6.雨、溢れた想い(9)
「あー、なるほど。これが酔いつぶれた明宮か」
ミナミの声が遠く聞こえた。
「いやいや、そんな、酔ってないですよ」
サチは答える。しかし、向かいに座っているはずのミナミの顔が揺らめいている。
「いや、酔ってるだろ。口調変だし」
「完全に酔ってますね。可愛いですけど」
苦笑しているような瑞穂の声。サチは視線を動かしたが、やはり瑞穂の顔も水面に映っているかのように揺れていた。
「酔ってないってば」
「先生、さっきからそればっか繰り返してますよ。もう完全に潰れてるって自覚してください」
「んー、酔ってないって」
「はいはい。じゃあ、酔ってない先生はちょっとそのまま横になりましょうか」
肩と背中に感じた美桜の手にサチは身体を委ねる。畳の上に横になると「はい、とりあえず枕」と頭の下に枕が差し込まれた。
――酔ってないのに。
思うのだが、身体の自由がきかない。
「今日はもうお開きだな。主役がこんなだし。片付け、ちゃちゃっと終わらせるか」
「やっぱり料理も余っちゃいましたね。ケーキは頑張りましたけど」
「ラップかけて冷蔵庫入れとけば明日はいけるから、酔っ払い明宮の明日の食料として置いとこう」
「あ、わたしも少しもらいます」
そんな会話が遠くに聞こえる。せっかく楽しい時間を過ごしていたのに、これで終わりなんて嫌だ。もっとみんなとお喋りをしていたい。もっと美桜とお喋りをしていたいのに。
そんなサチの意思に反して瞼が重くなってきた。
――まだ、もう少し。
しかし睡魔に抗うことはできず、サチは心地良い眠りの中へと落ちていった。
バタッと音が響いてサチは目を閉じたまま小さく唸った。
「先生、起きた?」
美桜の声が聞こえる。サチは「んー」と唸って仰向けに転がった。電気がまぶしくて眉をしかめるが、なかなか瞼が開かない。
「ねむ……」
「ビール二本で潰れてた人が三本も呑むからですよ」
「潰れてないですー」
「はいはい。ま、たしかに今日は楽しそうに呑んでましたね」
サチは薄く目を開ける。すぐ近くでサチのことを覗き込むようにして立っている美桜が見えた。
「――二人は?」
「いま帰りましたよ」
「えー、寂しい」
サチの言葉に美桜がため息を吐く。
「まったく。先生は酔うと寂しいって言いますよね」
「言ってません」
「いま言ったでしょ。ほら、寝るのなら布団で寝てくださいね。すぐ敷きますから待っててください。畳の上で寝ないでくださいよ?」
美桜の声にサチは唸って答える。寝ないでと言われても、もはや半分夢の中だ。サチは瞼を閉じて美桜の足音を聞く。
ゆっくりと畳を擦るような静かな足音。そしてパサッと布団を敷く音。外からは強い雨音が聞こえてくる。さっきまでの騒がしくて心地良い空間とは違う、静かで落ち着く空間。サチはウトウトしながら考える。
ミナミからもらったお守りは毎日持ち歩こう。落とさないように、財布に入れるといいかもしれない。
瑞穂にもらったランチボックスはいつから使おうか。せっかくなら弁当の盛りつけ方も瑞穂に教えてもらってからがいい。彼女のお弁当はいつも美味しそうだから。
そして、美桜からもらったサボテンは部屋のどこに置くのがいいだろう。ちゃんと育てられるように本を買って勉強しなくては。決して枯らさないように。来年の春、ちゃんと花を咲かせるように。
「先生、起きてますか?」
すぐ近くで美桜の気配がする。
「ん、サボテン――」
「え?」
「――大事に育てる。大切に」
「先生?」
「御影さんが、くれたから……」
サッと畳を擦るような音が聞こえた。ふわりと美桜の香りがサチを包み込んだかと思うと、頬に温かな手が触れた。柔らかな手。サチは自然とその手に頬を寄せていた。
すぐ近くでフッと息を吐く音が聞こえた。まるで目の前に美桜がいるような、そんな気配。閉じた目の上に影が落ちる。そして唇に触れた、柔らかな感触。
