第二話 待ちに待って、一七年
薄暗い雲空。その合間から差し込むわずかな太陽光に照らされてきらめく大きな湖の上を、一人のグリーンスライムが軽やかに飛行していた。
身長三〇センチ、幅が四〇センチ程度のまんじゅう型のボディ。
くりりとしたつぶらで愛らしい瞳。
魔法生物界のアイドルにして、人類最良にして最高のパートナーとして名高いスライム族の一人。
そのスライムの名は――スラミンといった。
この湖を領土に含む、人と魔物が共存共栄する国――<アクエリアス王国>の住人である。
スラミンは体の正面左右から生えた、短くまんまるな両手と体の正面を使って、緑金色の美しい装飾が施された<マジカルブーメラン>を保持し、それを翼として空を飛んでいた。
スラミンは適度に速度を抑えつつ湖の上空を飛行、兜に付いたゴーグル越しに湖面や湖畔を見渡し、人が流れ着いていないかを確かめ続ける。
ここは<出会いの湖>。『転移者』と呼ばれる異世界からの来訪者――特に日本と呼ばれる国の人々が多く出現した場所にして、この国の始まりの場所とも言えなくもない記念の場。
同時に国家が定めた魔物のために開放された自然保護区域であるためか人気は乏しく、魔物たちにしても水飲み場として活用することはあれど、転移者が多く現れる場所であると遠慮し、定住している者はいない。
実に静かで美しい湖であった。
スラミンはここで長らくある人物が転移してくるのを待ち構えていたのだが、今回の捜索活動でもそれらしい人影は見つからなかった。
落胆のため息を吐きながら進路を変更、拠点に引き返すことにした。
<マジカルブーメラン>から発せられる『旋律』が力を増し、増速したスラミンはまっすぐに拠点へと飛翔した。
数分も飛ぶ頃には拠点近くの湖畔に近づく。
徐々に速度を落とし、水面を滑るように着水。小さな航跡を残しながら岸に乗り上げた。
そのままトボトボと水に濡れた靴で岸を踏みしめつつ、右手で掴んでいたブーメランを、魔力的につながりを持つ遠隔制御装置を内蔵した和風テイストの強い、えんじ色の兜の額に角飾りよろしくカチャリと固定、目を保護していた緑色のゴーグルを上げて額当てにしまった。
「午前の見回りは終了~。はあ……」
何度もため息が出てくる。気分はお空と同じどんより模様。
……いい加減成果が欲しいところだ。
スラミンは同じようなことを毎日のように繰り返し、かれこれ一七年もの歳月を費やしている。
スラミンは熟練<冒険者>としてアクエリアス王国の建国した重鎮にして女王、そしてなによりも初代魔物使いであるユキエという人物から、直々に依頼を受けていた。
――彼女は晩年、自分の甥が自分と同じ能力をもって、姉夫婦と共にこの世界に転移してくる、そういう夢を見たのだと語っていた。
ユキエは最初、絶対の信頼を置く家族にして最大のパートナー、ラージゴージャススライムのラジリンに依頼するつもりであったようだが、建国に携わった重要人物でありゆるがぬ『最強』の称号を有する戦士という立場上、あまり自由が利かない彼よりも融通が利くとして、その場に偶然同席していた彼の愛弟子であるスラミンが、依頼という形で出迎えることになったのだ。
それでも八〇年にも及ぶ仕事になるとは想定外だった。
彼女は「六三年あとの春、<出会いの湖>に」と詳細な日時と時間を告げていたのでそれに合わせて備え、予言どおり転移した直後の人を保護することに成功したまでは想定どおりだった。
が……転移してきたのは彼女の姉夫婦のみ。肝心の息子はいなかったのである。
それ以来、スラミンはずっとこの湖で生活し、彼の到来を待ち続けている。
『転移現象』に巻き込まれた人の出現時間に決して小さいとは言えない誤差が生じていることが夫婦の証言からわかったので、もしかしたら彼も転移にも誤差が生じているのではないかと考えたからだ。
となれば『春』とされていた時期も逸脱しているかもしれない。つまり、ここに住んで待ち構えるという選択肢しか選べなかった。
諦めるという選択肢はない。本当に彼が来るというのなら、それは望まぬ転移をしてしまった被害者であろうし、ユキエの甥であることを差し引いても放置できる問題ではない。
――魔物使いとしての才も欲しいと言えば欲しいが、それは二の次だ。命に代えられるものではない。
昔を思い出しながら歩いていたスラミンは、着水地点からそう離れていない岸辺に接舷したヨット――<お迎えスライム号>に近づいた。
この船が、スラミンたちの活動拠点である。
<お迎えスライム号>は、全長が一〇メートルほどのキャビンを有するヨットだ。
内部にはスライムが四人、人間が一人、余裕を持って生活できる空間が確保されている。
キャビンの外見や安全祈願で船首に設けられた像がスライムを象っているのが名前の由来の一つでもあった(と言ってもアクエリアスの場合、船舶に限らずあちこちにスライムを模した装飾があるので、さほど珍しいものではない)。
この一七年、ここで暮らすのに使っている拠点であり、彼を迎えたあと少しでも安全に王都まで連れていくための移動手段として国が気前よく用意してくれた、当時最新鋭の<マジカルヨット>である。
