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金色のミリオーネ  作者: 林 泉
8/10

 エラは黒い影に取り囲まれ、うずくまっていた。それは小川で見た己の影だった。手も足もない、のっぺりとした影が、エラの周りをぐるぐる回っている。その様子は一体の影が絶え間なく動いているようでもあり、あるいは何体もの影がエラを取り巻いているようでもあった。怯えてうずくまるエラに、影は次々と言葉を投げつけた。

「何て不細工な顔だ。鏡で見てみろ、そのひしゃげた鼻を。まったく、酒が不味くなる」

 それは、呂律の回らない男の罵声だった。

「器量も気立ても、才覚もない。本当に取り柄のない娘だよ」

 喉の奥に痰が絡んだような女の声も加わる。

「だから、お前なんか誰からも選んでもらえないんだ」

 先の二つよりは若い男の声が、侮蔑をこめて言った。

 忌まわしい影の声に、エラは耳を塞ぎ、ひたすら頭を振った。

「やめて、やめてったら!」

 しかし、いくら耳を塞いでも、影の声は全てエラの耳に入ってくる。

「お前はいつも心の中で他者を見下している。だが、本当に見下されるべき無価値な存在は、お前自身だ」

 その声は、エラのものだった。

「もう聞きたくない! 消えて! どっか行ってよ!」

 耐えきれなくなったエラが、影を追い払おうと両手をめちゃくちゃに振り回す。だが、その手は空を切るばかりだった。



「……エラ、エラ」

 呼びかけと同時に肩を揺さぶられ、エラは水底から浮上するように覚醒した。少しずつ目を開けると、リンドが上からこちらを覗きこんでいる。

「リンドさん……」

 か細い声で呟くエラ。口の中がからからに渇いていた。

「気がついてよかった。ひどくうなされていた」

 リンドの言葉を聞きながら、エラは顔をしかめて体を起こした。ひどくだるいうえに、節々も痛む。

 どうやら、屋敷内の自分の部屋に寝かされていたようだ。あれからどのくらい時間が経ったのだろう。窓の向こうには橙色の空が広がって、室内は薄暗くなり始めていた。

「まだ安静にしていなさい。熱が――」

「ミリオーネさまは!?」

 リンドの話を遮って、エラは突然、悲壮な声を上げた。野原でミリオーネを見つけたが、その後の記憶が途切れていた。

「あの方もお部屋でお休みだ。安心なさい」

 そう言うと、リンドは温かい飲み物をエラに差し出した。

 熱い器を持つだけで、エラのこわばった指先がほぐれていく。それは、庭で摘んだ葉を乾燥させて作ったお茶だった。口に含むとほのかな甘みが広がり、体の内側からぬくもるのを感じた。

 エラが落ち着いたのを見てとったリンドが、事の経緯を話した。リンドはエラの書き置きを見て、ミリオーネを探しに出た。その際、近くに住む知人(そんな者がいたとは、エラには初耳だったが)にも協力を頼んだという。あの野原は以前からミリオーネがよく行く場所で、草むらに倒れたエラと、その近くにいたミリオーネを発見し、屋敷へ連れ帰ったということだった。

 一部始終を聞き、エラはひとまず安堵した。が、やがて大きなため息をつくと、

「……リンドさんは、どんな時もミリオーネさまに忠実で、迷いがないですよね。どうしてそんなふうにいられるんですか?」

 生気のない、落ち込んだ口調で訊ねた。しかし、リンドは何も答えず、逆に問いかける視線でエラを見つめ返した。

「あたしはそんなふうになれません。だって、あたしがここへ来たのは、自分で望んだり納得したりしたわけじゃなくて、他に行く所がなかったからです……」

 エラは器を胸に抱え、疲れきった表情で話し始めた。

「あたしの家は昔から貧乏なうえに、村の鼻つまみものでした。父はろくに働かず、お酒を飲んでばかり。母はそんな境遇を恨んで、毎日、礼拝堂に行っては神さまに嘆いていました。父も母もあたしをいつもなじって、認めてくれたことや褒めてくれたことなんか、一度もありません。そんな親ですから、あたしも二人が大嫌いで軽蔑していました。だって、お酒や神にすがっても、それがあたしたちにお金や良い生活を与えてくれやしませんよね? だから、あたしは早く家を出たかった。だけど、あたしの顔はこのとおり不細工で、気立てもよくない。それでも、いつか誰かがあたしを迎えに来てくれるんじゃないかって夢を持った時期もありました。でも、夢は夢のままでした」

 エラは打ち明けながら、いつの間にか片手で鼻をつまんでいた。平べったく、上から潰したような形をした、自分の鼻が嫌だった。幼い頃に、指で鼻をつまめばほっそりした形になると聞いて以来、エラは鼻をつまむのが癖になった。

「結局、あたしは口減らしとして、ここに雇われました。特別な技術や才があるわけでもないあたしには、他に生きる術がなかったんです」

 ――自分が無力だと、わかっていればいい。

 あの日、聞いてしまったマーティーヌの言葉は、エラの心をかき乱した。それはミリオーネに向けられたものだったが、エラの内で膿んでいた見えない傷をも刺激したのだ。

 リンドはエラの話を聞いても、しばらく黙っていたが、やがて、

「私は、自分がすばらしいと信じるもののために、ここにいる」

 静かに、だがはっきりとした声でそう言った。

「この屋敷に来た使用人は数多いが、誰も長続きしなかった。ミリオーネさまを見たとたん、怯えて動けなくなる者、嫌々接する者。気持ちが悪いと言って食事がとれなくなる者さえいた」

 闇が濃くなってきた室内で、リンドは壁際の燭台に火をつけた。小さなともしびが一つ、また一つと灯り、リンドの白い横顔をほのかに照らし出す。

「ミリオーネさまが、それをどのように感じておられるかはわからない。だが一つ言えるのは、ミリオーネさまは、私たちが考える以上に私たちを見ておられるということだ。私たちがミリオーネさまを見ていない時こそ、あの方は私たちを見つめている。そして、私たちを受け入れておられるのだ」



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