5.過去、そして親友(7)
「……なにこれ」
ナナキの散歩から戻った美桜は、自室の様子を見てそう呟いた。テーブルの前にはサチと瑞穂が並んで座り、ミナミはキッチンで夕食の準備をしている。サチは苦笑しながら「おかえりなさい、御影さん」と、とりあえず声をかけた。
「なんで一人増えてるんですか」
美桜は眉を寄せて瑞穂を見ている。瑞穂は居心地悪そうに「お邪魔してます」と頭を下げた。
「あの、御影さんのお母様からここの住所を聞いて。ほら、御影さん、今日早退したでしょ? 色々あったし、心配だったから様子を見に来たんだけど……」
瑞穂は言いながらもそわそわした様子で視線を泳がせていた。美桜はため息を吐いて、ミナミへと視線を移す。
「で、あなたは何をやってるんですか」
「んー? 夕飯作ってんの。けっこう食材いっぱいあったけど、これ一人で腐らせる前に使い切れんの? 魚まであったけど女子高生が魚焼いたりする? まったく想像できないけど」
「それは母が昨日来たとき、ついでに置いていったんです。魚は、まあ、たぶん食べない……。いや、そうじゃなくて。なんで夕飯作ってるんですか。あなた結婚してるんですよね? 家に帰って家族の夕飯作ってくださいよ」
「ああ、大丈夫。今日は旦那も娘も外泊だから。美桜って魚嫌いなの?」
美桜は深くため息を吐いて「別に、嫌いじゃないです。料理が面倒なだけで」と答えた。そしてシューズボックス上の箱からドックフードを取り出した。
「とりあえずナナキにご飯あげてきます」
「うん。いってらっしゃい」
サチが手を振ると、美桜は呆れた表情で頷いてから再び外へ出て行った。
「……あの、明宮先生」
「はい?」
「その、御影さんとはどういう?」
瑞穂は言いにくそうな様子でサチを見た。この状況でごまかす意味はないだろう。サチは「わたし、土曜に隣の部屋に越してきたんです」と答えた。
「隣の?」
「はい。このアパートのオーナーが御影さんのお母様で」
「そうなんですか。ここの部屋を借りたのは偶然で?」
「えーと、まあ」
さすがにそこまで答える気にはなれず、サチは笑って誤魔化した。
「そっか。御影さんとお隣さん。あ、だからなんですね」
瑞穂は何か納得したように頷いた。
「今日、先生のクラスの子に聞いたんですけど。昨日の御影さん、先生のことを庇ってるように見えたって。先生を庇うとか珍しいのにって言ってました。でも、お隣さんだから放っておけなかったんですね。ちょっとでも私生活見えると、なんか赤の他人って感じじゃなくなっちゃうし」
「そうですかね」
「あ、そうだ。先生、怪我はもう大丈夫なんですか? たんこぶ、昨日すごかったですけど」
「ああ、はい。それはもう全然……ってわけじゃないですけど、まあ、大丈夫です。普通に動けますし。あの、松池先生。今日はありがとうございました」
瑞穂は何に対する礼なのかわからなかった様子で首を傾げた。
「冴木くんのお母様と、色々あったみたいで。さっき御影さんから聞いて」
「ああ、いえ。わたしは別に何も……。結局、何のお力にもなれなくて」
瑞穂は申し訳なさそうに身を小さくした。サチは「そんなことないです」と笑みを浮かべる。
「わたしの為に怒ってくれたんですよね。学校で松池先生が怒るなんて、全然想像できないですもん。嬉しかったです。ありがとうございます」
素直な気持ちを口に出すと、瑞穂は頬を赤くして「いえ」と俯いてしまった。そのとき、キッチンから「おーい、明宮」とミナミが顔を出した。
「松池のこと口説いてんの? それ」
「なんでそうなるの。ちゃんとお礼を言いたかっただけでしょ」
「ふうん」
ミナミは頷いたが、何か含んだような表情で瑞穂を見ている。
