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改革者たち  作者: いつみともあき
7/8

第七章 海国兵談

   1

 葉月も末を迎えていた。

 朝晩は涼しくなる季節であり、口寂しい夜の酒が美味く感じられていた。江戸湾であがる旬の秋刀魚や太刀魚が膳に載れば、いくらでも盃が重なる。江戸の飯屋は、どこも繁盛していた。

 意次の死は、子平の出版意欲に大いに火を点した。意次のような大人物であっても、やり残した仕事がある。況や子平などは、いくら努力しても、し足りぬ。

 なれど、そう簡単にはいかなかった。

 当初は、出版してくれる版元がなければ、自分で木版を彫って、出版しようと考えた。が、なかなか梓の木版を子平に卸してくれる材木屋が見つからなかった。

 子平の名は、『三国通覧図説』の出版で、知る人には知られていた。

 国防に危惧を抱く学者などには密かに支持を得ていた。が、概ねは幕府に睨まれている蘭学者と見られている。

 それ故に、材木屋なども、子平に木版を卸して書が出版され、何かの咎めを受けぬかどうかを、慎重に慮っていた。子平が偽りのない事情を正直に話すと、皆が首を縦に振ろうとはしなかった。

 困り果てた子平は、平助に相談を持ち掛けた。平助の屋敷は、以前の築地から動いておらぬ。

 定信の政で蘭学者である平助も肩身は狭くなったが、藩医としての当主からの信頼は、なお厚かった。役目には、何ら影響はないと聞いている。

 紀伊國橋を潜る猪牙舟を目で追いながら、三丁目の平助屋敷への通りを歩いた。東蝦夷では体を崩したが、もうすっかり良くなった。両足には、力が漲っている。 

 延延と海に流れ込む水面は、陽を受けて、光の帯を走らせていた。辰の刻になり、ちょうど東から上がった陽が、朝と昼の中間の位置で輝いている。

「木版をのう……。市兵衛も、昨今の御政道のせいで、客の大半を失ったらしい」

 平助が、気の毒そうな素振りで、盥の水で手を濯いだ。診察の途中で、奥の居間に抜けてきている。かなり忙しかったらしく、着物の襟元が乱れていた。

「真に、お忙しいところをお時間を頂き、相すみませぬ」

 子平は何度目か、忙しい最中の訪問を謝した。事前に約束はしておったが、ここ二日ほど患者が多いらしい。

 平助は、がぶり、と先ほどお遊が淹れた茶を、喉に通した。ふう、と息を洩らす。

 平助や子平など蘭学者の出版を多く手掛けてきた須原屋市兵衛も、定信の蘭学排除の煽りを食っていた。顧客の大変が蘭学者であった故に、かなりの痛手である。

「仰る通り、市兵衛殿には、とても版元を頼める状況ではありませぬ。何とか自分で出版しようと材木屋を回っておりますが……。良い思案が浮かばぬため、平助先生のお知恵をお借りしようと罷り越しましてござる」

 落ち着いたところで、子平は声を投げた。首を微かに振り、口元を結んだ。出版を諦めるつもりは毛頭ないが、己の不甲斐なさが悔しい。

 平助も思案顔で、開け放った屋敷の庭に目を落とした。弟子が数人で、落ち葉の掃除をしている。

「なかなかに、他人には頼み難い仕儀じゃ。材木屋たちが危惧するように、今の侍従様ならば、身に覚えのない罪状で捕えられる恐れすらある」

「全ては儂の一存で、と考えてござる。それ故に、何らかの処罰がござれば、己の一身にてお受けする所存ではありますが……。確かに、絶対に災いが及ばぬ、とは確約はできませぬな」

 完全に行き詰っていた。一人身の子平ならば、どのような罪科を受けても構わぬ。が、他人に無理強いできる話ではない。

「……一応、儂も心当たりは考えておくが、時間が掛かるやもしれぬ」

 いつもは豪快な平助にしても、歯切れが悪かった。それほどに、今の蘭学者の境遇は厳しい。

   2

 木版を扱わせてくれる材木屋は、まだ見つかっていなかった。

 だからといって、鬱ぎ込んでいる訳にもいかぬ。

 子平は一念発起して、材木屋探しと並行して、出版ができずとも己の考えを世に示せる方法を模索し始めた。具体的には、読売への投稿や、通りでの講演、寺子屋での講義などである。

 しかし、これも思うようにはいかぬ。読売は当初の一、二度こそ掲載してくれた。が、どこかから圧力が掛かったか、幕府の顔色を気にしたか、子平の軍事や国防論を掲載しなくなった。寺子屋についても、況やである。

 故に、此処のところ、暇を見つけては通りで、唯一残った講演を試みていた。

「江戸にいてはわからぬが、北方にはヨーロッパの大国であるロシアの脅威が、隣国の清よりも強大で、かつての元のように、大軍を持って攻め寄せてくる危惧は、常にある。然るに、今の日本の軍備は、脆弱に過ぎる。世界の戦は海戦が主になっておるにもかかわらず、未だに大楠公を始めに、信玄公や謙信公、はては孫子など、陸戦の兵法を主としている。そもそもが、間違っている」

 子平は、行き交う人々に向かって、淡々と語り掛けていた。

 ほとんどの者の反応は冷たく、中には、露骨に奇異な目を向けてきた。が、蝦夷の現状を見た機会のない江戸庶民の反応が薄い状況は、ある意味では仕様がない。その中の誰か一人、ほんの一握りでも、今ある日本の危機を感じて欲しい。

 子平は、未来の日本人に向けて、語っていた。

 人通りの激しい道の端で、講演を行っていた。といっても、聴衆は二人か、よくて三人ほどが立ち止まる程度だ。 

 足を止める者は当初、薬箱を傍らの地面に置いた医師が、いったい何を話しているのだろう、と気になるようだ。が、耳を傾けると、遠い蝦夷やロシアなどの、自分と馴染が全くない内容の話をしている。

ほとんどの者は、話を聞かずに、そそくさと立ち去っていた。

 涼しい風が通り抜け、砂を巻いた。

 他人の気配が両側で動いたと感じた瞬間、子平は周囲を、同心たちに囲まれていた。

「林子平。徒に世の不安を煽る話を続けておる、不逞な輩め。大人しく、番所に同道を致せ。さもなくば、ひっ捕らえてでも連れていく!」

 一番年配そうで、色の黒い狐目の男が、辺りに響き渡るような声を放った。

   3

 通りで講演を始めた頃から、何度か探りを入れられている気配を感じていた。岡っ引きが町人の態で潜り込んでいるのでは、と考えていたので、いずれは同心が出張ってくる状況は予想していた。

 逆らうつもりは毛頭なかった。調べに対し、堂々と申し開きをするつもりである。場合によっては、命を懸けて幕府の外交を諌める気概も持っていた。

 幕府の国防を諌めた蘭学者が罰せられたとなれば、今は沈黙したままである此の国の蘭学者たちの心に、多少なりとも火を点せるかもしれぬ。

 子平は、火の見櫓を屋根に載せた自身番に連れて行かれた。入口で腰の脇差を差し出すように言われ、素直に渡している。

 子平の剣の腕前は、事前に掴んでいた。下調べは、とうに済んでいたのだろう。なぜなら、子平を同道させるために、同心が二人と岡っ引きが三人も従っていた。

 侍を捨てて久しいが、今なお腕前を評価され、大勢の同心たちを引き連れて歩く姿は、なかなか悪い気がしなかった。一点だけ、罪人扱いでなければ、だが。

 講演の内容が猛々しかったため誤解したのか、大人しく命に従い、無造作に脇差まで差し出した子平に、同心たちは拍子抜けしていた。歩く内に、同心たちの物言いも随分と穏やかになっている。子平に害意はない状況が、伝わっていた。

 腰高障子を開けて入った上がり框の前は、すぐに畳間が広がっていた。畳間の奥には、腰高障子を挟んで三畳板間がある。

 板間の壁には、榾が見えた。重罪人や危険人物と判断されれば、鎖で繋がれる。

「抵抗の様子は、なさそうじゃな。では、こちらに腰を降ろされよ」

 狐目の男が、子平を畳に促した。

 畳間は五畳あり、なんとか全員が入れる広さがあった。

 子平は頷き、右側の腰高障子の前で胡坐を掻いた。左側には机が置かれており、これからの詮議を記録する。

 表の腰高障子以外には窓がないため、自身番の奥に入るほど、薄暗くなった。壁際の上に提灯が並んでいたが、夜回り用である。行灯を入れるには、外が明るすぎた。

「さて、儂は如何なる罪状で連れて来られたのでござろうか。まずは、罪状をお聞かせ願いたい」

 机で一人が筆を持ち、詮議をする状況が整ったところで、子平から声を投げた。

相手の間合で勝負するのは、兵法では下の下の策である。故に、こちらから口火を切った。

「まだ、わかっておらぬのか。先ほども申したとおり、御公儀に楯突き、人心を不安に陥れるような言動が、お主の罪状だ」

 子平の正面には狐目が座ったが、その隣の若い同心が声を投げてきた。正義感に溢れ、物事を疑うことを知らぬ様子である。瓜のように面長で、色白だ。確か名を、柿木結之進と申したか。

「お言葉を返すようだが、儂は御公儀に楯突いている訳ではござらぬ。日本国の行末を危ぶんで、江戸の皆に危機をお知らせ申しておる次第。各々方はもちろん、御公儀のお偉方でさえも、蝦夷や異国の状況をよくお知りでない。どころか、関心すら持とうとしておらぬ。それが、どれほど危うい結果を招きかねぬか。知らぬ間に異国に攻め寄せられてからでは、手遅れになる」

「黙らっしゃい! それが、人心を不安にする、と申しておるのだ。日本国の隅々にまで、御公儀の御威光が轟いておる。異国が攻め寄せてくる事態など、有り得ぬし、よしんば攻めてきても、旗本八万騎と諸大名の軍勢に恐れをなして、逃げ帰るであろう」

 狐目が、さらに目を細めた。頬の辺りをぷるぷると震わせているのは、憤っているためか。

「お主が強情を張り続ければ、御上から何らかの処罰を受ける仕儀となるが、構わぬのか。今日のところは、二度と通りで講演をせぬ、と誓えば帰してやろうと思うておったが」

 結之進が、脅しを懸けてきた。が、真っ直ぐな気質が垣間見え、嫌味ではない。

「御手前は、まだ若うござるな。齢二十の辺りか。一つ、御忠告を申し上げておこう。御公儀や上役の言を全て鵜呑みにするのではなく、まずは疑い、御自身の目で確かめられよ。それから、これからは広く、異国に目を向けられるがよい。お手前が儂くらいの齢になる頃には、異国と日本国の関係も、随分と変わっておるだろう」

 子平は、結之進の真っ直ぐさが、いい方向に伸びて欲しいと考えた。子平は若い頃から、数多くの良い助言を得られ、自分を成長させられている。

「己は、まだ戯言を続けるつもりか! 真に、ただでは済まさぬ次第となるぞ」

 狐顔が声を荒げ、成り行きを見守っていた岡っ引きたちが、首を竦めた。

 結之進は、ぽかんと、子平を見詰めている。今まで、しょっぴいた相手に説教された機会は、なかったであろう。

 自身番内に険悪な雰囲気が漂っていた。これ以上しつこく子平が逆らうと、確かに罪人にされかねぬ状況である。

 筆を持った岡っ引きが、子平を鬱陶し気に見てきた。早々と終わらせて、次の仕事に取り掛かりたかったと言わんばかりで、恨めしげだ。

「御邪魔を致しまする。浅草門前町の名主、柄井川柳にござる。こちらに、林子平が連れられておると知らせがありました故、引き取りに参りました」

 川柳の声がした。背後には、駕籠が置かれておるのだろう。障子に影が映っていた。

 腰高障子が開くと、川柳が上がり框に立った。

「これは、大勢の方々にお手数をお掛けしました。その者は、儂の管理する長屋の住人にござれば、御無礼の談は、重々に言い聞かせます故、何卒、此の度は御赦免くだされ」

 川柳が深く、腰を折った。川柳の肩が、小さく見えている。

「なれど、此の者は反省の言を申さず、反対に、儂らに説教する始末じゃ」

 狐目が、憎憎しげに吐き捨てた。子平にも、チラと睨みを向けてくる。

「重ね重ね、申し訳ございませぬ。二度と、そのような言動はさせませぬ故、ご容赦を」

 子平のために頭を下げる川柳を見ていると、心が痛んだ。自分の意地が、一人の老人に、孫のような同心たちに頭を下げさせている。

 ――何とすればよいものか。

 大見得を切った手前、今更、同心たちに頭を下げられぬ。

 つと川柳を見ると、何かを訴えるような視線を向けてきていた。微かに、頷いている? 

