5
リンドがミリオーネを廊下へ連れ出し、室内にはエラとマーティーヌが残された。マーティーヌは食卓につくと、エラが淹れた紅茶を口にしながら訊ねた。
「あなた、新しい人ね。名前は?」
「エラと申します、奥さま」
エラは壁際に控えるように立ち、神妙に頭を下げた。
「そう……。ねえ、エラ、ここは寂しいでしょう?」
優しく語りかけてきたマーティーヌに、エラは思わず顔を上げた。すると、その先には気遣わしげなマーティーヌの表情があった。
「あなたはまだ若いわ。でもミリオーネはあんなふうだし、リンドは厳しいでしょう? もし辛いことがあっても、相談できる相手がいないと思うの」
マーティーヌは、エラの現状を正確に言い当てていた。
「だから、わたしで良ければ、どんなことでも言ってね」
相手を包みこむようなマーティーヌの雰囲気に、エラは一瞬、胸を詰まらせた。同時に、人の笑顔や心の通った交流というものから、いかに自分が遠く離れた暮らしをしていたか思い知らされる。
この屋敷に来てからの出来事や思いが、早瀬のごとくエラの脳裏を流れていく。しかし、それらが口をついて出ようとした時、エラの耳の奥で、リンドの一言が甦った。
――マーティーヌさまには、気をつけなさい。
リンドの真意は不明だった。エラに悪口を言われると考え、釘を刺しただけかもしれない。だが、その他にも、エラには引っかかることがあった。先ほどのミリオーネの行動である。
(あんな、人とは思えない声を……)
あの時の彼女は、全身で何かを訴えていたのではないか。食事の際とは比べものにならない、強い拒絶のように見えた。
(それは一体、何に対して?)
と考えた矢先、エラの目に映ったのは、マーティーヌだった。
まさか、こんな優しそうな人が。
エラは疑念を打ち消し、マーティーヌに何か答えねばと焦った。けれどエラの口は、凍りついたように動かない。
視線を伏せたままのエラに、マーティーヌが再び言葉を投げた。
「わたし、ミリオーネを見ていると、哀れでならないの。話すことも歩くことも、何を生み出すこともできない。神さまは、どうしてあのような存在をお造りになったのだろうって」
エラを見つめるマーティーヌの瞳は、月も星明かりもない夜に似た色をしていた。
「エラ、あなたもそう思わない?」
マーティーヌが問いかけた時、廊下から、またミリオーネの叫び声がした。
「本当に……仕方のない子ね」
マーティーヌは悩ましい声で呟くと、優雅な仕草で席を立った。そして、もはやエラの存在など忘れたように、一瞥もくれることなく廊下に向かっていった。
「奥さま……!」
エラがあたふたとマーティーヌに付き従って廊下へ出る。すると、階段の手前で膝を抱え、しゃがみこむミリオーネの姿があった。
「ミリオーネさま」
傍らのリンドも片膝をついて声をかけたが、ミリオーネは立ち上がろうとしない。
そこへ、マーティーヌが絨毯を悠然と踏みしめながら、ミリオーネの側へ行き言葉をかけた。
「ミリオーネ、また止まっているの?」
エラの位置からでは、マーティーヌの後ろ姿しか見えず、彼女がどんな表情をしているかはわからない。だが、その声を聞いた途端、ミリオーネは体をわななかせた。
(やっぱり、いくらなんでも様子がおかしすぎる……)
エラは眉をひそめて、背後からそっとマーティーヌに近寄った。
一方、マーティーヌは身を屈めて、
「かわいそうなミリオーネ。苦しいのね。もう、何もしなくていいのよ」
そう言ったあと、ミリオーネの耳元へ口を寄せ、低く囁いた。
「あなたは、ただ……自分が無力だと、わかっていればいい」
ミリオーネは両膝の間に顔を埋め、一切の反応を示さなかった。
「マーティーヌさま」
その時、ミリオーネに寄り添っていたリンドが、毅然とした口調で呼びかけた。
「なあに?」
マーティーヌは姿勢を起こし、リンドを見下げる格好で応じた。
「おそれながら、申し上げます。ミリオーネさまは無力ではありません。ミリオーネさまが、私たちを育てるのです」
廊下がしんと静まりかえった。しばらく、誰も声を発しなかったが、
「――ふふっ」
やがて、マーティーヌの鈴を転がしたような笑い声が響いた。
「この子が、わたしたちを育てる? 面白いことを言うのね、リンド。やっぱりあなたには、この場所がぴったりよ」
マーティーヌは左右の口角をつり上げ、そう言った。
マーティーヌが屋敷を去ったのち、ミリオーネは自室にこもり、外に出なくなった。壁際の椅子にうずくまって、自分の右手首を噛んだり、その傷を指でいじったりした。目を離すとそれを繰り返すため、ミリオーネが起きている間は、リンドとエラが交代で付き添わねばならなかった。
リンドは本邸に人手を求めたが、追加の使用人が来ることはなかった。