「それより島村さん、松池先生と知り合いなの?」
そのとき、美桜が戻ってきた。彼女は洗面所へ向かいながら「知り合いなんですか」とサチの質問に乗っかってきた。
「知り合いっていうか、同級生だよ。小学校と中学校一緒だった。ね? 松池」
「……はい」
なぜか瑞穂は身を固くして頷くだけだ。まるで学校で見る彼女のよう、いや、それ以上に固い表情である。
「それって、幼なじみってやつじゃないんですか」
手を洗って戻ってきた美桜が言う。しかしミナミは包丁を持つ手を止めて「いや?」と首を傾げた。
「同じクラスになったこと一度もなかったしなぁ。たぶん。だよね?」
「ああ、そうですね」
「ふうん。明宮先生は大親友で、松池先生はただの同級生ですか。変なの」
美桜は不思議そうにしながらミナミの作業を眺め始めた。
「だって松池って、有名だったけど友達いなかったしなぁ」
「有名?」
「そう。美人で有名。でも誰が話しかけても無言っていうか逃げるんだよ。それでなんか、ちょっと怖かったっていうか。あと噂もあったし――」
「やめてください!」
突然瑞穂が声を上げた。ミナミはきょとんとした表情を浮かべたが、「それだよ、それ」と苦笑する。
「自分の話題が出るとそういう反応するってんで、みんなちょっと引いちゃってたんだよな」
そういえば、瑞穂はいつだって自分の態度で相手が引いていないか気にしていた。何かあるんだろうかとサチは不思議に思う。
「松池って空手もやってたじゃん。しかもジュニアの県大会優勝。そりゃみんな怖いって――」
「島村さん」
サチが声をかけるとミナミは「ん?」と振り返った。そして瑞穂の様子を見て「あー……」と困惑したような表情を浮かべる。
「ごめん。なんか、よくわかんないけど気にしてたのか。ごめんな。わたし、そういうの気づかなくて」
「いえ。大丈夫です」
彼女は言うと立ち上がって玄関へ向かう。
「わたしは御影さんの様子を見に来ただけなので。何事もないようで良かったです。明宮先生も大丈夫そうで安心しました」
「いやいや、なに帰ろうとしてんの」
慌ててミナミが瑞穂の肩を掴む。瑞穂は彼女の手を振り解こうとしたが、すぐに怯えた表情で動きを止めた。ミナミの手には包丁が握られていたのだ。
「もう夕飯四人分で用意始めてんだからさ、食べて行きなよ」
「まず、その包丁を下ろした方がいいですよ。松池先生、恐怖で硬直してます」
「あ、悪い」
美桜の冷静な言葉にミナミはようやく自分が包丁を持っていることに気づいたらしい。そして瑞穂の肩から手を放す。
「でも――」
瑞穂は困ったようにサチを振り返った。サチは微笑んで手招きをする。
「せっかくだから食べて行ってください。というか、そうしないと島村さんしつこいから」
「いや、先生が決めないでよ。ここわたしの家だし。この食材だってわたしの――」
「でも、もう作っちゃってるし」
サチがミナミを指差して言う。美桜はサチからミナミ、そして瑞穂へと視線を移してから「ああ、もう」とため息を吐いた。
「さっさと食べて二人とも帰ってくださいね」
するとミナミがニヤリと笑う。
「その二人ってのは、わたしと松池のことかな?」
「そうですけど」
「ふうん。明宮はいいんだ?」
美桜は無表情にミナミを見つめると「先生はいいんです」と頷いた。ミナミはつまらなさそうに「そーですか」と呟く。
「じゃ、美桜も手伝ってよ。料理できるんでしょ?」
「はいはい」
ミナミと美桜は二人並んで料理を再開した。なんだかんだで気は合っているらしい。
そんな二人の後ろ姿を、瑞穂はクッションの上に正座をして見つめていた。
「……松池先生は、島村さんが嫌いなんですか?」
