3.友達、本当の彼女(1)
なんだかとても良い夢を見た気がする。サチはゆっくりと目を開けながらそれがどんな夢だったのか思い出そうとした。しかし、わからない。けれど、穏やかで優しくてそして温かな夢だった気がする。心地良いまどろみの中でサチは小さく唸りながら微笑む。
――もう少し、このまま眠っていたい。
「先生、ご飯できたよー」
その声にサチはハッと意識を覚醒させ、ガバッと身体を起こした。
「うっわ、びっくりした。なにその起き方」
見ると、目を大きく見開いた美桜が両手に皿を持って部屋の入り口に立っていた。
「あ、ごめん。今何時?」
「九時過ぎですけど」
「あー、また寝過ごした……。朝ご飯くらいわたしが作ろうって思ってたんだけど」
サチは目をこすりながら言う。しかし美桜は「いいですよ、そんなこと」と笑う。
「いや、でも」
「だって先生、トーストすら焦がしそう」
むーっと美桜を睨んでみるものの、たしかにそうならないとは断言できないので言い返すこともできない。美桜は勝ち誇ったような笑みを浮かべると「ほら、顔洗ってきてください」と皿をテーブルに乗せた。
「はーい」
もぞもぞと布団から這い出しながらサチは洗面所へ向かった。
今日の朝食はトースト、そして目玉焼きとコーヒーだった。目玉焼きは黄身が半熟でとろとろだ。バターを塗ったトーストに乗せて一口食べると黄身が流れ出てきて、慌てて皿の上にトーストを置いた。フフッと美桜が笑う。
「なにやってんの、先生」
「ごめん。でもテーブルに零してないから大丈夫」
うん、と一人頷いてからサチは今度は慎重にトーストを持ち上げる。
「そういえば先生。今日、ガスの開栓の立ち会いなんですけど、十時半くらいになりそうなんですよね」
「十時半……。もうすぐだね」
「はい。で、わたしは午前中は他の部屋の掃除もしなくちゃいけなくて」
「え、他の部屋の掃除も御影さんが?」
「まあ、そのためにここに住んでるので。いつも土日のどっちかでやってるんです。だから、引っ越しの荷物を整理するの手伝えそうにないんですけど」
「ああ、大丈夫だよ。荷物少ないし」
「たしかに。でも、最初に部屋の不備がないかっていうのも見ておきたいので、お昼から作業開始ってことじゃダメですか?」
もぐもぐとトーストを食べながら美桜が首を傾げる。なるほど。たしかにそれは見てもらっておいた方が良いかもしれない。サチは頷いた。
「その立ち会いって、わたしもいた方がいいんだよね?」
「いえ、立会人はわたしになってるから別に大丈夫ですよ」
「そっか。じゃあ、布団のクリーニング行ってこようかな。あとついでに服も洗濯してこよう」
「えー、服ならうちの洗濯機使えばいいって言ったじゃないですか」
美桜がふて腐れたように言う。サチは笑って「じゃ、あとで使い方教えて?」と言うと彼女は嬉しそうに頷いた。
食事を終えて後片付けもそこそこに、サチは美桜から洗濯機の使い方を教わって洗濯物を洗う。まだ自分が使う洗濯ネットも買っていなかったので、とりあえず美桜のものを使わせてもらった。
「ホームセンターでハンガーとかも買ってこなくちゃ」
「ですね。たしかに、そういう物も必要でしたね」
「必要にならないとわからないもんだね。あと何かあるかな。あった方がいいもの……」
サチは考え込むが、よくわからない。
「ま、必要になってから買えばいいですよ」
「だね」
サチは頷いてからスマホで時刻を確認する。十時前。
「ナナキちゃんの散歩、終わったの?」
言いながらアパートの裏手に回る。そこではナナキがのんびりとした様子で眠っていた。初夏の晴れた日。爽やかなこの気候は一眠りするには気持ちいいだろう。
「とっくに終わりましたよ」
「そっかぁ。ね、散歩ってわたしにもできるかな」
「さあ、どうかな。けっこう難しいですよ? この子を立たせるのも、一緒に歩くのも」
「そっか」
「行きたいんですか? 散歩」
「うん。犬、飼ったことないから」
そう言うと美桜は黙り込んでしまった。振り向くと、彼女はどこか冷たい表情でナナキを見つめている。
「――その方が、いいですよ」
