第一話 アユムの旅立ち
……二〇一三年の春。日本のとある山中。
雲行きの怪しい夜空を、一八歳になったアマノ・アユムが移動していた。振り子のように弧を描きながら宙を舞うその様は、さながらターザンロープを空中で行っているかのようであった。
高所――地上から二〇〇メートルほどの高さを一切の安全措置なしで移動する恐怖で、腹の底がきゅっと締め付けられる思いをしながら、それでも必死に空中を移動していた。
荷物を満載した大きなリュックを背負いキャリーバックを左肩に下げて、人目に付かないであろう上空――高度二〇〇メートルほどの位置を。
右手には生物的な装飾が施された銀色の杖。その先端と柄は半透明な水色のチェーンで繋がり、不可思議な――水が流れるような金属が擦れるような――旋律を奏でながら伸びていく。
チェーンがある程度伸びたところで『空中』に先端を打ち込んで固定、支点にして体を振り子のように振る。
体が前方に投げ出されたら杖の先端を抜き取って瞬時に柄に引き戻す。そうしたらまた下から振り上げるように杖を振り、先端を打ち出しては空中に固定し、振り子のように体を振ってを繰り返して目的地に向かって一直線に進んでいく。
「……急がないと」
早く目的地に着かなければ。
それからも内臓がひっくり返るような恐怖に耐えながら空中を進み続け、ようやっと目的地である山の中腹にたどり着いた。
開けた山腹には小さな湖の姿、そこが目的地。
アユムは振り子の頂点――前方への運動エネルギーが失われたタイミングで杖の先端を空中から外して回収、自由落下が始まる。
(――っ!)
心底肝を冷やしながら大地を凝視。高度が目測で五〇メートルを切ったところで頭上に向けた杖の先端を打ち出すことなく空中に固定、反動が体を襲う前にチェーンを伸ばす。
……今度のチェーンはさきほどまでの硬質なものではなく、バンジージャンプのロープのような柔軟性をもったものに切り替えて。
さきほどまでとは異なる旋律を奏で伸びたチェーンがゴムのように大きく引き伸ばされ、落下速度を完全に殺した。
地上から一メートルの高さで体が停止したので、杖の先端を回収しつつ残り一メートルの高さを今度こそ落下して両足で着地。
体重と荷物の重さを両足でしっかりと受け止めて、無事に目的地に到着したことに安堵する。
アユムは荒くなった呼吸を整えるべく深呼吸。どこか休める場所はないかと目線を巡らせた。
直線距離にして三キロ程度の移動であったが、強行軍も相まって疲労感が強い。
「……『キャストオフ』」
アユムはこの強引な移動に耐えるため、杖を万が一にも空中で手放さないために全身に施していた水魔法を解除。全身の服に、体毛にしみ込んでは部分的にはプロテクターになっていた水がはじけ飛ぶようにして周囲に飛び散って宙に消える。
肩まで伸ばしている髪の毛が本来の柔らかさを取り戻して風になびく。ようやく一息つける。
肩にかけていたキャリーバッグと背負っていた大きなリュック共々、近くにあった岩場に置いて、自分も隣の岩に腰かけて体を休める。
さきほどまで使っていた『チェーンロッド』のほかにも、服を水で濡らして魔法で制御、それを一種の『外骨格』として機能させることで、平常時を超えるパワーに加え、体にかかる負荷を受け止めてくれる『プットオン』の魔法が、この六年訓練して身に着けたアユムの魔法だった。
これは特撮ヒーローの影響が大きい魔法なので少々羞恥もあったが、イメージの強さからか、結局これ以外は形にならなかったので四の五の言ってはいられない。
岩に腰かけるとリュックの外側のポケットに入れていた紙パックを取り出す。付属のストローを突き刺して中身のオレンジジュースをゆっくりと啜った。
(――味わえるのは、これが最後かもしれないな)
少なくとも愛飲しているこのメーカーの、この商品は。
そう考えると少しだけ惜しくなったが、あまりゆっくりもしていられないので飲み切り、パックを握りつぶして持ってきたゴミ袋に入れてリュックのポケットに。ポイ捨て厳禁。
「ここが入り口になるはずだ。……異世界への……」
