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あの雪の日に  作者: 鬼人の奇人
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雨の歌

昨日までは晴れていた空を、雨雲が覆い隠し、雨がアジサイの葉を揺らした。幸音の気分はまさに梅雨のようだった。ジトっとして晴れない。自室の窓から外を見やりながら、ため息をついた。




あの少年は、日本中を旅してまわっているそうだ。ヴァイオリンとともに。保護者もいない、一人旅。にわかには信じがたい話だった。でも、そうだとしたら、あの夜のことも説明がつく。




今読んでいる小説のタイトルは、「レイン」だった。雨の日に生まれた男の名が、タイトルになった本だ。「レイン」の爽快なストーリーが、幸音の憂鬱とのバランスをとっていた。耳は、あのヴァイオリンを求めていた。




庭から、音が聞こえたような気がした。窓からのぞくと、誰もいなかった。空耳だった。また、聞こえた。空耳は、梅雨に似つかわしくないあの「春」を流していた。




知らない旋律が聞こえた。ハッとして、もう一度庭を見やる。今度は、確かに、あの木の下に少年が立っていた。思わず、立ち上がり、自室のドアを開け、階段を駆け下りた。

「伝えなきゃ」…そう思った。




雨の降るのもお構いなしに、幸音は庭に走り出た。履いていた靴下に泥がはねた。木の下で、少年が、ヴァイオリンを演奏するのをやめ、こちらを見ていた。木の下にいたせいか、少年はそれほど濡れていなかった。




幸音は、ゆっくりと、同じ木の下に入った。

「この間は、ごめん」



小さい声を、雨がかき消した。


「お久しぶりです」



少年は、幸音の声が届いていなかったように、挨拶した。幸音は、自分の声が届かなかったことを悟り、うつむいた。


「?…どうかしましたか?」



落ち着いた声で、少年は語りかける。幸音は顔を上げて、努めて平静な声を絞り出した。

「ううん。何でもない」



沈黙の中、雨がしとしとと鳴いた。少年は、ヴァイオリンを持ち直した。この前の続きを弾こう。そう思ったのだ。今度の曲は、ブラームスの「雨の歌」。少年は、梅雨になると、きまってこの曲を弾いた。




雨ではない雨が、跳ね回る。雲ではない雲が、空を流れる。雨は、一本の細い大きな川を紡ぎだす。やがて、川は海にそそぎ、海が流れる。そしてまた、海の水を吸い上げた雲が、雨を降らせる。




幸音の周りを、音の雨が、雨の音が、はねた。そして、雨は地面にしみこんでいく。音が、雨が、幸音のシャツを濡らした。そして、冷たい雨と暖かい音が幸音にしみこんでいった。曲は、唐突に終わった。





少女はようやく、自分と少年が濡れているという事実に覚醒した。気が付くと、少年は少女に手を引かれ、屋敷の中に入っていた。




少年は、シャワーを浴びていた。幸音はそれを、待っていた。少年は先に入ることを遠慮したが、明らかに濡れているのは、少年のほうだった。遠慮する少年に、バスローブとバスタオルを押し付け、幸音は少年にシャワーを勧めた。




やがて、少年はバスローブを巻いて、出てきた。

「ありがとうございました」



少年は、深く頭を下げた。胸元が少しはだけて、幸音は眼をそらした。

「っ…どういたしまして」



若干の動揺を隠すように、幸音は風呂場に入った。浴槽の中で、少年の顔を思い出すと、動機が早くなった。焦っているのに、心地良かった。心地良いのは、風呂の温度がちょうどいいからだ、と幸音は決めつけた。





幸音は、風呂場から出た後、台所に向かった。晩御飯を作るのだ。少年に、自分の部屋を案内しようとしたが、少年は、ここでいい、とダイニングにとどまった。ダイニングからは、幸音が料理する姿がよく見えた。




幸音は、普段通りにご飯を作ったが、動機は早いままで、落ち着かなかった。でも、いやな気はしなかった。少年は、その様子を、座ってヴァイオリンの手入れをしつつ、見ていた。この家、この少女のそばは何となく落ち着くのだ。




少年は、これまでも、様々な家に厄介になっていた。心優しい人は、いるものだ。しかし、何となく落ち着かなかった。そわそわして、いてもいい、という気がしなかった。何故かはわからなかったが。




少年は、好き好んで旅をしていたわけではなかった。ただ、育て親の遺志と、落ち着ける場所がなかったためだった。

「何よりも自由に、生きたいように生きろ」



というのが、育て親の口癖だった。だから、なじめなかった孤児院も、善意の「保護」も、すべて捨てて旅をしていた。でも、少年は、ここにずっととどまろうとも思わなかった。旅にはもう慣れたし、この生活をやめよう、と思っていなかった。




しかし、気付けばこの家に足を運んでいた。あの少女が自分に興味があったのは意外だった。少年も、木陰で本を読んでいた少女に興味があった。そんなことを考えていると、食事が運ばれてきた。




食事に感謝して、食べ始める。特別美味しい、とまではいかない料理に、少年の心は落ち着いた。まどろみが、少年に芽生えた。




食事がすんだ後、幸音は、またヴァイオリンを聞きたい、といった。少年は答えて、ヴィヴァルディの「夏」を演奏した。一人で弾くのは、春同様、無理があったが、少年は、必要な音を探して拾い上げるのが得意だった。




二人の夜が、始まった。


小説とともに、音楽も聴いてみてください。きっと想像が広がります

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