第二十四話 グリューネヴァルト家での生活
グリューネヴァルト家に来て一年が過ぎた。
本邸での生活は意外にも穏やかなもので、トレーニングや勉学は必修とされているがノルマさえこなせば父は何も言わない。
むしろここで学べる多くの事はメルセデスにとっても得難いものであり、彼女は積極的に自らの知識を増やした。
特に大きかったのが、『血操術』と呼ばれる吸血鬼特有の身体能力向上法だ。
「では皆様。今日は血操術の練習をしましょう」
メルセデスを始めとするグリューネヴァルトの子等の教師を務める長身の吸血鬼が部屋を見回しながら言う。
室内にいるのはメルセデスとフェリックス。
更にゴットフリートやモニカ、マルギットまでいる。
ベルンハルトはあれから、何を思ったのか(行方不明になったボリス以外の)側室の子全員を離れの屋敷へと招き、メルセデスやフェリックスと同じ教育を施していた。
思いがけぬ場所からメルセデスという上出来な娘が出てきたので、もしかしたら他の側室の子の中にもまだ宝石が紛れているかもしれない、とでも思ったのだろう。
「我等吸血鬼は他のファルシュと異なり、血の流れが大きな身体能力を生み出します」
教師の言葉を素早く書き写しながらメルセデスは考える。
吸血鬼の身体は人間と似ているようで、やはり違う。
純粋な筋力や脚力以外に、血流の流れが爆発的な身体能力を生み出す事をメルセデスはここに来て初めて知った。
心臓が身体の隅々に血を行き渡らせるのは人と同じだが、吸血鬼はこの血流の速度を速める事が出来る。
そして血を強く、速く身体に行き渡らせる事で身体能力を高める事が出来るのだ。
これを自在に操り、自らを強化する事を『血操術』と呼ぶ。
メルセデスは、知識もないままにこれを既に実践していた。
彼女にとっては単に筋力を向上させる為にやっていた重力修行。あれがそうだ。
重力が強くかかるという事は、当然血も重くなる。
しかしメルセデスの身体はそれに反発し、心臓は強靭になり、血流の流れる速度と力強さも増した。
ましてやメルセデスは毎日休まずに己に重力をかけ続けている。つまり休む事なく血操術を磨いているのと同じであった。
これがメルセデスの、他の吸血鬼を引き離した強さの秘密だったのだ。
重力修行がそんなに効率がいいならば他の吸血鬼もやればいい、と思うだろう。
しかしそうはいかない。何故ならこの世界にはそもそも『重力』や『引力』の概念そのものがないからだ。
天動説――大地は動いておらず、天体が動いている。
地上平面説――大地は平面であり、球体ではない。
この二つの説がこの世界の学会の主流であり、ファルシュ達は自分達が球体の上に乗っている事を知らない。
むしろここで世界が球体だなどと言えば、『球体ならば下の者が落ちてしまうではないか』と学会で笑われてしまうだろう。
この世界の住民にとって上から下に物が落ちるのは『当たり前』であり、引力という発想に行き付かない。だから土魔法を使う誰もが、重力というすぐそこにある物を使う事すらしない。
では、青い星からやって来たという神々はどうなるのだ、と疑問を零した者は当然いた。
しかしこれに対し、教会(驚くべき事に吸血鬼なのに神を信仰しているし、教会もある)はこう答えた。『それこそ神の御業。神なのだから球体の上に乗れるのだ』。
だから重力を操るという、思い付いてしまえば簡単な事に誰も気づかない。気付けないからこそ、重力操作はメルセデスだけが操る魔法として彼女だけを強くし続けていた。
「それではまず、心臓を強く意識して下さい。次に血の流れを感じ――」
教師の説明を聞きながらメルセデスはフェリックスを見た。
あの一件以来フェリックスは特にメルセデスに干渉して来ないが、内心ではきっと複雑だろう。
実際本妻はあれこれベルンハルトに抗議してはあしらわれている。
あの日の出来事はフェリックスにも落ち度があったが、彼にとっては不幸な出来事だった。
ベルンハルトから聞いた話だが、ボリスからは結局これといった情報は出てこなかったらしい。
本人曰く、フェリックスへの怒りを滾らせていた時に、偶然闇市で見付けて購入したとか。
偶然……とは言えないだろう。
恐らくグリューネヴァルトをよく思わない何者かが、意図的にボリスを利用したと見るべきだ。
メルセデスはあの後、ベーゼデーモンにも話を聞いたが、そのベーゼデーモンも生まれてすぐに封石に詰め込まれたらしく情報はやはり何もない。
