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1.最悪の日、知らない表情(1)

 その日は最悪の日だった。学校では生徒の保護者からクレームの電話を受け、教頭に叱られた。非常勤職員だというのに、クラス担当にされただけでも最悪だったのに、こんなクレームを受けなければならないのも最悪だ。しかも勤務し始めてから二ヶ月で五件目のクレーム。


 一つ、成績が上がらないのは担任が悪いから。

 二つ、親に向かって暴言を吐いてくるのは担任が悪いから。

 三つ、塾に行かずに遊んでいたのは担任が悪いから。

 四つ、帰宅途中に寄り道をして財布を落としたのは担任が悪いから。

 そして五つ、子供が親の財布からお金を盗んだのは担任が悪いから。


 正直言って「知ったことか」である。しかし、そんなこと言ってしまっては即解雇になることは間違いなく、ただ平謝りをするしかなかった。

 そして仕事終わりに恋人に呼び出されたファミレスに行ってみれば、そこには以前の職場で同僚だった女子社員がなぜか同席していた。いや、理由はわかっている。

 自分、恋人、そして彼の隣に当たり前のように座る元同僚。どう考えても理由は一つ。


「ごめん。俺、彼女とつきあうことにしたから」


 彼は申し訳なさそうな表情を作ってそう言った。その隣では元同僚が「ごめんね」と謝る。本心なのか、それともただ表面上謝っておこうという魂胆なのかわからない。しかし、そう彼らが決めたのならもう自分が何を言っても無駄だ。


「そっか。うん、わかった」


 どういう表情をするのが正解なのかわからず、サチは薄く笑みを浮かべて頷くしかなかった。だって、悲しくなかったから。悔しくもなかった。ああ、そうなんだと思っただけだ。それはきっと彼のことが好きではなかったからなのだろう。

 彼は良い人だった。それだけだ。元同僚のことは、正直よく知らない。興味もなかったので別れ話を了承してすぐに席を立った。

 そして帰宅した先で彼と別れたことを母に告げると、今度は母から攻撃を受けた。


「いい年して、なんで別れるの。これからどうするつもり? あんたみたいなのと付き合ってくれる人なんてそういないんだよ? もうこうなったら見合いでもして相手見つけるしかないじゃない」


 女の幸せは結婚。いまだにそんな化石のような固定観念に縛られている母。彼と付き合っている間ですら、結婚はいつになるのかと散々言われ続けてきた。別れたとあっては、さらに度を越してこの小言はひどくなるのだろう。


 ――ああ。なんだかもう、うんざりだ。


 生きていくことに対してうんざりしている自分がいる。けれど、別に死にたいわけじゃない。かと言って、頑張って生きようとも思えない。

 ただ今は、この現状から逃れて楽になりたい。

 そのためにまず何ができる。

 何が……。


 母の小言を聞きながらサチは考え、そして「家、出るから」と母に告げて着の身着のまま家を出てきたのだった。

 この日、唯一幸いだったと言えるのは車を持っているということだった。といっても、この車すら自分の給料で購入したものではない。以前の職場が遠く、通勤に必要だということで両親に借金をして買った中古車だった。その職場もすぐに辞めてしまったが、それでも車が手元に残っていることは幸いだった。

 暗い夜道をとりあえず走らせて心を落ち着かせる。時刻はまだ二十時過ぎ。金曜日の夜だ。きっとどこの店へ行っても人が多いだろう。

 当てもなく車を走らせていると、バッグの中でスマホがパッと光ったのが見えた。すぐに光が消えたので、メッセージか何かの通知だろう。サチは車を路肩に停めてスマホを確認する。

 メッセージの主は別れた彼からだった。


『本当に、ごめんな』


 優しい人だったのだ。きっと、悪かったのは自分。サチは彼の名前をリストから削除してアカウントをブロックする。そして再び車を走らせた。


 どれほど走っただろう。気がつくとそこは田園地帯だった。周囲に民家は少なく、街灯もほとんどない。もちろん人の姿は皆無。それほど街から離れているわけではないが、寂しい場所だった。

 明るい時間帯に通ることはあったが暗くなってから訪れたことはない。窓を開けて外の空気を吸い込むと、初夏の少し湿った空気が心地よかった。

 車の通りも少なく、ただカエルの大合唱が聞こえるだけの、とても静かな地域だった。

 暮らすなら、こんな場所もいいかもしれない。車があれば通勤も問題ないだろう。そんなことを思っていたとき、ふと前方に人影が見えた。うずくまっているように見える。もしかして具合が悪いのか。そう思ったサチは近くに車を停めると「大丈夫ですか?」と外に出た。


