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4.冷たい肌、繋いだ手(3)

 足早に職員室に戻ったサチは深くため息を吐いて自分の席に着いた。そして無意識に頭に手をやる。


「どうか、されましたか」


 控えめな声に目をやると、給湯室から出てきた瑞穂が心配そうにこちらを見ていた。サチは「ああ、いえ。ちょっと」と笑って誤魔化す。しかし誤魔化しきれなかったようで、彼女はサチの近くで立ち止まると「困ったことが?」と首を傾げた。サチは彼女を見上げてから微笑む。瑞穂の顔が少し強ばっていたからだ。


「えーと、ちょっと、生徒の会話に口を出したらプライバシーの侵害だと言われてしまいまして。失敗でした」


 サチの言葉に、瑞穂はさらに心配そうに眉を寄せた。


「大丈夫でしたか」

「ええ、まあ」

「それ、もしかして高知じゃないですか?」


 そう言って会話に入ってきたのは小松だ。


「え、どうして……?」


 サチが聞くと、彼は「前任者も手を焼いてましたからね」と言った。


「うちの学校、二年まではクラス替えないじゃないですか。だから一年もあのクラスメンバーなんですけど、前任の木下先生、ずいぶんと高知たちのグループに手を焼いてたみたいで」

「手を焼いてた……?」

「ええ。まあ、グループと言っても、とくに高知ですけどね。ことあるごとに人の揚げ足をとって追い込んでくるらしいですよ。口が達者で。どうも大人を目の敵にしてるみたいだって、よく零してました」

「他の生徒たちも、それに同調を?」


 瑞穂が問うと、小松はわずかに背筋を伸ばして「みたいですね」と頷いた。そして瑞穂の顔をチラチラ見ながら続ける。


「あのクラスのリーダーグループって高知たちのグループですからね。一年の頃はイジメっぽいこともあったみたいですし。ああ、でもそういえば、いつの間にかあのクラスでは生徒間のいざこざは聞かなくなりましたが」

「そうなんですか。それは木下先生のお力で?」


 サチが聞くと小松は笑って「違うでしょう」と言った。


「教師の力でどうこうできるようなことじゃありませんよ。よほど子供たちに好かれてない限り、子供の世界に大人は入れませんから。でもたしか、御影が高知のグループに入ってからいい感じになってきたって木下先生言ってたかな」

「御影さんが……? 彼女、最初からあのグループじゃなかったんですか」

「ええ。御影、最初はけっこう孤立してたらしいですよ。これも木下先生が悩みの一つでしたけどね。いつの間にか高知たちのグループに入ってたらしいです。でも、高知が教師によく噛みつくのは事実ですから気をつけた方がいいですよ。またクレーム来ちゃいますから」


 サチは不思議に思いながら小松の話を聞いていた。彼がこんなに話してくるのは初めてなのだ。どうして突然こんな饒舌にサチのクラスのことを教えてくれるのか。

 考えていたが、彼の視線を見れば一目瞭然だった。小松はずっと瑞穂を見ていたのだ。その視線には明らかな好意がある。もしかすると瑞穂のファンクラブ会員の一人なのかもしれない。しかしその視線に気づかないのか、瑞穂は考えるように顎に手をやると「明宮先生」とサチを見下ろした。


「もし、何かあったら相談してくださいね」

「え、あ、はい」

「僕にも相談してくれて構いませんよ。全力でお助けしますから」


 小松が言って自分の胸を叩いた。あからさまなアピールに、サチは苦笑して「どうも」と会釈した。しかし瑞穂は小松には目もくれず、そのまま席に戻っていく。


「あの、明宮先生」


 小松が瑞穂を見ながら小声で言った。


「はい?」

「どうしたら松池先生とお話できますかね」

「……さあ」


 サチは苦笑のまま答えて授業の準備を始める。そのとき、ポケットに入れていたスマホが震えた。見ると、画面にはメッセージの通知。相手は瑞穂だ。

 小松に見えないよう気をつけながら開けてみると『もしご迷惑でなければですが、お昼ご一緒してもよろしいでしょうか?』と固い文章が表示された。サチは微笑みながら返信を打つ。


『よろこんで』


 既読。やったー、と満面の笑みを浮かべる可愛らしい女の子のスタンプ。そして返信。


『では、お昼は五階の多目的教室で』


 サチはオーケーのスタンプを押してスマホを閉じた。そしてそっと瑞穂に視線を向ける。ちょうど彼女も顔を上げたところだったのか、目が合った。その瞬間、瑞穂が嬉しそうな笑みを浮かべる。しかしすぐにキュッとその口元が引き締められて会釈をされた。

