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5.過去、そして親友(10)

 シャワーの音が微かに聞こえてくる。それはまるで雨の音のよう。サチはキッチンに座り込んだまま床を見つめていた。


「――雨」


 呟きながら記憶を探る。

 そうだ。あれは雨の日だった。高校一年の最初の梅雨。昼休憩の校舎裏。そこで、サチはミナミを見つけたのだ。

 別に探していたわけではない。あの頃のサチはまだミナミにしつこく絡まれることもなく、孤立した高校生活を送っていた。そして昼休憩になると教室を抜け出し、誰もいない場所を探しては昼食を食べていたのだ。

 あのときもそうだ。一人になれる場所を探して彷徨っていただけ。そして、彼女を見つけてしまった。校舎裏の屋根のない場所で、彼女はびしょ濡れになって立っていた。その細い肩を震わせて。

 驚いたサチは思わず声をかけていた。大丈夫か、と。すると彼女はびくりとして振り返った。そしてサチの姿を認めると笑みを浮かべた。明らかな泣き顔で、笑っていた。まるでこの涙は雨だと言わんばかりに笑いながら「うっかり濡れちゃった」と、彼女は言ったのだ。

 何をうっかりしたのか、まったくわからない。おそらくこんな場所に誰かが来るとは思ってもいなかったのだろう。彼女は居心地悪そうに笑って、そして俯いた。

 そんな彼女の手を、サチはそっと引っ張って屋根のあるところまで引き戻す。


「明宮も濡れちゃうから、ほっといていいよ」


 俯いたまま言った彼女の声は小さく、雨の音に負けてしまいそうなほどだった。


「うん」


 サチは頷いてハンカチで彼女の頭を拭いてやる。小さなハンカチはすぐにびしょ濡れになってしまったが、それでも拭かないよりはマシだろう。頭を拭かれながら立ち尽くすミナミは何を言うでもなく、ただされるがまま俯いているだけだ。やがてミナミはズズッと鼻をすすると顔を上げ、そして笑う。


「ハンカチ、もう今日は使えないね」


 そう言って、いつものように笑おうとする。懸命に。頬を引き攣らせて。サチは無言で彼女の手を引っ張ると、その場に座り込んだ。ミナミも引っ張られるがまま、サチの隣に腰を下ろした。


