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まばゆく輝く一面の海。それを背に、白い衣を着た女が、書物とパンを左右の手に持ち、穏やかな表情で立っていた。その横には、幼子が小さな水瓶を胸に抱えて笑っている。そして、彼らの前には数人の老若男女が集い、楽しげに語り合っていた。
それは、礼拝堂にある大きな壁画だった。祭壇の奥の壁に、訪れる者を見守るように描かれている。西の窓から射し込む陽を受け、絵の中の海はいっそう眩しく映った。
無人の祭壇の前で、膝をついて背中を曲げ、祈りを捧げる女の姿があった。白いものの混じる毛を後ろでまとめ、ごほごほと咳をしている。
――お母さん、もう、帰らないと……。
ひざまづいた背中に、ためらいながら声をかけた。それでも反応がなく、今度は思いきってその腕に手を伸ばしたが、きつく振り払われてしまう。
困りはてて立ち尽くしていると、
――お前は、本当にだめな子だよ。そんなだから、あん人にも選んでもらえなかったんだね。
背を向けたままの女が、干からびた声で言った。同時に、目の前の背中が、少しずつ霧に覆われ、見えなくなっていく。
エラはゆっくりと目を開けた。
椅子に座っていたはずなのに、気がつくと寝台の隅で突っ伏していた。いつの間にか居眠りをしてしまったらしい。
エラは身じろぎしたが、手足が煉瓦のように重く感じられた。寝不足のうえ、肩や腰がひどく凝っている。姿勢を戻すだけでも、泥の中から這い上がるほどの力を要した。
しかし、かろうじて身を起こしたエラは、信じがたい光景を目にした。寝台で眠っていたミリオーネの姿がなくなっていた。
「!」
エラは頭の中が真っ白になった。全身の疲労感も忘れて立ち上がると、部屋を飛び出し、屋敷内を駆け回ってミリオーネを探した。
「ミリオーネさま、どこです!?」
一階も二階も、鍵のかかっていない部屋は全て開け、机の下や物陰など、探せる場所は徹底的に探した。それでもミリオーネは見つからなかった。
(どうしよう……)
エラは廊下をさ迷った末、途方に暮れた。リンドは村へ買い出しに行っており、不在だ。だからこそ、ミリオーネから目を離すなと念を押されていたのに。
その時、ふと玄関先の異変が目についた。
(……?)
エラが訝しげに玄関へ近づくと、並べておいたミリオーネの革靴が無造作に散らばっていた。片方は扉の手前まで飛ばされ、もう一方は踏みつけられたように形がへこんでいる。さらに決定的だったのは、扉が少し開いていたことであった。
「え……?」
その状況を前に、エラは自分でも聞き取れないほど、か細い声を発していた。帰ってくるリンドのために、扉は施錠していなかったのだ。
(あの子、まさか――外へ?)
エラは庭に出てミリオーネを探したが、その姿はなかった。リンドの帰りを待つべきか悩んだが、空には鉛色の雲が広がり、湿気を帯びた風が吹き始めていた。
(おそらく、じきに雨が降ってくる)
ミリオーネが雨具を持っているとはとても思えなかった。冬の初めとはいえ、雨に打たれれば体は冷えるし、道も滑りやすくなる。結局、エラはリンドに書き置きを残し、屋敷の外へミリオーネを探しに行くことにした。
しかし、アーチをくぐり抜けた直後、エラは自分がどこへ向かえばよいかわからないことに気づいた。足を止めかけたものの、思い直したように走り出す。すると、まもなく小川の流れる雑木林へたどり着いた。そこはミリオーネの散歩に付き添って出かけた、唯一の場所だった。
林の中は木々に覆われて一段と薄暗く、動くものの姿や気配さえない。エラはため息をついて膝をつくと、ミリオーネを探すように小川を覗きこんだ。
(……このまま進んでいいの? それとも、引き返した方がいいの?)