「先ほどの言は、全て撤回致します故、お許し願います。真に申し訳ございませなんだ。川柳殿の申されるとおり、今後は心を入れ替えまする」

 何か川柳の意図を感じたため、子平は一転して平謝りをした。畳を鼻先でなぞらんばかりである。

 同心たちは、呆気に取られていた。子平の豹変ぶりが、信じられぬ態であった。

   4

 番所からの帰り道であった。駕籠は拾わずに、ゆっくりと大川沿いを歩いている。

「よけいな口出しをしましたかな。なれど、放っておけば子平先生は意地を張り続けたでしょう」

 川柳が片方の手で顎髭を触った。頬の皺を深め、子平に笑みを向けている。

「仰せの通りにござる。かくなる上は、評定所で堂々と申し開きをする所存にございました。が、先ほどの川柳先生の表情から、何かの意図を感じました。それにしても、番所の役人どもの驚きようは、なかったですな」

 子平の豹変ぶりに、役人たち、特に狐目の男は、振り上げた拳を降ろす先を失った。

 本来ならば子平の改心を喜ぶべきのはずなのに、平謝りに徹した子平を、納得がいかぬ態で見送った。

「ほっほっ。ちと、子平先生が大袈裟に過ぎました故。やり過ぎますと、相手の神経を逆撫でしますぞ」

 穏やかに川柳に窘められると、子平としても素直に頷くしかなかった。

「して、川柳先生の意図とは」

 名主なので知らせは入るが、川柳が子平を折れさせたには、訳があった。

 並んで門前町に向かう川柳と子平とすれ違いざまに、会釈をして通り過ぎる者たちがいた。ほとんどは川柳に対してで、子平に頭を下げるのは、長屋の知り合いくらいである。

 むしろ、子平が幕府に睨まれているという噂が流れるにつれて、町衆には避けられるようになっていた。皆が、定信とその隠密たちを恐れている。

「子平先生が朝からお留守の間に、築地の工藤平助殿の使いが参られましてな。先生がお留守である旨を申すと、何やら口籠られた故、御用件をお聞きしたのでござる。初めは少し言い澱んでおったのですが、平助殿が、どうやら木版の当てを見つけた様子」

「おお、真にござるか。……それは、有難い」

 子平は通りの真ん中で一人、喚声を上げた。同時に拳を握りしめ、唇を引き結んだ。体中に、力が宿ってくる。

 周囲の奇異な視線が、一斉に振り向いてきた。脇をすり抜けていく童たちも、びくと、驚いた様子である。昼餉時のため、家に向かう途中であろう。 

 大川沿いに並んだ寿司屋、蕎麦屋、天麩羅屋などの屋台は列を成していた。屋台は、江戸の庶民には、欠かせぬ憩の場である。各々の屋台の前を過ぎると、鼻を擽られた。

 また、行き交う船でも、女子を侍らせた大人たちが、弁当を広げて酒を飲んでいた。全く、良い御身分である。

 確かに、定信の政で暮らし辛くなったというても、江戸は長閑であった。狐目が御公儀の御威光を疑いなく信じ込んでおるのも、無理はないやもしれぬ。

 ――それでも、知っておる者の責として、訴え続けねばならぬ。

 揺るぎのない、子平の信念であった。

「平助殿からのお使いが帰られた直ぐ後に、番所から知らせがあり申した。それ故に、意地を張られるよりは、まずは平助殿の下へ急がれるべきかと考えたのでござる」

「有難う存じまする。全く、その通りにございます。つまらぬ議論をしておる場合では、ございませなんだ」

 子平は、先ほどまで息巻いていた自分に照れ、川柳の顔を真面に見られなかった。

 川柳が来なければ、小事に拘り、大事を逃す結果となったやもしれぬ。齢を経て、少しは気は長く、心は広くなったつもりであったが、まだまだである。

「儂がお役に立てて、良かった、子平先生を牢屋敷なぞに入れさせては、心配で夜も眠れませぬからな。儂やお玉、お春たちの安眠のためにも、平助殿に感謝せねばなりませぬ。ささっ、とにもかくにも、平助殿に会いに行かれよ。ここから先は、儂一人でのんびりと帰りましょう故に」

 川柳が、並んだ屋台の賑わいに目を向けた。どこの店も活況で、客の呼び合いである。

   5

 築地には、未の刻を回ってから着いた。

 工藤屋敷は午後の診察で患者が集まっていた。が、子平が訪いを入れると、平助は診察の途中だが、抜けてきた。 

「おう、早かったな。使いの者から、留守と聞いておったが」

 平助が囲炉裏の側に腰を降ろしてすぐに、お遊が皿に、茶と饅頭を載せてきた。「どうぞ」と、子平も促される。

 二人は屋敷の奥にいたが、患者が犇き、診察に追われている物音が、慌しく響いていた。江戸には他に、医師がおらぬような混み具合である。

「はっ、木版の当てが、見つかったとお聞きしましたが」

 子平は進められた茶を啜り、身を乗り出すようにした。このまま平助にぶつかりそうなほど、気が逸っている。

 フフ、と平助が鼻を鳴らした。子平の急いた様子が、可笑しかったのだろう。

「焦らずとも、話す。そのために、使いを遣ったのじゃ。まず初めに、四方八方に手を尽くしたが、江戸では見つからなかった。それ故に、国許を当たったところ、お主の書に興味を持たれた方がおられる」

「どなたにございましょうや。儂も知っておりますか」

 平助が一気に言わずに間を置いたには、訳がある。恐らくは、かなりの人物と見た。

「藤原知明先生じゃ。名くらいは知っておろう」

「知明先生にござるか! 知らぬはずがありませぬ。確か、仙台にいる兄とも親しい間柄にござる」

 藤原知明は、伊達家の高名な学者で、和漢の学識が深く、幾つもの著書を出していた。当主の信頼も厚く、高名は諸国にも響き渡り、多くの学者たちとの交流も絶えない。定信とも知己だと聞こえていた。

 子平が伊達家に仕官していた頃から、知明の高名は聞こえていた。城内ですれ違った機会はあったかもしれぬが、話をした記憶はない。そのような大人物が協力を申し出てくれるなど、夢のようであった。

「そうじゃ。儂が文で伝えたところ、知明先生はお主の兄上を呼び、林子平の人となりを確かめ、『三国通覧図説』に目を通された。それ故に、応援する気になってくれた」

「兄が、儂のために……」

 子平は、自分の愚かさを覚った。

 てっきり、知明が子平の実績をくんで、興味を持ってくれたと考えていた。確かにそれもあるやもしれぬが、兄が陰で支え、頼み込んでくれたに違いなかった。

 ――全く、儂は多くの人に支えられている。

 一人で成しているなどとは、思い上がってはならぬ。

    6

 子平は仙台の友諒に文を認めた後、すぐに仙台行きの準備を始めた。実に二十五年ぶりに、仙台の地を踏む次第となる。

 必要な書物だけを旅行李に詰めていた。幕府に睨まれている今では、何かの際に身軽のほうがよい。それ故に、多くの書物は長屋に置いていくか、平助の屋敷に預かって貰う。

 意識をせずとも、仙台を出てからの日々が思い起こされていた。

 伊達家に愛想を尽かしたのが、そもそもの切っ掛けであった。が、奥州、蝦夷、江戸、長崎などいろいろな場所で暮らした感慨として、どこの大名や役人も、概ね伊達家に似たようなところはあった。

 ――要は、世間を知らんかった。

 あの頃は、清濁を併せ呑んででも政の中枢に上っていこうとは、とても思えなかった。今も、その気持ちに変わりはない。

 が、意次や定信などとの出会いの結果、目的を果たすために、時には自分を偽らねばならぬ状況もあるのではないか、とも感じていた。

 政の舵を執る人物には、ある意味、裏表が必要なのかもしれぬ。優れた為政者を見るに連れて、子平は、自分が為政者には向いておらぬ旨を悟った。二十五年を掛けて、ようやく辿り着いた結論である。

 学者もしくは経世家が天命と、今は思い至っていた。長かったが、己の前に一本の道が開けている状況は、真に晴れ渡った気分である。自分の信じた道と思えばこそ、困難にも立ち向かえる。 

 また、友諒からの仕送りを受けていた身としては、間接的にだが、伊達家に生かされていた仕儀となる。

 伊達家はあの頃とは変わっておらぬだろうが、今は憎しみも消えて、むしろ感謝の気持ちがあった。もちろん、今なお、民のための政に舵を取ってくれればと、願うている。

 夜が明ける前には、長屋を出た。しばらくは帰って来られぬので、堅く戸締りをしていく。

 川柳や平助など主だった者たちには、昨日までに挨拶を済ませておいた。が、さほどに大袈裟なものではない。出版が成れば、再び江戸に戻ってくる。

 通りを歩くと、薄白み始めた空に、昨日の月がまだ浮かんでいた。家々はまだ静まっており、子平の足音が響くくらいである。

 が、ぽつぽつと棒手振たちが通りに出てきていた。朝餉の買い出しをする女房たちを狙ってか、野菜や魚を担いでいる。もうじき、賑やかな朝が始まる。

 船は、箱崎の御船蔵から出る商船に乗せて貰う予定であった。蝦夷検分に行く船に乗ってから、もう三年が経つ。あの時は幕府の息が掛かった船であったが、此度は伊達家お抱えの廻船問屋に、平助が手を回してくれている。

 仙台までの道のりの準備は、万端であった。

 が、子平は長屋を出た頃から、誰かに尾けられている状況を感じていた。気配は、今のところ一人である。子平が背後を窺うと、さっと姿を消すために、きちんと全体を把握できてはおらぬ。

 土壁の陰に引っ込んだ切れ端からは、町人の形のように見えた。が、音を殺した歩の進め方や身のこなしから、忍と推測された。

 早めに気づいたのは、真に運が良かった。思い当たる節は、幕府隠密しかない。

 恐らくは、子平の行動を見張っていて旅支度で長屋を出てきたものだから、慌てて尾けてきたのだろう。

 それにしても、一介の蘭学者に過ぎぬ子平などを見張って、どうしようというのか。己の無力さを認めたくはないが、たかが子平が書を出したところで、定信の態勢には何ら影響はないはずだ。苦心して権力の座に就いた定信は、それほどまでに今の座を手放す状況を恐れ、猜疑心が深くなっている。

