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4.冷たい肌、繋いだ手(6)

 それからサチは医師から怪我の状態の説明を受けた。

 腕の傷は浅く、痕も残らないこと。腕の傷以外には額と側頭部にたんこぶができていること。いまのところ脳出血などの兆候は見られないが、万一を考えて二十四時間程度は車の運転を控えるように。そして何かいつもと違うことがあればすぐに病院へ来るようにとのことだった。

 すべての説明を聞き終えると、今日はもう帰っても良いとの許しが出た。

 会計を済ませてエントランスの時計を見ると、まだ時刻は十九時を回ったところだった。かなり眠っていたような気がしていたが、どうやらそうでもなかったらしい。

 外に出た瞬間、冷たく湿った空気が全身を覆う。梅雨前の季節、気温は不安定だ。今日はいつもより寒い。サチは包帯を巻いた左腕を軽くさすり、そしてため息を吐いた。


「どうやって帰ろう」


 思わず呟く。車は学校にある。学校までは歩いて行ける距離だろう。しかし、医師から車の運転を控えるよう言われたばかりだ。

 ならばタクシーで帰ろうか。思ったが、すぐに財布の中身を思い出して無理だとうなだれる。引っ越しでの出費が効いている。今月は極力節約しなくては。


「……バスしかないか」


 正直、身体中が痛いのでバスで帰る気にはなれないが、他に手段はない。サチは深く息を吐いて歩き出した。

 病院の敷地を出て右に曲がり、国道に出て、そして思わず足を止めた。国道の反対側の車線にはバス停がある。そのベンチに制服姿の女子生徒が一人、座っていたのだ。彼女は俯いたまま微動だにしない。

 サチは彼女を見ながら再び歩き始める。横断歩道は赤だ。その信号を待つ間も少女から目が離せなかった。彼女は、何かに怯えているかのように身体を小さくして座っている。


 ――早く行ってあげなくちゃ。


 車がほとんど通らない道なのに、なぜこんなにも赤信号が長いのか。


「早く……」


 口の中で呟きながら信号を睨みつける。そしてようやく信号が青に変わると、急ぎ足で横断歩道を渡った。急ぎ足はやがて駆け足になり、サチは肩で息をしながらバス停へと辿り着いた。そして少女の隣で立ち止まる。


「――御影さん?」


 息が整わないまま声をかけると、少女の身体がびくりと震えた。そしてゆっくりと顔を上げる。

 バス停に設置された弱い光に照らされた美桜の顔は、迷子の子供のように心細そうで、そしてひどく青白かった。


「御影さん、大丈夫?」


 そっと彼女の頬に触れる。


「冷たい。風邪ひいちゃうよ?」


 言いながら彼女の顔を覗き込もうと腰を屈めると、突然強い力で身体を引き寄せられた。背中に回された美桜の両手に力が込められる。サチは驚いて「御影さん?」と声をかける。しかし美桜は答えない。ただ、ぐっと力を込めてサチの胸に顔を埋めていた。何かを確かめるかのように。微かに聞こえてくるのは、しゃくり上げるような泣き声。