「え……?」


 驚いたように顔を上げたのは、まだ若い少女だった。しかし自分が落とした影のせいで顔はよく見えない。彼女の足下には中型犬が一匹。どうやら散歩中だったようだ。


「あの、えと、すみません。うずくまっているように見えたので、具合が悪いのかと思ってしまって」


 そう言うと彼女は「ああ」と納得したように頷いて足下の犬へ視線を下ろした。


「この子、もうおばあちゃんで一人じゃ立てないんです。だから肩周りと腰にハーネスつけて歩かせてるんですけど、時々休憩しなくちゃしんどいみたいで」

「あ、休憩中だったんですね」

「はい。もう戻ろうと思ってたところなので、大丈夫ですよ」


 言って彼女は犬を少し持ち上げるようにしてハーネスを動かした。そのハーネスの動きに反応するように、老犬はゆっくりと足を踏み出す。しかし、足取りは安定せず頭も左右に揺れていた。

 中型犬でそれなりに体重もありそうに見える。対して少女は華奢でか弱そうだ。それでも彼女は犬に微笑みかけながら「ほら、がんばれ。ゆっくり行こう」と足を進める。ときどき犬の動きにつられるようにして彼女の足下もふらついていた。


「家、遠いんですか?」


 転んだら危ないと思ったサチは、車のドアをロックして彼女と犬の後ろをついて歩く。少女はちらりとサチを一瞥してから「すぐそこですよ」と前方に顔を向けた。そこには二階建ての小さなアパートが見える。


「あ、じゃあ大丈夫ですね」


 少女は一度立ち止まってハーネスを握り直すと、ゆっくり犬と歩調を合わせて歩き出しながら「こんな時間に家庭訪問ですか?」と言った。


「え?」

「それとも偶然? なわけないですよね。こんな場所に偶然立ち寄るわけないし」


 話が見えない。サチが答えずにいると彼女は街灯の下で立ち止まり、サチへと顔を向けた。


「とりあえず車、アパートの駐車場に入れてください。あそこに停めてるとぶつけられて田んぼに落ちますよ。明宮先生」


 その街灯に照らされた顔を見てサチは「え……」と声を漏らした。見覚えのある顔だったのだ。サチが担当するクラス。その一番後ろの窓際に座っている女子生徒。


「なにアホみたいな顔してるんですか、先生」

「――え、え? 御影さん?」


 美桜は怪訝そうに首を傾げてから「駐車場、適当に停めてもらっていいんで」と再び犬と供に歩き出す。


「ごめんね。ほら、行こう」


 そう言って優しく微笑む彼女の顔は、学校では一度も見たことがない表情だった。



 ひとまず言われた通りアパートの敷地内に車を停めたサチは、彼女と犬が戻ってくるのを駐車場に立って待つ。アパートを見上げると、どうやら部屋数は四つ。どの部屋にも灯りはなかった。


「よーし、あとちょっとだよ」


 優しく励ますような声に視線を戻すと、美桜が犬と供にゆっくりとサチの前を通り過ぎていった。

 アパートでこんな老犬を飼ってもいいものなのだろうか。そんなことを思いながら彼女の後ろをついていくと、アパートの裏手に立派な犬小屋が置かれてあった。

 犬のプライベート空間と言わんばかりにフェンスで囲まれた空間。地面にはクッション材が敷き詰められ、フェンスには段ボールが貼られて風よけの役割を果たしているようだった。犬小屋の床にはマットが敷かれている。そこに彼女は老犬を誘導して「ほら、着いたよ」とハーネスを持つ手の力を緩める。そうすると、犬は心得たようにマットの上にゆっくりと腰をつけ、そのまま横たわった。