 浅草界隈から両国広小路を通る道筋なので、徐々に人は増えていく。人混みに紛れて巻かなければならぬ。伊達家や平助に、迷惑を掛けたくはなかった。

 子平は歩を早め、男を引き離そうとした。が、まだ人いきれができるには至っておらず、すぐに追いつかれる。一定の距離を保ったまま、常に背後に男の気配があった。

 ――駄目だ、齢には勝てぬ。

 子平は思わず、苦笑した。若い頃から健脚で人より歩くのが速かったため、今でも大丈夫だと勘違いしていた。が、子平は齢五十であり、相手は相当な訓練を積んだ忍である。

 つまらぬ見栄を張るものではない。体力が衰えたなら、知恵を使うだけだ。

 蔵前を過ぎた辺りで、大川に沿って歩いた。空は明るくなっており、顔を出した陽が輝きを増している。水鳥と雀たちが、地面に影を落としながら、羽搏いていた。

 行き交う人は増え、大八車が音と砂埃を上げていた。大川に浮かぶ船も、川面を埋め始めている。駕籠や棒手振が、声を張り上げてもいた。

 町中が騒然となってからも、後ろの気配は、消えていなかった。相変わらず、離れて尾いてきている。

 背後との距離を確認して、子平は川べりに向かって掛け始めた。ちょうど、手頃な猪牙舟が、岸に着いていた。

「船頭、急いで出してくれ」

 子平は草鞋に砂を噛ませ、有無を言わさず猪牙舟に飛び乗った。

「なんでぃ、旦那。いきなり……」

 櫓を掴んだ船頭が、驚いた声を上げた。客を降ろして、休憩していたようだ。

「つべこず言わずに、早う舟を出してくれ。金は払う故な」

 子平が舟に乗ったために、背後の町人が足を速めて近づいてきていた。行商風で頭巾を被っている。人混みを掻い潜って、川縁に出てきた。

「わかり申した。で、どこに向かいますので」

 黒く焼けた船頭の額に、陽が射していた。

「まずは急いで岸を離れてくれ。その後は、改めて指示する。早く!」

 町人は一瞬、子平の間近に姿を晒す状況を躊躇った。その躊躇いがなければ、猪牙舟に乗り込まれていただろう。

 船頭が艪を漕いで岸が離れた頃、町人は岸に躍り出てきた。通りを行き交う人や他の船頭たちが、何事かと、見守っていた。

 岸が遠くなり、水が深く、色が濃くなった。

「旦那、指示を」

 岸を凝視していた子平に、船頭が叫んだ。気づくと、行き交う船に囲まれていた。

「とりあえず、南に向かってくれ」

 南北、どちらかの流れに乗らねば、他の船の邪魔になる。別に尾行を撒ければ、どちらでも良かった。

 仙台に発つ前に、江戸市中を船旅するのも、悪くはなかった。

   7

 猪牙舟で尾行を撒いた後は、怪しげな気配はぷっつりと消えた。しばらく川面を周遊した後、箱崎で米沢屋の千石船に乗り込んだ。

 米沢屋の船は、仙台から江戸に米を運びに来た帰りであった。米を江戸の蔵に降ろし、江戸の物資を積み込んで仙台に戻る。

 天気が良いので、船は、颯爽と大海原を滑っていた。日和が邪魔をしなければ、丸二日ほどで仙台に着くだろう。

 江戸湾を離れると、風波が強くなった。諸国から秋の収穫を終えた船が江戸に集まるのか、すれ違う船群は皆が大型船である。江戸にいれば、つまりは何でも揃う。

 敢えて避け続けていた仙台ではあったが、いざ帰るとなると、不思議に胸が弾んだ。

 ――兄にも、長年の無沙汰を詫びなければならぬ。

 特に海は荒れずに、順調な航海であった。予想通り、ほぼ二日で仙台沖の海上に出てきた。

 此処まで来ると、もはや秋風ではなかった。江戸ならば十分に冬の冷たさで、風が通り過ぎていく。船頭たちも、いつの間にやら袷に着替え、襟元を引き締めている。

 やがて、井土浜(宮城県仙台市若林区)に船が着いた。船頭たちが一斉に荷を降ろしに懸かり、浜にも人が群れてきている。

 子平は甲板を降りようとして、ふと立ち止まった。

 遠く北西に、仙台城がうっすらと、雲のように浮かんでいた。なぜか城の姿を見ると、ほっとした。良くも悪くも、城は故郷の象徴になっている。

 浜で順々に荷を降ろし、小舟に分けて積み込んでいた。小舟で名取川から広瀬川を遡って、仙台城下に荷を運ぶ。

 子平も、小舟に同乗させて貰い、まずは兄の屋敷を訪ねるつもりであった。

 川内の武家屋敷の雰囲気は、二十五年前と、そう変わりはなかった。変わったのは、人である。

 子平が両脇の武家屋敷を眺めながら歩いていても、もはや誰も気づかなかった。子平の風貌は、それほどには変わっておらぬはずである。

 また、子平にしても、行き交う侍や武家の家族にも、見覚えがない。子平が城勤めをしていた頃の者たちは、ほとんどが隠居したか、身罷ったのやもしれぬ。

 友諒の屋敷の前に立った。門構えはまるで変ってはおらぬが、いくらか古びて、修繕した跡がそこかしこに残っている。

 訪いを入れると、子平が見知らぬ小者が顔を出した。子平の顔を、まじまじと見詰めている。子平が来る旨を、知らされているはずだ。

「友諒先生はちょうど往診に出ておられます故、奥様から、奥にてお待ち頂くようにと、申し付かっております。案内を致しますので、従いてきてくだされ」

 小者は深く辞儀をすると、門内の石畳から、すたすたと玄関に入った。

 子平は庭や屋敷の外観を観察する暇もなく、付き従う次第となった。お昌は出迎えに来ぬところを見ると、今なお子平を嫌っておるようだ。

 子平が通された部屋は、前に住んでいた、屋敷内で一番、日が当たらぬ部屋であった。

 変わらぬお昌の心遣いに、子平は苦笑した。別に、怒りの気持ちはない、子平が友諒に掛けてきた迷惑を目の当たりにしているお昌の故、仕様がないとも思う。

「もうじき、先生方はお戻りになられます。しばしのお待ちを」

 先ほどの小者が、申し訳なさげに、茶菓子を持ってきた。

   8

「待たせたな、子平」

 突然、腰高障子が開いて声が降って来たため、子平はびくと、体ごと畳から飛び上がった。

 以前に住みなれていた部屋で薄暗かったのと、船旅の疲れがあった故に、子平はうとうとと横になっていた。やはり、お昌に疎んじられようとも、身内の屋敷では、心が寛いでいる。

 開いた障子からは、友諒が懐かしい笑みを浮かべていた。鬢と髭は随分と白くなり、目尻の皺も深くなっている。が、間違いなく兄であった。 

「これは兄上、真にご無沙汰をしており……」

 全く意識をせずに、俄に腹の底から込み上げてくるものがあった。子平の口からは嗚咽が洩れ、肩が震えている。堰を切ったように、涙が幾筋も頬を伝っていく。

 ――懐かしさ、申し訳なさ、感謝……。自分でもよくわからぬ感情が、心を支配し、波打っていた。

「何も申さずとも、わかっておる。お主は、儂の誇りだ。その証拠に、御公儀にさえも、負けてはおらぬではないか」

 友諒が、畳に崩れた子平の肩を、両手で掴んだ。手の平の温もりが、しっかと伝わってくる。

『己に負けるな』とは、仙台を出る前に、友諒から貰った言葉であった。

 多くの人たちに励まされてきたおかげで、今なお、心が折れずに済んでいる。皆の支えのおかげで、己に負けぬ心の強さを、貰った気がしていた。

「叔父上。お久しゅうござる。お変わりないご様子にございますな」

 友諒の背後から、色が黒く、切れ長の目が覗いていた。笑みを浮かべた表情には、お昌の面影が見られる。

「もしや……、結太郎か!」

 子平は顔を上げ、背筋を伸ばした。目の前の若者の爪先から頭の天辺までを一望する。

 別れる際は、齢四つであった。くりとした両目と、あどけない世間知らずな童も、立派な医師になったか。そういえば、小者は『先生方』と申していた。 

「今は、友直を名乗っております。叔父上には昔、よく遊んで頂きましたな」

「真に、大きゅうなったな。見違えるように、精悍な顔付きになっておる」

「その物言いは、童の頃の儂が、とんでもなく呆けたような顔をしていたように聞こえまするぞ」

 友直が、眉をひん曲げた。精悍にはなったが、どこか童の頃の愛嬌は残っている。

「それは相すまぬ。儂にとっては、四つの結太郎のままであった故な」

「酒の仕度を命じた故、直にお昌が運んでこよう。三人で再会を祝して、ささやかな酒宴じゃ。その後は、ゆっくりと休んで、旅の疲れを癒すがよい。明日の朝一番に、知明先生の屋敷に連れていってやる」

 友諒は子平が申す前に、手筈を整えてくれていた。幕府隠密の影に怯える必要もなく、今日は安心して酔えそうである。 

   9

 一晩ぐっすりと眠ったおかげで、体内に溜まっていた疲れも、随分と取れた気がしていた。気持ちよく飲んだ酒が、心を解してくれたか。いや、何よりも、友諒と友道の三人で酒を酌み交わせた状況が、子平の心を晴れやかにしていた。

 仙台城下を藩医である友諒と歩くのに誰にも遠慮はいらぬ。が、子平の出版が成った際の状況を考えて、明け方すぐに、川内の屋敷を出発した。

 もうじき神無月である。屋敷を出る際から朝露の冷たさに、改めて北国を感じた。

 西を流れる広瀬川に架かった橋を渡る際には、凍ったような静かな水面が、しっとりと流れていた。その上の寒々しい空を舞ったり、水辺に佇んだりしていた菱食たちは、何とも愛らしかった。菱食には、冬の水辺が、実によく似合っている。

 藤原知明の屋敷は、鹽竈神社(宮城県塩竈市)の敷地内にあった。知明は高名な学者であり、神官でもある。

 鹽竈神社は、伊達家十七代当主の政宗が此の地の統治を開始して以来、歴代の当主から崇拝され続けていた。それ故に、知明への当主や領民の信頼は厚い。

「巳の刻までには、着きましょうな」

 傍らの友諒の横顔に、声を投げた。友諒は子平より九つも齢が上だが、矍鑠として歩を進めている。毎日の往診を欠かさぬため、全く体力が衰えておらぬ。

「子平よ。お主は真に自分で、木版を彫るつもりなのだな。安請負はできぬが、何なら彫師を当たってみてもよいぞ」

 友諒が、心配気な視線を向けてきた。

 昨夜の酒の席で、他人に迷惑を掛けぬために、版木は全て自分で彫るつもりだと、伝えていた。その時は、黙って頷いていた友諒も、いざ正気になって考えると、心配になっている。長らく離れていたとは申せ、記憶の中の弟が、木彫りができるとは、とても思えぬのだ。

「忝のうござる。ですが、御心配は御無用にして頂きたい。万が一にも、知明先生や兄上には、ご迷惑をお掛けできませぬ。また、他にする仕事もない故、不器用ながらも、少しづつ進めて仕上げます。兄上には、生活の面倒を見て頂くだけで、十分に有難い」

 確かに、子平は手先が器用ではなかった。昔から剣術と学問の他には、取り得がない。

 しかし、木版が手に入り、何も心配せずに彫る作業に邁進できれば、それだけで十分であった。まして、生活の金子や木版を買う銭は、友諒に頼り切っている。

 北東の方角へ、通りを急いでいた。

 仙台城下を歩いていた頃は、通りすがりに友諒に挨拶する者もいた。が、さすがに一刻も歩けば、もう誰も顔見知りには出会わなかった。

 七北田川の辺りに差し掛かると、半里ほど東に鹽竈港が見渡せる状況になった。鹽竈も、仙台城下の外港の一つである。

 多くの漁船や廻船が湾内に浮かび、その上には、ぽっかりと、昇ったばかりの陽が降り注いでいた。本格的な冬の到来を前にした、穏やかな朝の港の風景である。

 その昔、足利尊氏と戦って敗れた北畠顕家が、陸奥守に任じられた際に居城とした多賀城を左に仰ぎ見て、さらに一里ほど北東に進んだ。

 やがて、鹽竈神社を麓に抱えた一森山の全貌が視界に入ってきた。鳥居の朱や社殿が点在している様子が窺える。

「知明先生の屋敷は、拝殿とは離れた場所にあるが、まずは一緒に参拝しようぞ。子平の出版が成就するようにな。儂にできる手伝いは、あとは祈るしかあるまい」

 友諒の目が、陽を眩しげに歪んだ。

   10

 鳥居を潜ってから、気の遠くなるような階段を上り、朱の唐門からまっすぐ拝殿に向かった。二人で拝殿に参った後、東神門から参道を通って、知明の屋敷に至る。

 拝殿から東を見れば、敷地内の庭園が見事に整えられ、さらに遠くには、海を見下ろせた。

「此度、改めて感じておるのですが、仙台には、美しき場所がたくさんございます。住んでおった頃には、気づきませんでしたが」

「芭蕉が句を詠んだ場所でもあるしのう。それに、景色に目を向けられるようになったは、心に余裕ができた故じゃ。若い頃には、なかなかわからぬ。芭蕉の凄さは、住んでおる者さえ忘れ掛けた故郷の美しさを、思い出させてくれる」

 子平と友諒は海に目を向け、しばし無言で歩いた。

 ――川柳先生なら、どんな句を詠むだろう。

 俳聖の芭蕉とは、また違った景色を感じ取るような気がした。芭蕉は自然を多く詠んだが、川柳の前句付けが主を置いているのは、人である。

 子平も自然には敬意を払っていたが、やはり一番の興味は人の営みであった。

 東の詰所に断りを入れ、平坦な砂利道を少し行くと、知明の屋敷があった。

 友諒が訪いを入れると、すぐに奥に通された。

 二十畳ほどもある大書院で、四方の部屋の隅には、山高く書が積み上げられていた。壁には書画や絵画が掛けられており、主の教養の高さが、いやがうえにも感じられる。

 知明は間もなくして現われた。

 小太りだが背は六尺ほどと高く、向かい合うと威圧感があった。が、目尻に鋭さはあるものの、丸顔で頬が膨らんでいる態で、強面には見えない。どっしりと威厳のある様は、正しく一流の学者であった。

「子平先生。兄上の友諒殿より、全て話は聞いており申す。儂がご協力致すのは、木版の提供と敷地内の庵での起居のみにござる。それで宜しいでしょうか」

 低いが、優しい印象のする声であった。話をする際の眼差しも、柔らかい。

「十分過ぎるほどにござる。ご迷惑をお掛けしますが、何卒、よしなにお頼み申す」

 一通り挨拶を交わした後、本題に入っていた。子平は素直に、感謝を述べている。

 こうして一流の学者と向かい合って話をするだけでも、有難かった。

「勘違いをされまするな。儂は、友諒殿に頼まれた故にお手伝い申し上げるのではない。『三国通覧図説』を読み、子平殿がその後、直に東蝦夷を見られたと聞いた。それ故に、是非とも、出来上がった書物を読みたいと思うており申す」