 サチはそっと美桜の頭に手をやる。さらりとした髪を掬うと、それは指の隙間をすり抜けて流れ落ちていく。


「――ごめんなさい」


 消え入るような声で、彼女は言った。


「うん」


 サチは美桜の頭を撫でながら答える。


「わたし、こんなことになるなんて……」

「わかってるよ。御影さん、わたしを助けてくれようとしたんだよね」

「ごめんなさい」

「もう大丈夫だよ。大丈夫」


 小さな子を宥めるように「大丈夫」と繰り返しながらポンポンと背中を叩いてやる。すると美桜は声をあげて泣き始めた。


「先生、死んじゃうかと思って、わたし――」

「うん。びっくりしたよね。わたしもびっくりした」


 フフっと笑うと美桜はサチに抱きついたまま駄々をこねるように頭を左右に振った。


「大丈夫。死なないよ。ほら、御影さんよりあったかいでしょ? 生きてる証拠」

「うん」


 美桜はしゃくり上げながら頷く。


「でもね、御影さん。人を傷つける言葉はやっぱりダメだよ」

「うん」


 美桜は素直に頷き「ごめんなさい……」と繰り返した。何度も、何度も。そのたびにサチは「大丈夫だよ」と繰り返して美桜の背中をポンポンと叩いた。

 胸に抱いた美桜の体温はやはり冷たく、少し震えていた。


 どのくらいそうしていただろう。やがて美桜がそっとサチから離れた。その顔は涙でグシャグシャになっていたが、美桜は無造作に両手で顔を拭うと「ごめん、先生。もう大丈夫」と微笑んだ。


「落ち着いた?」

「うん」


 美桜はベンチの背にもたれると、ぼんやりと車道へ視線を向けた。国道だというのに、相変わらず車の通りはない。サチは立ったまま左右へと視線を向ける。


「バス、来ないね」


 呟くと、美桜がフッと笑って「来ても乗っちゃダメだよ」と言った。サチは首を傾げる。


「どうして?」

「このバスに乗っても、あのアパートには帰れないから」

「あ、路線違うの?」


 美桜は頷いた。


「三奈に、もうバス来るからって言って、ここで別れたの」

「そっか……。待っててくれたんだ」


 サチは笑って美桜を見る。彼女は柔らかく微笑んでサチを見上げていた。腫らした目で、嬉しそうに。そして立ち上がる。


「帰ろう、先生」


 言って美桜は自然な動作でサチの右手を握ると、そのまま引っ張るように歩き始めた。


「なんで手、握るの?」


 並んで歩きながらサチは問う。美桜は前を向いたまま「あったかいから」と答えた。


「そっか」


 繋いだ美桜の手は、まだ少し冷たい。サチが手を握り返すと彼女は嬉しそうに笑った。


「そういえば、ナナキちゃん大丈夫? 遅くなっちゃったけど」

「うん。ママが代わりに散歩行ってくれてる。あと、わたしに説教するためにアパートで待ってるって」

「わたしも一緒に怒られようか」


 言ってみたが、美桜は笑って「なんで先生が怒られるの。先生は帰ったらすぐに寝て」とサチの提案を却下した。


「悪かったのは、わたし。わかってるから大丈夫」


 そっか、とサチは頷き、そして「高知さんは、大丈夫かな」と訊ねる。


「三奈? なんで」

「だって高知さん、御影さんのこと心配してたって松池先生が言ってたから」


 すると美桜は困ったような表情で笑い、サチを見てきた。


「先生」

「え、なに?」

「こんなときでも、人の心配ばっかり」

「でも――」

「もっと、自分に興味を持ってよ」


 言われてサチは首を傾げる。どういう意味なのかよくわからなかったのだ。


「先生は、もっと自分がどんな表情をしてるのか自覚するべきだよ」


 美桜は歩きながら続ける。


「先生、金曜日の夜に会ったとき、自分がどんな顔してたかわかってる?」

「……そんなにひどい顔してた?」


 しかし美桜は答えない。のんびりと手を繋いで歩き続ける。

 タクシーが一台通り過ぎていった。ヘッドライトがサチたちを照らし、そして遠のいていく。もうすぐ交通量の多い道に出る。きっとそこに行けば歩行者も多いだろう。でも、それまでこの道にはサチと美桜の二人だけ。


