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夜になると、居間の暖炉に薪がくべられ、橙の炎がぱちぱちと音をたてて揺れていた。暖炉の上には、金属を何度も叩いて作られた烏の像が飾られていた。烏の頭頂部には、小さな王冠が載せられている。その体は赤い光沢を帯びた銅から、そして長いくちばしと王冠は真鍮から生まれていた。
烏は台座の上から、室内を見渡すように佇んでいた。その眼には黒曜石が嵌めこまれており、そこにエラの姿が映っていた。
「ミリオーネさまの散歩は、必要なんですか?」
エラは固くしぼった布で食卓を拭きながら、思いきって、厨房のリンドにそう問いかけた。
流し場で皿を片づけていたリンドが、エラの方を振り返る。その視線は鷹のように鋭く、エラは身をすくめながら慌てて言葉をつけ足した。
「いえ、あの……もし人に会った時、ひどいことを言われたら、ミリオーネさまがお辛いんじゃないかと――」
エラはリンドに昼間の出来事を話した。だが、本心ではそれを辛く感じているのはエラ自身であった。ミリオーネがあの子どもたちの態度をどう受けとめたかは知りようもない。正直なところ、彼女は何もわかっていないのではないかと、エラは考えていた。
しかし、ミリオーネの気持ちがどうであれ、自分があんな者と一緒にいなければならず、まして人にそれを知られるのはたまったものではない。リンドには反対されるかもしれないが、散歩はせめて明け方や夜、人の行かない場所に変えてはどうかと提案するつもりだった。
ところが、
「ミリオーネさまは、一番上の姉君として生まれた」
リンドは凛とした声で話を切り出した。
「本邸におられた頃、ミリオーネさまはご自分で歩けず、いつも自室の寝台で過ごされていた。だが弟君や妹君が庭でお遊びになる時は、必ず窓からその様子を眺めておられた」
「はあ……」
なぜリンドがそんな話をするのかわからず、エラは曖昧な返事をした。
「きょうだいを見守るのが姉のつとめだと、旦那さまはよくミリオーネさまに仰っていた。ミリオーネさまは、もしかすると今でもそうなさっているのかもしれない」
エラは火をともした燭台を手に、憮然とした表情で、二階への回り階段を登っていた。
長い一日を終え、ようやく就寝のときを迎えた。エラはミリオーネと同じ二階の部屋をあてがわれており、ミリオーネが眠ったのを確認することが、一日の最後の仕事であった。
ミリオーネの部屋の前まで来ると、エラは蝋燭の火を吹き消した。それから、音を立てないよう、そっと扉を押し開けた。
室内は静かであった。窓の両側についたカーテンは開けっ放しで、真昼のように満月の光が射しこんでいる。足元が闇に沈む中、ミリオーネの眠る寝台が、白く浮かび上がって見えた。
エラは小さく嘆息しながら、抜き足で窓辺に近づいた。そのままカーテンに腕を伸ばしかけたが、ふと、月光に照らされたミリオーネの寝顔が目に入り、手を止める。
ミリオーネは眠っていた。その寝顔は、起きている間の行動からは想像もつかない、穏やかな表情だった。
(こうしていると、普通に見えるけど)
よく観察すると、ミリオーネは端正な顔立ちをしていた。大きな瞳を覆った白い瞼からは、長く濃いまつ毛が伸びている。さらに鼻はほっそりと高く、血色のよい唇は上品に閉じられていた。
もしミリオーネがまともだったら、どれほど華やかな人生を送れただろうか。エラはそう考えずにいられなかった。
ミリオーネの暮らしを見る限り、彼女の生家はかなり裕福だと推察できた。ミリオーネ一人のために、広い土地と屋敷、召使いまで与えられ、容姿にも恵まれている。それらのいずれも、エラにはないものだった。
(まるで、宝の持ち腐れだわ。この子が持ってても、しょうがないものばかり。あたしには、何も与えられなかったのに……)
――ミリオーネさまは、もしかすると今でもそうなさっているのかもしれない。
先ほどのリンドの言葉が、エラの心にずっと引っかかっていた。
きょうだいを見守る。ミリオーネがそれを行っているという話は、エラに衝撃に近い驚きをもたらしていた。
(人を見守る? この子が?)
当のミリオーネが見守られる側ではないのか。エラは、リンドの意見を認める気になれなかった。ミリオーネの能力を過大評価しすぎた、都合のよい解釈に思えた。
(仮に、百歩譲ってそうだとしても、今日会ったのは何の関係もない子たちよ。ミリオーネは、自分の家族と他人の区別もついてないんじゃないの?)
その考えの方が、エラには腑に落ちた。
(……そうよ。こいつにわかるはずない、何ひとつ)
エラは寝台から視線を外すと、やや乱暴な手つきでカーテンを閉じ、部屋をあとにした。