「お帰りー」
と、<お迎えスライム号>の甲板の上でなかよく並んだスライムが二人、口々に迎えてくれた。
スラミンの親友、ブルースライムのブルームとイエロースライムのイエロンである。
ブルームは白基調のアロハシャツ、イエロンは染みついた汚れの目立つ薄青いツナギ姿でのお出迎え。まったく変わり映えしない、普段どおりの格好だ。
二人とも双眼鏡片手にこちらに手を振っている。どうやら甲板の上から湖を見張っていたらしい。毎回停泊するときは湖を一望できるここと決めていたので、これも日課の一つだ。
「ただいま~」
スラミンは疲れた声で応えると、接岸した岩場から<お迎えスライム号>の甲板の上にぴょいんと飛び乗る。
イエロンとブルームと並んでキャビンに向かって歩き、船尾側に設けられたドアをスライドして中に。
キャビンの中は外見よりも広々とした印象を受ける間取りで、角を丸められた四角いテーブルが右舷側、壁に取り付けられたソファーの傍に固定されている。
反対側にはコンパクトなキッチンが用意されていて、いまはそこでこれまた親友のレッドスライム――レッドルがしきりに小さい鍋をかき回して調理作業中であった。
いつもながら白いコックスタイルが板についている、われらが料理担当である。
スラミンはブーメランをマウントしたままの兜を脱いで、キャビンの奥のほうにある自分の名前が記されたロッカーの扉を開いて放り込んだ。
装備を脱いで身軽になったスラミンは、下に着ていた白いシャツ姿のままぽてぽてと歩いていき、ソファーの前で体の下に装着していた靴を脱いで跳躍、そのままソファーの上にぼすんと着地した。
「疲れたあ~」
「もうすぐできるから待っててね~」
とレッドルが鍋の中身を味見をしていた。
レードルで掬ったスープを小皿に少量注いでちびりと一口。
「……ん。もうちょい塩、っと。ちょい火力アップ――」
一声唸ったレッドルは右手でレードルを掴んだまま、左手を伸ばしてコンロの上側に備えられたつまみをちょいっと捻った。
コンロに灯っていた火が少しだけ勢いを増す。
(ああ、疲れた体に心地いい音……)
スラミンは<マジックコンロ>が奏でる音色に耳を澄ませてうっとりする。
コンロからは火が燃える音に交じって、燃える音とは少し違う不可思議な旋律が発せられていた。それが鍋の煮える音と合わされば、ごくごくありふれた家庭の日常を思わせるハーモニーとなって、実に心安らぐ空間を作ってくれる。
……レッドルが調理しているキッチンの設備は人間が魔物や魔族の助けを借りて開発した<魔法道具>こと<魔道具>、その一つである<マジカルキッチン>である。
魔力さえ供給してやれば燃料もいらず、タンクに水を満たさずとも水道を使える、便利極まりない道具の集合体なのだ。
もちろん魔力保有量がそこそこ多いスライムとなれば、調理作業程度なら自前で供給しながらでもバテたりしないので、まさに鬼に金棒であろう。
(やっぱり自分で『歌わなくていい』ってのは、楽だよねぇ~)
魔法の旋律は、魔族や魔物であればその声帯で奏でることができる。むしろそうでなければ魔族とも魔物とも呼ばれない。が、制御に失敗することは普通にありあえることなので、こうして安全性を確保した道具を創り出した人間の創意工夫と技術力には素直に――いや激しく感動を覚えるところだろう。
スラミンはキャビンの窓から太陽の日差しにきらめく湖面をぼーっと眺めつつ、鍋の煮える音と<マジカルコンロ>のハーモニーに耳を傾ける。
(……おなかすいた。まだかなぁ)
「……ん。よっしゃ! レッドル特製スープのできあがりぃ!」
その声に視線を巡らせれば、ウインクしながらレードルを掲げるレッドルの姿があった。
レッドルは熱々の鍋に蓋を被せてから軽く捻ってロックをかけると、中身をぶちまけないように慎重に鍋を頭上に掲げるようにして持ち上げ――熱に強いレッドスライムならではの芸当だ――コンロに併設された足場から飛び降りる。
着地の際は全身を変形させて衝撃を吸収して鍋を守り、鍋敷きが中央に置かれていたテーブルの上に靴を脱いでから飛び乗って鍋敷きの上に鍋を置いて蓋を開ける。
――もわっとあふれ出す湯気と芳醇なスープの香りがスラミンの鼻腔をくすぐる(スライムに鼻はないので比喩表現)。
レッドルは鍋を置くとコンロの下にあるオーブンの扉を開放し、中から焼き立てあつあつのバターロールが乗っかった天板を引き出し一つ一つていねいに、あらかじめ用意していたクロスを敷いたバスケットに収め、テーブルに運搬する。
「ほい、用意できたよ」
お行儀よくソファーに座って待っていた三人のために、レッドルが木の器にスープを注ぎ、パンを木の皿に乗せて配膳。最後に自分の分を用意して、四人なかよく横並びに。
「――では、いただきま~す」
楽しい昼食の始まりだ。
ユキエをはじめとする日本から来た転移者たちから教わって定着した挨拶。
スラミンはレッドル特製スープに匙を差し入れ、温かいスープと具材を掬い上げると、その小さな口に運び入れる。
(うまっ……!)