 やはり学校では、あのオフモードのように気楽な態度は取れないようだ。サチは微笑みながら会釈を返して、次の授業で使う教科書と資料の準備を始めた。


 昼休憩、購買で買ったパンとジュースを持って五階の多目的教室へ向かう。職員室がある校舎は特別教室しかなく、その五階は今はもう、どの教室も使われていない。昔、まだ生徒数が多かった頃は使っていたらしいが、今では文化祭のときに使用するだけだと聞いた。なので、サチも五階に来るのは初めてだった。

 近くに人の気配はない。生徒たちの騒がしい声が遠くに聞こえる。なんだか、ここだけふんわりと切り取られた別の空間のように思えた。


「失礼します」


 多目的教室と書かれたプレートを確認して戸を開ける。すると中には背筋を伸ばして席に着いている瑞穂の姿があった。彼女はサチを見ると慌てて立ち上がって「先生、すみません。こんな場所で」と頭を下げた。その口調がオフモードの瑞穂のもので、サチは思わず笑ってしまう。


「よかった」


 サチの言葉に瑞穂は「よかった?」と首を傾げた。


「はい。お昼休憩も仕事モードの松池先生だったら緊張するなと思ってたので」


 すると瑞穂は申し訳なさそうに「すみません」と謝った。


「やっぱり、職場ではどうしても構えてしまって」

「でも金曜までの松池先生じゃないって、他の先生たちが驚いてましたよ。もちろん、良い意味で」

「そう、ですか」

「はい」


 サチは笑顔で頷いてから瑞穂の隣の席にパンの入った袋を置き「机、くっつけましょっか」と机を動かした。


「あ、そうですね」


 瑞穂も机を動かして向かい合わせにしながらフフッと笑う。サチが視線で問うと「なんか、高校生みたいだなぁって」と言った。


「たしかに。もうそんな歳じゃないですけどね」


 サチと瑞穂は笑い合いながら席に着いた。


「松池先生、いつもここで食べてたんですか? お昼になるといなくなるなと思ってましたけど」

「はい。ここなら誰の視線もありませんから、のんびり休憩できるんです」

「なるほど」


 サチは頷いてから「わたしがお邪魔しても良かったんです?」と首を傾げた。


「せっかく一人になれる時間だったのに」


 すると瑞穂は大きく首を左右に振った。


「むしろ先生と一緒にお昼ご飯食べられるの、すごくすごく嬉しいので!」

「そうですか? じゃあ、よかったです」


 サチは頷いてから「あ、そういえばマグカップありがとうございました」と袋からパンを取り出しながら言った。


「ああ、いえ」


 瑞穂は恥ずかしそうに俯き、そして上目づかいに「ご迷惑じゃなかったですか?」と聞く。


「全然! 嬉しかったです。わたし、自分のマグカップ置いてなかったから。今後も使わせてもらいますね。それにあのコーヒーも、すごく美味しかったです」

「そうでしょう? あのコーヒー豆、わたしも大好きなんです。すっきりしてて朝飲むのにピッタリで。よかったら明日もまたお淹れしますね」


 瑞穂は嬉しそうに笑みを浮かべると弁当を開く。彼女の昼食は可愛らしい手作り弁当だった。


「それ、先生が作ったんですか?」

「あ、ええ。まあ」

「へー、すごい。料理上手なんですね。美味しそう」

「……少し、食べますか?」

「いいんですか? やった!」


 サチが喜ぶと、瑞穂も嬉しそうに弁当の蓋に唐揚げと卵焼きを乗せていく。


「あ、でも箸が」

「大丈夫です。手でいきますから」


 言ってサチはひょいと卵焼きをつまんで口に入れた。だし巻き卵だ。ふんわりとしていて甘く、塩気も絶妙。


「めっちゃ美味しい……」


 思わず呟くと、瑞穂は「よかった」と嬉しそうに笑った。しかしすぐにその眉が心配そうに寄せられる。


「あの、それで大丈夫ですか? 朝の件」


 朝の件、とサチは口の中で繰り返して「ああ」と頷いた。


「大丈夫ですよ。あのときは御影さんが助けてくれまして」

「御影さんが? それは珍しいですね」


 瑞穂が目を丸くする。


「御影さん、高知さんの言動にはいつも知らん顔なのに」

「そうなんですか」

