夏の始
始ではじめと読ませるのは無理がありますねえ
静かに、静かに、夏が始まる。やがて、夏の風が暑さとともに事件を運んできては、静かになる。消え入りそうな夏の切なさは、やがて自ら事件性を孕んだ風を呼び、また、静かな日常が訪れる。
夏の風は、否応なく吹きすさぶ。静寂は、夏の夜の幻想の様相をあらわにする。激しいトレモロと、消え入りそうな主旋律は、確かに、夏の昼夜であった。
激しい風が、あたりを吹きすさぶ。風はとどまるところを知らず、一本のヴァイオリンは、二つ、三つの音を奏でる。吹いて、吹いて、弾いて、弾いて、風が吹きすさぶ。
静けさに、名前は不要だった。音の余韻と静寂は、どこまでも、風を残した。少年は夏を終え、思考を緩めた。一瞬は永遠であり、一音はすべてに響いた。少年は、ヴァイオリンを構えなおした。バッハのシャコンヌ。
悲しい調べは、どこまでも美しい。そう、誰かが言った。それは祈りであり、安らぎであり、喜びであり、そして悲しみであった。名曲と名器と名人がそろうと、それだけで美しい。そう、誰かが言った。
一音一音はその場限りのものであり、ゆえに永遠。それはつながり、消え去らず、人と人の縁は結ばれ、ほどかれ、絡み合っていく。一音の短い寿命が、明かりのように道の先に続く。点々として、そこに在る。
明確であり、つかみどころがない。心が、離せない。いつしか、幸音の頬を涙が伝った。音は波を残し、波はすべてにしみて、力となる。この力を、悲しみと呼ぶ。
音は無限大にして一。一であり全。響き続ける音は、流れとなり、満ちた。曲名は、なかった。作曲者は、無名だった。喜びの調べは高らかに響き、悲しみの音は心を揺らした。音が、調べが、あり続けた。
二人の夜は更けることを知らず、夢は現に、うつつはゆめに還った。
少年はヴァイオリンを置き、少女は一夜の夢から覚醒した。二人は、ゆっくりと、眠りについた。
朝、幸音が起きると、少年はもういなかった。しかし、今回は、妙な充足感があった。幸音は、昨日の夜、ベッドが二つ無いので添い寝したことを思い出し、首を振った。変な気持ちは頭から追い出さねば、そう思った。
鳥は騒がしく歌った。幸音はまた、いつもの日々に戻った。朝食と昼食を作り、学校に登校する。加奈子と、他愛もない話をする。本を読む。それでも、音は鳴り続けた。夢の中には、音色が残っていた。
幸せというのは、たぶんこういうことなのだろう。そう思いながら、幸音は、毎日を過ごした。やがて、梅雨は空け、暑い夏が始まった。丘の上の庭の木の下はまた、絶好の読書の場所になった。
やがて、学校は夏休みになった。夏休みに入る前日、幸音は加奈子に、海に行かないか、と誘われた。幸音は毎年、このような申し出を断り続けてきたが、今年の夏は別だった。何が変わったか、いずれにせよ、幸音は海に行くことになった。
父親に話すと、少し驚き、次いで微笑み、自分のことはいいから行っておいで、と言ってくれた。三年前なら、事故に遭ったらどうするなどといって、止めただろうが、この親子に共通する「変化を恐れない」という特徴は、健在だった。
父親は、立ち直りつつあった。幸音もまた、変わりつつあった。
「ゆきねちゃーん、おひさー!!」
加奈子は、男女数名の友達とともに、迎えに来た。幸音は、手を振り返し、必要最低限、といった荷物を持って、車に乗り込んだ。
「幸音ちゃん、久しぶりだね」
加奈子は、相変わらず明るく、幸音に話しかけた。それを皮切りに、ほかの加奈子の友達連中も、幸音にいろいろと話しかけた。皆、気さくな人だなあ、と幸音は思った。
海につくと、幸音は、着ていた服を脱ぎ、水着姿になった。おおお~~~というどよめきが起こり、幸音は赤くなった。
「こらっ、じろじろ見ない!」
加奈子は、そんな幸奈をかばうようにして立った。
「ありがとう」
幸音が礼を言うと、加奈子は少し赤くなって、
「どう、いたしまして…」
といった。
海は、波も低く、太陽の日差しは海岸の砂に反射して凍てつくようにまぶしかった。つまり、絶好の海水浴日和だった。
幸音は、読書少女だったが、体育の授業の成績は高く、運動神経もそこそこにあった。バシャバシャと泳いでいると、浮き輪に乗った加奈子から、
「幸音ちゃんすごい~。そしてずるい~」
といわれた。男子連中にも、
「泳ぎはえ~」
「すげ~」
といわれ、幸音はまんざらでもなかった。幸音は、海を満喫した。
夜は、海岸のテントでキャンプをした。田舎暮らしの中学生は、手際が良かった。テントを立て、火を起こすのも、皆当たり前のようにできた。幸音が
「すごい!」
と思わず言うと、何故かその後は、作業のペースが遅くなり、加奈子は、
「男子、カッコつけるんじゃないよ!」
と叫び、何故か自分の胸を押さえた。