 今度の視線は、切り裂かれるように鋭かった。少なくとも、『三国通覧図説』以上の書を期待されている。

 当然と申せば、当然であった。いかに知明としても、危険を背負っている。子平の作り上げる書が、世のために役立つと考えていてくれるからこそ、協力してくれていた。

 ――また一つ、負けられぬ理由ができた。

「必ず御期待に沿うと、お約束しまする。寝食を惜しみ、命を削るようにして、版木を彫り続けます所存」

   11

 子平に宛がわれた庵は、知明の屋敷からさらに海に近い東にあった。長らく使われておらんかったために獣道になっており、道の中央付近にまで、枯れ木がしな垂れ掛かっている。

 知明が信頼を置いている小者の喜平を先頭に、枯れ木や落ち葉を掃って歩いた。

「あれにござる。見窄らしい外観はご容赦くだされ。中は、綺麗にしております故」

 喜平が振り返り、申し訳がなさそうに頭を下げた。

 確かに、見た目は庵というよりも、山小屋に近い。それでも、二間四方くらいはありそうだ。

「十分じゃ。江戸の割長屋くらいの広さはあろう。それに、見晴は最高ではないか」

 鹽竈港を一望できる眺めを、一目で気に入った。空色の海面に波飛沫が白くうねり、出入りの船群の甲板が、光で映えている。

 長崎の耕牛屋敷にいた頃を思い出す。あの頃も、毎日、出島と港を一望して暮らしていた。

「御申しつけの物は、明日から順次、儂がお届に上がります。儂と知明先生以外は与り知らぬ内容ですので、何かと不自由をお掛けするやもしれませぬ」

 喜平が腰高障子を開き、腰を折って子平を中へ促した。

「無理を申したのは、儂である。こちらこそ、宜しくお頼み申す」

 土間に降り立った子平は、ざっと庵の内部を見渡した。先ほど喜平が申していた通り、よく掃除が行き届いている。律儀な男だと感じた。

 神社の朝は早い。翌朝、卯の刻前には、喜平が顔を出した。

「お休みのところを、相済みませぬ。なるべく他人目がなく、早い時刻が良いかと思いまして」

 喜平は背負った風呂敷包を土間に置くと、結び目を解いた。大きな目が、子平を促している。

 子平は床から起き上がり、中を改めた。夢にまで見た木版が、重ねて入っている。

「忝い。有難く、使わせて頂く。知明先生にも、後ほどご挨拶に伺う所存だ」

 木版の出所は聞かぬ約束であった。大方は知明の出版に携わっている材木問屋だと見当は付いていたが、敢えて尋ねはせぬ。知明が何かの際のために気を遣っている考えを、邪魔するつもりは毛頭なかった。

「今後も、儂の仕事の合間を見て、食事なども運んで来ます。それでは、儂もよくはわかりませぬが、立派な書物を拵えてくだされ」

 喜平は眦を歪め、微笑んだ。大柄な男だが、どこか愛嬌のある獣顔をしている。

 寝ているところを叩き起こされた態だが、木版を見て完全に目が冴えた。子平は早速、木彫りに取り掛かろうと決めた。

 まずは、木の強度を確認した。何度も刷る状況に耐えられる版木にするには、木版を塩水で浸して、陰干しをする。恐らくは一度、処理は為されていそうであった。が、後世に残るものにしたい想いが強く、念入りに確かめた。

 いくつかの木版を塩水に浸けた。水の中に手を入れると、痺れるように痛んだ。寒さが今以上になる前に、終わらせておきたい作業である。

 残りの木版を土間に広げ、火鉢を上がり框の傍まで引き寄せた。子平は、上がり框に腰掛けて作業を行う。

 まずは、一彫を入れた。といっても練習である。木版は削れば、何度でもやり直して使えるので、納得行くまで訓練を重ねるつもりであった。

 彫師までの腕はとうてい無理としても、他人が読める本が刷れる程度には、しなければならぬ。

    12

 何とか成るものである。見よう見まねで木彫りを始めてから二月が経ち、歳の暮れが差し迫っていた。

 一日の中で書見と執筆の時間の他は、ほぼ全てを木彫りに継ぎ込んでいた。その努力が報われたのか、何とか他人が読める水準の版木となり、間もなく子平の書籍の第一巻『水戦』の版木が完成する。

「子平先生。江戸から文が届いております」

 夕刻頃、喜平が顔を出した。夕餉の膳を下げるついでに、文を持参している。

「いつも済まぬ。頂戴しよう」

 手に取ると、平助からであった。予想はしていた。

 江戸を発つ前に、書の序文を、平助に頼んでいた。その後の文のやりとりから、第一巻の完成に間に合わせてくれたのだろう。多忙の中、真に有難かった。

 喜平が去った後、平助が書いてくれた序文に目を通した。

「おおっ……」

 読み進める内に子平は一人、庵で歓声を上げた。平助の序文は正に、子平の書に相応しい始まりになっている。

 此度の書は、ロシアや清国など異国の脅威に備えるために、大部分を水陸戦闘の内容に割いていた。

 国防すなわち、海防のためには、何よりも軍備、特に大砲を核にした水戦に熟練する方法が急務である。それらを鑑みて、題名を『海国兵談』と名付けていた。

 平助は、子平が完成させんとしている書の全巻の内容を、洩れなく言い表してくれていた。

 子平は煙草に火を点け、しばし庵に当たる風の音に耳を澄ませ、考え込んだ。

 高台のため、庵に当たった風はびゅうと、辺りを駆け巡った。夜半には雪が降ると思われるほど、寒さは厳しい。

 ――一刻も早く、刷りたい。

 平助の序文が、子平の心を躍らせていた。

 当初の予定では、全ての書を完成させてから、出版に踏み切るつもりであった。が、序文の素晴らしさから、まずは第一巻だけでも出版したくなっている。

 むろん、自分の書を早く世に出したい、世話になった人に一部だけでも届けたい打算や、全巻がいつ完成するかわからぬ不安なども、背景にはあった。

 さらには、全ての書を、一度に出版する金もなかった。それ故に、第一巻の評判が良ければ、金を出してくれる者を見つけられるやもしれぬ。

 思い立った子平は、夜になると、知明の屋敷を訪ねた。紙を届けて欲しい故だ。

「宜しいでしょう。紙は、いくらでも融通致します。儂も、第一巻だけでも読んでみたい。喜平に申し付けて、早々に届けさせましょうぞ」 

 突然の訪問に嫌な顔もせず、知明は気軽に請け負ってくれた。出来上がれば、真っ先に届けなければならぬ。

 子平は忙しい正月を迎えられそうで、嬉しくなった。寒さなど、感じておる暇はない。

   13

 天明九年(一七八九年)の正月を、一人、庵で迎えていた。

 年の暮れから積もった雪が、庵の周囲も埋め尽くしていた。子平の庵は、白い雪に浮かぶ小舟のようである。

 墨をたっぷりと塗り込んだ版木に、慎重に紙を被せた。三本の指でしっかりと握った馬楝を操作して、刻み込んだ文字が問題なく浮かぶ状況を念じている。

 じわと、文字が沁み出てきた。思わず、手が止まる。

 ――滲んではおらぬ。

 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、安堵の次は、喜びが心に沸き起こった。

 伊達家領内は、年賀の回礼だ凧揚げだと、活気づいていた。

 冷たい風は、大人には堪らぬが、子供らには格好の遊び相手である。昼間に庵を一歩出て周囲を見渡せば、あちこちで奴凧の顔を眺められた。

 鹽竈神社にも連日、大勢が詰め掛けていた。

 知明や喜平は終始、対応に追われているようで、時折、子平の庵に顔を出す喜平は、盛況ぶりに満足気ながらも、疲れた表情をしていた。

 世間の正月の幸せとは無縁であったが、子平は喜びを感じていた。今月中には第一巻を三十部くらいは作り、刊行する予定である。

 子平一人での刊行故に、多くの部数は刷れぬ。が、それでも第一歩は踏み出せる。

 睦月の末になり、恵比寿講も済んだ。江戸であれば、商人たちが奮い立って商売に繰り出している時季である。一年の商いの出だしは、どの商家にとっても重要だ。

 一介の学者の子平としても、幸先の良い年始にしたかった。なんとか、目処が立たちそうである。 

 ちょうど、第一巻三十部が、刷り上がった。

 上がり框に腰掛けていた子平は、伸び上がって背後の畳に倒れ込んだ。体の力が、いっぺんに抜けてしもうた故だ。

 一心不乱に紙を刷っていたせいで、精魂を使い果たしていた。両腕はぱんぱんに張り、箸も持てぬ。しばらくは、馬楝を握る力も出そうにない。

 ――とにかく、刷り上がった。

 子平は天井を眺め、喜びを噛み締めた。木版を卸してくれる材木問屋を探して、江戸市中を歩き回っていた頃とは、えらい違いである。

 が、ぽつんと一人で居間にいると、やけに現実的な考えが浮かんだ。

 第一巻を仕上げるのに、これだけの労力を費やした。恐らくは十五巻を越える『海国兵談』を完成させるには、少なくとも二、三年は要するだろう。その間も、兄や知明には迷惑を掛け続ける仕儀となる。

 ほっとして、北叟笑んでいる場合ではなかった。仕上がった第一巻を皆に贈呈したら、すぐに第二巻に取り掛からねばならぬ。

 如月の初めには、刊行した序文と『水戦』の贈呈を終えた。知明と友諒を始め、平助、耕牛などの学者たち、蝦夷検分で世話になった役人や徳内、俊蔵たちを主としている。川柳たちには、直に見せたいと思っていた。

 第一巻を刊行してからも、子平は取り憑かれたように、執筆と木彫りに没頭した。

 しばらくして、贈呈した学者たちからの文が届き始めた。『水戦』の評判は概ね良く、皆が続きを期待してくれている。

 もっとも、子平に好意的な者に贈呈しているため、真の評価は定かではなかった。しかも、第一巻のみである。本当の評価は、全巻を完成させてからだ。

 が、志のある者の中では、密かに『水戦』を用いて、子弟などを教育してくれていると聞く。閉鎖的な日本故に、多くの者が異国への関心を持つ、と文にはあった。

 このような文が届くにつけ、子平の彫刻刀を持つ手にも、自然に熱が入った。

 ほんの少しづつでも、此の国の者の意識を、変えられるやもしれぬ、と思った。子平の胸の奥に芽生えた希望の蕾は、膨らみ始めていた。

   14

 寛政二年(一七九〇年)の夏を迎えていた。

 一心不乱に彫刻と筆を動かしている間に、また一年が過ぎていた格好となる。

 子平の毎日は、江戸の時の鐘のように、正確に時刻ごとに決まっており、何らの変化もなかった。変わったと申せば、伸び放題の髪と髭くらいである。

いや、まだあった。いつの間にやら手の平が分厚くなり、腕にはやたら硬い肉が付いている。

 庵を覆い隠そうとするかのように、繁みは天に向かって伸び上がっていた。濁りのない済んだ青空に浮かぶ陽は、激しい光を放っていた。草叢が作る木陰以外の地面は乾き、風が吹くと、砂埃を巻き上げている。

 子平は、庵の脇まで繁みが迫り出してきたおかげで、昼夜を問わず、蚊に悩まされながらの作業を続けていた。蚊帳を吊るしても、気づけば、どこかで羽音が鳴っている。

 水無月も十日ほどを過ぎた夜半に、知明の屋敷に招かれた。昼間は他人目があるため、知明の屋敷には、早朝か夜半に訪れる。

「子平先生。江戸で、『水戦』が問題になっておる様子。川内の友諒殿からも、昼間に、文が届いてござる。まずは、御覧になられよ」

 知明から、友諒直筆の文を手渡された。見覚えのある文字が、視界に入ってくる。

 文の内容は、以下の如くであった。

『海国兵談』の序文と第一巻は、関心を持つ者の間で、秘かに広まっていた。それは真に喜ばしい限りであったが、何処かで幕府の隠密に嗅ぎ付けられた。

 現在は恐らく内偵の段階だが、下手をすれば、幕府は子平を捕えかねぬ。幕府の意図は定かではないが、伊達家との関与を追及する腹積りで、子平を泳がせておく算段も考えられた。

