夏の淵
夏休みは、終わりを迎えた。幸音はあれ以来、外に出ることを極力避けていた。また、外にも出ずに本ばかりを読んでいた。学校には、今まで通りいった。隆司は、学校をやめたらしい。まだ、行方は分かっていない。
本音を言えば、もちろん外になど出たくなかった。しかし、そんなことで人生を棒に振るのは嫌だった。だから、いつも以上に、早く歩いた。赤く色付く景色は、いつしか目に入らなくなっていた。
加奈子と話すことも少なくなっていた。お互いに、見えない壁を感じていた。幸音は相変わらず本を読み、加奈子は友達と遊んだ。しかし、お互いに、晴れた表情をすることはなかった。
幸音がある日、父親に夕食を届けに行くと、父親は珍しく幸音を引き留めた。こちらを向いて優しく言った。
「大丈夫か」
「うん」
大して動揺もせず、幸音は答えた。幸音は、あまり考えないようにしていた。あの夜のことを。そうすることで、忘れようとしていた。
「そうか」
父親は、それ以上追求しなかった。が、最後にこう言った。
「幸音の話す気が起きたらでいいよ」
幸音は、そのまま部屋を出た。別に、話さなくてもいい。話したくはない。話してもつらくなるだけだ。そう思った。もう、あんな思いをしたくなかった。全て、忘れたかった。そう思って、また本を開いた。
幸音は、暗い本を読んでいた。ファンタジーだった。「ダークエルフ物語」 今まで読んだどんなファンタジーとも違った。わかりやすい正義は存在せず、主人公のドリッズドは、邪悪な種族「ダークエルフ」だった。
滅多に喋らず、寡言にして冷静な主人公が、時に判断を間違え、時に敵前逃亡し、しかしどうにか生きていく物語に、幸音は引き込まれた。誰もが自分の物語の主人公だが、主人公とてやはりヒューマノイドならば、間違いを犯すものだ。
結ばれずとも、永遠の安寧も平和もなくとも、生きていく。終わりは、終わりではなく、物語は終わっても、人は生き続けねばならない。作家はまた書き始める。それしか、ないのだ。生きていく、というのはそういうことだ。そんなことを考えながら、幸音は眠りについた。
翌朝、ポストを開けると、新聞と一緒に、はがきが入っていた。新聞を父親に届けるとき、はがきが落ちた。幸音は拾い上げて、送り主を見た。
「…あ…え…いやあああ!」
幸音は、手紙を投げ、へたりこんだ。息が落ち着かなかった。
「どうした!?」
驚いた父親が振り返って幸音を見た。震えが止まらなかった。
「いや、いやああ!」
「幸音、どうしたんだ」
父親は、床に落ちた手紙を一瞥し、やがて何かに感づいたように椅子に座りなおした。そして、幸音が泣き止むのを待った。
幸音が吐き出すのを、父親は黙って聞いていた。少しすると、部屋には小さい嗚咽の音のみが響いた。差出人は、もう思い出したくもない名前だった。差出人の住所は書いていなかった。
父親は、はがきを拾い、破ってゴミ箱に捨てた。二人とも何も言わなかった。不意に、幸音は頭の上に暖かいものを感じた。父親の手だった。いつぶりだったか。久しく感じていなかった暖かさに任せて、幸音は泣き続けた。
何よりも恐ろしかったのは、住所が知られていたことだった。怖かった。もし家まで来られたら、そう思うと言い表せない悪寒が幸音の中を巡った。まだ、隆司は幸音を狙っているらしかった。
起きると、父親の部屋だった。父親は、既に机に伏して寝ていた。幸音は、その光景にくすりと笑って、部屋を出た。窓から見ると、もう朝だった。すがすがしい朝だった。ふと見ると、庭の木は既に赤くなり始めていた。
幸音は急いで準備した。学校に行くのだ。いつものように、弁当を作って、父親のご飯を作り置きして。いつものように、読みかけの本にしおりを差して。どうせ、いつかは出なければならない。この家からも。
学校に行くと、加奈子に、手紙のことを話した。加奈子は、最後まで聞いてくれた。その後で言った。
「でも、家知られてるっていうのは、大丈夫なの?」
幸音は、もうその答えを出していた。
「大丈夫。もう恐れるのはやめた。ちゃんと話して、諦めてもらう」
「でも…」
「大丈夫、もう、あんなことにはならない。しない」
加奈子は、何故か自信満々な幸音に困惑した。
「しないって言ったって、ねえ」
そんな手紙を見たら、もっと怖がって家から出るのもやっとだろう。それなのに、目の前の少女は何か確信に満ちた顔なのだ。なぜなのか、加奈子には全く分からなかった。
「もし隆司が襲ってでも来たらどうするのよ」
「逃げる」
「いや……」
あまりにも実直というか、愚直な意見に、加奈子は言葉を詰まらせた。
「じゃ、じゃあ、家の前で待ち構えられてたら?」
そう加奈子が問うと、幸音は衝撃の答えを口にした。
「撃退する」
あまりのことで、加奈子は開いた口がふさがらなかった。加奈子は、内心で、明日から家まで迎えに行こう、と思った。昨日までとは違う意味でも、心配になってしまった。
「この子は、危ない」
幸音の知らないうちに、加奈子は固く決意したのだった。
どなたかわかりませんが、見てくださっている方が一人以上はいるようなので、まだ書き続けます。