月の光に照らされながらも闇に包まれた自然の景色。いまにも吸い込まれて融けてしまいそうな情景に、否応なく恐怖を掻き立てられ背筋が冷たくなる。
だがこの場所が、つい先日杖にイメージで見せられた『ゲート』であることは間違いないだろう。あとは時を待って湖面に杖を差し入れれば『ゲート』が生じるはず。
――家族を失ったあの海域でないことだけが不思議であったが、どちらにせよあんな場所では人目に付く。こっちのほうがありがたい。
……今日という日を、どれほど待ち焦がれていたことだろうか。
「持ち物の最終確認、しておこうかな」
リュックを開いて中身を確認。ウエストポーチも。
食料に水――は魔法で補えなくもないからすぐに使えるように五〇〇ミリリットルのペットボトルを二つだけ。
下着の替えが一式にハンドタオルが二枚。魔法ですぐに洗えて清潔にできるから最小限。スペースは極力食料に当てることを選んだ。
服はいま着ている登山向けの薄いグレーの長袖の上着と長ズボン、寒さ対策に着込んでいる水色のジャケットに手袋と、いまは被らずリュックに仕舞っている帽子だけ。破損した場合に備えて針と糸は少し入れているが、できるだけ傷めないように注意しよう。
あとは雑用に使えそうな道具が数点。十徳ナイフとも呼ばれるサバイバルナイフを一本、手回し充電式のLEDライトを一つ。リュックの外に吊るした小さなコッヘルと、たき火用に着火剤とメタルマッチ。まあ、定番なアウトドア用品が主だ。念のため使い捨てカイロも数点用意してあるしコンパスも用意し、こちらはジャケットの上着に入れてある。
これから赴く地の地図はなくとも、方角がわかれば役に立つだろう。
念のため虫よけに使えるハッカ油のスプレーも小さいのを数本。虫が媒介する病気の類は致命傷になる可能性があるからだ。異世界の虫などに効果があるかわからないが、備えないよりはいい。
消耗品の補充は難しいと判断してガス缶やら電池を使う道具類は極力取り除いたのでいくぶん荷物を減らせたが、万全な一人旅ができるほどではないのは明白。
野垂れ死にまったなしの危険な旅立ちになる。
「それでも――!」
多少のことなら杖の魔法でフォローできる。……精神的な疲労と引き換えになるが、あまり欲を張らなければそれほど極端な消耗もないのは実証済みだ。
(――よし、欠品はないな)
肩に下げていたキャリーバッグの中身はテントだ。できるだけ小さく軽く、でも少しだけ余裕を見た、二人までならなんとか利用できそうな小型のドームテント。そこに掛け布団代わりのタオルケットを詰め込んである。
(魔法でなんでもかんでも解決できたなら、こんな苦労もないんだけど)
創作の中で出てくるいくらでもモノが入るカバンだの、異空間収納だのが欲しいと考えたことはあれど、それがない物ねだりだということは自分が一番よく知っている。
アユムが使える魔法は偏りが大きく、マンガやアニメで見られるほどの万能性はない。
ちらり、視線を傍らに置いた杖に向ける。その魔法もこの杖がなければ使えないとなれば、リュックの食料とこの杖がアユムの生命線。
あの晩――嵐を原因とする海難事故で両親を失って祖父の家に引き取られたときに手に入れた杖。六年経っても輝かんばかりの美しさを保った姿は、すっかり見慣れたものだった。
まるでタツノオトシゴを盾に引き伸ばしたかのようなシルエット。ドラゴンを模した、RPGゲームにでも出てきそうな装飾の銀色の杖。
前にもたげた首の下に丸っこい大振りの宝玉が抱かれ、背には上から黄・緑・赤の順にひし形の宝石が羽のように生え、石突きが指を開いた手の形になっている杖。
変わっているな、と思えた点はただ一つ。抱かれた宝玉には真ん丸の目が付き、指のない丸い手が生え、円盤のような足が付いているデザインだったことくらいだ。
おかげで杖全体の勇ましきドラゴンのデザインに妙なギャップを与えているが、不思議と馴染んで見える。
――まるでこれはそう、和製ファンタジーに出てくるスライムという魔物にも見えた。
だからアユムはこの杖変わったデザインの杖を、<ドライムの杖(ドラゴンスライムの杖)>と名付け、今日という日までその使い方の研究と熟練に心血を注いできたのだ。
