6.雨、溢れた想い(6)
「先生、おはようございます」
学校の職員用駐車場。出勤したサチが車を降りると、そう誰かから声をかけられた。声がした方を見ると、職員用の昇降口で瑞穂が手を振っている。サチは小雨の中、瑞穂の元へ駆け寄った。
「おはようございます、松池先生。今日は早いですね」
「先生だって早いじゃないですか。いつもけっこうギリギリなのに」
言われてサチは「たしかに」と苦笑した。
「今日はなんとなく早起きしちゃって」
「誕生日だから張り切っちゃったとか?」
「何を張り切るんですか」
サチは笑って「松池先生はどうして今日早いんです?」と訊ねる。
「わたしは今日が楽しみで早く目が覚めちゃったんです。子供みたいですよね」
「楽しみって、もしかして今日の夜のことですか?」
瑞穂は恥ずかしそうに笑って頷いた。
「誰かの誕生日を祝うって、家族以外だと初めてだから」
「わたしは、この歳になってみんなから祝ってもらうのはちょっと恥ずかしいですけど」
「でも、今までだってこういうことあったんでしょう?」
「んー、ないですね。高校の頃は柚原さんが学校でワーッと祝ってくれましたけど、大人になってからは全然」
「そうなんですか……。じゃ、今日は今まで出来なかった分まで明宮先生の誕生を盛大に祝いましょう」
「いや、ほどほどでいいですよ?」
サチは慌てて言ったが、瑞穂には届いていない様子だ。彼女はキラキラした笑みを浮かべて自分の靴箱に靴を入れている。サチは苦笑しつつ、自分も上履きに履き替えた。そして一緒に並んで職員室へ向かう。歩きながら瑞穂は「でも」と嬉しそうに言った。
「御影さんも予定が合って本当に良かったです。そういえば結局、体調はどうだったんでしょう?」
「大丈夫みたいですよ。今朝もいつも通りな感じでしたし」
答えながら周囲に視線を向ける。まだ生徒の数も少ないので普通に話していても大丈夫だろう。
「そっか、よかった。あ、時間なんですけど連絡ありました?」
「ああ、はい。さっき柚原さんから。十九時くらいにアパートに行くから残業せずに帰ってこいって」
そんな問答無用のメッセージが家を出る前に届いていたのだ。瑞穂にも同じ内容のメッセージが届いていたらしく、二人は顔を見合わせて笑う。階段を上がりながら瑞穂は片手で拳を握った。
「残業しないように頑張りましょうね」
「ですね。お互い、部活の顧問じゃなくてよかったですね」
「まったくです」
瑞穂は笑みを浮かべてから「ほんと、よかった」と言った。サチが首を傾げると彼女は「先生、元気になったみたいで」と続ける。
「昨日、すごく落ち込んでたからちょっと心配だったんです」
「え、あー、そうでした?」
「そうですよ。御影さんのことすごく心配してたし……。というよりも、寂しそうだったというか」
サチは苦笑する。実際に寂しかったのだから答えるべき言葉も見つからない。
階段を上って、職員室まで廊下をゆっくり歩きながら瑞穂は「なんだか」と呟くように言った。
「御影さんと先生、特別な関係みたい」
「え……」
思わず心臓が跳ねた。
「特別って……?」
聞き返した自分の声が少し掠れていることに気づく。サチは瑞穂の言葉の真意を見極めようと立ち止まって彼女の顔を見つめた。すると瑞穂も立ち止まり、しばらくじっとサチのことを見つめてから「なんてね」と微笑む。
「そんなびっくりした顔しないでくださいよ。ただちょっと、仲が良いなぁって思っただけですから。お隣さんだから特別な関係といえばそうなんでしょうし。ね、先生」
瑞穂は微笑んだまま、サチの肩をポンと叩くと再び歩き出した。
「そう、ですね……」
答えながらサチは片手を胸に当てた。
口の中が乾き、心臓がドキドキしている。今朝と同じように煩く鳴っている。けれど、その音の意味は違う。美桜と話していたときに感じたような温かな音ではない。
これは、恐れだ。
サチはギュッと胸に当てた手に力を入れた。
自分は恐れている。美桜に対する気持ちが瑞穂に知られることを。いや、瑞穂だけではない。誰かに知られてしまうのが怖いのだ。
なぜ?
同性だから?
歳の差があるから?
けれどきっと一番の理由は、サチが教師で美桜が生徒だから。
もしこの気持ちを誰かに知られてしまったとき、その誰かが美桜をどんな目で見るのか。想像すると背筋が冷たくなる。
自分はいい。きっと耐えることができる。けれど、あの子はきっと傷ついてしまう。強がりで優しくて、そして繊細な子だから。平気なふりをして一人で抱え込んでしまうに違いない。
それはダメだ。あの子のことは守ってあげたい。あの子が苦しむ姿を見たくない。そのためにはどうすればいい?
