4.冷たい肌、繋いだ手(5)
消毒薬の香り。静かな空間の向こうに聞こえるバタバタと廊下を歩く足音。
――ああ、全身が痛い。
サチは大きく息を吐くとゆっくり目を開けた。そして痛みに顔をしかめる。
「あ、先生起きた」
室内の空気が動いた。
「明宮先生、大丈夫ですか? 気分は?」
ぼんやりと声がした方に目をやると、瑞穂が心配そうな表情でサチのことを覗き込んでいた。サチは薄く笑みを浮かべる。
「なんか、よく寝たって感じがします。ちょっと全身痛いですけど」
「そりゃそうでしょ。机の列に突っ込んで倒れたんだから」
さっきと同じ声。サチが視線を動かすと、戸の近くで三奈が壁に寄りかかり、つまらなさそうに立っていた。
「机に……」
「明宮先生、冴木くんから御影さんたちを庇ったんですよ。そのとき頭を打って、軽い脳しんとうを起こしたんです。覚えてらっしゃいますか?」
瑞穂が固い口調で言う。サチは眉を寄せて記憶を探った。
ああ、そうだ。覚えている。血走った冴木の目も、表情も、ナイフの刃が振り下ろされる瞬間も、そして美桜の泣きそうな声も……。
サチは「覚えてます」と呟いてからそっと左腕を上げた。そこには真っ白な包帯が巻かれている。その手で額に触れると、そこにも包帯が巻かれてあった。どうやらたんこぶができてしまったようだ。
「ちょっと、ドジしちゃいましたね」
サチが笑うと、瑞穂は泣きそうな笑みを浮かべて「そんなことないですよ」と言った。
サチは瑞穂に笑って応えながら、改めて室内を見渡す。小さな部屋だ。ベッドも一つしかない。どうやら学校の保健室ではなさそうだ。
「松池先生、ここは?」
「学校の近くにある病院ですよ。先生が怪我をして気絶されたので、救急車を呼んだんです」
「そんな大げさな」
サチが笑うと瑞穂は怒ったように「大げさでも何でもないです」と強い口調で言った。
「先生はナイフで怪我をしたうえ、頭を強打して倒れたんですよ。ぜんぜん大げさじゃないです」
低く怒ったように言う瑞穂に、サチは「そう、ですね。すみません……」と謝る。瑞穂は何か言いたそうな様子だったが、言葉を飲み込むようにして頷いた。
「ま、先生たいしたことなくて良かったじゃん。無事に目も覚めたし。ね、美桜」
三奈が言ってベッドの足下の方に視線を向けた。
「え、御影さん?」
少し頭を起こしてそちらを見ると、そこにはたしかに美桜の姿があった。彼女は部屋の隅の方で椅子に座ってサチのことをじっと見つめている。どうやら彼女にも怪我はないようだ。サチは安堵して「よかった」と微笑んだ。
「御影さん、大丈夫だった?」
しかし美桜は答えず、ただじっとサチのことを見つめるだけだ。顔色が悪く、その瞳が少し潤んでいるように見える。
「――御影さん?」
サチはゆっくりと身体を起こしてから彼女の名をもう一度呼んでみる。すると美桜はスッと立ち上がった。そしてベッドの方へと近づいてくる。キュッと口元を引き締め、何かに耐えるような表情で。
「どうしたの?」
首を傾げるサチを美桜はじっと見つめていたかと思うと、そっと右手をサチの顔へと伸ばしかけた。しかしすぐにその手を下ろして俯いてしまう。なんだか様子が変だ。
「もしかして、どこか怪我を?」
心配になって訊ねるが、彼女は「いえ」と俯いたまま短く答えただけだった。
「ねー、美桜。もう帰ろうよ。先生も目が覚めたら入院の必要はないって言ってたし、もう大丈夫でしょ。うちらも今日は疲れたしさ。帰ろ」
三奈の言葉に美桜は「うん」と固い声で頷くと瑞穂に向かって「帰ります」と言った。
「くれぐれも寄り道はしないようにね。それと明日は校長先生も交えて、また話を聞くことになると思うから」
「わかりました」
美桜は頷くと、サチに視線を向けた。そしてわずかに目を細める。その表情がどこか苦しそうに見えて、サチは思わず彼女に向けて手を伸ばす。しかし、美桜はそのまま背を向けると三奈と一緒に出て行ってしまった。
「なんだか難しい子ですね。御影さん」
戸が閉まるのを待ってから瑞穂が言った。サチはそれには答えず「あの、それでどうなったんでしょう?」と訊ねる。
「冴木くんは?」
瑞穂はサチを見ると短くため息を吐いた。
「わたしと小松先生で取り押さえて落ち着かせました。ご自宅に連絡して小松先生が送っていきましたが、まさかナイフを持ち歩いてるなんて」
「驚きましたよね」
「他人事みたいに言わないでください」
瑞穂は押し殺したような声でサチに言う。そして泣きそうな表情を浮かべた。
「下手したら先生、死んでたかもしれないんですよ? なんであんな無茶なことしたんですか!」
三奈たちがいなくなって本音が話せるようになったのか、瑞穂は声を荒げた。そして脱力したように息を吐く。
「ほんとに……。いくらなんでも、ああいう状況では頼ってくださいよ」
「いや、でもさすがにあの状況では助けを求めに教室から出るというわけにもいかず」
「大声で呼べばよかったんですよ。わたしの名前を呼んでくれたらすぐに飛んでいったのに、なんで呼んでくれなかったんですか」
サチは首を傾げた。
「松池先生を?」
「そうです」
瑞穂は深く頷いた。
「わたしは幼い頃から空手をやってましたから、ああいう事態なら力になれます」
「え……」
それは意外だった。瑞穂は、言葉を失っているサチを怒ったような顔で見つめて「もし今度なにかあったら、真っ先にわたしを呼んでくださいよ?」と低い声で言った。サチは微笑んで頷く。
