銀色の縫い痕
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うう、さむさむ……今やお風呂からあがって、服を着替えるまでの間が、一日でも屈指の辛い時間になりつつあるよ。だって、部屋が猛烈に寒いんだもん。
エアコンは壊れているし、出てすぐのところの洗濯機のふたに着替えは乗せているけど、手に取って浴室に引っ込むまでの寒気も、なかなか。
ちょっと戸を開けて手を伸ばせばいいけど、そんな時に限って震えたくなる風が入ってきたりしてさあ。かといってあらかじめ浴室の中じゃ湿気で濡れて、渇き途中の肌触りが難点だ。う〜ん、湯船に浸かった感覚のまま、着替えを終わらすことができたらいいんだけどな。
昔の人も、きっと同じ悩みを抱えていたんじゃないかと思う。身体についた水は渇くと同時に熱を奪って、全身を震わせる。じっと耐えて、もたらされる現象に耐え忍んでいかねばならなかった。それが嫌だから、暖房を初めとする様々なグッズを開発するにいたったわけなんだけど。
この冷えは、おのずから汗をかいても起こる。身体が生きていくために実行していることだ。他にも、呼吸に食事に睡眠に……僕たちは必要とするものによって、生活の一部を侵されているともいえるだろう。
これらの生理現象、科学が発達する前は様々な解釈がされていたのは、君も知っての通りだろう。僕も最近、これの中でも「消化」に関する話を仕入れてね。興味があったら聞いてみないかい?
むかしむかし。とある村の男がひとり、お腹を押さえつつ森の中から戻ってきた。よく見ると、彼の押さえた服の端は、液体ににじんで黒ずんでいる。
「腹をやられた。すまないが、薬はないか?」
息を切らしながら、そう訴える彼に、すぐに村の人が駆けつけるけれど、どうもおかしい。
彼の傷と思しき場所は、きっちり口を閉じている。厳密には銀色の糸によって縫われていたのだけど、角度によって色が変わるその素材は、これまで誰も見たことがないものだった。服が濡れているのは、それ以前に汚したためと見えたんだ。
しかし彼は「その傷から水音がして止まらない」といってきかず、肩を貸してやった村人も怪訝そうな顔をする。彼の身体はつい半月ほど前にも支えたことがあったが、その時よりも明らかに軽い感触しかなかった。見た目には大きな変化がないにもかかわらずだ。
更に触診を試みたところ、傷の下、一寸程度(約3センチ)のところで、何か固いものにぶつかる。彼に痛いかどうかを確認しながら、押す指先に力を込めていくも、これ以上深く入っていく様子がない。くわえて、彼が自身で話すように、ぱんぱんに詰めた水の袋を揺らした時に聞く、水がその身をくゆらせる音が、くぐもって聞こえてきた。
彼には、この縫合をされた記憶がない。家で足りなくなった薪を取っていたところ、不意に強い便意が襲ってきたことは覚えている。そして手近な茂みの中へ腰を落ち着け、ふっと息を抜いた拍子に、意識も一緒に身体から出ていってしまったとか。
そして気がついた時には、件の腹部の内側からえぐるような痛みを感じた。当初は服が擦れるだけで、跳び上がりそうだったという。服と患部が擦れ過ぎないように押さえ、ひたすらに帰りを急いで、今に至ったとか。便意に関しては、意識を取り戻した時点ですっかり消え去っていたとのことだ。
村人たちは、縫合痕以外の不審な点を彼から見出すことができず、経過観察と相成る。やがて彼自身の感じた痛みも収まっていき、食事や運動に関しても問題はなかったらしい。
だが、帰還より五日が経ち、「結局、彼の受けたあの治療痕は何だったのだろう?」と首を傾げる者が増えてきた、晩のこと。