「はい。わたしも以前、高知さんによくわからない文句を言われたことがあるんですけど」

「え、大丈夫だったんですか?」

「ああ、はい。じっと彼女の顔を見ながら話を聞いていたら、なんか諦めてくれて」

「へえ……」


 サチは瑞穂の顔を見ながら頷いた。たしかに彼女に無言でひたすら見つめられたら文句も言いづらくなるだろう。仕事モードの瑞穂はどこまでも無表情なのだ。高身長で整った顔立ちだけに、無言で見つめられると少し怖いかもしれない。


「でも、そのときも御影さんは我関せずって感じでぼんやり外眺めてましたよ」


 たしかに、今までの美桜ならそうだろう。その姿が容易に目に浮かぶ。


「てっきり御影さんも高知さんと同じように大人が嫌いなのかと思ってました」

「違いますよ」


 サチはパンを頬張りながら言う。


「御影さんは元々は優しい子なんです。ただ、助ける相手を見極めてるんじゃないですかね」

「見極め、ですか」

「はい」


 サチはジュースを一口飲んでから「ほら、わたしはダメダメだから」と苦笑した。


「松池先生は自分で対処できる人だって思われたんですよ。わたしはダメだから助けてくれた。それだけだと思います」

「ふうん」


 瑞穂はご飯を口に運びながら首を傾げた。


「わたしは、明宮先生は全然ダメダメじゃないって思いますけど」

「え?」

「御影さんのこと、ちゃんと見てるじゃないですか。生徒のことをちゃんと考えてるし……。この件だって、わたしが聞かなかったら誰にも相談とかしませんでしたよね?」

「それは、まあ。自分のクラスのことですし、自分が蒔いた種というか」

「そうやって誰かに頼らず、逃げもせず、自分で解決しようとする姿勢がすごいです。わたしは何か問題に直面するとすぐに逃げてきたから」

「逃げて――?」


 瑞穂は頷いた。


「そうやって辞めてきたんです。今までの学校」


 瑞穂はため息を吐くと「わたしの方こそ、ダメダメです」と呟くように言った。そしてサチをまっすぐに見つめる。


「だから、明宮先生はすごいです」


 そういえば、たこ焼き屋でも瑞穂はサチのことをすごいと言ってくれた。何度も。

 サチの言動は全て自分の為だけを考えてのものだ。それをすごいと言ってくれる。そんな人は初めてだった。

 サチはなんだか恥ずかしくなって「やめてください」と俯いた。瞬間、瑞穂が「ああ、ごめんなさい!」と慌てた様子で謝る。


「引きました? ウザかったですか? あー、ごめんなさい。わたし、つい思ったことをよく考えもせず口に出してしまうみたいで」

「ああ、いえ。そういうことじゃなくて、ただちょっと」

「……ちょっと?」

「恥ずかしいから」


 瑞穂は意味がわからなかったのか、不思議そうに首を傾げる。


「そんな風にわたしのことをすごいって言ってくれる人、今まで誰もいなかったので」


 サチが言うと瑞穂はホッとしたように笑って「わたしは言いますよ」と言った。


「明宮先生は、本当にすごい人です」

「だから、やめてくださいって!」


 言ってサチはパンを口に詰め込んだ。瑞穂が楽しそうに笑って自分の弁当のおかずをさらに分けてくれた。

 それから昼休憩が終わるまで、瑞穂との会話は途切れることがなかった。この職場に来て、いや、大人になってこんなに楽しい昼休憩は初めてかもしれない。その理由も、サチにはなんとなくわかった。


 瑞穂がサチのことを認めてくれているからだ。


「松池先生」


 予鈴が鳴り始めた頃、サチは動かした席を元に戻しながら瑞穂に言った。


「また明日も、一緒にお昼ご飯食べてくれますか?」


 すると瑞穂は満面の笑みで「もちろんです!」と頷いてくれた。まるでサチと一緒にお昼ご飯を食べるのが心から嬉しいかのように。そんな彼女の反応に、サチもまた嬉しい気持ちになる。

 瑞穂と一緒なら、何があってもここでの仕事を続けられるかもしれない。瑞穂が自分を認めてくれるのならば頑張れるかもしれない。

 そんな気持ちになったのは、働き始めてから初めてのことだった。

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