瑞穂の態度からして、きっと好意は抱いていないだろう。そう思って聞いてみると彼女はハッとしたようにサチを見た。そして薄く微笑む。
「いえ、島村さんがというわけではなく……。わたし、特に子供の頃の知り合いが苦手なんです。大人になってから出会った人なら、まだ大丈夫なんですけど」
「どうして?」
すると、瑞穂は辛そうな表情を浮かべて俯いた。
「……小学校低学年くらいまで、わたし、いじめられっ子だったんです」
「え。それ、もしかして島村さんが――」
「ああ、いえいえ」
瑞穂は慌ててサチが言おうとしたことを否定した。
「彼女とは本当にまったく接点はなかったので。顔は知ってるっていうくらいです。それにいじめられてたって言っても、クラスの女子数人からなんですけど」
そう言うと、彼女は浅くため息を吐いた。
「わたし、すごく気が弱くて人見知りで、学校行くのが苦痛で仕方なかったんです。そんなとき、兄と一緒に空手を習いに行くようになって」
「お兄さんと……」
「はい。兄は、わたしがいじめられてることを知ってましたから、自分の身は自分で守らなきゃだめだぞって。わたしバカだからそれを言葉通りに受け取って鵜呑みにして、やり返しちゃったんです。習ったばかりの空手で。そしたら」
「いじめられなくなった?」
サチが問うと瑞穂は苦笑しながら頷いた。そして「でも」と続ける。
「すごく怒られて、通ってた空手道場はクビになりました。両親は相手の子の家に謝りに行って、わたしも謝って。そして学校で完全に孤立してしまったんです。噂は他学年まで広まってしまって。そりゃそうですよね。わたし一人で、いじめっ子三人を病院送りにしてしまったんですから」
「それは……。なんというか、思い切りましたね」
「相手がわたしをいじめてたっていうことは先生も承知していたみたいで、ケンカ両成敗みたいな感じにはなったんですけどね。それ以来、わたしはいじめられることもなければ、誰かと友達になることもなくなったんです。ずっと、一人でした」
サチはたこ焼き屋のおじさんの話を思い出していた。一度だって友達を連れてきたことはなかった。高校の卒業式の日だって、一人でたこ焼きを食べに来ていた、と。
きっと、その頃には噂だって消えていたはずなのに。それでも、おそらく瑞穂の心には残ってしまったのだ。相手が自分を怖がって引いてしまう、そのときの恐怖が。
「なるほど。そういう理由だったのか。松池が一人でいたのって」
ミナミが鍋に食材を入れながら言った。
「そんな松池先生には興味をもたなかったんですか、あなたは」
ミナミの隣で作業をしている美桜が言った。たしかに、ミナミの性格ならばそんな状況の瑞穂を放っておくとは思えない。たとえ別のクラスだったとしても、何かしら絡みに行ったに違いない。しかしミナミは「んー」と唸った。
「わたし中学まではわりと病弱で、よく学校休んでたからさ。あんまり知らなかったんだよね」
「え!」
サチと美桜の声が揃った。
「失礼だな、君たちは。な、松池。わたし病弱だったよな?」
「あ、いや。同じクラスじゃなかったからよく知らないけど。たしかに、あんまり学校には来てないイメージだったかも」
「だろ? しかもさ、わたしは松池に興味あったんだけど、話しかけようとしたときの松池の逃げっぷりが半端なくて」
「逃げっぷり……?」
サチが瑞穂を見ると彼女は「だって」と俯いた。
「島村さんの勢いが怖くて、つい」
「ああ」
「なるほど」
サチと美桜の声が再び揃った。
「なんだよ、その納得は」
ミナミの声は不服そうだ。しかし、きっと一度でもミナミと同じクラスであったなら瑞穂の学校生活も変わっていたに違いない。