「わかりました。そのときは、真っ先に」
「絶対ですよ?」
「はい。絶対に」
そのとき、ふわりと瑞穂の手がサチの背中に回された。そして優しくサチを抱きしめる。
「ま、松池先生?」
「――よかった。本当に、たいした怪我じゃなくてよかった」
瑞穂の声は心から安堵したような、そんな声だった。サチは柔らかな彼女に身体を預けながら微笑む。
「すごく心配かけちゃったんですね。すみません」
「本当ですよ。わたし、先生に何かあったら生きていけないです」
「またそんな大げさな」
サチは笑ったが、瑞穂は答えなかった。
優しい音がする。心臓の音だ。瑞穂の胸に頬を寄せながらサチは息を吸い込んだ。とても、優しい香りがした。
しばらく瑞穂の優しさに甘えていたサチだったが、さすがにいつまでもこのままではまずいだろうと「松池先生」と声をかけた。すると瑞穂はハッと我に返ったように両手を放す。
「すみません! あの、わたし安心しちゃって、勢いでつい抱きしめたくなってしまって、すみません。いきなりこんな……」
「松池先生は時々すごく大胆ですね」
真顔で言うと、瑞穂は顔を真っ赤にして俯いてしまった。サチは笑みを浮かべてから「それで」と話題を変えることにした。
「わたしは、どうしたらいいでしょう? 学校ではどんな感じに?」
すると瑞穂は顔を上げて「それが」と困ったように眉を下げた。
「校長先生は事を大きくしたくないようで……。教室にいた生徒たちの話から状況は把握できてるんです。ですので明日、保護者の方を交えて当人同士で話をして解決しようとしてるみたいで」
「当人同士……。冴木くんと御影さんですか」
瑞穂は頷く。
「じゃあ、わたしも一緒に」
「いえ。先生は明日一日、お休みしてくださいとのことでした」
「え、でもわたしも当事者ですよね? それに担任ですし」
「ええ。わたしもそう言ったんですけど、冴木くんが先生にはもう会いたくないと言っているらしくて。ここは生徒の気持ちを尊重しよう、と」
「会いたくないって……」
しかしサチは彼の担任なのだ。嫌でも会わなくてはならないのに。そう言うと、瑞穂は「たぶん、もう会うことはないと思いますよ」と言った。
「どういう意味ですか?」
聞くと瑞穂は怒ったように「転校するんだそうです」と言った。
「転校?」
「はい。事の次第を連絡したときに転校手続きをすると言われたみたいで。どうかしてますよ、あの母親。子供が傷害事件を起こしたっていうのに、すぐ逃げることを選択するなんて。たぶん先生に謝罪もせず消える気ですよ。明日の話し合いも来るかどうか怪しいところです」
「そうなんですか……。それは、なんというか、すっきりしませんね」
サチが俯きながら言うと、瑞穂は心配そうにサチの肩に手を置いた。
「本来なら警察沙汰です。先生が警察に届けを出せば、彼も自分がしたことの重さを知る機会にもなるんじゃないかと思いますが」
しかし、サチは笑って首を横に振った。
「もう関わらないでいいなら、それに越したことはないです。怖いことは、もうたくさんですよ」
すると瑞穂は「そう、ですね」と優しく微笑んで頷いた。そしてサチの肩から手を放すと心配そうな表情でブラインドが降りた窓の方へ視線を向ける。
「あと心配なのは、御影さんですね」
「御影さんが、なにか?」
サチの問いに瑞穂は「大変だったんですよ」と窓の方を見つめたまま言った。
「先生が気を失ったあと、すごい取り乱しちゃって。泣きながら先生のこと呼び続けてたんです。救急車呼んだから大丈夫だよって、何度も言って宥めてたんですけど先生から離れようとしなくて。だから一緒にここへ。高知さん、すごく戸惑ってました。きっとあんな御影さんを初めて見たんでしょうね」
「御影さんが……」
「はい。でも、あんなに先生のこと心配してたのに、さっきはすごくそっけない態度だったでしょ? ちょっと不安定になってるのかもと思って」
「そうですね……」
頷きながらサチも窓へと視線を向ける。別れ際に見せた彼女の表情。あれはサチを心配しているものとは違うように見えた。あの、苦しそうな表情は何だろう。
「――話をしなくちゃ」
呟くように言ったサチの言葉に、瑞穂は「そうですね」と息を吐くように答えた。そしてハッと気づいたように時間を確認する。
「すみません、明宮先生。わたし、先生の容態を確認したらすぐに学校に戻ってこいって言われてたのを忘れてました!」
「あ、そうなんですか。もしかして、この事態の後始末を?」
サチの言葉に瑞穂は一瞬言葉に詰まる。しかし、すぐに笑みを浮かべた。
「大丈夫です。あとのことはわたしに全部任せてください。あ、明日の先生の代理はわたしが務めますので、そちらも任せてください!」
「すみません。なんだか、迷惑ばかりかけてしまって」
思わず謝ったサチを、瑞穂はなぜか不満そうに見つめてきた。不思議に思って見返していると、彼女は「すみませんって言われるのは嫌です」と言った。
「言いましたよね? わたしを頼ってくださいって。先生は人から頼りにされたとき、謝られたいですか?」
サチは少し考えてから笑みを浮かべる。そして「松池先生」と彼女の顔をまっすぐに見た。
「ありがとうございます」
すると瑞穂は嬉しそうに笑った。そして子供のように「任せてください!」と胸を叩く。
「先生はゆっくりと身体を休めてくださいね」
彼女はそう言って手を振ると、足早に病室から出て行った。