レッドルの食事は最高だ。さすがは元料理店勤務。そして火の子とも称されるレッドスライム。
簡素なマジックアイテムを用いていながら完璧な温度、そして具材の煮込まれ具合。こればっかりはスラミンでは逆立ちしたって真似できない。
味付けも抜群で、疲れた体に染みわたる適度な塩気にちょっぴりパンチの効いたコショウの風味。
たった一杯、されど至高の一杯。飛び回って捜索活動をするスラミンのことを気遣って作り出されたスープの味たるや、乾燥野菜や塩漬け肉をベースにしているとは思えないほど。
まさにレッドルの友情を形にしたスープと言えよう。
今度はパンに手を伸ばす。
焼き立てのバターロールは、手で二つに割ると湯気があふれ出し、小麦の香ばしい香りとバターの匂いが食欲を誘う。たまらずパクリとかじりつけば、ふんわり、もちっとした食感とバターの風味が口の中いっぱいに広がる。たまらなく美味だ。
スープもパンも、こんな船の中で食べられる食事としては限りなく最高に近い、レッドルの友情が生み出す至高の食卓。
嗚呼、これ以上の至福があるだろうか……。
スラミンはぱくぱくと平らげて、空になった器をレッドルに差し出す。
「おかわり!」
「あいよ」
レッドルは自分の食器を脇に置いてスラミンの器を受け取り、レードルでスープを注ぐ。
スラミンはおかわりのスープとまだお皿に残っていたパンを交互に口に運び、捜索活動で疲れた体に栄養を満たすのであった。
ゆったりと時間をかけた昼食が終わる。食後に四人でコーヒーなど嗜みながら午後の打ち合わせを行う。
「さて、午前はスラミンががんばってくれたから、午後は僕ががんばるね」
ブルームは準備体操。「おいっちに、さんし!」と両手を伸ばして体をひねる。
ブルームことブルースライムは水の子とも称され、当然泳ぎは大の得意。その実力やたしかで、人魚などといった水中を生活の場としている魔族や魔物と同等である。
この広大な湖を捜索するうえで、高速で水中や水上を移動できるブルームの実力は実際頼りになる。
……ときおり、新鮮な魚も取ってきてくれるので食糧問題も多少緩和してくれるし。
逆にスラミンが属するグリーンスライムは風の子と称され、自分自身の魔法で風船のように飛行ができる種族だ。が、いかんせん『浮かぶ』魔法なので敏捷性に乏しく、日常生活ではともかく広大な捜索活動には向いていない。
スラミンが例外的にそれを可能としているのは、自身の思い付きで浮遊魔法と<マジカルブーメラン>を併用し、<マジカルブーメラン>の速度と旋回性能を補うという手段だ。
<マジカルブーメラン>は風魔法をメインに自身の軌道制御を行うことで変幻自在の飛行を実現し、それによって離れた敵を攻撃する、または追い立てる用途に使われる武器である。
当然ではあるがスラミンの用途は完全に想定外のもので、四十年も前から使われているというのに未だに最適化ができていないと言えば、どれくらい無茶な使い方をしているかがわかるというもの。
浮遊魔法との併用ゆえに負担も大きく長時間の飛行ができないなど課題も多く、そのことを知っているからこそ友人たちは「仕事を完遂するにはパーティーを組むべきだ」と名乗りを上げたのだ。
……当時彼らが就いていた職を辞してまで。
当然スラミンは強く反対の意思を示したのだが、長年一緒だった友人たちはすべて承知で行動していた。もともとラジリンの家に揃って住まわせてもらっていた仲だから、スラミンが抱える問題について熟知していたのも関係しているのだろう。
スラミンとて冒険者以外に職を持っていたのだから、あまり人のことはとやかく言えないということで、結局みんななかよく退職して冒険者業に専念。ときおり消耗品の買い出しに王都に戻る以外、一七年もの歳月をこの場所、この船で過ごしている。
「頼んだよブルーム。僕は夕食の仕込みをしながら双眼鏡で周囲を探ってみるから」
「じゃあ僕はスラミンの装備の手入れと、<お迎えスライム号>のメンテの続きかな」