ミナミなら、あのたこ焼き屋のおじさんとも意気投合しそうだ。そして二人で楽しく放課後に寄り道したり遊びに行ったりしていただろう。子供が普通にそうするように。
そうなっていれば、瑞穂はもっと人前で素の自分を出せるようになっていたに違いない。友達だってたくさんできていたはずだ。瑞穂は同性から見ても魅力的なのだから。
そんなことを思っていると、美桜が「なんか、ちょっと似てますよね」と言った。
「先生と松池先生って。ぼっちだったところとか」
「え、なんですかそれ。明宮先生がぼっち?」
瞬間、瑞穂が瞳を輝かせる。
「さっき、この人が話してくれてたんです。高校時代の明宮先生のこと」
「そんな楽しそうな話を……?」
瑞穂はうずうずした様子でサチを見ると、バッと立ち上がった。
「あの、わたしもお手伝いしますので、少しだけそのお話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか」
「ちょっと、松池先生?」
「なんだよ、明宮モテモテじゃん」
「ていうか、狭いです」
「どんな高校生だったんですか、明宮先生って」
どうやら自分の話題でなければ、瑞穂はミナミと話しても平気らしい。ウキウキな様子で美桜の隣に立って料理に参加し始めた。
「ああ、何なの。ほんとに」
サチはため息を吐くとテーブルの上に頬をつけた。そしてキッチンを眺める。
狭いスペースに三人が押し合うように並んでサチの高校時代の話で盛り上がっている。賑やかだ。美桜と二人で過ごす時間も静かで心地良いが、こういう賑やかな時間も楽しくて良いかもしれない。
何も悪意のない楽しそうな声。こんな時間を過ごすのも、何年ぶりかわからない。
――家を出て良かったな。
サチは微笑みながら心から思う。新しい生活。新しい出会い。新しい発見。懐かしい再会。そして今まで経験したことのない気持ち。
サチの視線は自然と美桜の背中に向いていた。
明日からも、彼女とこうして楽しく過ごしたい。ミナミや瑞穂がいなくても、こうして自然にお喋りをしていたい。そして笑ってほしい。あの、サチにだけ向けてくれる笑みで。
そんなことを思ってしまう自分の気持ちは、もうわかっている。自覚してしまえば悩むまでもない。自分は美桜のことが好きなのだ。
きっと別れた恋人に抱いていた気持ちよりも強く、彼女のことが好きだ。だって彼と付き合っていても、こんなに温かな気持ちになったことはなかった。彼の笑顔を自分のものにしたいと思ったことだってなかった。別れて会うことがなくなっても平気だ。
でも、彼女に対しては違う。
サチは誰にも気づかれないように息を吐いた。
彼女はサチのことが好きだと言った。きっとこの想いは同じ。しかし彼女はまだ高校生。精神的にも不安定な年頃だ。もしかすると彼女のサチに対する想いは一時的なものかもしれない。思春期ゆえの錯覚かもしれない。だから受け入れてはいけない。彼女の為に。
そう思ってしまう自分もいる。
だってサチは大人なのだから。彼女の人生を導かなければいけない立場なのだから。
ミナミがからかったのか、瑞穂が慌てたように何か言い返している。その様子を見て美桜が笑っている。楽しそうに。心からの笑みで。この部屋で、いつもサチに向けていたような笑顔で。
――モヤモヤする。
サチは美桜の背中を見つめながら思う。
彼女を傷つけない答えはなんだろう。どちらの答えを出したとしても、あの笑顔をずっと自分に向けてもらいたい。他の誰でもない、自分だけに。そんな我が儘を叶えるにはどうしたらいいだろう。
思ってからサチはため息を吐いた。
「いい歳して、何考えてんだろ」
ワッとキッチンで笑い声が上がった。サチはそんな三人の背中を見ないように、そっと目を閉じた。