その日は村でも、まれに見る大猟の時だった。村の皆が、腹いっぱいに獣の肉を頬張り、炊いた米もたっぷり振る舞われたんだ。
腹の皮が突っ張ると目の皮がたるむという。その言葉の通り、家に引っ込んだ面々からは、外まで聞こえる、大きないびきが立つこともあった。
件の縫合痕を持つ彼の家も、またその一軒だったらしい。不用心極まりなく、いびきを響かせる彼だったけど、急にその声が止んだ。
そのことに真っ先に気がついたのが、隣家でうとうとしていた男。こそりとも聞こえなくなった彼の声に、そっと身を起こして、そろそろと彼の家の玄関まで近づいていく。いつも夜には締まっている引き戸が、かすかに開いていた。
そのすき間から、男は家の中をのぞいてみる。
窓から入る弱い光に照らされる彼は、こちらから見て右向きに頭を向けて横たわっていた。その彼の足元より、腹へかけて覆いかぶさる別の影が見える。
男は犬だと思ったらしい。だがその肢体は彼が知る犬よりもずっと細くて長く、その舌は犬の口と彼の身体を、実に一尺(約30センチ)あまりの長さを持って、つないでいたらしいんだ。
家の中にはかすかに血の臭いが漂っている。ひょっとすると、彼は犬に食われかけているのではなかろうか。男はこっそり家へ戻ると、今度は弓矢を手に取り、矢をつがえながら今ひとたび、戸のすき間から中を伺った。犬も彼も、先ほどの位置から動いていない様子だ。
男は目が慣れるままに、戸と壁の狭間から矢じりを中へねじ込みつつ、きりきりと引き絞って、犬を狙って放つ。真っすぐに犬の胴へ向かっていった矢だけれど、命中の瞬間に「カアン」と高い音がして、天井近くまで弾かれ飛んだ。
肉を相手にしたものではなかった。鉄の板か、それに類するものを相手取ったかのようだ。男の背筋に冷たいものが走り、犬はおもむろにこちらへ首を向けてくる。
にらまれたとたん、男を強烈な便意が襲う。胃から一気に下へ下へと押し出されていく感覚に、漏らすまいと反射的に内股の姿勢をとってしまう。
この格好では、素早く走ることができない。その虚を、犬は的確に突いてきた。またいでいた彼から離れ、完全にこちらへ身体を向けると、一気にこちらへ駆けてくる。瞬く間に戸が破られ、鼻先でどんと突き飛ばされる。両足の支えを上回り、したたかに背中を打ち付けた彼は、しびれる痛みと共に、あっという間に意識が失せてしまう。
翌日。家の中で犬に跨られていた彼の死亡が確認された。縫合していた場所が解かれ、中から腸がむき出しになっていたためだ。
しかし形状こそ同じだったが、彼の腹からのぞいていたのは、戦の時などに見かける赤い色ではなく、縫い糸と同じ銀色に染まったものだったという。機能も怪しいもので、中からは昨日食べた肉や米が中途半端に溶けた状態で出てきたらしいんだ。
そして倒された男。その腹には、彼と同じ銀色の縫い痕が刻まれていた。服に触れるたび、暴れ出しかねない痛み。歩くたびに鳴る水音。いずれも件の彼が話していた通りだったとか。そうなれば、夜の時間もまた予想がつく。
「皆、わしの家が急に静かになっても、様子を見に来てくれるなよ。わしのようになりたくないならな」
ことあるごとにそう注意を喚起した彼だけど、若気の至りを押さえるには至らず。結局、村の若者の二割ほどは、同じ縫い痕をこさえることになってしまった。そして年に二十度を数えるくらい、その村ではあの奇妙な犬の姿を見かけることになった。
やがて彼らが息を引き取った時、そのいずれからも生来の腸ではなく、銀色の管が腹から姿を覗かせたのだそうだ。
犬たちはその縫い込まれた銀色の腸と、中に詰まった半端な食物の取り合わせを、長く味わい続けていたのだろうと、人々は噂したのだとか。