「……これからも、よろしく頼むよ」
すっかり相棒として認識している杖に声をかける。
こいつはまごうことなき<魔法の杖>。それに試した限りではおそろしく頑丈で、ハンマーで叩こうが電動ノコギリを当てようが、傷ひとつ付かなかった。
六年かけて検証した結果、この杖で使える魔法の属性は四つ、しかし力の優劣が極端である。
この杖に宿っているのはおそらく『水』と『土』と『風』と『火』。アユムは格好をつけて属性のことを『エレメント』と呼んでいた。スライム(?)を模した宝玉は青、それに翼のような宝石の色から連想したものだったが、そのとおりだったのである。
そしてこの杖は四つのエレメントを使えるとは言ってもベースになるのは水だけであり、水にほかのエレメントの力を足して変化を加えるという使い方しかできないということも、この六年で理解した。
たとえば土を足して粘度を加えたり固形化したり、風を足して霧にして操ったり、火を足して温度を制御したり光らせたり。
それ以上のことはなにもできない。思ったよりも万能性に欠ける印象を受けた、魔法の杖。
これからしばらくはこれ以外には頼れそうにない、無二の相棒だった。
よく独学でここまでやれたと自画自賛したい気持ちになるが、それでも魔法の神髄にはまるで踏み込めていないのだという漠然とした思いが頭を過る。
それから湖の暗くさきの見えない湖面を眺めながら、もう何度目かもわからないほど自問自答した『異世界転移』について頭を巡らせた。
(才能がなにもない凡人に、どうしてこの杖を寄越す? どうして消えた家族の消息に関するビジョンを見せてまで誘導する? 一度は弾いたはずの俺をこうして招いているということは、杖を送り込んだ『何者か』にとって魅力を感じる『なにか』を持っているということだと考えるのは、当たらずとも遠からずのはず)
何度考えても行き着く結論は大差ない。それがこの杖を使いこなす才能――なのかは正直わからない。判断材料がなさすぎる。
……だが招かれていることは事実だろうと思う。杖がそのためのチケットであり、あのときは要件を満たしていなかったからはじき出されただけだと、漠然と思えるのだ。
だとすればこの転移は運命づけられたものであるとも考えられるのだが、突然連れていかれないだけマシとは到底考えられなかった。
海外旅行のような気軽さを持つことはできない。向こうでなにが待ち構えているのかも、どのような文明が存在しているのかもわからず、なにより味方がいない。
言葉も通じるか不明となれば、こんな杖放り捨てて家族のことを忘れたほうが賢明だと、わりと真剣に考えたほどだった。
実際事情のすべてを承知している祖父ですら、『おまえには無理だ、諦めろ』と苦言を呈したほど、無謀極まりないことをしようとしている。
……正直、祖父は正しいと思う。それでも挑む決意を曲げられなかったのはこの不思議な杖の存在あってこそ……いや、この胸を突き動かす衝動によるものが大きい。
家族への憧憬だけではないなにかが、「行け」と声を荒げるようにして後押しする。
――まるで、泣きつかれているような気分でもあったが。
だからこそできる限り、時間の許す限り体力づくりをしたり知識を得たりして備えたのだが、それでも自信があるかと言われれば怪しいものだ。
未知なる世界に挑むということに、万全などという言葉はないのだと、妙に実感させられる。
――そんな姿を見たからだろうか、反対していたわりには祖父は簡単な護身術を教えてくれた。
苦い顔なのは変わらなかったが、見捨てられなかったというのは素直に喜ばしかったし、おかげで少しくらいはこの杖を武器として使えるようになった。
苦労していた魔法に関しても、きわめて抽象的ではあったが妙に的を得ていた感のあるアドバイスをもらえたことで、それまで全く進展のなかった数か月を帳消しにできるほどの理解を得られるきっかけを得られたのだから、やはり感謝してもし足りない。
「……これで、お別れか……」
荷物の確認は終わった、休憩も十分とった。リュックを背負い直し、左肩にキャリーバッグを下げ、左手で<ドライムの杖>を握る。
