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1.最悪の日、知らない表情(2)

 目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。畳の上に敷かれた布団は、もちろん自分のものではない。痛む頭に顔をしかめながらサチは深く息を吸い込む。するとトーストが焼ける良い香りがした。自宅とは違う、優しい香り。


「――どこ、ここ」


 唸りながら口の中で呟く。そしてゆっくりと身体を起こして「うぅ、頭痛い」と頭を押さえた。サチは一度は身体を起こしたものの、そのまま前へ倒れるようにして掛け布団の上に顔を埋めた。

 昨日の記憶が曖昧だ。いや、あの最悪の夜までは覚えている。クレームを受けて怒られて恋人に振られて親に攻撃され、家を出た。そして田園地帯に来て、そこで出会ったのは……。


「あ、御影さん……」

「呼びました?」


 言いながら美桜がキッチンから顔を出す。彼女はサチを見ると呆れたような表情を浮かべた。


「なんで起きたのに、また寝てるんですか。先生」

「頭が痛い」

「そりゃ、あんだけ酔っ払えばそうでしょうね」

「酔っ払い? わたしが? まさか――」


 布団に伏せたまま顔だけを動かしてサチは軽く笑う。しかし美桜は眉を寄せた。


「もしかして覚えてないんですか?」

「何を?」

「昨日の夜のこと。っていうか、ここがどこだかわかってます?」

「ここって――」


 サチは眉間に皺を寄せながら身体を起こすと部屋を見回した。そして昨夜の記憶を呼び起こす。


「……やば」


 ここは美桜の家だ。そして美桜はサチが担当するクラスの生徒。その生徒の部屋に押しかけて酒を呑んで潰れ、どうやらそのまま一晩眠ってしまったらしい。慌てて時計を確認する。ベッド脇の棚に置かれた置き時計が九時を表示させている。


「あ、学校! 学校行かないと!」


 慌てて布団から這い出すが、身体が重すぎて言うことを聞いてくれない。畳の上に両手両足をついてもがいているサチの顔の前に「はい」とホワホワと温かな湯気を立ち昇らせたマグカップが差し出された。


「コーヒー。砂糖とミルク入れます?」

「いや、それよりも学校に!」

「今日、土曜日ですけど。先生は土曜も仕事なんですか?」

「どよう、び?」


 サチは呟くと「土曜日かぁ」と息を吐きながらその場に座り込み、差し出されたマグカップを受け取る。


「砂糖とミルクは?」

「あ、結構です」


 美桜は頷くと、手際良くサチが使っていた布団を畳んで部屋の隅に置き、片付けられていた折りたたみテーブルを布団があった場所に置いた。そしてキッチンに戻ると、トーストとスクランブルエッグが乗った皿を二つ運んできてテーブルに置く。最後に自分のマグカップを持ってきて「よし」と納得したようにテーブルの前に座った。


「いただきます」


 一人で両手を合わせ、朝食を始める美桜。サチはそんな彼女と向かい合うように座り直して「あの、ありがとうございます。いただきます」と小さな声で言って頭を下げた。

 美桜はトーストにスクランブルエッグを乗せながら「食べたらお風呂入ってくださいね。布団に運んでる最中。わりと盛大にビール零したんで酒臭いです。服も洗ったほうがいいですよ」と言った。


「いや、そんな。すぐ帰るから」

「電話ありましたよ。お家から」

「え……?」


 サチが首を傾げると美桜はトーストを一口かじってから「先生のスマホに」と続けた。


「ずっと鳴っててうるさかったんで、先生は今日はわたしのところに泊まるし、明日からはうちの部屋を借りることになったって言っときました」

「え、待って? え? なんで? どういうこと?」


 サチは額に手を当てて考える。美桜はムシャムシャとトーストを食べ進めながら「先生は酔いつぶれてもう寝てるって言ったらすごい怒ってましたけど、先生のお母さんってもしかして毒親?」と気の毒そうな表情を浮かべた。


「いや、それは置いといて、なんで部屋を借りるって……。え? わたし契約したっけ?」

「まだですけど、いいじゃないですか。親から離れたかったんでしょ?」

「なんでそんなこと――」


 言いかけてサチはハッと目を見開く。


「もしかして、わたし何か言った? 愚痴ってた? うざい感じに愚痴ってた?」


 美桜は少し笑って「いえ」と答えた。


「ただ、面倒くさいって言ってただけですけど」

「面倒くさい……?」

「もう人生うんざりだって。生きるのが面倒くさいって。その後かかってきたのが、あの親からの電話でしょ? 先生も色々大変なんだなぁって。だから良い案だと思って」


 悪びれた様子もなく、淡々と彼女は言う。完全に同情されているし、完全に私生活が透けてしまっている。詳しいことは言っていないようだが、どうやら彼女は今のサチの状況を理解してしまっているようだ。自分は教師なのに。彼女の人生を導くべき立場なのに。

