2.変化、始まる新生活(6)
買い物を済ませてアパートに戻ったのは十八時を少し過ぎた頃。すでにナナキの散歩の時間を過ぎてしまっていた。
「買った物、もう先生の部屋の玄関まで運んだ方がいいですよ。車に置きっ放しで車上荒らしとかあったら怖いでしょ?」
「え、車上荒らしとかあるの? この辺り」
「知らないけど。念には念をですよ。わたしは食料品運んでからナナキの散歩行ってきます。あ、先生、家電運び終わったら食料品を適当に冷蔵庫に入れといてください」
「うん。わかった」
サチが頷くのを確認すると、美桜は「よろしくー」と先に袋を持ってアパートに戻っていった。
サチは借りた部屋の玄関を開けてとりあえず炊飯ジャーを運び入れる。そして次にトースターを運んでから、最後に電子レンジの箱を抱えた。いくら小型とはいえ、それなりの重量がある。気合いを入れて車から運び出していると「がんばれー」と美桜の声が聞こえた。振り返ると、美桜がナナキと一緒にアパートの裏手から出てきたところだった。ナナキのふらついた足取りにつられるように美桜もまた「うわ! あっぶな……」とふらついている。
「そっちもがんばって」
笑って声をかけると美桜は嬉しそうに「行ってきます」とナナキと供に出て行った。
なんとか電子レンジを玄関まで運んだサチは、改めて室内を見渡す。まだ電気がきていないので薄暗いその部屋は、美桜の部屋とまったく同じ間取りだ。畳は変えられたばかりなのか、イグサの香りが心地よい。美桜が言った通り、掃除も行き届いているようだった。
「……明日からお世話になります」
言って室内に向かって頭を下げる。
ここで、自分は新しい自分になれるだろうか。ちゃんと自立できるだろうか。誰にも頼らず生きていけるようになれるだろうか。
「ならなくちゃ、だよね」
自分に言い聞かせるように言ってから、サチは美桜の部屋に戻った。
美桜の部屋の玄関には、買い物袋がそのまま置きっ放しになっていた。それをキッチンまで運んで中身を取り出していく。出てきたのは刺身の盛り合わせ、大葉、カイワレダイコン、ウインナー、卵、カニカマ、キュウリ、いくら、レタス、そして海苔。
「手巻き寿司……?」
おそらく間違いないだろう。となると酢飯を作らなくては。そういえばまだ炊飯ジャーのセットもしていないのでは……。そう思ったが、確認してみるとすでにタイマーが動いていた。いつの間にセットしていたのか、炊きあがりは十五分後とある。
「何か手伝えることあるといいけど」
きっと手伝おうとしても邪魔にしかならないだろうけれど。ため息を吐きながら冷蔵庫に食材を入れていく。
意外にも冷蔵庫にはほとんど食材は入っていなかった。あるのは卵とパン、水、牛乳くらいだ。代わりに冷凍庫にはみっしりと冷凍食品が入っていた。普段の食生活が見て取れる。それなのに美桜は料理ができる様子だった。真澄の教育がよかったのだろうか。
「……わたしもちゃんと料理とかやってくればよかったな」
思いながら自分の母親を思い出す。母に料理を習おうとしたときもあったのだ。しかし一緒にキッチンに立っても、違う、そうじゃないと一挙一動を怒られてきた。それで嫌になって料理をしようとは思わなくなってしまった。あれも今思えば、母はただ不器用なだけだったのかもしれない。
「先生、ご飯あと何分になってる?」
突然、玄関のドアが開いて美桜が入ってきた。サチは驚いて短く悲鳴を上げる。
「いや、先生ってばひょっとして恐がり? 昼もそうやって驚いてたけど」
昼間と同じように口元に手をあてて笑いながら美桜が言う。
「ち、違います。ただ御影さんの登場が突然すぎるからなの! もうちょっとこう、気配を大きくしてきてくれない?」
「いや、無理だし。で、あと何分? ご飯」
「え、あ、あと十分」
「じゃあ、ナナキにご飯あげたらちょうどかな」
美桜は言いながらナナキのご飯の準備をする。
「先生、わかった? 今日のメニュー」
「手巻き寿司」
「正解! あとで一緒に酢飯つくろうね」
なぜかウキウキした様子で言って美桜はドッグフードを入れた皿を持って出ていった。
