梅雨前
桜は散った。春の風は、段々と蒸し暑くなってきた。梅雨の季節が近づいていた。幸音は、今日も学校へ行く。授業を受けて、帰る。帰るとまた、あの木の下で、本を読む。思わず、ため息が出た。
ちょうど一か月前である。あの少年のヴァイオリンを聞いた。まるで、春の夜の夢のようだった。気が付いたら、机に伏して寝ていた。少年の姿はもうなかった。後悔の念が、いまだ消えない。
きっと、あの少年は、途中で寝てしまった私に失望して、出ていったのだろう。自分から聞きたいといって寝てしまった自分が恥ずかしく、幸音は悶々と悩んでいた。短い書置きが、残してあった。
「ご飯、美味しかったです。ありがとうございました」
それだけが、夢ではなかった証拠だった。二人分の食器が、洗い篭にあった。自省、後悔、羞恥……言葉では表せない憂鬱が、今の幸音の悩みなのだ。
「また会いたい」
気付けば声が出ていた。自分の耳を疑った。何を言っている、私は。他人に会いたいなどと考えるのは初めてだった。風が吹いて、ストレートの髪が視線を隠す。それを手で払って、ずっと握っていた本を開き、読み始めた。
いつもの自分に戻らなくては。そう思い、小説を読み進めた。「ヒックとドラゴン」は最終局面に差し掛かった。悪いアルビンとヒックの一騎打ち。面白おかしい描写の一騎打ちなのに、頭の中には、春の嵐が流れていた。
父親に食事を差し入れに行くと、珍しく、父親は、こちらを向いて言った。
「幸音、最近学校で何かあったか?」
思わず、たじろぐ。
「なにも、ないけど…」
父親は何も言わずにこちらをじっと見ていた。幸音は、目をそらさないようにするので精一杯だった。数十秒、こちらを見つめた後、父親は、また机に向かった。
「なら、いい」
書斎から出た幸音は、深呼吸した。父親は、意外と感覚が鋭かったりするが、幸音から何か言わない限り、説教のようなものは食らったことがない。たぶん、考えることが多すぎるのだ。階下で食事をとる。かつん、という食器の音だけが、がらんとした食堂に響いた。
翌日も、学校に登校した。相変わらず、幸音に声をかけるものはなかった。学校の帰り道、幸音は、寄り道をした。床屋へ行ったのだ。長いものは脇まであった髪をバッサリと切り、ショートにした。
何が変わったのか、わからない。でも、そうしよう、と思った。人生初めての意識したイメージチェンジかもしれない。別に何に気合を入れたわけでもないが、何かが変わったのだ。幸音の心の中で。
翌日、学校に行くと、昼休みに同じクラスの女の子が話しかけてきた。
「ねえ、西原さん、髪切った?」
心の準備はできていた。前の学校でも、髪を切ったらクラスの人から話しかけられることがあった。
「うん、昨日の帰りに…」
だから、慣れない会話も、そこまでつかえない。
「西原さん、ショートも似合ってるね」
「そ、そう?ありがとう…」
ショートも、というのは予想外だった。しかし、すぐに思い直した。まあお世辞のたぐいだろう。
「いやほんと、西原さんってかわいいよね。もったいないくらいに」
「もったいない?」
「うん、明るくすればもっともてるよ。実際、男子の間では、いろんなうわさが飛び交ってるよ」
「うわさ?」
「うん、大豪邸に一人で住む謎の美少女だーみたいなのから、実はEカップらしいみたいなやつまで」
「そ、そうなんだ…」
初耳だった。中学2年になって、新事実を発見してしまったような気分だった。自分に対する興味など、最初の物珍しさだけだと思っていた。
「加奈子―――外いこーぜー」
ガラの悪そうな格好の女番長のような人物が、幸音と話していた女の子に話しかけた。
「じゃあ、またね」
「あ、うん」
加奈子と呼ばれたその女の子は、幸音に小さく手を振って、出ていった。活発な子だなあ、と幸音は思い、その後の時間は読書に没頭した。
加奈子は、この学校で最初の話し相手になった。翌日から、二人は、よく一緒にいることになった。二人の趣味は、読書とスポーツで、まるで正反対だったが、不思議とウマが合った。
ある日、幸音は、あの少年の話をした。すると、加奈子は、
「それって、こないだネットでニュースになってたかも」
そういって、携帯で、その記事を見せてくれた。
「放浪の少年、ヴァイオリンで生活」
「ヴァイオリン少年、孤児院を拒否。その訳とは」
「保護者のいない少年。日本にもまだこんなことが…」
根も葉もないようなものから、少年の生き方を批判するもの、同情するもの、様々な記事があった。幸音はあの日のことを確信し、強く思った。話を聞きたい。どんな人に育てられたか。なんでヴァイオリンを弾くのか。
その音が、また聞きたかった。
如何