4.冷たい肌、繋いだ手(4)
「では、ホームルームを終わります」
サチの声に応じて日直が号令をかける。生徒たちと一緒に礼をしながらサチはホッと安堵の息を吐いていた。
ようやく一日が終わった。帰りのホームルームでは朝のようなヘマをすることもなかった。思いながらサチはチラリと美桜の姿を見る。
また、目が合ってしまった。
このホームルームの間中、彼女はずっとサチのことを見ていた。そして微笑むのだ。他の誰も気づかない程度に、うっすらと。
――ぜんぜん、いつも通りじゃない。
サチは自然ともう一度ため息を吐いた。帰ったら文句を言ってやろう。どこがいつも通りなのか、と。そして礼も言わなければ。三奈から助けてくれた礼を。
「先生、さよならー」
「あ、はい。さよなら」
帰宅する生徒から声をかけられてハッと我に返る。どのくらいぼんやりしていたのか、気づけば教室にいる生徒の姿もまばらだ。
これ以上ここにいると、また誰かに絡まれるかもしれない。
そう思って教室を出ようとしたとき「ねー、先生」と男子生徒の声が教室に響いた。この少し高めの声には覚えがある。サチの気持ちは一気に鬱々としたものに変化していく。
「ちょっと話があるんだけど」
早く職員室に戻りたい。そんな気持ちを押し込んで、サチは笑みを浮かべて振り返った。
「なに?」
視線の先には机の上に座った小柄な男子生徒の姿。彼はまだ幼さの残る顔で「金曜日、うちのママから電話あったと思うんだけど?」と嘲笑を浮かべて言った。
「ああ、うん。そうね」
答えながらも頬が引きつる。彼は金曜日に電話でクレームをしてきた親の一人息子、冴木という生徒だった。クレーム内容は確か、親の財布からお金を盗んだのは担任の教育が悪いから、というものだったはずだ。
「お母様からお話を伺いました」
自然と丁寧な口調になる。冴木はヘラヘラ笑いながら「あのさー、先生が余計なこと言うから、今月の小遣いなしにされちゃったんだよね」と言った。そしてそのヘラヘラした笑いを引っ込めると「どうしてくれんだよ!」と近くの机を蹴り飛ばした。教室に残っていた何人かの女子生徒が悲鳴を上げる。
「お前のせいで予定が全部狂ったじゃねえか。どうしてくれんの? なあ?」
「そう言われても、あのね、冴木くん。そもそも、お母さんの財布からお金を取ることは悪いことなの」
「は? なにそれ。なんで悪いわけ? 親の金は子供の金でしょ? だって家族のものなんだから。ったく、それくらいわかんないわけ? よくそれで先生なんてやってられるね。先生は生徒の為に働くもんなんでしょ?」
胃がムカムカしてきた。吐きそうだ。ここで暴力に訴えることができたならどんなに楽だろう。しかし、それはできない。たとえできる環境であったとしても、きっとサチにはできない。そんな度胸はない。
サチはふうっと無意識に息を吐いていた。それに気づいた冴木は不愉快そうに眉を寄せて「は? なにそれ」と机から降りるとサチの顔を睨みつけてきた。
「生徒がこうして先生に相談してるってのに、ため息? なめてんのか?」
サチは思わず一歩下がりながら「別にそういうわけでは」と言葉を探す。しかし、何も思いつかない。こんな支離滅裂なことを言う相手を説得できるほどの人生経験はない。そんな出来た人間でもない。
ここはひとまず、この場から離れた方が良いだろう。
「えっと、じゃあ、一度職員室の方に」
「はぁ? なんで俺が職員室に行かなきゃいけないんだよ。バカかよ。意味わかんね。あー、ウザ。お前みたいな使えない奴、さっさと辞めさせるようママに言ってもらうわ」
そのとき、短く吹き出すような笑い声が聞こえた。瞬間、冴木が怒りの形相で「誰だよ、今笑った奴は!」と怒鳴った。
「わたしだけど」
静かな声に視線を向けると、窓際の一番後ろの席で美桜が頬杖をついてこちらを無表情に見ていた。
「え、美桜? ほっときなよ。あんな奴」
三奈が言う。しかし、美桜は「だって、ちびっ子がキャンキャンとキモいこと騒いでうるさいんだもん」とバカにしたような笑みを浮かべた。それを聞いて、教室に残っていた生徒たちがつられたように笑う。
冴木は見る間に顔を真っ赤にして「なんだと! てめえ!」と美桜の方へと向かっていく。
「あの、御影さん――」
止めようと声をかけたサチに美桜は鋭い視線を投げてきた。思わずサチは口を閉ざしてしまう。その間にも美桜は薄く嘲笑を浮かべて言葉を続ける。
「ママ、ママってお前はマザコンかって話。いや、実際マザコンか。なんでもママにしてもらってんでしょ? 自分じゃ何もできないお坊ちゃんがイキっちゃって、うざ。よくそれでわたしに告ってきたよね」
「え! 冴木のバカ、美桜に告ったの? マジで?」
三奈が声を上げる。そして汚いものでも見るかのように冴木を見ると「キモ……」と吐き捨てた。美桜は「マジでキモかったよ」と椅子から立ち上がる。