 いずれにせよ、友諒からは十分に身の回りに注意し、版木などは、どこかわからぬ場所に隠しておくように、また、しばらくは作業を中断するように、と念を押していた。

 目を通し終えた子平は、唸った。友諒の申すように、ほとぼりが冷めるまでは息を潜めておるのが一番である。が、いったい、いつまでになるかわからぬ状況に、愕然とした。

 下手をすれば、永久に機会が訪れぬやもしれぬ。

「しばらくは残念なれど、木版も入れられませぬ。どこで御公儀隠密の目が光っておるか、わかり申さぬ故。そうそう、もう一通、江戸から文が届いており申した。此方は、子平先生宛でした」

 受け取った文の署名は、お春であった。お春からとは、珍しい。

 気を取り直して開いた文は、さらに子平を驚かせる内容であった。顔中の血の気が、一気に引いていく状況を感じている。

 ――川柳が、危篤である旨の知らせであった。

   15

 川柳危篤の知らせを受けて、子平はすぐに江戸行きを決めた。

 しばらく留守にするために、版木や書き溜めた書を木箱に入れて堅く封をした後、庵から少し離れた草叢の地面に埋めた。冬場でも木の枝が邪魔をしている場所だ。これで、何者かの探索が庵に入っても、何も見つけられぬ。

 知明や友諒は、強く江戸行きを反対した。江戸に入れば、幕府隠密に見つかる可能性があるし、もしかしたら、川柳の周囲も警戒されている、と諌められた。

 定信は己に対する批判については詮議を嫌い、密かに隠密に始末させている、との噂があった。子平の知っている定信は、まさかそこまではせぬとも思うが。

 心遣いは有難かったが、子平は譲らなかった。川柳の死に目に駆け付けなかったら、自分は一生ずーっと悔い続ける。たとえ身の危険に遭おうとも、会いに行かねばならぬ。

 恐らくはお春も、その辺りの子平の心情を慮って、文を届けてくれたのだと思う。

 知明たちの心配を聞かぬ代わり、出発前に、全ての髪を剃った。僧形になって江戸に行けば、多少の目晦ましにはなる。

 剃った頭をつるりと撫でて挨拶をしたら、知明と喜平は、もはや何も言わなくなった。子平の本気を、認めてくれている。

 身の回りの後始末を終えた子平は、文月の九日に、港からの船に乗り込んだ。反対していた知明が骨を折って、廻船問屋に繋ぎを付けてくれている。

 季節に恵まれた航海であったので、波も空も美しいばかりであった。餌も豊富な時季なのか、しきりに海鳥の姿が、上空を旋回していた。

 本来ならば、甲板で波と空が描く景色を楽しむところだが、そういう気分にはならなかった。川柳の容態が気になって、常に頭から離れぬ。

 子平は夜もあまり寝付けずに、川柳の無事のみを祈っていた。せっかく浅草に辿り着いて、一足遅かったなどという状況は、絶対に避けたい。

 船が快調に波間を進んでいる状況を理解しつつも、江戸が待ち遠しくて、もどかしかった。

 きっかり三日後に、船は江戸湾に入った。まるで待ち合わせたような廻船群が、続々と江戸湾を目指して集まっている。

 見晴し、天候と申し分のない秋晴れの空であった。薄紺色の海面に、光が射している。

 穏やかな波の隙間では、ぽつぽつと、魚が撥ねていた。大型船を避けるように浮かぶ小舟たちの中には、漁をしている姿もある。

 ちょうど昼時であったので、頭上の永代橋は人で埋め尽くされていた。人いきれを見上げている間に、船は箱崎の御船蔵に接岸した。

 同時に、水主たちが縄梯子を降ろし、荷降ろしの準備に入った。船底には仙台の特産品が積まれている。

 子平は接岸前になると、宛がわれた船底の一室に入った。書見をしながら、じっと外の様子を窺った。御船蔵にも、当然に幕府の目は光っていると読んでいた。

 そのため、夜になってから、船を出ていくつもりであった。乗り込む際から僧形になっていたが、用心を重ねている。

 江戸に着き、浅草まであと一歩の場所で道草を食う状況には心が焦ったが、捕えられては、元も子もない。なかなか頭に入らぬ文字を目で追いながら、ひたすら夜を待ち望んで過ごす。

 だんだんと辺りが薄暗くなると、御船蔵付近は極端に人出が少なくなった。子平は時折、船室から出て、様子を窺った。

 水主たちが皆、江戸の町に散ったのであろう。少数の見張り以外は、姿が見えぬ。

 反対に、永代橋の辺りは、昼と見紛うばかりの明るさであった。夜でも温かい季節である。提灯の彩りから、夜店が賑わっている状況がわかる。

 ――頃合や良し。

 子平は僧形に編笠を被り、船を離れた。見張りの目を盗んで、そっと闇に溶け込む。

 見張りたちは、そもそもが真面目に注意を払ってはおらぬ。仲間の多くは江戸の夜を楽しんでおるのに、自分たちは置いてきぼりにされていると感じていた。

 子平は油断せずに、なるべく、大通りではなく、人気のない通りを選んで歩いた。   

   16

 浅草新堀端までは、四半刻ほどで着いた。が、直ぐには川柳の庵を訪ねる真似はせぬ。

 しばらくは托鉢僧の振りをして辺りを徘徊し、じっと様子を探った。

 川柳の庵の前も二度、通り過ぎた。灯が洩れていたので、在宅なのは間違いない。

 此処でも詰めを誤らぬために、用心に用心を重ねた。半刻ほどを様子見で割き、ようやく、もう大丈夫と踏んだ。

 再度、川柳の庵に行き、腰高障子の前に立った。もごもごと口の中で、船内で覚えた念仏を唱えてみる。

 しんと静まった通りに経が流れると、しばらくして、腰高障子に人が近づいてきた。

 戸が開いて顔を出したのは、お玉であった。洩れた灯りが、地面に影を作っている。

「お玉殿、お久しゅうござる」

 子平は小声で囁きながら、網笠を上げた。

 お玉が声を出しそうになったので、子平は首を振りながら、

「中に入って話しましょう」

 と、素早く声を投げた。

 お玉は心得たとばかりに子平を土間に入れ、心張り棒で戸口を押さえた。

 部屋の灯りに映ったお玉の髪も随分と白くなり、口元には深く皺を刻んでいる。お玉も、齢六十半ばを過ぎていよう。

「川柳先生……」

 子平は絶句し、土間に呆然と佇んだ。

 お玉に挨拶をしてからと思っていたが、その前に、床に着いた川柳の姿が目に入った。

 季節の花が活けられ、句集が積み上げられた庵の内部には、変化はなかった。が、いつも居間の中央で穏やかな笑みを浮かべて出迎えてくれた川柳が、ぐったりと横になっている。

 どちらかといえば頬には肉が付き、四肢の骨がしっかりとしていた川柳の体躯は、すっかり痩せ細っていた。削げた頬は渇き、生気が抜けている。

 ――もはや……。

 子平も医師の端くれである。死病は、一目でわかった。

「……夏前くらいから、発熱と嘔吐を繰り返すようになりました。今はそれほど熱は高くなりませぬが、水気以外は、ほとんど欲しがりませぬ」

 お玉が瞼を伏せ、呟いた。覚悟の口調である。長年、連れ添った夫婦であるが故に、夫の命が消え掛けている状況を、一番良く理解していた。

 川柳は薄目を開けていたが、どうやら眠っているらしい。苦しげな寝息が、庵に響いていた。

   17

 お玉に促され、子平は川柳の枕元で、じっと寝顔を見詰めていた。

 お玉が子平の道中を労い、素麺に旬の秋茄子を添えて運んできた。川柳が眠ったままであったので、なるべく音を立てずに麺を啜った。

「よく眠っておられます。此の庵を訪ねて、川柳先生が眠っていた記憶がないため、先ほどは戸惑いました」

 川柳の床を挟んで、お玉が向かい合って座した。着古された茶色の小袖も、お玉が着ると、どこか品を感じる。

「主人は、子平先生の御邪魔になってはならぬと考え、口癖のように常々、決して病を知らせてはならぬ、と妾に釘を刺しておりました。が、口には出さずとも、会いたがっているのはわかります。妾は言い付けを破れませなんだが、お春さんには感謝をせねば」

 お玉が、川柳の寝顔に視線を落とし、手にしていた団扇を動かした。夜になっても、庵の中は、まだ昼間の熱が残っている。

 夜回りの声が、通りに響いた。一瞬、子平は身を硬くした。外の物音に、かなり敏感になっていた。

 視線を川柳に戻すと、両目が開いていた。天井を向いた視線がお玉に移り、子平に飛んで来た。川柳の目が、一際ぐんと大きくなる。

「おおっ……、まさか、子平先生にござるか。何故に僧形で」

 川柳が首を上げ、上半身を起こそうとした。が、力が入らぬようで、お玉に背後から支えられて、座った。

「お春から文を貰い、居ても立ってもおられず……。この格好には、ちと子細がありまして」

 川柳の窪んだ両目を見ていると、自然と涙が零れてきた。が、同時に、安堵もしている。川柳が両目を閉じたまま、ずっと目を覚まさなかったらと、危惧していた。

「お玉には、知らせてはならぬ、と堅く申し付けておりました。が、やはりお会いできると、嬉しゅうござるな」

 川柳が渇いた頬に笑みを浮かべた。皺が、いくつも筋を作っている。顔が痩せた分、目がやたらと大きく見えた。

「妾は、無理をせずに知らせましょうと、何度も申しましたよ」

 お玉が川柳に、意地悪な視線を向けた。

「それは、相済まんかった。病人は、素直にならねばいかんな」

 川柳が、照れたようにお玉を振り返った。

 お玉は口元の笑みを手で覆い、微かな笑いを洩らしていた。

「寝顔を拝見していた際には、御痩せになって心配しましたが、思ったよりお元気そうで、安堵しました」

 気休めには過ぎぬが、夫婦で軽口を叩ける状況には、胸を撫で下ろした。ずっと苦しんでいる姿を見せられるほど、辛いものはない。

「子平先生。医師なれば、患者を勇気づけなければならぬでしょう。が、儂らは、朋輩にござる。世辞は不要。亡き主殿頭様と同様に、己の死期が迫っておる状況を、身に沁みて感じており申す」

 意次の最期を見舞ったのが、一昨年であった。まさか、これほど早く、川柳が倒れようとは……。

 言葉の間に、小刻みな息を吐く川柳を眺めていると、つくづく、人の寿命は誰にもわからぬ、と思い至っていた。

「『海国兵談』を刊行された由、まずはおめでとう存じます。成し遂げたかった仕事に、いよいよ踏み出されましたな。文を頂いた折には、儂も興奮しましたぞ」

 お玉が口元に寄せた水差しで喉を潤すと、川柳の表情に少し生気が戻った。湿りを確かめるように、口を動かしている。

「有難うございます。真に、支えてくれる皆様のお蔭にござれば。実は、此度も持参しようとは考えましたが、不味い状況になっております」

 子平は、淡々と感情を交えずに、定信を始めとした幕府に目を付けられている状況を語った。下手をすれば捕まり、罰を受けるかもしれぬ、とも。

 感情を交えぬ理由は、川柳が定信を好いている故で、悪口は控えた。

「……真に、世の中は思い通りには回らぬものですな。それで、僧形でござったか。危ないところを、儂に会いに来てくださって、何と申せばよいか」

 川柳が、息を吐いた。頭の中で、言葉を探しているように見える。

「お気遣いされますな。川柳先生の床に駆け付けぬわけには参りませぬ。それより、小さな灯なれど、せっかく此の国の危機を共感してくれる者たちが広がり始めたところでした……。このまま何もできずに、虚しく時だけが過ぎていく状況を考えると、何とも遣りきれませぬ」

 子平は肩を落とし、短く吐き捨てた。思わず、感情が沸き起こってしまった。

「今は八方塞だと感じておられましょうが、いずれ出口は見つかりましょう。信念を持ち続け、日々の努力を怠らねば、どこかで、誰かが見ておるもの。知恵も、まだまだ絞りなされ。知恵を絞れば、何かの方法や希望が見つかる。諦めて思考を止めては、一歩も前には進めませぬぞ」