ただし『敵を倒せ』という命令を事前に受けていた事だけは覚えており、不思議とそれに歯向かう気すら起きなかったという。
これは恐らくダンジョンマスターから下された命令だ。マスターは自らが所有するダンジョンの魔物に命令する事が出来る。
そしてベーゼデーモンの所有権は今、メルセデスに移っており、もう命令を受ける心配はない……と野菜炒めを作りながらベーゼデーモンは語っていた。
故に、あの事件の裏にいただろうダンジョン攻略者は未だ闇の中だ。
どうでもいいがマルギットの引っ越しと共にベーゼデーモンも本邸へ来ており、今は屋敷の厨房で働いている。
一体あの悪魔は何処に向かっているのだろうか。
そして腹の立つ事に、彼の作る料理はとても美味であった。
◆
屋敷の地下に作られたコロシアム。
そこでメルセデスは腕を組み、父が用意した対戦相手を見ていた。
ベルンハルトから施される英才教育は何も座学だけではない。こうした実戦もまた彼にとっては教育の一環でしかない。
恐らくフェリックスなども幼い頃から似たような事をやらされていたのだろう。
敵の数は二十。全員が吸血鬼で、更に各々の手には武器まである。
対しメルセデスは一人で無手。屈強な武器を持った二十人の男と無手の幼女。傍から見ればさぞ大人げない光景に見えるだろう。
だがこの場において本当に大人げないのは果たしてどちらの方か……。
「始めい!」
ベルンハルトが腕を振り下ろし、開戦の合図を告げた。
彼の合図に従い、二十人の吸血鬼達が一斉に飛び出した。
地を蹴ってメルセデスに迫る速度はいずれも凄まじく、恐らくは時速にして50か60を出している事だろう。
それが全くの予備動作なしで二十人。普通ならば対処すら出来ないはずだ。
だがそれはメルセデスが普通ならばの話。彼女は腕組みを解かぬままに軽く床を蹴り、真正面から彼等の間の僅かな隙間を通過して背後へと移動した。
きっと彼等の目にはメルセデスが突然消えたか、あるいは影が一瞬走ったくらいにしか見えなかっただろう。
「き、消えた……?」
「違う、後ろだ! 回り込まれている!」
「ちいいい!」
男達は叫びを上げ、振り返ってメルセデスへと襲い掛かる。
叫ぶその声に混じっているのは怯えだ。
彼等はいずれも、元々が兵士だった者が落ちぶれて野盗となった者達である。
幸運尽きて捕らえられた彼等に生き残るための条件としてベルンハルトが提示したのは、娘のトレーニングの相手となる事。
……メルセデスに、一筋でもいいから傷を付ける事。それが出来たならば全員生かしてやる。それが父の出した条件であった。
男達は当初、メルセデスを見て安堵した顔すら見せていた。
これならば簡単だ。むしろ傷付け過ぎて不興を買う方が不味いと彼女への気遣いを見せる者すらいた。
しかし今の動きを見せた事で彼等も認識したのだろう。メルセデスが見た目通りではない事を。
遊びを捨てた我武者羅な攻撃を次々に繰り出すが、メルセデスはそれを前にしても腕組みを解く必要にすら迫られなかった。
それどころかギリギリまで引き付け、髪に触れる寸前で避け、最低限の動作で攻撃をいなす。
そして回避動作が終わればすぐに元の姿勢へと戻る。
彼女の戦闘技術はこの一年で更なる飛躍を果たしていた。
「な、何故だ! 何故当たらないんだ! 動いてすらいない相手に!」
「こ、攻撃がすり抜ける!」
「幻術だ! 惑わされるな!」
避ける動作はほんの一瞬のみ。残像すら残しはしない。
故に彼等の目に映るメルセデスは不動の姿勢で腕組みを続ける姿のみだ。回避動作など取っていないように見えるだろう。
勿論幻術などではないので、彼らの言葉は全くの的外れであった。
メルセデスはチラリと父を見るが、父は彼女の動きに満足そうな顔を見せている。
後はこのまま蹴散らしてしまえばベルンハルトの望み通りの展開となるだろうが……。
「…………」
メルセデスは目を半開きにしたまま迫る刃を見る。
回避は余裕。そもそも相手側の動きが単調過ぎる。
それを限界まで引き付け――あえて頬を掠らせた。
ベルンハルトはまだそれに気付いていない。
「しっ!」
ここから一転攻勢。
メルセデスはその場で蹴りを放ち、周囲の男達を薙ぎ倒した。
攻撃動作も一瞬で、攻撃後にすぐ姿勢を戻している。
故にこれもやはり、何もしていないようにしか傍目には映らない。
それを数回繰り返し、二十人の男全てを床に伏せさせた。