ポツリと呟くように彼女は言った。明らかに様子が変だ。サチは心配になって一歩彼女に近づき「御影さん?」と美桜の顔を覗き込む。瞬間、美桜は我に返ったようにサチへ視線を移すと驚いたように一歩後ずさった。
「え、御影さん? どうしたの。ほんとに大丈夫?」
さらに彼女の顔を覗き込むと「せ、先生。顔、近いから」と視線を背けられてしまった。気のせいか、その顔が赤くなっている。
「ふうん」
サチは思わずにやけてしまう。美桜は悔しそうに「なんですか」とサチを睨んでくる。
「照れてる御影さん、可愛いなぁと思って」
「――ポンコツ先生のくせに」
「はいはい。ポンコツ先生ですよー」
笑いながらサチは美桜の部屋へと戻った。
洗濯が終わるまでの間に、サチは私服に着替えてメイクを整える。そのサチの様子を見ながら美桜は「先生って、あんまり化粧しないよね」とテーブルに頬杖をついて言った。
「そうかな」
「そうでしょ。うちの学校の女の先生って結構気合い入ったメイクの人が多いけど」
「たしかに。でも、松池先生はそうでもないよね」
「あー、松池先生はだってほら、綺麗だもん。化粧しなくても」
「そうだよねー……」
古典の教諭である松池瑞穂はたしかに美人だ。細身で背も高く、サラサラの黒髪はショートヘア。まるでモデルのようだとサチですら思う。あまり群れることが好きではないのか、職員室でも他の教員たちから少し距離を取っている様子なので、彼女の存在は少し浮いているように見えた。
「松池先生、去年の春にうちの学校に来たんだけどさ。男子からも女子からもすごい人気で、密かにファンクラブまであるらしいですよ」
「ほんとに?」
「ほんとに。しかも、会員には先生たちも何人かいるって」
「へえ、すごい」
そんな人ならば、きっと人生充実しているのだろう。みんなから興味を持ってもらえて、好意をもってもらえる。私生活の中で自分の存在価値を見出せるのだから。
「でも、わたしは先生の方が美人だと思うよ?」
美桜は頬杖をついたまま、まっすぐサチを見つめながらそう言った。サチは驚いて動くことができず、そしてすぐに顔が熱くなるのを感じる。そんなサチを見て、美桜はにやりと笑う。
「あー、赤くなった。先生ってば可愛い」
「御影さん、そういう冗談は本当にやめて」
「冗談じゃないんだけどなぁ」
ニヤニヤしたまま美桜は言う。サチは咳払いをして気を取り直すと「御影さんも、あんまりメイクしないよね?」と聞いてみた。
「御影さんの友達って派手な子が多いから、ちょっと意外だけど」
しかし美桜は無言で立ち上がった。
「御影さん?」
「まあ、別に友達じゃないですし」
――まただ。
サチはキッチンへ向かう美桜の背中を見ながら思った。美桜は学校での話をしようとしない。サチがその話題を持ち出すと、すぐに態度が変わってしまう。学校で見るような、近寄りがたい雰囲気を身に纏うのだ。まるで何かから自分を守るように。
「御影さん、あの、もしかして学校で何か――」
「先生」
美桜がキッチンから顔だけを覗かせた。
「洗濯、終わったみたいですよ」
「え、あ、そう? じゃあ、干さなくちゃ」
「これ、干し竿代わりに使ってください。返さなくても大丈夫なんで」
言って美桜が差し出したのは、脱衣所の隅に立てかけられていた突っ張り棒だった。
「今日はとりあえず洗濯物も少ないから、ハンガーとかはわたしの使ってくださいね」
「ありがとう」
サチは渡された突っ張り棒を持って美桜の部屋を出る。
結局、聞くことができなかった。美桜は学校で何か悩みでも抱えているのだろうか。サチには、彼女はクラスの上位グループの中心にいるように見えていたのだが。あのグループの中心にいる限り、いじめなどの問題はないように思う。
――いや、そういえば。
洗濯機の中身をカゴに取り出しながらサチは思い出した。昨日、真澄がここへ来たときも、同じように態度が変わっていたのだ。そして、さっきナナキの前で見たあの様子も気になる。
また、タイミングを見て聞いてみよう。彼女に助けてもらったように、自分も彼女を助けてあげたいから。そう思いながらサチは新居に入ると、さっそくバルコニーに洗濯物を干し始めた。