「――ん」
サチは瞼を開ける。目の前には大きな美桜の瞳。その瞳は潤んでいるのか、キラキラしていて綺麗だった。
――何が起きているのだろう。
サチはぼんやりと彼女の瞳を見つめながら考える。
唇に触れている柔らかくて温かなこの感触は、なんだろう。
これは――。
そのとき、美桜の瞳が離れた。身体を起こした彼女は頬を紅潮させてサチを見つめている。そしてゆっくりと手を挙げ、自分の唇にその指をあてる。驚いたような表情で、潤んだ瞳をサチに向けながら。
なんだか頭がフワフワしているのはアルコールのせいだろうか。それともこれが現実ではないからか。だって、いま起きた事がとても現実とは思えない。
「――夢?」
サチはフワフワした意識の中、ぼんやりと美桜を見つめたまま呟く。するとそこにいる美桜は、ほっとしたように微笑んで頷いた。
「夢ですよ。これは」
「そっか。そうだよね」
これは、きっとサチから溢れてしまった美桜への気持ち。
今日が最後だと決めていたから、最後の最後で溢れてしまったのだ。だからこんな都合の良い夢を見てしまった。
こんなに都合が良くて、心地良くて、幸せな夢を。
――夢なら。
サチはゆっくりと身体を起こす。
――これが夢なら、もう一度。
思いながら美桜へと両手を伸ばした。夢の中の彼女は微笑んだまま動かない。少し恥ずかしそうな表情をサチに向けている。サチは彼女の頬を両手で包み込んだ。
――夢で終わらせるから。だから、もう一度。
ゆっくりと顔を近づけ、そっと美桜の唇にキスをする。美桜は驚いたように目を見開いたが、やがてその瞳を閉じた。サチも目を閉じる。
美桜の唇は柔らかくて、温かくて、そして甘かった。グレープの味だ。さっき彼女が飲んでいたジュースの味。
それはとてもリアルで、夢とは思えなくて――。
サチは少しずつ自分の意識が覚醒していくのがわかった。だって、両手に感じる彼女の体温は夢とは思えない。触れ合った唇の感触や動きはまるで現実のようにリアルだ。
「――っ」
唇の隙間から漏れた吐息は少し苦しそうで熱い。これはきっと……。
――夢じゃない。
サチはハッと我に返って美桜から離れた。何度も瞬きをして自分がいま何をしたのか考える。目の前には少し呼吸の乱れた美桜が顔を真っ赤にして座っている。サチは自分の唇に手を当てた。
――今、わたしは。
サチと美桜は互いに見つめ合う。ひどく混乱していた。思考がまとまらない。グシャグシャになった頭の中でサチは必死に考えた。
さっきのは夢ではない。現実だ。
美桜からキスをされ、そして夢だと思って自分から美桜にキスをした。
「――先生」
美桜が掠れた声で口を開いた。しかし言葉が出てこないのか、そのまま俯いて黙り込んでしまった。
やがて彼女は片手を額に当てると深呼吸するように息を吐いて「あの、わたし帰りますね」と俯いたまま立ち上がる。そして呼び止める間もなく、逃げるようにして出て行ってしまった。
サチは「あー……」と唸りながら自分の頭を掻きむしる。
「なんで、あんなこと」
後悔の言葉しか出てこない。何に後悔しているのだろう。
自分からキスしてしまったこと?
いや、違う。そうではない。自分のことしか考えていなかったことに後悔しているのだ。
彼女の気持ちを知って、そして自分の気持ちを自覚してからずっと自分の美桜に対する気持ちをどうしたらいいのか。そのことしか考えていなかった。美桜の気持ちを考えていなかった。
さっき、美桜にキスされたときに見た彼女の表情。驚いたような表情。彼女もきっと、サチと同じだったのだ。
溢れそうな気持ちをずっと抱えていたに違いない。そして先に気持ちが溢れてしまったのは、彼女の方。
「あー、もうっ! なにやってんの、わたし!」
サチは頭を抱えて一人声を荒げる。その声は、土砂降りとなった雨音に吸い込まれて消えた。




