8
翌日から、ミリオーネは以前のように部屋の外へ出るようになった。そして、右手首の傷をいじることもなくなっていた。
「ミリオーネさま、昼食です」
熱が下がったエラは、ミリオーネを食堂へ連れ出した。相変わらずミリオーネは何度も床に座りこんだが、エラは無理に立たせようとしたり、引っ張ったりせず、ただ彼女の側にいた。
(あんたの好きにして。嫌なら食べなきゃいい。一食ぐらい抜いたって、どうってことないわよ)
野原で雨に濡れたにも関わらず、ミリオーネは風邪もひかず、ぴんぴんしている。むしろエラの方が熱を出して寝込んだのだ。まだ本調子とはいえず、だるさの残るエラには、ミリオーネのために貴重な体力を使う気にはなれなかった。
今日の献立はシチューらしい。甘い匂いが二階にまで漂ってくる。エラが体を壁に預けていると、うずくまっていたミリオーネが急に立ち上がった。
「?」
怪訝な顔をするエラを尻目に、ミリオーネは突然歩き出した。変形した右足のせいで、一歩踏み出すたびに体が大きく傾いだが、階段へずんずん進んでいく。
「ミリオーネさま!」
エラは慌てて後を追った。
食堂に着くと、食卓には予想どおりシチューがあった。その周りに、サラダやパンなどの乗った皿が並べられている。
ミリオーネは自ら椅子に座ったが、それきりまったく動かなくなった。エラはその隣に腰を下ろしてスプーンを手に取ったが、すぐに食べさせることはせず、慎重にミリオーネの様子をうかがっていた。
(自分から、ここまで来るなんて……)
エラがミリオーネの世話をするようになって、初めてのことであった。
すると、やにわにミリオーネが頭を前後に激しく振りながら、右手で食卓をばんばん叩き出した。両足も落ち着きなく震わせている。頭を揺らすのはいつものことだが、食卓を叩くのはこれまでにない動きだ。
「……」
やはり、エラには理解できない行動である。しかし、今はそれで済ませることができなかった。ミリオーネは何かを訴えているのではないか。ふとそんな気がした。
ミリオーネは食卓を叩くのをやめると、ぽかんとするエラの手からスプーンを奪いとった。そして、鷲掴んだスプーンでシチューの汁をすくい上げると、それを自分の口へ放りこんだ。その後も、ミリオーネは牛肉やにんじんなどを手当たり次第に口に入れ、がつがつと食べた。
「――!」
エラは絶句した。
ミリオーネの食べ方は決してきれいとは言えなかった。スプーンを指では持てず、手全体で握りしめていた。シチューをすくう動作もたどたどしく、口に入れるまでに汁や具がぼとぼとと落ち、食卓や彼女の服を汚していった。
しかし、エラはそれを咎めることも止めることもせず、ただミリオーネを凝視していた。
ミリオーネが自力でスプーンを使い、食べている。これまでずっと人に食べさせてもらうところしか見たことがなかったのに。エラの胸は驚きではちきれんばかりだった。
(こいつ、自分で食べられるの? じゃあ、今までのあたしの苦労は何だったわけ?)
「ミリオーネさまはシチューが大好物だが、そればかり食べてしまう。他の物も食べていただけるよう、注意しなさい」
エラの仰天を見透かしたように、リンドが厨房から出てきて言った。
「好物ですって……?」
瞬きしながら、リンドの言葉を唱えるエラ。世の中にそんな単語があったことさえ忘れていた。そもそも、ミリオーネに食べ物の好き嫌いがあるなどと、考えたこともなかったのだ。
木と木の間に渡された長い縄に、大判の白布が干されている。布は柔らかい日差しを浴びて、時おり吹く風にはためいていた。
昼食後、エラは布を取り込むため、庭にいた。近くの木の下では、ミリオーネが膝を抱えて座っている。その周りを、一匹の蜂がジガジガと小さな羽音をたてて飛んでいた。
エラが布に手をかけた時、
「ああ、あんた。この前は大丈夫だったかね」
布の向こうから、聞き覚えのない男の声がした。
「……はい?」
一体、誰だろう。エラはひそかに警戒しつつ、ゆっくりと布をどけた。すると、少し離れたアーチの奥に一人の男が立っている。男はリンドより若干年上に見えたが、その肌の色にエラは目を奪われた。
男の肌は、堀りたての若い土のような色だった。恰幅がよく、頭と口の周りにうっすらと白い毛が生えている。そして大きな鼻と唇。瞳は茶色く澄みきっていた。今まで、こんなに黒い肌を持つ者に会ったことがないエラは、思わず男をまじまじと見つめた。
だが、男はエラの態度を気にするそぶりもなく、堂々と話を続けた。
「あんたに会うのは初めてだな。おれはナイロ。あんた、あの雨の日に原っぱで倒れてただろう? リンドさんと一緒に連れ帰ったけど、どうなったか心配してたんだ」
その内容に、エラはさらに驚いた。ミリオーネを探すために、リンドが応援を頼んだ知人とは、このナイロのことだったらしい。
「そ、その節は、ありがとうございました」
戸惑いと緊張の混じった表情で、エラは頭を下げる。
「いいってことよ」
ナイロは気さくに答えながら、慣れた様子で敷地に入ってきた。エラのそばまで来ると、今度はミリオーネに手を振って、親しげに声をかけた。
「おうい。嬢ちゃんも元気か?」
ミリオーネの目は宙をさ迷い、ナイロなど見ていないかに思われた。だが、彼女は不意に右手を上げると、次の瞬間、手首を一度だけ振ってみせた。
「そうか、元気か。良かったな」
朗らかに笑い返すナイロ。そのやりとりに、エラは三度目の驚きに見舞われた。
(まさか、人の呼びかけに答えたの?)
今の動きはあくまで偶然で、単なる意味不明な仕草の一つに過ぎないのかも知れない。けれどエラには、ミリオーネが相手の言葉に反応したように思えてならなかった。
「ナイロさん、先日はお世話になりました」
ナイロの訪問に気づいたリンドも、庭へ来て礼を述べた。
リンドによると、ナイロは以前からこの近くで靴を作っており、ミリオーネが散歩で履く靴も、彼に作ってもらったという。
「嬢ちゃんがここに来たばかりの頃は足がちっこかったけど、今じゃ大きくなった。あんた、知ってるかい? 嬢ちゃんは最初歩けなくて、籠に乗せられてかつがれたりしてたんだ」
木にもたれるミリオーネを見つめて、ナイロが懐かしむように言った。それは、エラが初めて知る話だった。
「だけど、嬢ちゃんはがんばった。リンドさんに手伝ってもらいながら、地面を這って、そのうちつたい歩きになって、何年もかかって歩けるようになった。おれが作った靴も履いてくれてな。今は階段も昇り降りできるだろう? おれたちには簡単でちっぽけなことに見えるかも知れないけど、本当はそうじゃない。その人ができるたった一つのことが、実はとても貴重で、大切なことなんだ」
それを聞いたリンドの表情が、ほんのわずかに泣き笑いのように歪んだ。
しかし、リンドはやがて首をゆっくり横に振って言った。
「私は確かにミリオーネさまを手助けしました。ですが、決して私の力であの方が今のようになったわけではありません。ミリオーネさまは元々、歩くことも食べることもできる力があった。私たちの方が、それに気づいていなかっただけなのです」