イエロンはギルド内に併設されている武具店の元店員であり、特にスライムを含めた魔物用の装備品の手入れや制作技能を収めているベテラン技師だ。
スラミンが副業――ボートレーサーとして一世を風靡していた頃、専属メカマンとして船の面倒を見てくれたパートナーでもある。
その経験から<お迎えスライム号>の手入れはもちろん、スラミンたちの装備の手入れを一手に引き受けてくれている、欠かせない裏方役。縁の下の力持ちであった。
「僕はいつもどおり仮眠を取らせてもらうね。んで、起きたら<お迎えスライム号>のメンテを手伝いつつ、日が暮れたら出航、代わり番で湖全体を監視しながら夜を明かす、ってことで。――雲行きを考えると、今夜は荒れそうだし、期待値高いよ」
スラミンもコーヒーを啜りながら答える。
みんな「意義なーし」と口をそろえての返事。
毎日のように繰り返しているやり取りだが、ときには<お迎えスライム号>の具合がよろしくなくて、スラミンが<マジカルビームライト>片手に夜闇を飛び回ったり、ブルームが闇に沈んだ湖を泳いだりしながら、連日見落としがないようにしている。
なにしろいつ、どのようなタイミングでやってくるのか見当もつかないのが転移現象のやっかいなところだ。
本当なら常に<お迎えスライム号>で湖を回っているほうが個人個人の負担は小さくて済むのだが、いかんせん一七年の歳月を過ごした船はそこまで機嫌がよくない。
イエロンが専属でメンテナンスしているとはいっても、設備の乏しいここでは整備にも限界がある。かといって活動拠点を長々とドック入りさせるわけにもいかないという事情もあって、もっとマメに手入れしていれば一線級の性能を保持できるはずの<お迎えスライム号>は急速に衰えを見せている。
もう何年ももたないかもしれないとイエロンは語り、まずそんな機会はないだろうが急激な運動をすれば船体が破損してしまう危険もあると何度か警告されている。
そのため緊急事態に備えた少々突っ込んだ操縦の訓練の頻度は年々少なくなり、スラミンもその応答性などから寿命が近いことを肌身に感じていた。
ふいに長年を過ごした船の寿命が近いことの寂しさが胸に渦巻き、その気持ちを飲み込みたくてぐいっとコーヒーを飲み干してカップをレッドルに返却、ぴょいんとソファーから飛び降りてキャビン奥にある寝室に向かって歩き出す。
仮眠をとって気分も体もリフレッシュして、これからに備え――。
突然、閃光が窓から飛び込んできた。
スラミンがはっと視線を向ければ、<お迎えスライム号>の左舷前方数メートルの湖面が、突如として強烈な光を放っているではないか。
驚きで目を丸く見開いたスラミンは、大慌てで<お迎えスライム号>の甲板に飛び出し船首部分に駆け込む。
みんなも同じように大慌てで<お迎えスライム号>の甲板に飛び出して、なかよく横並びになるように手すりによじ登る。
全員が突然の現象に困惑と――期待の眼差しを湛えて。
「こっ! これってもしかしなくても転移現象!?」
「一七年前と同じ現象だ! でも嵐はまだ来てないよ!?」
レッドルとブルームがと感激と疑問の声を上げる。
そうだ、転移現象は確認されている限り嵐と共にあることが多かった。嵐の生み出す大自然の力を借りなければ成立しないほど、膨大な力を要すると言われているからなのでたしかに不自然だが、そんなことはあとで探求すればいい。
……この輝きはまさしく一七年前、彼のご両親をお迎えしたときと同じもの!
「つ、ついに来た!! アユム君がついに来た!!」
まだ確認も取れていないのに声を張り上げるスラミン。
眼前の光は徐々に渦を巻き始め、まるでトンネルのような開口部を生じつつあった。
スラミンは眼前の光景に視線がくぎ付けになる。ついに来た。待ち望んでいた瞬間が。ようやく果たせる。亡きユキエから託された願いが。
そしてついに現れる。史上二人目になるであろう、『魔物使い』と呼ばれる才の持ち主が。
ようやく――現れる。