この世界を去る決意はとうに固めていたと思ったのに、それでも未練は拭えない。
――楽しかったのだ、いままでの暮らしが。
この世界を去るための訓練や勉強をしていてもなお、学校での生活はもちろん、資金を得るためのアルバイトに、訓練開始後もたまに「骨休め」と称して祖父が連れて行ってくれた旅行やら、無駄金を使うとわかっていても断れなかった学友たちとの付き合いも、なにもかもが。
祖父を残していくということも心残りでしかない。家族を追うのに家族を置いていくなんて矛盾も甚だしい。だが最後まで祖父は同行の意志を見せてくれなかった以上、諦めるしかない。
「……この事件に黒幕がいたら、絶対に追及してやる。事と次第によっては張り倒してやるからな……!」
ジャケットの胸ポケットから取り出した手巻き式の懐中時計――祖父の贈り物――で時刻を確認。
現在時刻、午後一一時二七分。
空を仰げば星空にもだいぶ雲がかかってきている。風も力を増し、重く湿った空気へと変わりつつあった。
天気予報のとおり、嵐が来るのだ。待望の嵐が。
今日の深夜頃から、この地域は台風の勢力圏に入る。この台風こそが、転移に必要なエネルギー源として機能する。だからこそ、あのとき家族が連れていかれた未知なる現象が起こされたと確信している。
――魔法はどうやら身の回りに存在する天然自然のそれに干渉して操ることができるらしい。魔力で生じた『事象』と混ぜ合わせた場合、もろともに魔力に還元して霧散させることすらできる。
左手の<ドライムの杖>を見る。
世界を超える転移という無茶苦茶な魔法を使うには、この杖の力と自分の力を合わせても足らないのだろう。
……それに、魔法を使うにも『反動』が存在する。
体感的なものではあるが、魔法で生み出そうとする事象が大きくなるほどに消費する魔力が増える。そして力を引き出せる量は『器』の耐久力に左右される――のだと漠然と思った。
杖という道具を介していてもアユムには負担がかかっている。負担の分量がどうなっているのかまではわからないが、完全にゼロにはできないのだろう。
ごくりと唾を飲み込む。改めて腹の底に恐怖が淀んでいるのを感じた。第三者の転移魔法で連れていかれた家族と違って自分のは自発的な魔法。
はたして無事でいられるかどうか……。
(……ええい! 突撃あるのみ!)
アユムは頭を振って迷いと恐れを振り払い、懐中時計を防水用の油紙の袋に封じ、ジャケットの胸ポケットにしまう。
覚悟を決めたアユムは静かに歩を進め、湖の畔に立つ。
雨が降り始めた。雨脚は強い、風も唸っている。転移に必要な力を得られるまで、あともう少し……。
「『プットオン』!」
杖から水を放出、全身を覆った水が服と靴の中敷きに、頭髪にしみ込み衝撃吸収と倍力作用のあるベーススーツとなり、結晶化した水が肩当付きのボディアーマー、肘当て膝当て、腕と足の側面にプロテクターを、つま先を覆うように補強する。ついでに荷物も縛り付けて体に完全固定。
――魔法の発動とは別に、『ゲート』を抜けるのに負担がかかるかもしれない。それに対する備えだ。これで防げるとは保証はなく、余分に魔力を消費する愚行かもしれないが。
……嵐は一段と強さを増していく。
急かしているのだろうか。
それとも未知なる世界への旅立ちに対する祝辞だろうか。
「……行くぞ」
アユムはやけくそ気味に呟き、激しい雨風に打たれながら杖の石突きを静かに湖面に差し入れた。
「頼んだぞ。俺を連れて行ってくれ、家族のいる世界へ!!」
両手で握りしめた杖に語り掛ける。――杖に彫られたスライムの双眼が優し気に煌めいた。
意識を集中。すると杖から形容しがたい不可思議な旋律が発せられ、それに呼応するかのように池の水面が摩訶不思議な光を放ちながら渦を巻き始めたではないか。
上手くいった。アユムは大きく息を吸い込み、力強く大地を蹴って光り輝く渦の中心に身を投じる。
水を潜った抵抗はなかった。すっと溶けるように渦を潜ったアユムは、不思議な光で満ちた空間を落ちていく。
――こうして、アマノ・アユムの物語が始まったのであった。