 サチは深くため息を吐いてトーストをかじった。香ばしくカリッとした食感。スクランブルエッグは塩気は控えめだが卵の味が濃く、ふんわりとしていて美味しかった。


「ここの管理はうちの母がやってるんで、契約はそっちでやってもらうことになりますけど、きっとすぐにオーケーでますよ。ここ、わたしの他に誰もいないし」

「え。そうなの?」

「しかも立地がこんなとこなんで、家賃も安いです」

「……いくら?」

「さあ。たしか、四万くらいだったかと」

「四万。四万かぁ」


 唸るように言いながらパンをかじっていると、美桜は「まさか」と眉を寄せた。


「四万も払えないくらい薄給なんですか? 学校の先生って」

「ああ、いや。正規職員だったらそんなこともないんじゃないかな。よく知らないけど。わたし、非常勤だから」


 非常勤、と美桜は繰り返しながら頷いた。


「そういえば、三奈がそんなこと言ってたな」

「三奈……。ああ、高知さんね」

「うん。先生、非常勤なのになんで担任になったんだろうねって」

「それは――」


 わたしが聞きたいよ、という言葉をコーヒーと一緒に飲み込む。ダメだ。愚痴を零してはいけない。彼女は生徒なのだから。

 しばらく無言で食べ続けていると、先に食べ終えた美桜が「どうします?」と首を傾げた。


「なにが?」

「うちの部屋借ります? だったら今日、母に言ってみますけど。家賃は、少しはどうにかできるかもしれないし」

「え、そうなの?」

「はい。元々このアパートって税金対策みたいなところがあって、祖母が道楽でやってたようなもんなんで。別に家賃収入とか期待してないんですよ」

「税金対策……。御影さんの家って、お金持ちなの?」


 そうですね、と美桜は淡々とした口調で頷いた。


「いくつかアパート持ってて、そっちはちゃんと人が入る物件なんで真面目に経営してますね。ああ、でもいくらここがボロアパートで辺鄙な場所にあるからと言っても、さすがにタダってわけにはいきませんよ?」

「うん。それはわかってる。三万円台なら、なんとか」


 すると美桜は深くため息をついた。


「本当に貧乏なんですね。貯金は?」

「ない」

「即答ですか」


 ズズッと美桜がコーヒーを飲む。そして「とりあえず」と立ち上がり、自分の皿をキッチンへと運んでいく。


「借りるってことでいいですよね。だって先生の毒親にもそう言っちゃったわけだし」

「あー、そうか。そうだよねぇ。言っちゃったんだよねぇ」


 ここに住むとしても、いずれにしても家に戻って荷物をまとめなくてはならない。

 憂鬱だ。電話ですごく怒ってたと彼女は言った。その言葉を思い出してさらに憂鬱が増す。鬱々とテーブルを見つめながら最後のパンの欠片を口に放り込むと「先生、着替え出しとくから」とキッチンから戻ってきた美桜がクローゼットを開け、その中に設置された棚からスウェットのトレーナーを取り出した。


「家に帰るだけならこれでいいでしょ。お酒、パンツにはかかってなかったから下は大丈夫。あと下着は――」


 言って少し考える素振りを見せた美桜に、慌ててサチは「いや! さすがにそれは!」と両手を振った。美桜は口の端を上げて「冗談ですよ」と生意気な笑みを浮かべる。


「シャワーとトイレ、キッチンの横のドアですから勝手に使ってください。ボディソープとかも使ってくれて大丈夫なんで。わたしはちょっと外出てますから、ごゆっくり」

「え、どこへ?」

「散歩です。ナナキの。さっきから呼んでるから」


 言いながら美桜はジャケットを羽織って玄関へ向かう。ナナキというのは、あの老犬の名前だったはずだ。しかし、呼んでるとは……?

 不思議に思って美桜の背中を見ていると「ホゥン」と微かな声が聞こえた。力ない、弱々しい声。それは外から聞こえてくるようだ。


「あ、この声?」


 思わず聞くと、美桜は振り返って「はい」と微笑んだ。


「あの子、もうあまり声も張れないから。でもちゃんと呼んでくれるんですよ。訴えたいことがあるときは。この声は散歩です」

「そう、なんだ……」


 呟くように答えたサチに美桜は怪訝そうに眉を寄せた。


「どうかしました?」

「あ、いや。えと、じゃあ、お借りしますね。シャワー」

「どうぞ」


 再び淡々とした表情に戻った美桜は背を向けて玄関を出て行く。閉じられたドアを見ながらサチは、そうか、と思った。

 彼女のあの柔らかな笑顔は、犬に向けられたものなのだ。この二ヶ月、学校では一度だって見たことのない表情。ナナキにだけ向けられるのだろう、あの笑顔。それを彼女は昨夜、自分に向けてくれてはいなかっただろうか。

 少し考えてから「いや、違うか」と苦笑する。ただ知らないだけだ。サチは美桜のことを何も知らないのだ。学校生活の、ほんの少しの時間を見て彼女の何を知っていると言えるのか。サチが知らないだけで、友人にもあんな表情を見せているのだろう。今はそんなことよりも、考えるべきことがある。

 家を出る。それはいい。しかし、金銭面の問題と親の説得という大きな問題があるのだ。


「……シャワー浴びてから考えるか」


 まずは頭をスッキリさせてからだ。一人そう納得したサチは皿とコップをシンクに置いて、浴室を借りることにした。


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