「おつかれ、ナナキ」


 美桜は犬にそう声をかけながら薄いストールのようなものをかけてやる。すると犬は納得したように一度息を吐くと、そのまま目を閉じて動かなくなってしまった。


「寝たの?」


 なんとなく心配になって訊ねると美桜は「みたいですね」と振り返る。そして先ほどまで犬に向けていた表情とは別人のような無表情で「で?」とサチを睨むように見てきた。


「こんなところまで何の用ですか。まさか、遅刻が多いことの説教?」

「え、あ、いや。そうじゃなくて。えっと、ここ、御影さんのご自宅? お父さんとお母さんもいらっしゃるの?」


 アパートを振り返りながら言うと、彼女は「いえ」と短く答えてアパートへと戻っていく。


「実家は学校の近くで……」


 言いかけて彼女は怪訝そうに眉を寄せて振り返った。


「そういえば、ここの住所なんで知ってるんですか。親に聞いたんですか? いや、でも今日は両親ともいないはずだし――」

「あ、だから違うの。わたしはたまたま通りかかっただけで」

「たまたま? 本当に? こんな田んぼしかない場所を?」

「あー、うん。まあ、ちょっと気晴らしに」


 なんと言っていいのかわからず、視線を泳がせながら答えたサチに、美桜は「ふうん」と頷いた。そしてしばらく何かを見定めるかのようにサチを見つめていたかと思うと「上がって行きます?」と首を傾げた。


「え、でも……」

「部屋、ここなんで。どうぞ」


 言って彼女がドアを開けたのは、アパートの一階。右側の部屋だった。ここまで言われて断るわけにもいかず、サチは「お邪魔します」と部屋に入る。中は思ったよりも綺麗にリフォームされていた。単身用の部屋らしく、こじんまりとした1LDK。家具も少なく、あまり生活感がなかった。


「もしかして御影さん、ここで一人暮らしをしてるの?」

「まあ、そんな感じです」

「そんな感じって。でも、ここって学校から結構遠くない?」

「そうですね。朝のバス一本逃すと三十分は来なくて」

「それで遅刻が多いの?」

「まあ、そんな感じです」

「そんな感じって……」


 ここは教師として何か言うべきなのだろうか。しかし、どうも言葉が出てこない。今のサチは教師としてのスイッチが完全に切れているのだ。深くため息を吐いて「そっかぁ」と頷くとバッグを床に置き、そのままベッドに背を預けるようにして座り込んだ。

 そんなサチをちらりと見てから美桜は「ビール、ありますよ。呑みます?」と冷蔵庫から缶ビールを取り出して持ってくるとテーブルに置いた。


「ちょっと、高校生がなんでビールなんか」

「祖母の置き土産です。まだ賞味期限もあるし、誰かにあげようと思ってたところです」

「お婆さん……?」

「このアパートの所有者だったんですけど、今年の二月に亡くなったんです。ここは祖母が暮らしてた部屋」

「そうなの」


 ということは、あの犬もお婆さんが飼っていたのだろう。そして飼い主がいなくなったから美桜が世話をしているのか。

 サチはぼんやりとテーブルの上に置かれたビールの缶を見つめ、そして手を伸ばした。プルタブに指をかけて開ける。小気味の良い音が響き、アルコールの香りが鼻をつく。そしてグビッと最初の一口を喉に流し込んだ。


「……まずそうに呑みますね。先生」


 声に視線を向けると、美桜が盆にのせた皿をテーブルに並べて腰を下ろしたところだった。皿の上には、おそらくスーパーで買ってきたのだろう総菜が並んでいた。


「大人はみんなビールを美味しそうに呑むものだと思ってましたけど」

「そうでもない大人もいるのよ」

「疲れてるんですか?」

「なんで?」

「だって、学校の先生ならもっと色々聞いたりするんじゃないですか? 遅刻の多い生徒がこんなへんぴな場所に一人暮らしして、しかも冷蔵庫にビールが常備されてるなんて」

「お婆さんの置き土産なんでしょ?」

「信じるんですか」

「嘘なの?」


 美桜は答えない。代わりに焼き鳥を乗せた皿をサチの方へ押しやってきた。


「どうぞ」

「どうも」


 しばらく二人は無言で食事を続けた。テレビもついていない部屋は静かで、しかしたいして話をしたこともない生徒と会話が続くわけもない。サチは今日一日の出来事を思い返しては深くため息を吐いた。


「疲れてるんですね」


 美桜の声。サチは「最悪の日だったの」と零すように呟く。そうですか、と美桜は立ち上がると再び冷蔵庫に向かう。そしてもう一缶ビールを持って戻ってきた。

「そういうときはやけ酒するんでしょ? 大人は」

「うん。そうかもね」

 缶を受け取り、そして最初の缶に残っていたビールを一気に飲み干した。すると、なんだか無意味に楽しくなってきて二缶目に手を伸ばしたのだった。

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