 川柳の窪んだ両目に、力が籠った。真直ぐ、挑んでくるような気魄がある。

 意次との最期の際と同じ状況であった。遺言と思って、聞かねばならぬ。

 川柳も一介の名主で一生を終えるのが嫌で、前句付けに人生を託した。

 長い間、俳諧や連歌といった名のある文芸に押されて陽の目を見なかった前句付けを、大衆文芸の地位に高めた。これまでに何度も八方塞の状況があったと、想像できる。

 川柳は、諦めずに出口を探し、前に進んだ先達の見本であった。

 ――人生の、生涯の師の言葉を、一言一句たりとも聞き漏らすまい。

 子平は食い入るように川柳の口元に見入った。川柳は体が弱っているために、時折、語尾が掠れる。が、決して、見逃さぬ。

「それに、一度でも灯した火は、決して消えませぬ。どれくらいの期間を燻ぶるかは、誰にもわかり申さぬ。が、此の国にとって必要ならば、いつかきっと燃え上がる時が来ます。子平先生。御自分の意見が、真に此の国にとって必要とお考えならば、誰に否定されようとも、自信をお持ちなされ。先生の意見を認める者たちが増え、やがては国を変えていきましょうぞ」

 川柳は言い切ると、ふう、と息を吐いた。お玉が再度、口元に水差しを持っていく。

 川柳は再び口を動かし、湿りを確かめた。話し疲れたのか、目を閉じている。

 ――火は消えぬ……か。

 子平の背筋から頭に掛けて、鋭い衝撃が走っていた。

 子平は、今、現在での状況しか考えていなかった。此の国の行く末を危ぶむ気持ちに偽りはなかったが、やはりどこか、自分の仕事への世間の評価を気に掛けていた。

 が、川柳の考えは恐らく、現在がどうではなく、子平の成し遂げた仕事が、此の国を将来どう左右するかのみに、焦点を当てていた。

「川柳先生、有難うございます。目が覚め申した。目先がどうではなく、自分が信じた仕事を成し遂げるために、知恵を絞りまする。己が満足の行く仕事を成せば、それだけで人生は幸せにございますな」

 子平が声を投げると、川柳は目を瞑ったまま、ほほ笑んだ。

 しばらく江戸で暮らして、川柳を見守りたい気持ちがあった。が、子平が再び江戸で暮らし、川柳やお春などと交流を持てば、間違いなく幕府に嗅ぎ付けられる。

 子平は翌朝の明け方まで枕元に座し、川柳が目覚めた際には、話を重ねた。

「では、川柳先生。御達者で、お体を大切になさってくだされ」

 子平は発つ際に、起き上がろうとした川柳を制し、言葉を投げた。恐らくは二度と、生きては会えぬ。

「儂の一生は、此のお玉と共にあり、真に楽しく、充実しておりました。もちろん、子平先生たちとの出会いも、儂にとって掛け替えないものにござった。子平先生も悔いを残さず、心晴れやかに生きてくだされ。それだけが、儂の最期の願いにござる」

 語り尽くして喉を嗄らした川柳が、低く絞り出した。傍らでお玉が、初めて涙ぐんだ姿を見せている。お玉は洟を啜り、指先で目頭を拭っていた。

「川柳先生は、いつも儂を導いてくださる。此度も江戸まで来て、本当に良かった」 

 子平は土間にしっかり足裏を着け、川柳夫婦に深くお辞儀をした。これまでの年月の全ての感謝を、込めたつもりである。

「できれば、お春や久米吉にも、顔を見せてやってくだされ。子平先生が江戸に戻られる機会を、首を長くして待っておりました」

「そのつもりです。長居はできませぬが、挨拶を交わしてから、今夜には江戸を去る所存にて」

 仙台から乗り込んできた廻船は、今日か明日には、仙台へ戻る航海に出る予定であった。

天候には何ら問題はない故、全ての荷積みを終えていれば、直ぐにでも出発するであろう。

   18

 仙台に戻った子平は、再び知明に世話になっていた。というより、仙台城下などでは他人目に付くため、此処くらいしか隠れ場所がない。

 幸いと申すべきか、子平の所在は幕府には掴まれておらぬようで、掘り返した木版は全て、無事であった。

 だが、状況が好転している訳ではなかった、木版が入って来ぬ状況には、何ら変わりはない。

 子平は知明に再度、木版を手に入れて欲しいと嘆願した。名は聞かぬつもりであったが、何なら材木問屋に直接どうにか頼み込みたい、とも申し入れている。

 むろん、何らかの罪が及びそうになっても、子平は絶対に口には出さずに墓場まで持っていく旨も、付け加えていた。

 川柳と約束した通り、己の信念に突き進む考えであった。絶対に、川柳の期待を裏切らぬ。

 その際の知明は、押し黙り、しばらく考えさせて欲しいと、苦し気な視線を子平に向けた。

 知明にも立場がある。子平は申し訳ないとは思いつつも、木版について頼れる者は、他にいなかった。

 知明の返答を待っている間も無為に過ごす訳ではなく、『海国兵談』の原文を再度しっかり見直し、修正を加えていた。日々、一歩づつでも前に進む。

 長月に入っていた。一林山の木々の葉は緑黄色になり、夜に吹く海への風は、日に日に力強さを増している。

「子平先生。お役に立てるかどうかわかりませぬ。が、これを、ちょっと見てくだされ」

 喜平が土間に入ってきた時、子平は『海国兵談』に筆を入れていた。

 ちょうど夕餉時であったため、いつものように膳を運んできてくれたものと思った。視線を向けずに、「いつも済まぬ」と字を綴っていた。

「木版ではないか! 喜平、如何した」

 喜平の促しに短い視線を投げ、一旦は文字に視線を戻した。が、再び素早く、喜平の手元を凝視する。

「使えそうですかな。それならば、嬉しゅうございますが」

 驚く子平に、喜平が笑みを浮かべた。

 子平は筆を置き、飛び掛からんばかりに土間に降りた。まじまじと、木版と喜平の顔を見比べる。

 その時ちらっと子平の頭に浮かんだ考えは、知明からやっと許しが出たか、というものであった。

「知明先生ではございませぬ。あまりに子平先生が日々、憂鬱なお顔をされていらっしゃったので、儂も頭を捻りました。山桜にござるよ」

 今までの木版は梓から作られていた。が、そういえば、前より木目全体が、美しい線を描いている。

「今まで気が付かなかったのが嘘みたいですが、一林山の一角には、山桜の木が植わっておる場所があります。樵の朋輩に頼んで、試しに何本か伐って貰い、木版を拵えました」

 喜平が両目を見開き、得意げに声を出した。

「それは……、何とも忝い。喜平の知恵には、真に感心致した」

 子平は心底から、喜平に感謝した。

 ――材木問屋が駄目なら、自ら木を伐る手段があったか。

 川柳が知恵を絞れ、と、あれほど申したのに、己は何とも不甲斐無い。川柳に指摘された通り、まだまだ絞り足りぬ。

「ただし、あくまでも繋ぎです。朋輩の仕事の合間に頼む程度ですから、それほどの数は賄えませぬ。しかも、金子は、今まで以上に掛かります。それでも続けて、宜しいでしょうか」

 山桜は梓より高級であるし、樵職人に頼むなら、手間賃もそれだけ必要であった。

 ――また、友諒に助けを乞わねばならぬか……。

 子平は一生、兄に世話を掛け通す運命であった。いや、今や兄だけではなく、甥の友道にも、だ。

「構わぬ。仙台の兄に文を出して金子は何とかする故、続けてくれ。が、喜平、差し支えなければ、儂にも樵を手伝わせてくれ。こう見えても、若い頃には、やっとうで鍛えた」

 ただ援助を乞うのみは辛い。少しでもできる仕事があれば、子平は手伝おうと思った。

 翌日からの子平は、早起きであった。丑の刻には床を這い出て山に入り、寅の刻から卯の刻半ばまで、木を伐っていた。

 当然、山々に斧の音が響いた。が、山桜の一角はかなり山深い場所であったので、他人の迷惑には、なっておらぬ。

 しかし、毎朝、欠かさず汗みずくで斧を振るっても、喜平が申していたように、できあがる木版は極僅かであった。正に牛歩の状況である。

   19

 長月の末に、友諒経由で江戸から文が届いた。差出人はお玉である。

 子平は差出人を見た瞬間に、川柳が身罷った状況を覚った。川柳は長月の二十三日の未明に、ひっそりと息を引き取った。

 明け方にふとお玉が目を覚ました時には、既に事切れていたと聞く。苦しまずに、眠るように逝った。

 辞世の句も残さなかったのは、川柳らしい。前句付けの第一人者でありながら、己よりも、常に前句付けの発展を願い続けていた。点者として生涯にすさまじい数の句会に出て多くの句を論じた川柳は、意外に実作は、ごく僅かであった。

 離れていても、大切な人間の死期は、何となく感じられると申す者もいる。が、子平はそうではなかった。

 二十三日の朝も山に入り、山桜と向き合っていた。目の前の木を伐り倒す手段に没頭していたという理由もあるが、いつもと異なる感覚は、ついぞ訪れなかった。

 が、それで良かった。江戸で別れた際に既に覚悟はできていたし、川柳の遺言に叛かずに、ひたすら前だけを見ている。それ故、川柳をいつも肌で感じているような気がしていた。

 願わくば、子平が身罷った時に、極楽浄土で再会したいと思う。その際に胸を張って、前に進んだと報告する。

 子平の毎日は、相変わらず、明け方からは樵の真似事をして、後は書見と執筆であった。

 神無月の半ばを過ぎ、鹽竈に初雪が積もった。

 僅か一寸ほどの積雪でも、山道の歩行は困難を極めた。その朝も一林山に入った。が、足元が滑って覚束ず、斧を杖代わりに引き返している。

 夕餉の後、知明の屋敷に呼ばれた。喜平が徳利と干物を持ってきて軽く体を温めた後、向かい合った知明が、話を切り出した。

「子平先生の執念には、負け申した。儂も腹を括ります。これまで通り、木版の都合を付けましょう」

 知明の脇に控えた喜平が、口元に微笑を浮かべていた。

「真に、宜しいのでしょうか。ご迷惑では、ございませぬか」

 喉元まで嬉しさが込み上げていたが、知明の真意を確かめようと思った。

「『執念に負けた』と申しました。冬にもかかわらずに毎朝、樵の真似事をなさっておられる子平先生を見ていると、何かお手伝いをせねば、という気にさせられてしまいます」

「知明先生は毎朝、子平先生の様子を窺っており申した」

 喜平が干物を摘み上げながら、口を挟んだ。

「喜平も、子平先生の『真摯さや執念』に心を動かされ、儂に黙って樵の朋輩に相談したようにございます。子平先生の情熱は、周囲を動かしますな。いや、参りました」

 知明が猪口で舌を濡らし、赤味を帯びた目元に皺を寄せた。

「有難うございます。寝食を忘れ、一心不乱に取り組みまする。必ずや、来年中には完成させる所存」

 知明や喜平の協力に応えるために急ぎたい気持ちもあった。

が、何よりも、幕府に目を付けられた不安定な情勢である。できる時に最大限の努力をしなければ、またいつ、状況が変化するやもしれぬ。

 ――信念を持ち続け、努力を怠らねば、誰かが見ていてくれる。

 ふと、川柳の最期の言葉を思い出した。正に、その通りになっていた。

 子平はその晩、川柳の死を偲びながら、酒を過ごした。

   20

 待ち望んだ木版を、喜平が連日、続々と運び入れてくれていた。

 子平は水を得た魚のように、彫刻刀を動かし続けていた。今まで彫れずに悶悶として過ごした時間を、取り戻そうとする気概である。

 何度も肉棘ができて潰れたせいで、手指の皮はささくれ立ち、分厚くなった。二の腕と肩の肉だけが、異様なくらいに盛り上がっている。

 一日の内、手と腕が動く限りは彫刻刀を握っていた。反対に、動かなくなれば彫刻刀を置き、書物か筆に切り替えた。

 床に入って眠る間も、勿体なく感じられた。そのため、どうしても眠気が去らぬ時には庵の柱に寄り掛かって睡眠を摂った。そのほうが、すぐに目覚められ、仕事に取り掛かれる。