「島村さん、ご飯は?」


 弁当の包みを開けながらサチは問う。ミナミは笑ったように息を吐いた。


「ない。今日は昼抜き」

「そう。じゃあ、半分あげる」

「へ?」


 ミナミの素っ頓狂な声がなんだか少し面白くてサチは笑みを浮かべ、二人の間に弁当を置いた。


「先に食べていいよ」

「……ありがとう」


 不思議そうに言いながらミナミは弁当を見つめ、やがて「何も聞かないんだ?」とサチを見た。サチは首を傾げて「なんで泣いてるのって?」と問う。


「違うよ。なんでここにいるのかって。そもそも、泣いてないし」


 ミナミは笑ってそう言うと空を見上げた。


「雨だよ、雨。わたしが泣くわけ――」

「泣いてもいいのに」

「え……」


 ミナミは目を丸くする。そんな彼女にサチは微笑んだ。


「悲しいときは泣いてもいいよ。別に誰が見てるわけでもないんだし」

「……明宮が見てるじゃん」

「見てないよ」


 サチはミナミから顔を背け、雨に打たれる雑草を見つめた。


「わたしは、いないよ」

「いるじゃん」

「いないよ。ここには、誰もいないから」


 隣でミナミが声を殺して泣いている。その声は雨の音と混じって、サチの耳には何も聞こえない。

 サチはぼんやりと雨を見つめて座り続けた。昼休憩が終わり、午後の授業が始まり、そして放課後になるまで、ずっと。その間にポツリ、ポツリとミナミは話してくれた。

 父親が事故で亡くなったこと。母親が見ていられないほど弱っていること。自分が母親を支えようと頑張ったけど、どうにもできないことが多すぎたこと。


 どうしたらいいのかわからないと、彼女は泣いていた。


 悲しみ、寂しさ、そして自分の無力さに対する苛立ち。そのすべてが溢れてしまったのだろう。今、隣に座る彼女は教室で見る島村ミナミとは別人のようだった。

 サチはそんな彼女の話を、ただ静かに聞き続けていた。




「シャワー、サンキューって、あれ? 明宮、なんでそんなとこに座ってんの」


 バスタオルで頭を拭きながらミナミが出てきたのを見て、サチはハッと我に返った。そして「高校一年の梅雨の日……」と座ったまま問う。


「さっき御影さんの部屋で言ってた、わたしのことをもっと知りたいと思ったきっかけって、もしかして」


 するとミナミは微笑んだ。少しだけ、嬉しそうに。


「思い出したんだ?」

「うん。あれは島村さん的に覚えててほしくないことかと思ってたから」

「だから忘れた? 器用だな、明宮は」


 ククッと笑いながらミナミはバスタオルを肩にかけてサチの隣に腰を下ろした。


「あのとき、わたしすごく嬉しかったんだ。みんなが知ってるわたしは絶対泣いたりしないような奴で、誰かの前で泣くなんてしちゃいけないって思ってた。あのときは母さんが毎日泣いてたから、余計にさ。わたしは笑顔でいなくちゃって。でも、明宮は泣いていいって言ってくれたじゃん?」

「うん」

「ここには誰もいないからって」

「うん。言ったね」

「あのとき、わたし思ったんだよね。明宮のこと好きだなぁって」

「それは、わからなかった……」


 サチは両足を腕で抱え込む。ミナミはフフッと笑って「だよね」と頷いた。


「だって、わたしだってよくわかんなかったもん。女の子を好きになるなんて思ってもみなかった。きっと明宮だって女の子を好きになることはないだろうって、そう思ってさ。ずっと――」


 悩んでたんだ、と彼女は顔を俯かせて言った。

 サチは横目で彼女を見る。俯いた顔から表情は読み取れない。


「三年間悩んでたことって……」


 ミナミは顔を上げるとサチを見てヘラッと笑った。


「そう。明宮のこと」


 彼女はバスタオルで顔を包むようにしながら「自分の気持ちをどうしたらいいのか、まったくわかんなくてさ」と続ける。


「とりあえず明宮に好かれようと頑張ってみたものの、明宮ってばクール過ぎて全然気持ち伝わらないし」

「いや、面倒見のいい人なんだなって感じにしか思えなかったよ」

「なんでよ」


 バスタオルから顔を出してミナミは首を傾げる。


「だって島村さんいつも、なんていうか、軽かったから」


 するとミナミは深く息を吐き出した。


「軽く接しないと、嫌われると思ったから」

「どうして?」


 訊ねるとミナミは息を吐くようにして「だって」と言った。


「あの頃の明宮はきっと、相手から強い気持ちを向けられたら逃げてたでしょ」

「それは……」


 きっとそうだろう。あの頃のサチは人見知りがひどく、母親の態度が怖く、そして自分という人間が好きではなかった。他人から気持ちを向けられたら混乱して、きっとその相手と距離を置こうとしたに違いない。


「明宮には嫌われたくないし、でも自分の気持ちを我慢できないし。だけど直球で気持ちを伝える勇気もなくて、三年になった頃にはもう苦しくてさ」


 苦しくて、と彼女は繰り返した。


「それで辞めようと思ってたの? わたしのせいで?」

「うん」


 ミナミは頷いた。そして少し寂しそうに微笑む。


「ま、柚原のおかげで卒業するまで頑張れたけどね」

「……先生、知ってたんだ?」

「そりゃね。そういう相談してたんだから。今思えば、あの男も変な奴だよね。女の子が好きだって言ってる相手に告白するとかさ」


 そう言ったミナミの表情は、しかし、幸せそうに見えた。


「明宮はきっと普通に大人になって、誰かわたしの知らない男と付き合って結婚して、そんな平凡な人生を送るんだって、そう自分に言い聞かせて、わたしは柚原の気持ちを受け入れたんだ。明宮のことはきっぱり諦めようって」

「そう……」


 広がる沈黙。微かにサーッと音が聞こえてきた。どうやら外では本当に雨が降り始めたらしい。キッチンにミナミと並んで座りながら雨の音を聞く。まるで、あの時のようだとサチはぼんやりと思った。

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