大粒の雨が窓を叩きつけていた。
今朝はナナキの散歩はどうしたのだろう。美桜一人で行ったのだろうか。この雨の中を。
あれからサチは深夜を過ぎても眠ることができず、ようやく眠れたのが明け方前。そして目覚めたのはいつも家を出る時間だった。
慌てて準備をして出てきたので、美桜の様子を確かめる時間もなかった。彼女は学校に来ているだろうか。
教室へ向かいながらサチは悶々と考える。
どんな顔をして彼女と会えばいいのだろう。ちゃんと彼女と目を合わせることはできるだろうか。ちゃんと話すことはできるだろうか。昨日のことを意識せず、ちゃんといつも通りに。
廊下を教室に向かって歩きながらサチはそっと唇に指をあてる。そして軽く首を左右に振った。
「――いつも通りに」
自分に言い聞かせる。とにかく今は普段と同じように仕事をこなせばいい。そして帰ってから話をしよう。ちゃんと、美桜と話を。
教室の前で立ち止まると、サチは一度深呼吸をしてから戸を開けた。ざわついていた教室が少しずつ静かになる。教壇に向かいながら、視線は自然と美桜の席へと向く。彼女はいつものように机に頬杖をついて窓の外を見ていた。
「起立」
日直の号令に従い、美桜は怠そうな動きで立ち上がる。しかしサチの方を見ようとはしない。その視線は机に向けられていた。
「礼。着席」
結局、ホームルームが始まってから終わるまで、彼女と視線が合うことはなかった。
午前の授業でも同じだ。一度も彼女がサチへ視線を向けることはない。
もしかすると避けられているのかもしれない。
そう思った瞬間、胸がズキズキと痛み始める。しかし、サチが望むのは結局そういうことなのだ。彼女の気持ちをリセットさせる。そうすることが彼女のためになるのだから。どんなに悲しくて苦しくて、そして寂しくても。
「――先生?」
聞こえた声にサチは顔を上げた。瑞穂が箸を手に持ったまま、心配そうにサチのことを見つめている。
「ほんとに大丈夫ですか? なんだか今日、ちょっと元気がないっていうか」
昼休憩。いつものように二人で昼食を食べながら瑞穂は言った。サチは笑みを浮かべて「雨のせいですかね」と誤魔化す。
「ちょっと気分が重くて」
しかし瑞穂はじっとサチを見つめたままだ。
「本当に、それだけですか?」
「え……」
「何か悩みとかあるんじゃないですか?」
瑞穂の表情は真剣だ。
「もし何かあるのなら、いつでも相談にのりますよ。どんなことでも」
「どんな、ことでも――?」
「はい、どんなことでも。わたしは明宮先生の力になりますから」
サチはしばらく瑞穂のことを見つめる。彼女は真剣な面持ちでサチの言葉を待っているようだった。しかし、やはり言うことはできない。言えるはずもない。これは自分と美桜の問題で、もうすぐ終わらせることが決まっているのだから。
サチは微笑む。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。ちゃんと解決できますから」
「――そうですか」
頷いた瑞穂は、とても寂しそうに微笑む。サチの胸が少し痛んだ。
そして、美桜と視線を合わせることもないまま帰りのホームルームも終えたサチは、職員室に戻って黙々と残りの雑務をこなしていた。早く帰って美桜と話をしたい。その一心で。しかし同時に、彼女と話をしたくないと思う自分がいる。
元通りの心地良い関係に戻れるのなら、いくらだって喜んで話をするだろう。けれど、それはきっと無理だから。
サチはパソコンのキーを打つ手を止めて深くため息を吐く。そのとき、職員室の戸が開かれた。
「明宮先生」
聞こえた声に、サチの心臓が跳ねる。振り返ると、そこには美桜が無表情に立っていた。その瞳はしっかりとサチを捉えている。
「ちょっと、いいですか」
彼女の声は固かった。サチは頷き、そっと席を立つ。瑞穂がこちらを見ているような気がして視線を向けたが、彼女の視線はパソコンのモニタに向けられていた。
サチが美桜の前まで行くと、彼女は小声で「人のいないところで」と囁き、廊下へと出て行く。サチは職員室を出て戸を閉める。そのとき見えた窓の向こうでは、まだ大粒の雨が降り続いていた。