 寛政三年(一七九一年)の夏に入った。といっても、子平にはそれほど実感がない。 

 月日の感覚がなくなって、久しい。一日中、ほぼ庵に籠り切りであった故、季節の感覚さえ、乏しくなっている。

 温かくなり、庵の周囲が色付いた状況と、喜平から聞かされて、夏だと認識していた。

 木版や膳を運んでくれる喜平のみが、子平の唯一の、世間との窓口であった。喜平ともしばらく、必要な話以外は、一切しておらぬ。

「子平先生。いよいよ完成間近ですか」

 喜平が木版を入れに来た際に、これ以上は無用と伝えていた。あと数日で、全ての木版が完成する。

「あと数日……。喜平、もうすぐ秋になるか」

 子平は珍しく、喜平に声を投げた。木版の完成が近づき、一息を吐いている。

「ちょうど数日で、文月にございます。木版の代わりに、また大量の紙が必要になりますな」

 喜平が積み上げられた木版を、嬉しそうに眺めた。出来上がりを、想像しているようだ。

「いや、これだけの量である故、駄目で元々で、江戸の版元に頼み込んでみようと思っている。叶わぬ場合は、また己で刷るしか、方法があるまいが」

『海国兵談』は、全一六巻になっていた。多くを刷って広めるには、やはり版元を頼るしかない。

 子平は再度、須原屋市兵衛を頼るつもりであった。

「散々お考えの末とは存じますが、再び江戸に行かれるは、かなり危のうござる」

 喜平が表情を曇らせた。子平を止めても無駄だと思って、それ以上の言を吐かぬ。が、引き結んだ口元は、江戸行きに反対している。

「心配して頂いて、真に有難い。しかし、やり遂げねばならぬ一生の仕事だ。此処で諦めては、儂の一生は、全てが無に帰する」

『海国兵談』は、既に幕府から睨まれている。とすれば、大っぴらに買おうと名乗りを挙げる者は、皆無に等しい。

 売れる見込みのない本を出す版元など、いない。版元も商いである。それ故に、版元を説得するためには、版元に損害を及ぼさぬだけの金子を、まずは用意しなければならなかった。

 当然、子平は友諒に頼らねばならぬ。が、さすがに此れが最後の機会となろう。

 そう鑑みると、『海国兵談』は、子平の人生で最後の出版となる。自分で刷って知り合いに配るだけの中途半端な刊行ではなく、どうしても版元から出したかった。

   21

 子平は版元の須原屋市兵衛を訪ねるため、再び僧形で江戸に来ていた。

 版木も、船荷に紛れさせて持ってきていた。是が非でも、市兵衛を説く覚悟である。

 日本橋本石町四丁目の須原屋に向かっていた。カピタンが江戸参府に使う、長崎屋の近くである。蘭学者の出版を多く手掛ける縁から、此の場所に屋敷を構えておるやもしれぬ。

 午の刻を過ぎ、北に見える日本橋には人が溢れていた。昼餉時故に、川沿いの店が混雑し、人の流れがゆったりとしている。

 橋の下では、山ほど荷を積んだ船が、幾艘も流れていた。桜の季節はとうに終わっていたが、川岸に点在する緑の繁みが、夏の風情を感じさせる。仄かな水草の匂いが時折、鼻を擽っていた。

 僧形で編笠を被ると、もはや誰も子平とは見抜けなかった。子平は人いきれに紛れ、悠々と日本橋を渡った。

 須原屋の帳場には、偶然、市兵衛が座っていた。子平が編笠を上げると、直ぐに気づいた。

「子平先生。よくぞご無事で」

旧知の坊主にでもあったかのような素振りで、奥に通してくれている。

 内儀が留守なのか、用心のために店の者を使わずに、市兵衛自身が茶を淹れてくれた。それ故に手元がぎこちなく、茶の色が薄い。

「市兵衛殿のお耳にも、何か噂が聞こえておりますか」

 開口一番、探りを入れた。時間に余裕がないため、世間話などで話を濁せぬ。

「それは、もちろん。子平先生の『海国兵談』の第一巻は、蘭学者の間では評判が宜しいようですが、御公儀に関わる御方たちは警戒しております。侍従様の命に叛く恐れあり、と」

 蘭学者との繋がりが強い市兵衛である。大方は耳に入っている状況は、予想していた。

「して、市兵衛殿も目を通して頂きましたか」

「拝見させて頂き申した。真に結構な出来映えで、江戸にいてはわからぬ海防の臨場感が、ひしひしと伝わって参りました。第二巻以降の執筆も、進んでおりますか」

 子平は少し、安堵していた。市兵衛が目を通し、気に入ってくれていなければ、話を切り出し辛かった。

「……実は既に、全一六巻が完成しており申す。それ故に、市兵衛殿をお訪ねしました」

 子平が投げた匙で、市兵衛が悟った。一瞬、絶句したように頬が引き攣っている。

「……遥遥のお越しと聞き、予想をせぬ訳ではありませなんだが……」

 市兵衛が口元を歪め、腕を組んだ。言葉を選びかねている態だ。

「何卒、お願い致す。市兵衛殿しか、頼れる御方は他にございませぬ」

 子平はただただ、頭を下げるしかなかった。大袈裟に申さば、『海国兵談』のために須原屋の身代を懸けてくれ、と頼んでいる。

「申し訳ござらぬが、やはりお受けできかねまする」

 市兵衛が首を振り、細い視線を、子平に投げてきた。丁重に、頭を垂れている。

 拒絶するように子平に向いた市兵衛の髷を眺めながら、子平はたじろいだ。これ以上しつこく食い下がっても良いだろうか、と。

一旦は、引き下がろうとも考えた。が、此処で諦める訳にはいかなかった。

諦めれば、子平の一生の仕事が、終わりを迎える。いや、自分の仕事云々ではなく、国の行く末を思った。

 ――何が何でも、日本国に目覚めて貰いたい。

 幕府を始めとした諸大名たちに、日本国は欧米や清国など強大な軍備を備えた国々に囲まれ、非常な局面を迎えている状況を理解させたかった。為政者たちのためではない。全ては、此の国の民の平穏のためである。

「市兵衛殿。儂のためではござらぬ。日本国の将来のためにござる。日本国が欧米などの異国に蹂躙されぬために、儂と共に、戦ってくだされ。此の通り、重ねてお頼み申す。また、此度は儂が彫った版木を全て、江戸に持参しており申す。おめおめと、仙台に持ち帰るつもりはござらぬ」

 子平は両手を畳に着き、市兵衛をじっと見詰めた。無理強いは百も承知で、一歩も退かぬ姿勢である。

 市兵衛は、子平の勢いに言葉を呑み込んでいた。黙して、思案している。

「子平先生。申し訳ございませぬが……」

「市兵衛殿。それならば、儂に引導を渡すつもりで、奉行所に届け出てくだされ! 版木を江戸に持ってきている旨も、包隠さずお話くだされて結構にござる。御公儀からどのような処分が下されようとも、決して御恨み申さず」

 市兵衛の言を遮って、吐き捨てた。子平は正しく、全てを懸けている。

 店先を行き交う甲高い声が、耳に入ってきた。大八車や荷車が土を噛む音も、聞こえている。

 市兵衛が、傍の煙草盆を引き寄せた。無言で火を点け、口から、ふう、と煙を吐く。

 市兵衛は煙管を銜えたまま、子平を含めた居間を見渡した。天井にもしばし、視線を向けている。

 子平は無言で、市兵衛の所作を確かめていた。全ての手の内を曝け出している故、待つしか方法がない。

「一五年程前に、全く同じ状況がありました。ご存知の通り、『解体新書』を出す折でござる。あの時の杉田玄白先生は、今の子平先生のように鬼気迫る様子で、儂に版元を依頼されました」

 市兵衛が、当時を思い出すような目で、語り始めた。視線が、遠くを見詰めている。

「儂はあの頃、長崎の耕牛先生の弟子をしておりました。玄白先生たちの快挙を聞き、朋輩どもと感動した覚えがござる。その陰にはやはり、市兵衛殿のような御方の支えがあったのでございますな」

「『解体新書』も一歩でも間違えば、御公儀からの咎めを受ける覚悟が必要でした。が、儂は玄白先生らの医学発展の志に打たれ、出版を決めたのでございます。儂が出版する本で多くの命や、病に苦しんでいる者たちが救われる状況になれば、後はどうなっても構わぬ、と。あれが最後と考えており申した。が、まさか再び、博奕を打つ機会が訪れようとは……。儂もつくづく、物好きです」

 市兵衛が、にんまりと煙を吐いた。灰吹きに煙管の先を叩き付けた後、煙草を置く。

「では、出版して頂けますのか」

「申しました通り、一五年ぶりに博奕を打つ所存。此度は、儂が出版した本で、異国の侵略から日本国が救われる。これほどの大仕事ならば、賭けても損はありますまい。が、博奕打は、直ぐに心が変わりやすい。子平先生、儂の決心が揺るがぬ内に、早う版木を持ってきてくだされ」

「……忝い。昼間は危うい故、今夜には、御船蔵から版木を取って参りましょうぞ」

 子平は肩を震わせた。自然と、瞼から滴が垂れる。 

   22

 子平は市兵衛に版木と金子を渡し、仙台の鹽竈神社の庵に戻っていた。

 当初は江戸に残り、市兵衛の仕事を手伝うつもりであった。内密の仕事故、市兵衛が信の置ける奉公人だけでは、仕事が捗らぬような気がしている。

 しかし、市兵衛に、きっぱりと断られた。素人の子平に一から教えるほうが却って手間であるし、須原屋の名で出版する以上は、素人の手が入った物を世には出せぬ、と。

 恐らくは、須原屋に子平が出入りすると周囲から怪しまれる可能性があるのと、子平の身の安全も気遣ってくれている。

 木版を彫る作業がなくなり、何とも肩の力が抜けた気分でいた。

 怠けている訳ではない。日がな『海国兵談』の写本に明け暮れていた。が、江戸の市兵衛たちの苦労を考えると、子平だけが楽をしているようで心苦しかった。

 文月に入り、仙台の空は毎日、晴れ渡っていた。子平の庵からは、芭蕉の愛でた松島湾が見事な色彩を見せ、遠くには牡鹿半島と金華山まで見渡せる。

 砂浜や川辺には、奥州の短い夏を楽しもうと、童たちを主とした人が群がっていた。少し沖には、漁師の船も多く浮かんでいる。

 子平も昔、海で何度か、水練に励んだ記憶がある。

 葉月の終わりを迎え、山々に木霊していた蝉の声が止んだ頃、市兵衛より文が届いた。

 市兵衛の文は、『海国兵談』全巻を刷り終え、神無月に初版を出版する旨が書かれていた。

「知明先生。ついに、成り申した……」

 ざっと文に目を走らせた子平は、迷惑も鑑みずに、一目散に知明の屋敷まで駆けた。奥で用事をしていた喜平が、何事か、と驚いたように顔を出す。

「子平先生の執念が、身を結びましたな。儂も嬉しく思います」

 すぐさま知明の居間に場所を移し、ささやかな祝宴が持たれた。喜平が、酒と簡単な摘み、その朝に獲れた穴子を焼いて、出してくれている。

「いやいや、真に皆様のお蔭にござれば、改めて礼を申します。江戸の市兵衛殿には、今此の時にも、多忙の中を、『海国兵談』に時間を割いて貰っております」

「御公儀の監視は、大丈夫にございましょうか。儂は、それのみ心配にござる」 

 喜平が知明と子平に酌をしながら、声を投げてきた。

「初版は三十八部で、なるべく蘭学者の伝手で売る方法で様子を見る所存。数と流通の道筋を把握し易いようにして、御公儀を刺激せぬように配慮しており申す。まあ、部数が少ない理由は、資金的にも厳しいからにございますが」

 三十八部と雖も、全十六巻である故、相当な量になったはずだ。友諒からも、それほど大きな金子を、一度に借りられぬ。

「これからどんどん、版を重ねていけば宜しい。まずは、始めの一歩が肝心にござれば」

 知明が盃を口に含み、箸で穴子を突いた。焼き立ての穴子の身から、脂が沁み出ている。

「儂も、そのように考えており申す。初版が売れれば、その金をまた、次版に注ぎ込む所存でござる」

「信念を貫いて夢を叶えた子平先生は、真に天晴にござる。側でお手伝いできた儂も、なんだか誇らしい気分です」

 喜平の頬が赤味を帯び、上機嫌になっていた。

「喜平殿にも、本当にお世話を懸け申した。感謝の言葉もござらぬ」

 子平は徳利を手にして、喜平に酌をした。

 耳を澄ませば、虫の音が聞こえてくる。秋真っ只中であった。

   23

 神無月に入った。港の景色は靄が掛かったように薄くなり、海陸を吹き交う風は、日毎に冷たさを増している。一森山の大半は紅色に染まっていた。

 あれから、市兵衛からの便りはなかった。が、恐らく『海国兵談』の初版が出版された頃だろう。

 せっかく出版されても、仙台にいては、状況が何一つわからぬ。子平は日々、もどかしさを感じて、気持ちが落ち着かなかった。

 が、状況が把握できるからといって、吉報とは限らなかった。霜月の初めに、友諒が沈痛な面持ちで、鹽竈神社に顔を出した。

 子平は瞬時に、凶事を思った。息せき切った友諒に茶を差し出し、言葉を待つ。

 いつ初雪が降ってもおかしくはないくらいに、外は寒い。火鉢を焚いているにもかかわらず、子平たちの吐く息は白かった。

「市兵衛殿が御公儀に捕えられ、詮議を受けておる。須原屋も閉まったままだ」

 友諒が真剣な眼差しで、言葉を発した。

「なんと! やはり、『海国兵談』が原因にございましょうや」

 子平は思わず腰を浮かした。瞬時に体に力が入り、どう力を使ったら良いかわからぬ。

「間違いない。版木も、御公儀が全て差し押さえたと聞いている」

「では、兄者……」

「追って、お主にも御公儀の手が伸びよう。それ故に、今日はお主をどこに隠すかを、相談に来た。これ以上、知明先生にご迷惑を掛けられぬ状況だ」

 幕府の手配書が全国に回れば、此の庵にいる子平の存在も、やがては露見する。そうなれば、知明や伊達家に害が及ぶ。

 友諒としても、困り果てて駆け付けたに相違なかった。友諒の焦りが、ひしひしと伝わってくる。 

「子平よ。儂はこの際、お主を蝦夷の奥にやろうと考えた。お主も蝦夷の北に行きたがっていたし、さすがに御公儀の手も、そこまでは及びにくい」

 友諒の意見は尤もであった。子平が幕府の探索から逃れようと考えるならば、蝦夷しかあるまい。

 しかし、子平にその気はなかった。

「兄上、御心配をお掛けして申し訳ござらぬ。なれど、儂は蝦夷に行くつもりはありませぬ。急ぎ、江戸に向かう所存にござる」

 市兵衛の召し放ちを嘆願し、全ての詮議を、子平自身が受けるつもりであった。

「それはならぬ! 下手をすれば、死罪も有り得る」

「元より、死は覚悟の上で、出版に踏み切っております。なれど、市兵衛殿には何ら罪がありませぬ。儂が無理強いして頼み込んだだけにござれば。御公儀に堂々と申し開きをして、己の一身で罰を受け申す。ただ願わくば、詮議の過程で直接、侍従様に意見を申し上げたい」

