雪の音
初投稿 です
雪の中を、傘を差した少女が歩いていた。白い息が、雪の中に溶けていく。上品な赤い衣服から除く肌は、雪のように白く、今にも雪の中に溶けてしまいそうであった。少女の身長に似合わない大きな傘は、少女の真っ赤なワンピースに雪が積もるのを防いでいた。
少女が歩く方には、いつしか大きな屋敷が見えてきた。ぽつぽつとあった民家が無くなった丘の上にそびえているその屋敷は、一つの窓からのみ明かりが見えた。
一つ息を吐いて、少女は門をくぐって屋敷のドアに向かう。ドアを開け、大きな傘を傘立てにそっとさし、少しばかり雪のついた靴を脱ぐ。靴の雪をはらって、玄関を上がり、しんとした家に向かって、
「ただいま帰りました」
返す声はなく、澄んだ少女の声のみが空虚な家に響いた。少女は、さして気になることもないように、階段をのぼり、少しして降りてきた。赤いワンピースは、部屋着に変わっていた。少女は、階下の台所に向かった。
しばらくすると、台所からは香ばしい匂いが漂ってきた。グラタンであろうか、家庭料理というには少々高等な匂いである。少しして、少女は皿に盛った食事を持って階段を上った。二階に上り、奥にある重厚な扉の前に立つ。
「失礼します、お父さん」
どうやら父親の書斎のようだ。少女は返事を待たずに戸を開け、部屋に入る。書類……いや、原稿用紙が散らばる床の上を、慣れた足運びで進む。
「夕飯を作りました」
書斎の奥の椅子に座ったその人物は、振り向かない。代わりに、穏やかな声で言う。
「ありがとう、ゆきね。そこにおいといてくれるかい」
その声と同時に少女は机の上に皿を置く。そして、先ほどよりも柔らかい口調で、
「熱いから気を付けて…」
父親は、少しだけ料理に目をやり、眼鏡を曇らせ、
「ああ、ありがとう」
といってまた机に向かった。少女……幸音はその言葉に少しだけはにかみ、慣れた足取りで書斎を出る。ドアを後ろ手に閉め、少し立ち止まり、ふぅと息を吐いた。雪のせいか、片田舎の屋敷はとても静かだった。
階下で自分の食事をとった後、二階の自室に向かう。3年前、母親が交通事故で亡くなったとき父親は、交通事故を恐れてか、後悔からか、また失うのを避けてか、都会を離れてこの田舎の町の丘の上に引っ越してきた。
自室に入った少女は、気が抜けたように表情を緩ませる。笑うでもない、怒るでもない、そんな表情。まるで今まで気を張っていたかのようだ。少女は、ゆっくりと、ベッドに向かう。
母親が死んだとき、父親は、嘆き悲しんだ。もともと情緒不安定であり、時には幸音に当たることもあった。幸音は、立ち直りが早かった。もともと、遊びに出ることも多く、娘よりも父親を、あるいはほかの男を愛した人だった。
ベッドに座り、置いてあった本を手に取る。幸音が父親に似ていたのは、その小説好きと、穏やかな表情だった。母親はよく、父親のその表情を褒めていた。「唯一のチャームポイント」だったらしい。
父親は、そんな母親を愛していたらしい。美人で明るく、よく気が利く人だった。男に対しては。そんな両親とは似ず、幸音は静かな少女だった。喜怒哀楽をあまりはっきりと見せず、時々にこりと笑う以外は無表情が多かった。
ベッドに座り、本を読み始める。栞は、父親からのプレゼントだった。あまりものを欲しがらなかった幸音に、父親が10歳の時にくれたものだった。小学校で文字を習い始めてから、毎日暇なときは本に読みふけっていた幸音には、嬉しいプレゼントだった。
ちょうど10歳の時だった。母親は、遊びに出て、帰ってこなかった。夜には帰るといっていたのに帰らなかった母親を心配した父親が、慌てだしたころ、警察から電話があった。
「西原さんのお宅ですか?奥様が……」
父親は、一瞬戸惑いを見せて、それから深刻な顔をし、次いで自家用車の鍵を掴んだ。
「幸音も行くよ」
そういって車で母親が運ばれた病院に向かった。病院につくと、母親の遊び相手であろう男がやや挙動不審に病室の前に立っていた。それを無視して、一刻も早くと病室に入った。
「誠に残念ながら、奥様は、もう……」
父親は、泣いた。次いで、怒った。医師ならなんで救えなかったのだ。そばにいたのになんで助けなかったのだ。最後には支離滅裂なことを言い、泣き崩れた。その場にいるものは、何も言えなかった。
そこからは嘘のように時間が早かった。特に友達もいなかった幸音にとって転校はそこまで大したイベントではなく、粛々と田舎に移り住んだ。この一軒家を買い、静かな暮らしが始まった。
学校では、特に何事もなく、登校し、授業を受けて帰った。母親似の美人であり、入学当初は周りに人が集まったが、何を話すわけでもなく本を読む幸音の周りからは、だんだんと人がいなくなり、静かな小説好きという位置に収まった。
ふと顔を上げると、かすかな音がした。音楽が聞こえたのだ。ヴァイオリンの音である。しばし本を読むのをやめて、曲を聞いた。音楽を全くと言っていいほど聴かない幸音には、その曲がなんという曲かはわからなかったが、その演奏には、なぜか耳がなじんだ。
父親は、曲を聴くような人ではない。音は、庭からしていた。雪に埋もれて、少ししか聞こえないが、どうやら確かにヴァイオリンの音のようだった。
幸音は、窓を開けた。庭を見やると、既に日は落ちており、真っ暗で何も見えなかった。ただ、雪だけが舞っていた。やがて、ヴァイオリンの音は聞こえなくなり、静寂が訪れた。不思議と、怖くはなかった。
幸音は、窓を閉じ、あれは何だったのかと思いながら、本をしまい、ベッドに横になった。窓を開けたので、寒気がした。布団をかぶると、すぐに瞼が落ちてきた。
「もし、誰かが弾いていたのだとしたら、どんなに寒いだろう」そんなことを考えつつ、幸音の意識は夢の中に入っていった。