エラは胸の内でそう問うた。この先にミリオーネがいる確証はない。一旦戻って、リンドの指示を仰ぐべきではないかと迷い始めていた。
小川の底は浅く、白く細かい砂粒が堆積していた。そして、水面にはエラ自身の影が映っている。絶え間ない流れの中で、黒い影の輪郭はいびつに揺れていた。
(一体、どうすれば――)
その時、上流から一枚の落ち葉が流れてきた。丸い形の葉は、その先にわずかな緑を残すだけで、残りはほぼ黄色く染まっている。葉は小舟のごとく両側を上向きに反らせて、エラの前を静かに通り過ぎていく。
エラはゆっくりと顔を上げ、葉が流れてきた方を見た。上流から、ひとすじの風が吹いてくるのを感じた。
エラは立ち上がると、小川に沿って奥へ歩き始めた。木の葉の多くは川の水面や地面に落ちており、はだかになった木には、さまざまな太さや長さの枝があらわになっていた。ある枝はまっすぐ上に伸び、またある枝は螺旋を描くように曲がっている。真横に伸びた枝のそばを抜け、しばらく歩くと、エラの視界が突然開けた。木立が途切れた先は、一面の野原だった。
(こんな場所があったなんて……)
エラは驚きを胸に、目の前に広がる景色を一望した。
野原は誰も手入れする者がないのか、枯れ草が伸び放題であった。その果てに、霞みがかった山の稜線が見える。時折、風がひゅおっという音を立てて草の上を駆けていく。空には灰色の雲が、大河のように奥から手前へと流れていた。
(いけない、天気が――)
焦るエラ。と、その瞳が、数十歩先にミリオーネを捉えた。彼女は草の海に腰まで埋もれ、泳ぐようにさ迷っている。
「ミリオーネさま!」
エラは大声で呼びかけながら、ミリオーネのもとへ走り寄ろうとした。だが、伸びきった草に足をとられ、先へ進むのは予想以上に困難だった。
しかも、追い打ちをかけるように、ぽつぽつと雨が降りだした。最初は頬や肩に落ちる程度だったが、瞬く間に激しい降りになった。
「お願いですから、帰りましょう、ミリオーネさま!」
こうしている間にも、エラの服や髪が水を含んで重くなる。そこへ強い風が吹きつけ、体がじわじわと冷える。それでもエラはしゃにむに草をかき分け、ミリオーネの名を呼び続けた。
しかし、ミリオーネは空を見上げたきり、エラの方を振り向きもしない。やがて、ミリオーネは口をぱくぱくと開けながら両腕を上へ伸ばし、よろよろと進んだり下がったりし始める。それを見た瞬間、エラはついに堪忍袋の緒が切れるのを感じた。
「あんた、いい加減にしなさいよ!」
思わず、金切り声で怒鳴っていた。
「こっち向きなさいよ! あたしの苦労を何だと思ってるの!?」
相手に掴みかからんばかりの勢いで一歩踏み出したエラだが、次の瞬間、ぶざまに転倒していた。雑草にまぎれた石に蹴つまづいたらしい。正面から草の中へ沈み、ぬかるんだ土に顔面をぶつけた。
「ああ、もう!」
この邪魔な草。エラは大声でわめきながら、うつ伏せのまま、手足を力いっぱい地面に叩きつけた。雨は容赦なく落ちてくる。エラは腹立ちまぎれに、目前の草を手当たり次第に引き抜こうとしたが、草はがっちり根付いていて、ちぎることもできなかった。
「どうして――どうして、あんなこと言われて黙ってるのよ!」
エラの口から、ひとりでにそんな言葉がこぼれ出ていた。
――自分が無力だと、わかっていればいい。
「あんな、バカ女!」
エラがこぶしで大地を打つたび、泥や水が飛び散り、自分の顔に跳ね返った。さらにそれらは口の中へも入って、エラが奥歯を噛みしめると、じゃりじゃりと不快な固さを感じた。
エラの声が届いているのかいないのか、草の隙間から見えるミリオーネは、雨を全身に浴びながら、奇妙に舞い踊っているようだった。身につけた白い絹の服は濡れそぼり、右手首の包帯は外れかけている。そして、また傷口をいじったのか、血で赤黒く染まった包帯の端が、ひらひらと風にはためいていた。
「わあああーっ!」
エラの絶叫が、降りしきる雨の音に混じって、野原に響き渡った。