「ひどい顔だったよ」


 ふいに美桜が答えた。サチは苦笑する。


「そうなの?」

「うん。泣きたいのに泣けなくて必死に戦ってるような、そんな顔。目が、離せなかった」


 サチは無言で彼女の言葉を聞く。


「わたしに会うまでは一人だったんだから泣いてもよかったのに我慢して、挙げ句には人の心配して車を降りてきて――」


 美桜が立ち止まった。サチも一緒に立ち止まり、美桜の顔を見る。彼女は右手を挙げるとサチの頬に触れた。


「あんな辛そうな顔で大丈夫か、なんて聞いてきてさ。この人、何なんだろうって思ったよ」


 サチは笑う。


「自分の方が大丈夫かって?」

「ううん。なんて繊細な人なんだろうって、思った」


 サチは驚いて美桜を見つめる。美桜はサチの頬に触れたまま、切なそうに微笑んだ。


「なんて綺麗な人だろうって思った」


 戸惑って声を出せないサチに向かって美桜はニッと笑う。そして頬に触れていた手を下ろすと再び歩き出した。

 それきり美桜は何も言わない。サチも何も言わない。ただ、手を繋いで歩き続ける。ここは学校から近い。もしかすると誰かに見られるかもしれない。しかし、不思議と今はそんなことはどうでもいいと思えた。

 交通量の多い道に出ると、帰宅する人々の流れに乗ってサチと美桜も歩く。そして美桜はバス停で立ち止まった。


「もうバス来ますよ。ちょうどよかったですね」


 美桜がスマホを見ながら言う。いつもアパートで話すときと同じ口調で。しかし、どこか寂しそうな表情で。

 少し待つと、美桜の言った通りバスが来た。そのバスに乗り込むのはサチと美桜だけ。そしてバスの中にいる乗客もまた、サチと美桜だけだった。


「人、いないんだね」

「ちょっと帰宅の時間ずれてますからね」

「ああ、そっか」


 そんな会話をしながら適当な席に二人並んで座る。

 まだ、手は繋いだままだ。

 バスはゆっくりと走り出す。心地良い揺れ。繋いだ手から伝わる美桜の体温。寝不足と身体の痛みも相まってバスが走り出して五分もしないうちに眠気に誘われる。


「先生、眠いの?」

「……ん。ちょっと」

「いいよ。肩、貸してあげる」

「でも――」

「着いたら起こすから。疲れたでしょ」

「……うん」


 サチは答えながらもすでに目を閉じていた。そしてゆっくりと美桜の肩に寄りかかる。ふわりと香ってくる美桜の香り。なぜだろう。彼女の香りに安心してしまうのは。まるで、自分の全てを包み込んでくれるような、そんな気持ちになってしまう。

 ウトウトと遠のく意識の中でそんなことを思っていると「ねえ、先生」と囁くような美桜の声がした。


「……ん」


 目を開けようとしたが、眠気のほうが勝っていて無理だった。もう半分夢を見ているような気がする。


「わたしね――」


 耳元で囁く美桜の声。


「――先生のこと、好きだよ」


 好き、と彼女は小さな声で繰り返した。

 夢うつつだったサチの意識は引き戻され、その言葉をしっかりと受け止める。目は、閉じたままだ。

 不思議と驚きはなかった。美桜が自分に向ける感情が特別なものなのではと、アパートで同じ時間を過ごすうちに感じることがあった。そして、きっと少なからず自分の中にも美桜のそれと同じ感情があることも。

 けれど、その気持ちに応えることができないことも自分でわかっていた。きっと美桜もサチが応えないことをわかっている。彼女はサチ以上にサチのことを見透かしているのだから。

 サチは美桜に身を寄せたまま、何事もなかったかのように目を閉じ続ける。美桜の体温を感じる。柔らかさを感じる。優しい吐息を感じる。温かな気持ちを、たくさん感じる。


 このバスを降りるまで。その間だけは、彼女の気持ちを受け止めてもいいだろうか。人生で何度目かの最悪の日に、少しだけ幸せな時間を過ごしてもいいだろうか。

 このバスから降りたら、また元通りのポンコツな自分に戻るから。それまではこうして、二人で――。


 ――好きだよ。


 意識のどこかで聞こえた声。美桜の声か、あるいは自分の声か。

 こつんと頭に何かが当たった。そして頬にかかる、サラサラとした細い髪の毛。寄りかかった肩に感じる温かさが、少し、痛かった。


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