戻ってきた美桜と一緒に酢飯を作り、といってもサチはただ団扇で扇いでいただけだが、買ってきた食材を皿に並べてサチと美桜はテーブルの前に座っていた。目の前で美桜は嬉しそうに「どれを巻こうかなぁ」と迷い箸をしている。
「あの、御影さん」
「んー?」
「もしかして、手巻き寿司を食べたかっただけなのでは?」
瞬間、美桜はハッと我に返ったように視線をサチに向けた。そしてイタズラがバレた子供のように「わかっちゃいました?」と笑う。
「好きなの? 手巻き寿司」
「うん。めっちゃ好き。でもここ何年も食べてなくてさぁ」
「え、一人暮らしなんだからいつでもできるじゃない。まあ、具材は少なくなりそうだけど」
しかし美桜は「できないよ」と海苔に酢飯を乗せながら言った。
「どうして?」
「えー。だって一人で手巻きとか、ちょっと寂しくない?」
「寂しい……」
「うん」
「そんなことないと思うけどなぁ」
言いながらサチも海苔に酢飯を乗せ、具材を適当に乗せて巻いていく。
「そういえばさ、先生」
もぐもぐと口を動かしながら美桜は視線を部屋の隅に向けた。つられてサチもそちらに目を向ける。そこには折りたたまれた布団。それは昨夜、酔いつぶれたサチが使ったものだ。
「あの布団、クリーニングしなくちゃだったよね」
「あ……」
そういえばビールを零したと美桜は言っていなかっただろうか。サチは箸を置き、そっと布団に近づいて掛け布団をめくってみる。ふわりと漂ってきたのはアルコールの香り。
「えっと、近くにコインランドリーは――」
「ホームセンターに併設されてるけど、もう閉まってるね」
「他のコインランドリーは――」
「街まで出ないと無理じゃないかなぁ。でも今から行くの、しんどくないですか?」
サチは腕を組んで考え込んだ。
この布団で寝られるかと言われれば、寝られないわけではないだろうが、かなり悪い眠りになる気がする。元々サチは酒にものすごく弱いのだ。アルコールの香りだけでも酔ってしまうほどだ。それなのに昨夜は酒を呑み、潰れて、布団をこんな状態にしてしまった。自業自得である。といっても、たしかに美桜の言う通り今から街まで車を走らせてコインランドリーを探すのもしんどい。
「……今日はバスタオルかけて畳で寝るね」
力なくうなだれながらサチが言うと、美桜は目を丸くして「それはダメですよ」とサチの意見を却下した。
「まだ夜ってちょっと寒かったりするし。先生が風邪ひくと大変でしょ?」
「いや、でもあの布団で寝るのはちょっと」
「じゃあ、一緒に寝ましょっか」
「え……」
サチは目を見開いて美桜を見た。しかし、美桜は平然と「少し狭いかもしれないけど、大丈夫ですよ」とベッドへ視線を向けた。
「普通のシングルよりはちょっと広いから」
「え、いや、でも」
「なに、先生。もしかして寝相悪いタイプ?」
「いや寝相は悪くないと思うけど、いやいや、そういうことではなくて」
「いいじゃん、女同士だし。まあ、先生が嫌だって言うならわたしが畳で寝ますけど」
「なんでそうなるの」
「だって生徒一人が風邪引くのと、先生が風邪引くの。学校に迷惑かかるのはどっちだと思います?」
サチはむーっと考え込む。どうやら美桜は自分の案を譲る気はないらしい。しかし、生徒と同じベッドで寝るというのはどうなのだろう。別に誰に知られるわけでもないので問題ないのかもしれないが、道徳的に考えると良くない気がする。
「そんなに嫌なんですか? わたしと一緒に寝るの」
気づくと美桜が拗ねた子供のような表情でサチのことを見ていた。サチは慌てて「そんなことないよ。そうじゃなくて、えっと、でもね……」と言葉を考え始める。しかし、サチが何か言うよりも前に美桜はニコッと笑みを浮かべて「じゃ、決まりね。今日は一緒に寝よう、先生」と嬉しそうに言った。こんな表情をされてしまってはもう断ることはできない。
サチは脱力するように息を吐いて「もう、ずるいなぁ」と言葉を零した。だが、美桜にはその言葉が聞こえなかったのか、上機嫌で新しく手巻き寿司を作り始めていた。




