4.冷たい肌、繋いだ手(1)
翌朝、サチは普段よりも一時間以上早く目覚めていた。静かな部屋。実家で暮らしていた頃のような香りも、音もしない。布団を畳んでスマホでニュースなどを眺めながらコーヒーを飲み、身支度を整えてカーテンを開ける。窓の向こうに見えるのは田んぼと山。そしてまだ薄暗い空。初めて一人で迎えた朝だった。
サチはしばらく窓の外を眺めた後、少し考えてから玄関のドアを開けた。湿った空気。太陽が昇り始めた空には雲が多い。
「もうすぐ梅雨ですよね」
突然の声に、サチは軽く悲鳴を上げた。面白そうに笑う声が聞こえる。視線を向けると、美桜がちょうど玄関から出てきたところだった。
「もう、御影さん。気配を大きくしてから現れてって言ってるのに」
「おはよう、先生」
「はい、おはようございます」
応じるサチの顔を見つめて、美桜は首を傾げた。
「眠れなかったんですか?」
「え?」
「クマ」
美桜は自分の目元を指さした。サチは慌てて目元を押さえながら「ひどい?」と聞く。
「いや、まあ、いつもよりは目立つかなって」
「そっか。もう少しメイク濃くしなくちゃダメかな」
サチの言葉に美桜は「まあ、別に大丈夫ですよ」と言う。
「そこまで先生の顔をじっくり見る人もいませんって」
「それはひどくない?」
サチが文句を言うと美桜は楽しそうに笑って歩き出しながら「散歩、一緒に行きますか?」と振り返った。サチは「もう……」と息を吐いてから美桜の後ろに続いた。
「朝はいつもこんな早いの?」
ナナキは朝から元気だ。足取りは変わらずふらついているが、顔を見ると心なしか楽しそうに見えた。
「いえ。いつもはもう少し遅めですね。それでバスに間に合わないことがよくあって」
「ああ、だから遅刻が多いのね」
サチが苦笑すると美桜も苦笑して頷いた。
「じゃあ、なんで今日は早いの?」
「それは――」
ナナキが立ち止まった。二人も一緒に立ち止まる。新聞配達のバイクが壊れたようなエンジン音を響かせながら通り過ぎていった。
「なんか眠れなくて、気づいたら朝だったので」
「ふうん。御影さんもか」
「先生は何で眠れなかったんですか? あ、寂しかったんでしょ?」
ニヤッと笑って彼女は言う。そんな美桜の顔を見て、サチは少し考えてから「そうかも」と頷いた。
「え、マジですか。ああ、初めての一人暮らしだから?」
「ううん。そうじゃなくて」
サチは笑う。
「なに。なんですか」
ナナキが再び歩き始めたので美桜とサチも歩き出す。
「いや、そうなのかな」
「どっちですか」
「だってほら、一昨日は御影さんと一緒に寝たから」
「え……」
「御影さん、体温わたしより高いでしょ? 暖かくて。でも昨日は一人だったからなんかこう、物足りないというか――」
言って隣を見ると、美桜はいなかった。ナナキが立ち止まったのかと思ったが、どうやら違うらしい。ナナキは不思議そうに美桜のことを見上げていた。
「御影さん? どうしたの?」
「い、いや別に」
彼女は俯きながら言うと歩き出した。サチは不思議に思いながら「御影さんはなんで?」と聞く。
「え?」
「なんで眠れなかったのかなぁと」
美桜はしばらく無言で歩き続けて「――月曜だから」と答えた。サチは首を傾げる。
「月曜?」
「学校。行くのだるいなぁって」
サチは笑って「たしかに」と頷く。
「月曜はそういう気持ちになるよねぇ」
「……ですよね」
どこか安堵したような声にサチは美桜の横顔を見る。なぜか、その頬が少し赤くなっている気がした。
「先生、朝ご飯は?」
散歩とナナキの朝食タイムを終え、アパートに戻りながら美桜が言った。
「食べてないけど、いつも食べないから大丈夫」
「え、食べないの? あれ? でも食べてましたよね」
「ああ、うん。平日はコーヒーだけなの。休日は食べる」
「ふうん」
頷きながら美桜は自分の部屋の前で立ち止まる。サチはふと思いついて「御影さん、学校行くとき近くまで送ろうか?」と提案してみた。しかし美桜は笑って「いや、大丈夫です」と片手を振る。
「そう? でもせっかくだし、交通費も浮くんじゃない?」
「どうせ先生、わたしが遅刻するかもとか思ってんでしょ?」
その通りだったのでサチは言葉を返せない。美桜は肩を竦めた。
「大丈夫ですよ。ちゃんと時間通りに行きますって」
「ほんとに?」
「ほんとです。それに、どこで誰が見てるかわからないのに一緒の車で学校へのルートは行けませんって。先生だって困るでしょ?」
たしかに、変な噂が立つのはサチにとっても美桜にとっても困るだろう。サチは「わかった。ちゃんと遅刻しないようにね?」と念を押す。
「わかってますって」
美桜の返事に頷いてからサチは自分の部屋のドアを開けて中に入る。そのとき「あ、先生」と美桜の声が聞こえた。
「なに?」
玄関から一歩戻って顔だけ出すと、美桜は無表情に「学校では話しかけないでくださいね」と言った。
「え、あ、うん。今まで通りに、だよね」
「はい。今まで通りに」
学校では自分に構うなと、彼女は言っている。わかっている。
学校での彼女は他人と関わろうとはしない。それが学校生活で自分を守るための彼女の処世術なのだから。しかしわかっていても、こんなにはっきり話しかけるなと言われると、少し寂しい気持ちになってしまう。
そんなことを思っていると、美桜は無表情のままサチを見つめて「それと」と続けた。
「それと?」
「寂しいからって、ついうっかりわたしの頭を撫でないでくださいね」
「なっ……!」
サチの脳裏に一昨日、美桜と一緒に眠ったときのことが蘇る。
「み、御影さん、あの、あのとき寝てたんじゃ……?」
「いや、なんか一瞬だけ目が覚めちゃって。先生ってば大胆ですよね」
「あ、あれは御影さんがくっついてきたんだからね? わたしからじゃないからね? なんかちょうど良い位置に御影さんの頭があったからそれで、その、つい……」
「へえ、そうですか」
「ほんとだからね?」
「はいはい。あんまり言うと、ほんとに下心があったみたいに聞こえますよ。先生」
美桜はにやりと笑った。そして「じゃ、学校で」と手を振って部屋に戻ってしまった。サチはしばらくその場にぼんやりと立ち尽くす。
あのとき絶対に美桜は寝ていると思っていたのに。まさか起きていたとは。しかし、どうやら怒ってはいないようだ。その点だけにサチは安堵する。
「――なにやってんだ、わたしは」
サチは呟きながらうなだれると「学校、行こう」と自分の部屋へと戻った。