そんなの決まってる。悩むまでもない。簡単なことだ。この気持ちが溢れる前に――。
「先生? どうかしました?」
サチは答えが出かかった思考を中断して顔を上げた。瑞穂が怪訝そうにこちらを見ている。
「いえ。すみません」
引き攣った笑みで答えて瑞穂に追いつき、一緒に職員室へ入る。
「ほんとに気にしないでくださいね。さっきのこと」
別れ際、瑞穂が小声でそう言った。反射的に見た彼女の顔は、仕事モードの無表情だった。
なんとなくざわついた気持ちを胸に抱えたまま、サチは淡々とその日の授業をこなし、定時で帰るために職員室で昼食を取りながら雑務作業を終わらせた。もちろん瑞穂も一緒だ。
珍しく自分のデスクで食事を取る瑞穂に小松がしきりに話しかけていたが、瑞穂は作業に没頭しているのか、まったく彼の言葉に反応を示さなかった。諦めてデスクに戻ってきた小松は可哀想なほどしょぼくれていたが、フォローをする時間もなく、ただ申し訳なく思いながらサチも作業に没頭した。
そして定時。
「お疲れ様でした」
「今日はお先に失礼します」
瑞穂とサチが同時に席を立ってそう言うと、誰かに何か言われる前にいそいそと職員室を出た。そして朝と同じように並んで廊下を歩きながら瑞穂がフフッと声を出して笑う。
「どうしたんです?」
訊ねると、彼女は「いえ」と首を傾げた。
「なんだかこういうの楽しいなと思って」
「こういうの?」
瑞穂は頷く。
「友達と予定を合わせて一緒に帰るの」
「ああ、たしかに。ちょっと新鮮かも」
そのとき廊下の向こうから生徒たちが数人向かってくるのが見えた。サチと瑞穂は自然と会話を止めて彼らとすれ違う。そして瑞穂はふうっと浅く息を吐いた。
「最近、明宮先生と一緒にいると視線を感じることが増えた気がするんですよね。なんでだろう。」
「ああ、それは――」
言いかけてサチは口を閉じる。あの噂のことを彼女に話すべきか、やめるべきか。サチは歩きながら瑞穂の横顔を見た。心から不思議がっている様子だ。彼女は視線に気づいたのかサチの方へ顔を向けた。
「もしかして先生、何か知ってるんですか?」
サチは瑞穂の顔を見つめて微笑む。
「いえ、何も」
きっと言わない方がいいだろう。せっかく職場でも気負わず過ごせるようになってきているのだから。妙な噂を聞いて、また元に戻ってしまうよりは黙っておいたほうがいい。
「松池先生、最近雰囲気が柔らかくなったから、ついみんな見ちゃうんですよ。先生、綺麗だから」
「綺麗……。明宮先生もそう思いますか?」
瑞穂は真剣な表情でサチのことを見ている。サチは微笑んだまま「思いますよ」と素直に頷いた。瞬間、瑞穂は頬を赤くして目を丸くした。
「ほんとに?」
「はい。他の人だって、そう思ってますよ。先生を見ている人たちに他意はないですから、気にしないでいいと思います」
瑞穂は少し考えている様子だったが「わかりました」と頷いた。
「先生が言うのなら、そうします」
八重歯を覗かせた満面の笑みで彼女は言う。嬉しそうに。なんだか全面的に信頼されているようで、少し胸が痛い。
昇降口で靴に履き替え、サチは腕時計で時間を確認する。
「じゃ、松池先生。またあとで」
「わかりました。今日は先生の部屋でいいんですよね?」
「はい……。あっ!」
サチはふと大事な事を思い出して思わず声を上げた。瑞穂は驚いたように「どうかしました?」と訊ねてくる。
「いえ、あの、料理とかってどうしたら……。うち何もないですけど。ていうか、料理もできませんが」
すると瑞穂は声を上げて笑い出した。
「もー、先生。なんで主役がパーティの準備しようとしてるんですか」
彼女は笑いながらそう言う。
「え、でも……」
「大丈夫です。その辺のことはわたしたちの方で手配済みですから」
「そうなの?」
「はい。ほんと、先生はなんでも自分でやろうとしすぎですよ。今日は何もしなくて良い日ですからね」
瑞穂はそう言うと「じゃ、またあとで」と手を振って車へと向かって行った。
「手配済みって――」
サチはスマホの画面を見る。美桜からもミナミからも連絡はない。
「ほんとに何もしないでいいのかな。うちでやるのに」
呟きながらスマホを見つめていると、瑞穂の車が駐車場から出て行った。バシャバシャと水の中を走る音が遠くなっていく。そして聞こえてくるのは小雨が水たまりを打つ音。そのとき、ポンっとスマホがメッセージの受信を告げた。そこに表示された名前を見てサチは思わず微笑む。美桜からだ。
開いたメッセージには短い一言。
『待ってる』
サチはスタンプで返信するとスマホを握りしめて、車へと走った。




