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6.雨、溢れた想い(5)

 翌朝、早朝五時。サチはアパートの裏の軒下でナナキを眺めながらぼんやりと壁にもたれて立っていた。手にはナナキのトイレグッズが入ったバッグ、合羽も着て準備は万端だ。ナナキもすでに準備はできているようで、首をもたげてサチのことを見ていた。


「おはよう、ナナキちゃん。今日も雨だね」


 するとナナキがホゥンと鳴いた。まるでサチの挨拶に答えるかのように。


「ナナキちゃんは雨の散歩って好き?」


 ナナキはわずかに首を傾げた。サチは微笑んで「好きじゃないよね」と続ける。


「最近はずっと雨だもんね。ナナキちゃんも身体がジメジメしちゃうでしょ? 散歩行くと濡れちゃうしさ」


 ナナキがふうっと息を吐く。


「うん。わたしも雨は嫌いだな。たまにならいいけど。雨ってこう続くとさ、なんだか気持ちが憂鬱になるでしょ?」


 ナナキが小さな声で鳴いた。まるでサチの意見に同意するかのように。サチは「だよね」と頷く。


「なんか、何やっても上手くいかないっていうか」

「そうなんですか?」


 ふいに美桜の声がしてサチは思わず悲鳴を上げた。


「その反応、久々ですね」


 振り返ると、合羽姿の美桜がクスクスと笑いながら立っていた。


「御影さん……。お、おはよう」

「おはよう、先生。てか、なんでそんな準備万端で待ってるんです? まだ散歩の時間には早いのに」


 美桜はいつもと変わらない口調で言いながら小屋に入ると、ナナキに合羽を着せ始めた。


「御影さんだって、まだ時間には早いのに」

「今日はあんまり眠れなくて。それにナナキが呼んだから」

「わたしがいなくても、そのまま行ってたでしょ?」


 美桜は一瞬サチを見てから「まあ、そうですね」と頷いた。


「だから待ってた」


 美桜は動きを止め、ナナキから手を放してサチのことをまっすぐに見た。


「なんで?」

「……怒ってるかと、思って」


 そう言ったサチの言葉に、美桜は不思議そうに「なんで?」と繰り返す。


「え、だって昨日返信くれなかったし」

「したじゃないですか」

「してない」

「しました。元気って」

「スタンプだけだったじゃない。その前のメッセージには返信くれなかった」


 すると美桜は困ったような顔で「もしかして寂しかったんですか?」と笑った。サチは一瞬言葉に詰まる。そして「違う、そうじゃなくて」と美桜から視線を逸らした。


「柚原さんから連絡あったでしょ?」

「ああ、ありましたよ。みんなで先生の誕生日パーティやろうって」

「……ごめんなさい」


 サチが謝ると美桜は「なんで先生が謝るの?」と首を傾げた。


「昨日ね、松池先生からその話を聞いたの。予定はどうですかって。そのときわたし、もう予定があるって言えなくて。御影さんの都合が合えば大丈夫ですって逃げちゃって。それで御影さんにその連絡が――」


 美桜は無言で話を聞いている。サチは続ける。


「御影さんにそのことを話したかったのに早退しちゃうし。返信ないし。だからきっと怒ってるんだと思って……。ごめんなさい」


 サチは美桜に向かって頭を下げる。すると、ザッと靴音が聞こえた。顔を上げると美桜が目の前に立っていた。彼女はわずかに眉間に皺を寄せると「えーと」と腕を組んだ。


「つまり先生は、わたしが先生と二人でパーティできなくなったから怒って早退したうえ既読スルーしたと思ってて、謝るためにこんな早朝からわたしのことを待ってた、と?」

「うん」


 サチが頷いた瞬間、美桜は声をあげて笑った。サチはなぜ笑われるのかわからず「え? なに、なんで?」と首を傾げるしかない。


「なんでって、それはこっちが聞きたいですよ。なんでわたしがそれで怒るんですか」

「え、だって」

「わたしがあの人の誘いを断ったとは思わないんですか?」

「それは、たぶん柚原さんはオーケーもらうまで諦めないから」

「正解。あの人超しつこい」


 美桜はサチをピッと指差して頷いた。そして再びナナキの小屋に戻って合羽装着作業に戻る。


「先生の友達が先生の誕生日を祝いたいって思うのは普通のことだし、こういう状況もわたしは予想してましたよ。どうせ先生が断れないだろうってことも」

「……そうなの?」


 美桜は笑って「先生、押しに弱いから」と頷く。


「じゃ、なんで返信くれなかったの?」


 聞くと美桜は「それは……」と口ごもった。そして「わかるでしょ?」と言って合羽を装着したナナキの身体をポンッと叩いた。ナナキがビクッと驚いたように身体を揺らす。


「まったくわかんないけど」


 すると彼女は深くため息を吐いて「学校サボって買いに行ってたの!」と恥ずかしそうにサチを見ながら強い口調で言った。


「先生の誕生日プレゼント」

「え……」

「だから返信しなかったんですよ。うっかり返信したら何が欲しいって聞きそうになっちゃうから。先生に聞くのはやめようって決めてたの。わかった?」

「――ん、わかった」


 美桜の勢いに押されてサチは呆然と頷く。彼女は「うん。わかったならいいです」と頷くとナナキにハーネスを取りつけていく。


「それに別に今日じゃなくても、わたしと先生、いつでも二人で過ごせるじゃないですか。今だってこうして二人きりだし」


 柔らかく、彼女は言う。少し嬉しそうに。


「……そうだね」

「そうですよ」


 美桜は「あ、今はナナキもいるか」と言いながらナナキを引き起こした。そしてサチに向かって微笑む。


「行きましょっか。先生」

「あ、うん」


 頷きながらサチは自分の心臓の音を聞いていた。今までにないほど心臓が煩く鳴っている。頬が熱い。少し頭がクラクラする。

 彼女の笑顔を見続けていられない。彼女の気持ちがまっすぐに伝わってきてしまうから。


 溢れてしまう。

 このままでは自分の気持ちが溢れてしまう。


「先生、早く」


 合羽姿の美桜が振り向く。サチにだけ向けてくれる笑顔を浮かべて。

 サチは一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、彼女とナナキの元へ駆け寄った。なかなか静まらない心臓の音を、合羽を打つ雨の音に紛らせて。

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