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4.冷たい肌、繋いだ手(2)

 金曜の夜から色々なことがあった。彼氏と別れた。親とケンカして家を出た。一人暮らしの生徒の部屋に転がり込んだ。その生徒のことが少しわかった。


 そして、一人暮らしが始まった。


 何もしてこなかったサチの人生において大きな変化だ。しかし、いくら大きな変化があったといっても、日常の全てが変わったというわけではない。


「おはようございます」


 いつもと同じように、近くの人にしか聞こえないほどの声量で挨拶をしてサチは職員室に入った。気づいた何人かの同僚が挨拶を返してくれるが、大半は今日の授業の準備に追われていて顔も上げない。いつも通りだ。しかし、いつもと違ったことが一つ。


「おはようございます、明宮先生」


 凜とした声が聞こえた瞬間、職員室が静まりかえった。振り返ると、パンツスーツ姿の瑞穂がマグカップを二つ持って無表情に立っていた。


「あ、おはようございます。松池先生」


 昨日のオフモードの瑞穂とはまるで別人のような雰囲気に、サチは思わず笑みを浮かべる。彼女はわずかに目を泳がせてから「これ、よかったら」とサチのデスクの上にマグカップを置いた。コーヒーの良い香りがする。


「ありがとうございます……?」


 言ってから首を傾げる。サチはこの職場にマグカップを置いていなかったのだ。


「このカップって」

「わたしのです。以前買ったものですが使ってませんので、よかったらお使いください」


 サチはカップを見てから瑞穂の顔へと視線を移す。彼女の表情はいつも学校で見る表情と変わらない。しかし、その瞳の奥にはわずかな不安のようなものが見えた気がした。サチは笑みを浮かべて「ありがとうございます」とカップを手に取る。


「使わせていただきますね」


 瑞穂の表情が緩んだように見えた。しかしそれも一瞬のことで、彼女は小さく頷くと自分のデスクに戻っていった。


「びっくりですね」


 隣のデスクの男性教員が呟くように言った。小松という体育教師だ。歳は三十過ぎだっただろうか。彼は席に戻っていく瑞穂の姿を目で追いながら「松池先生が、まさか他の先生にコーヒーを」と続ける。


「しかもマグカップまで。彼女がここに来てから初めて見ましたよ。こんな風にコミュニケーションを取るなんて。いつ仲良くなったんですか?」

「いつ、と言われましても。別に」


 答えながらサチはカップに口をつけた。普段飲んでいるコーヒーよりもすっきりとした味。それは給湯室にある安いインスタントコーヒーの味ではなかった。

 瑞穂に視線を向けると彼女は無表情に、しかしどこか嬉しそうな顔でパソコンに向かっていた。


 職員室での朝礼の後、ホームルームの為に教室へ向かう。これも、いつも通りだ。

 教壇に立つことにはようやく少し慣れてきた。最初は生徒たちの視線が怖かったが、最近わかってきたことが一つ。彼らは教師のことを見ているようで見ていない。ただ視線を向けているだけなのだ。そう気づいてからは気が楽になった。

 しかし、今日はどうしても普段通りというわけにはいかない。


「えーと、じゃあ、進路希望の紙は金曜に提出してください」


 言いながらサチは窓際、一番後ろの席へと目を向けていた。そこに座る生徒と目が合う。つまらなさそうな、何事にも興味なさそうな、そんな澄ました表情。しかし、彼女はしっかりとサチのことを見ている。そんな彼女がわずかに目を細めたので、サチは次に何を言おうとしていたのか忘れてしまった。


「先生、ホームルーム終わりですか?」


 男子生徒の声にサチは我に返って「あ、はい。終わりです」とうわずった声で答える。それを合図に日直が号令をしてホームルームは終了する。サチは出席簿に必要事項を記入しながら息を吐いた。

 いつも通りに、と言っておきながら美桜の方がいつも通りではない。いつも彼女は他の生徒と同じように、いやそれ以上にサチのことなど見ていなかったのだ。彼女はいつだって窓の外をぼんやりと見ているだけだったのに。


「美桜、なんかあった?」


 教室の喧噪の中、ふいにそんな声が聞こえてサチは顔を上げた。美桜の周りには彼女といつも一緒にいるメンバーが集まっていた。その中でも特に美桜と仲の良さそうな高知たかとも三奈みなが美桜の前の席に座りながら「なんか、ちょっと楽しそうだけど」と美桜の顔を覗き込んでいる。美桜は「別に」と頬杖をついて窓の外へ顔を向けながら言った。


「えー、そう? 絶対なんかあったって」

「なんで」

「だって、笑顔じゃん」


 三奈が美桜の頬をつつきながら言った。しかし、他の友人たちは「え、これ笑顔なの? いつも通りの無表情にしか見えないんだけど」と笑いながら美桜の顔を見ている。美桜はため息を吐いて「いいから」と片手を振った。


「なんか、話の途中じゃなかった?」

「ああ、そうそう。駅前にさ、新しいカフェが出来たんだって。で、バイト募集してるんだけど、一緒にやろうよ。制服が可愛くてさ」

「やだ」

「えー、なんで。お金欲しいって言ってたじゃん。短期もオーケーだって」

「めんどくさい」

「じゃあさー」


 美桜は頷きながら友人の話をつまらなさそうに聞いている。普通ならそんな態度で話を聞いていれば不満を買いそうなものだが、美桜の場合はそれが良い、といつだったか生徒の誰かが話しているのを聞いたことがある。

 いつも興味なさそうな態度なのに、困っているときはさりげに助けてくれたりする、と。それからたまにしか見せない笑顔が良い、と。

 その話を聞いたときは美桜のことにさして興味もなかったので、そういう生徒もいるのかくらいにしか思っていなかったが、今ではその言葉がよく理解できる。元々、優しい子なのだから他人を邪険にすることはないのだろう。


「……ねえ。なんか明宮、めっちゃこっち見てんだけど」


 グループの一人がサチに視線を向けながら言った。言われて初めて彼女たちのことを見続けていたことに気づく。サチは慌てて視線を逸らしたが、時すでに遅し。三奈がサチの方に身体を向けて「なんですか、先生?」と挑むような口調で言った。その途端、教室がしんとなった。他の生徒たちの視線がサチに向けられる。


「あ、えーと、アルバイトって聞こえたから」

「だから?」

「もしするのなら、ちゃんと申請書を出してね」

「は? うっざ。別にバイトなんかしないし。てか、生徒の話を盗み聞きですか、先生。それプライバシーの侵害ってやつじゃないですか?」


 三奈が座ったまま足を組んでふんぞり返る。しんとなった教室にクスクスと笑い声が聞こえた。


 ――ああ、嫌な感じ。


 サチは心の中でため息を吐いて「うん。ごめんね」と笑みを浮かべて謝る。しかし三奈はその態度が不満だったようで「そんなヘラヘラ笑って謝られてもねぇ」と嫌な笑みを浮かべて首を傾げた。


「先生に話を盗み聞きされて、わたし傷ついちゃったんですけど」

「あ、えっと……」


 これ以上どうしろというのかわからない。どういう答えをすれば彼女の気は治まるのだろうか。考えていると「やめなよ、三奈」と冷たい声がした。視線を向けると、美桜が頬杖をついたまま冷たく三奈を見ていた。


「朝からウザい」

「美桜……」


 三奈は困惑した表情で美桜を見ると、舌打ちをしてサチから視線を逸らした。教室はそれを合図にしたかのように再びざわつきが戻っていく。サチは美桜に視線を向ける。しかし、彼女はつまらなさそうに窓の外を眺めているだけだった。


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