春の嵐
連載開始って感じですねえ
春になった。幸音は中学2年生になった。といっても、勉学にも青春にもさして事件のない幸音には、あまり関係のないことだった。粛々と日々が続いていた。朝食と昼食を二人分作り、一人分は作り置きに、もう一つは自分用にして、学校に行き授業を受けて帰る。そんな毎日である。
部活にも所属していない幸音は、帰ると、庭の桜の木の下に座って本を読んだ。この屋敷の庭には、前の持ち主が植えたらしい大木が、あちらこちらにそびえていたのだ。お気に入りの場所だった。ここならば、誰にも邪魔されずに小説に浸れた。
前の持ち主か庭師が、もの好きだったのだろう、桜にとどまらず、梅や、柿や、果てはもみの木など、植物に詳しくない幸音には種類を数えることもできないほどの木が広い庭に植わっていたのだ。
幸音は、この木々の下で本を読むのが好きだった。木陰は、春夏秋にかけては、心地良い温度を幸音に提供した。下生えの草は、少し濡れていることもあったが、柔らかく、座り心地が良かった。
幸音は、いわゆる古典的な文学作品からライトノベルのような現代もの、ミステリーからコメディまで、どんな本も読んだ。むさぼるように読んでも、図書室の本は尽きることはなかった。
幸音は、この頃児童文学にはまっていた。今日は、「ヒックとドラゴン」を読んでいた。少年向けのストーリーと、ハチャメチャなバイキング魂に、時々くすりと笑い、北欧の海に思いをはせた。
人の気配がした。めったに通らない通行人か。そう思って顔を上げると、目の前に顔があった。
「ひぅっっ」
思わず情けない声が出てしまった。拍子に、後ろに倒れるように後ずさりする。
「すいません、驚かせてしまって」
少年の声だった。少し落ち着いて見ると、少年が前に立っていた。
「読書の邪魔をしたら悪いと思って」
少年が謝る。しかし、幸音には他に気になることがあった。
「それ。ヴァイオリン?」
少年が左手に持つものを指さして聞く。少年は、予期しなかった質問に、少し驚き、次いで言葉を発した。
「はい」
そういって、手に持ったそれを少し高く持ち上げる。楽器のこともあまり詳しくはない幸音にも、その動きから、手慣れている、と感じられた。あの時の、と言いかけて、幸音はハタと止まった。あれは空耳だったかもしれない。そもそもあんな雪の中ヴァイオリンを弾くようなものがいるはずが…
「あの…」
逡巡していると、少年が話しかけてきた。
「この庭の木の下、いいですよね。時々、ここで弾かせてもらっていました。今日も弾きに来たのですが、どうやら屋敷の持ち主が変わったようなので、あなたに声をかけてみようと思ったのです」
幸音は、そういわれて、少々困惑した。そもそも、最初からあった疑念。この少年は何者なのか。なぜここにいるのか。情報の整理がつかなかった。しかし、話しかけられているので、答えなければと、口を開いた。
「私、ここに住んでいる。あなたは、どこに住んでいるの?」
「私に家はありません。住みかというなら、この地球全部です」
予想だにしなかった答えに、幸音はさらに困惑した。旅をしているのだろうか。それもこんな少年一人で。気づいた時には口から言葉がこぼれていた。
「お父さんとお母さんは?」
とたん、少年の顔が曇ったのがわかった。回らない頭で、質問を間違えた、とだけ思った。少年は何も言わなかった。それが答えだった。しばらくして、少年は言った。
「…失礼します」
回れ右した少年の背中に、しばし呆然として、それから声をかけた。
「夕ご飯、食べていかない?」
なぜか、そう言わなければ、と思った。その、去っていく背中が、いやだった。少年は振り向かずに言った。
「いえ…家族がいるのでしょう?ならば、邪魔をするわけには…」
「大丈夫よ、ほぼ一人みたいなものだから」
「そう、ですか。しかし、私は何も返せませんが」
その返答にかぶせるように、幸音は言った。
「じゃあ、代わりに、ヴァイオリンを聞かせてよ」
「ごちそうさまでした」
「…ごちそうさまでした」
いきなりやってきた自分に、ご飯を振る舞ってくれたこの少女が、何故か終始張り切って料理していたのに、少年は困惑を隠せなかった。持ち主が変わったから、この家からもまた白い目で見られて追い出されると思っていた。そもそも、自分がなぜあの少女に声をかけようと思ったのかもわからなかった。
「それで、なんていう曲を聞かせてくれるの?」
ハッとして、目の前に座る少女を見つめてしまった。端正な顔立ちに澄んだ目が、こちらをまっすぐ向いていた。
「え、ええと、そうですね…」
思わず口ごもる。そうだ、そういう約束だった。頭をはっきりとさせ、考える。ヴィヴァルディの春がいいか。そうとっさに考えて、口に出した。
「それでは、ヴィヴァルディの「四季」より「春」を…」
そういってヴァイオリンを構えた。毎日のように弾いてきた。親代わりのあの人に託されて以来、ずっと持ち歩き、弾き続けてきた。「春」など、何百回弾いたことか。しかし、なぜか手が震えた。
怖いわけではない。恐れるものなど何もない。しかし、手の震えが止まらなかった。やるんだ、やるしかない。そう決めて、何前回も引いたあのフレーズを、始めた。
初めてだった。何もかもが。
こんなにも、音楽が、溢れていたのは、初めてだった。
音だけが響いていた。
少女はいつしか眠り、少年はそれに気づき、演奏をゆっくりと止め、手近にあった毛布を掛けた。
朝起きた時、寒くないように。
…用が済んだら帰る、という育て親の言葉通り、少年は静かに去った。
来た時と同じように。
それはまるで、クレッシェンドしてフォルテを奏で、デクレッシェンドする
嵐のようだった。