「だって友達伝手だよ? 直接言いに来るならまだしも、人に頼んでんの。ヤバすぎない? めっちゃ引いた。それでわたしからオーケーもらえるとでも思ってたわけ? ちょっと考えたらわかるじゃん。頭悪すぎ」
美桜が肩をすくめた。教室に残っていた生徒たちがクスクス笑う。冴木は真っ赤な顔を俯かせて黙り込んでしまった。三奈がそんな冴木を鼻で笑う。
「美桜に告るとか、身の程知らずもいいとこじゃない? あんた見た目もキモいけど、頭の中までキモいんだね」
「黙れよ、ブス」
ボソリと冴木が言う。感情を押し殺したような声だった。握りしめた拳が微かに震えているのが見える。
これ以上はダメだ。
そう思ったサチは一歩彼らに近づいて「あの」と口を開いた。声が震えていることに気づき、サチは息を吸い込んで腹に力を入れて声を出す。
「御影さんも高知さんも、それに冴木くんも、もうこれ以上は――」
「うっせえよ! 役立たずは引っ込んでろよ!」
ガンッと大きな音が響き、サチは思わず頭を抱えてその場に固まった。サチだけではない。教室にいる全員が同じ反応をしていた。ただ一人を除いては。
「……役立たずはあんたでしょ」
静かな、しかしよく通る声だった。ゆらりと冴木に近づいたのは美桜だ。彼女は自分が蹴り飛ばした椅子をさらに蹴り飛ばすと、ブレザーのポケットに手を入れて自分よりも背の低い冴木を見下ろす。その表情は見たこともないほど、冷たかった。
「消えろよ、マザコン」
しんと教室中が静まりかえった。ピンと張り詰めた空気に誰もが動けない。それほどまでに、彼女の言葉には怒りがあった。冴木は顔を俯かせたままだ。しかしその肩は不自然に震えていた。美桜は冷酷な表情のまま首を傾げる。
「どうしたの? ほら、早く帰ってママに慰めてもらいなよ。学校でいじめられたよーって。ねえ、ボクちゃん」
「――さい」
「なに? 聞こえない。言葉も話せなくなった? 可哀想」
「……美桜、もうやめなって」
冴木の変化に気づいたのか、三奈が美桜の肩に手をやる。しかし美桜は構わず「わたしね、汚いゴミって見たくないの。だからわたしの視界から消えてよ。いますぐに」と追い打ちをかけた。その瞬間、冴木が大声で喚きながら顔を上げた。
充血した目を大きく見開き「うるさいうるさいうるさい!」と甲高い声で怒鳴る。そして悲鳴のような声を張り上げながら拳を振り上げて美桜に飛びかかった。同時に、サチは二人の間に飛び込んでいた。
それは本当に無意識の行動だった。気づけば身体が動いていたのだ。そして頬に感じる鋭い衝撃。耳の奥がバンッと響いてひどく痛み、視界は火花が散ったように白くなった。遠くに聞こえるのは悲鳴だ。
「先生!」
はっきりと聞こえた声に、サチは何度か瞬きをする。するとすぐ目の前に美桜の顔があった。彼女は仰向けになり、驚いたような表情でサチを見上げている。どうやら勢い余ってサチが美桜を押し倒してしまったようだ。
「ごめんね」
サチは謝りながら立ち上がる。そして振り返った先で、信じられない光景を見た。
冴木が肩で大きく息をしながら手にナイフを持っていたのだ。制服のポケットに入る程度の小さな折りたたみナイフ。興奮しているのだろう。その手は震えていた。
殴られたせいか、耳が遠い。しかし教室がパニックになっているのは空気でわかった。
「冴木くん、落ち着いて。それをこちらに。今なら大事にはならないから。ね?」
サチの呼びかけに冴木はぴたりと動きを止めた。力のない表情。真っ赤に充血した暗い瞳。その瞳はサチの後ろを捉えている。そこにいるのは、美桜だ。
「冴木くん、ナイフを渡して……?」
サチは冴木に手を伸ばす。その瞬間、彼の身体がふわりと動いた。ナイフを握った右手が挙がる。サチは後ろで倒れたままの美桜に視線を向け、そしてグッと足に力を入れて前へと出た。
目の前に迫るのは尋常ではない表情の冴木と、ナイフの切っ先。
「明宮先生!」
瑞穂の声が聞こえたと思った瞬間、左腕に鋭い痛みが走った。そして全身を襲う衝撃。何かが倒れたような音が響き渡る。それから聞こえてきたのは怒号と悲鳴。泣き声も聞こえる気がする。誰だろう。ちゃんとフォローしなくては、また怒られてしまう。
――せい! 先生!
誰かが呼んでいる。泣いているような声で。もしかして怪我でもしてしまったのだろうか。助けてあげないと。
サチはいつの間にか閉じていた目を開けた。
視界が霞んでいる。何度か瞬きをすると、目に涙を溜めた美桜の顔がすぐ近くにあった。サチはそっと彼女の顔に右手を伸ばす。
「大丈夫?」
美桜が口を動かした。しかし、何を言っているのか聞き取れない。
――泣かないで。
サチはそう言おうとした。しかし声が出なかった。視界が揺らいで気持ち悪い。
――今日は、人生で何度目の最悪の日だろう。
そんなことを思いながら、サチの意識は闇の中へ落ちていった。