するとそれを観戦していたベルンハルトの部下達が呆然とし、父だけが拍手を送って来た。
「素晴らしい。見事だ、メルセデス。
グリューネヴァルトの名に相応しい優雅かつ圧倒的な勝利であった。
所要時間も私が定めた一分以内という目標を見事に達成している。
最初に遊ばなければもっと早くに終わらせる事も出来ただろう」
「いえ、まだまだです」
「何?」
「一つ避け損なってしまいました。私も精進が足りません」
メルセデスは上機嫌のベルンハルトにそう言い、わざと作った頬の傷を見せた。
すると先程まで喜色一面だった彼の表情が若干曇る。
「ふむ。満点をやれそうだったのだが、それはいかんな。
次は気を付けなさい」
「はい、父上」
メルセデスは父に一礼をし、その場を通り過ぎた。
傷は一つ負ったが、これは十分及第点のはずだ、と彼女は考える。
事実、同じ訓練を課されているフェリックスは常に苦戦し続けているという。
これは決してフェリックスが弱いのではない。
野盗に落ちぶれたとはいえ、実戦を経験した元兵士だ。生死をかけた合戦の場に出て、生き残ったのがこの男達なのである。そう、彼等は弱くない。
一人でもフェリックスを多少は苦戦させる事が出来るだろうし、三人も集まればフェリックスでも勝てるかどうかは怪しい。
それを二十人相手にして傷一つ……ベルンハルトもメルセデスを認めぬわけにはいくまい。
「ところでメルセデス……お前は、トレーニングの相手に私が生き残る条件を出している時、不思議とその条件に合うだけの手傷を負うな」
「……それは」
「気付かぬと思ったか?」
言葉と同時に、メルセデスの背後で何かが潰れる音が響いた。
振り返ればそこにあったのは血、血、血――血の海。
部屋中に真紅の液体が飛び散り、その中央でベルンハルトが返り血に濡れていた。
「支配者に慈悲は要らぬ」
「……」
父は硬直しているメルセデスの側へと歩み、ポンと彼女の頭へ手を置いた。
そして不自然なほどに優しく娘の事を撫でる。
「冷徹になれ。それが出来れば、お前は更なる高みへと至るだろう。
――次は気を付けなさい」
「……わかりました、父上」
「よろしい。ではディナーにしよう。
わざと受けた一撃を除けばほぼ満点だ。今夜はお前の好物を多く用意するようシェフに伝えてやる」
そう言い、ベルンハルトは上機嫌のまま立ち去って行った。
その後には彼の部下達も続き、後にはメルセデスだけが取り残される。
彼女はコロシアムの中央に立ち、そこに転がる死体を見下ろす。
倒れている彼等の表情は安堵に満ちていて、きっとメルセデスに傷を付けた事で生き残ることが出来ると信じていたのだろう。
そして、その安心を抱いたまま、自分の身に何が起きたかも分からず父に殺されたのだ。
メルセデスのやった事はただ、彼等を無駄に安心させて高みからの落下を味わわせただけであった。
そしてきっと、この死体は後々に外に捨てられて埋葬すらされないのだろう。
「……上手くいかないものだな」
メルセデスは彼等への情けを見せた。甘さを見せた。
だが本当はこの野盗達の事を何とも思っていない。可哀想などという感情もなく、むしろ自業自得だとすら思っている。
だからメルセデスは彼等を殺ろうと思えば殺れるだろう。
一片の慈悲も嫌悪感もなく、虫を潰すように……魔物を殺めるのと同じ感覚で潰してしまえるだろう。
いや、違う。そうではない。
魔物と同じどころか、メルセデスの中で彼等は魔物以下だ。
自らの欲望の為に他者を食い物にする畜生……そんなのを潰しても、きっと何も感じない。
魔物を殺めた時に感じた僅かな嫌悪感も、きっとそこには伴わない。
メルセデスはそれが恐かった。
いくら悪党でも、自分と同じ吸血鬼を殺めて自分が何も感じないという事……魔物相手でも感じたはずの罪悪感すら抱かない事。それが一番怖かった。
ほら、今だってそうだ。無惨に死んだ彼等の遺体を前に……憐憫一つ抱けやしない。
以前魔物を屠った時、僅かではあるが動揺出来た事を嬉しく思った。
だが今は、その動揺すら抱けないのが何よりも怖い。
本当に上手くいかない……そう思い、メルセデスは血の海に背を向けて歩き出した。
パパン「今日はメルセデスの好物を多めに頼む」
ベーゼデーモン「我、元々お嬢様の配下なんで言われんでもそうしますが」
パパン「……そうか。ところでステーキはウェルダンで……」
ベーゼデーモン「あ、奥様からミディアムレア以外認めないと言われてるんで」
パパン「…………」