 子平は毅然と、友諒に視線を投げた。今の状況を予想せぬ訳ではなかった。それ故に、覚悟はとうにできている。

 冷たい風が、建付けの歪んだ窓枠の隙間を潜ってきていた。

 ――最期の航海は、海も荒れるやもしれぬ。

 子平は風の音を聞きながら、猛々しくうねる波を想像した。

   24

 住み慣れた江戸の街が、これほど色褪せて見えるとは。

 平凡な庶民としてなら、花のお江戸に間違いなかった。が、今日を限りに罪人にされかねぬ子平には、闇が大口を開けて待っているようだ。

 ――ただ国を憂いて、いったい何の罪なのだ。 

 吐き出したい思いは山々であった。が、統治者の意に添わねば罰せられるのが、世の常である。であれば、せめて統治者に一言でも申したかった。

 それ故、子平は江戸城の定信の屋敷を、直接に訪ねるつもりであった。

 仙台よりは温かいとは雖も、霜月半ばであった。通りを駆ける童たちも、袷を着込み、洟を啜っていた。

 江戸湾からの風は、仙台より湿っぱい。海が近く、そこらじゅうに水路が走っているためだ。

 江戸城鍛冶橋御門の前に着いた。東の前方には、絵師で名高い狩野派の屋敷が見える。

 子平は大門に向かって、橋の中央を歩いた。橋下の濠では、小舟を操る船頭と水鳥が羽ばたく姿が、見えていた。

「『海国兵談』の著者、林子平にござる。侍従様に申したき儀がござる。是非、お取次ぎを願いたい」

 子平は堂々と名乗った。亡くなった川柳の伝手を使えば、屋敷まで通るのは簡単であったやもしれぬ。が、もはや嘘を吐いても、仕様があるまい。

 突然の子平の来訪を受けた門番は、目をぱちくりとさせて驚きを表現した。応対に出た際は寒そうにしていたが、吹き飛んでいる。

 三人いた門番は顔を見合わせた後、一人が奥に駆けて行った。後の二人は、子平が逃げ出さぬか監視しており、白々しく時間稼ぎで話をしてくる。

 しばし、門前で時を過ごした。 

 が、子平を出迎えに来た者たちは定信の家臣ではなく、江戸城護衛の役人であった。

「林子平。お主は、我らが取り調べをする故、大人しく同道を致せ!」

 上下姿で身分の高そうな役人が、有無を言わさず声を荒げてきた。それを合図に、子平の脇を下っ端役人が固める。

「自ら取次ぎを願うた者に、何を為される。無礼にござろう! 心配せずとも、逃げも隠れもせぬ」

 子平は両脇に鋭く視線を放った。何ら恥じるところはない故、取調べの場まで胸を張って行く所存だ。

 下っ端役人たちは、上役の表情を窺った。上の命令は絶対である。

「逃げるつもりがなければ、宜しかろう。お主らは、少し離れて後を従いて参れ」

 上役の言で、子平の側から二人が離れた。踵を返した上役が、先に歩き出す。

 子平が連れて行かれた場所は、一ツ橋御門側の番屋であった。南には、江戸城本丸が聳え、子平を遥か上から見下ろしている。

 ――あのように人を見下した場所で政を決めるから、いかぬ。

 子平は番所に誘われながら、ふと思った。

 かつては、伊達家が仙台城内だけで政の一切を決める状況に、腹を立てていた。が、日本国の主からして、この状況では、伊達家のみを攻める訳にもいくまい。

 江戸が、元凶であった。

   25

 子平は番所の庭先に蓆を敷いただけの場所に、座らされた。整然と均された土が、藁半紙のように、優に二十間四方は広がっている。

 壁際には等間隔に木が植えられていた。庭の景観も考えておろうが、一見して逃亡を阻止する役割が想像できる配置である。

 目前には、広大な御用屋敷が屋根を連ねていた。此処の番所が、江戸城周囲の各番所を統括している。人の出入りが多いのか、屋敷内から活気が感じられた。

 向かって左右の廊下脇に、役人が控えていた。子平を監視するためであろう。

 ぽつんと蓆の上で吟味を待つ身が、これほど孤独とは思いも寄らなかった。四方を遮られて吹く微かな風が、冷たく首元に沁みている。

 しばらくして腰高障子が開いて覗いた顔は、先ほど先導してくれた上下姿の役人であった。

「小人目付の小野寺左内じゃ。儂が、お主を取り調べる次第となった。何事も正直に申すが賢明ぞ」

 白細面で小柄だが、頭が切れそうな目付きであった。左内は扇子をぽんと手の平で打ち、子平に視線を向けてきている。

「憚りながら、儂は侍従様に直接、ご意見を申し上げるつもりにござった。が、まさか侍従様ともあろう御方が、一介の蘭学者を恐れ、お逃げなさるとは……」

「口を慎め、子平! 侍従様に無礼を申すなら、即刻、打ち首になるぞ」

「命など、とうに捨てておりまする。真に侍従様が儂を恐れておらぬと申されるのならば、儂と直接に堂々と、面と向かってお話あれ。後ろを見せて逃げ出すなど、卑怯者にござる」

 子平はなるべく左内を挑発し、定信を引っ張り出したかった。そのため、わざと左内の神経を逆撫でしようと試みている。

 定信の耳に話が届けば、誇り高き定信は怒り、万が一にも出向いてくる可能性があった。

「其方が素直に『海国兵談』が御公儀に対する非礼である状況を認め、深く反省すれば情けある処遇となろう。全く悔いもしなければ、須原屋市兵衛にも、どのような処分が下るかわからぬ」

 左内の口調が、脅しに変化した。左内としても、定信への無礼の言は放っておけぬ。

 放っておけば、左内は後で如何なる処分を受けるかわからなかった。いわば、子平と左内は、互いに己の存在を懸けた問答をしている。

 とすれば、先ほど子平を監視していると考えていた廊下脇の役人たちは、左内の言動をも、見ていた。或いは、どこか近くで、密偵なども耳を欹てておるやもしれぬ。

「これは、口が過ぎ申した。須原屋市兵衛殿は、儂が脅すようにして出版を依頼しており申す。それ故に、市兵衛はむろん、須原屋は無実でござる。即刻、お召し放ち下され。また、儂に罪があると仰せなら、市兵衛殿を脅した一点にござろう。それについては、大人しく吟味をお受けする」

「……人を食ったような話を。ならば、どうあっても『海国兵談』に非はないと申すのだな」

「『海国兵談』の内容については、侍従様としか話せませぬ。無理に話せと仰るなら、即刻、儂の首を刎ねてくだされ」

 堂々と命を懸けて定信に具申したいと申し出ておる者を、何も聞かずに死罪にすれば、風聞が悪かろう。

 子平はひたすら、定信との対話を望んでいた。

   26

 子平は『海国兵談』の内容については、一切、話に乗らなかった。

 左内は吟味だけで、子平に対する沙汰をする権限を与えられてはおらぬようだ。故に、しばらくは無意味な押し問答が続き、左内の表情は怒りに染まっている。

「くぅ、おのれ……。もはや、問答は無用。上に掛け合って、即刻、牢に放り込んでくれるわ」

「侍従様と同じく、御公儀の皆様は揃って、儂から逃げますのか。それにしても、御老中首座が国防の議論を避けなさるとは、侍従様の尊敬なされておられる有徳院様が聞けば、さぞお嘆きになられましょうな」

「貴様はこの上、有徳院様の御名まで持ち出し寄って。控えおれ!」

 左内は吐き捨てると、背を向けて腰高障子の中に吸い込まれた。ぴしゃりと戸が閉じられた後は、しんと静まり、屋敷内や外の喧噪が風に乗ってくる。

 薄金色の陽が辺りの土を照らし、軒下には影を作っていた。夏ほど、くっきりとした陰影は出ない。

 半刻は経った。その間、子平も見張りも一言も発さずに、ただ待ち続けている。

 今度は、複数の足音が近づいてきた。左内が言葉通り、上役を引き連れてきたのやもしれぬ。

 腰高障子が開いて顔を出したのは、正に上役の定信自身であった。他に数人の供連れがおり、一番末席に左内が座を占めている。

此の中では、左内が一番身分が低いと見える。

 策に嵌った訳ではなく、定信は恐らく、子平の意図を知りながら姿を見せておろう。 

「申し上げました通り、林子平は、侍従様に具申する、の一点張りにございます」

 左内が中央の定信に平伏し、俯いたまま声を投げた。庭中に響く声だ。

「良い。儂が直に吟味を致そう。皆はしばし、黙っておれ」

 周囲に向かって落ち着いた声を投げた後、定信の視線は、つと子平に向けられた。

 さすがに老中首座になり、数々の政策を打ち立てているだけの威厳が伝わってきた。以前に訪ねた際とは、貫録が比べものにならぬ。

「子平先生。いや、子平。このような再会になるとは、やりきれぬ気分だ。川柳先生も冥土で、さぞ悲しんでおられよう」

「儂も、このような形でしか具申できなんだは、真に嘆かわしく存じます。かつては舌を巻くほど聡明であった侍従様が、権力を手中に収めた途端に、周囲の意見に耳を傾けなくなってしまわれた。川柳先生は草葉の陰で、儂の背中を押してくれておりましょう。誰よりも、元の侍従様に戻られる状況を願っており申した」

 子平は頭を垂れながらも、真っ直ぐと定信に視線を投げた。怒りや憎しみではなく、誠意を持って向き合っている。

「儂は変わったのではない。政の中枢を動かし、大きく成長しておる途中である。お主や川柳先生のように、国の政を握った機会がない者には、永久にわからぬ」

「なれど、同じく国の政を握った主殿頭様や有徳院様は、できるだけ下々の意見を聞こうとなされましたぞ。お二方とも、江戸城の中でだけ国の行末を議論する愚を、理解されておられた故にござる!」

「主殿頭と有徳院様を、同列にするな! この無礼者めが」

 定信の表情が歪み、蔑んだような目に変わった。口元を震わせている。

「侍従様は、誤解されております。主殿頭様の政は、有徳院様のご偉業を否定した訳ではなく、引き継いだ次第にござる。主殿頭様は生前の有徳院様から、直に薫陶を受けておったと聞き及びました。有徳院様は書物の解禁などで、異国からでも良いところは学ぼうとされた。それを主殿頭様は、さらに発展させ、交易を主眼に、蝦夷地開発を試みたのでござる」

「下らぬ戯言を! 有徳院様のご意思を継ぐのは唯一、この儂じゃ。それ故に、主殿頭が乱した世を、正しておる真っ最中なのだ。お主のようなつまらぬ話をする輩が多い故に、蘭学者は好かぬ」

 定信の目は血走り、扇子を握った手で、何度も苛立たしげに膝を叩いた。

 周囲の供連れたちは、ハラハラした様子で視線を泳がせ、見守っていた。口を出したいが、最初に釘をさされたため、挟めぬ様子である。

「国の大事は、好く、好かぬで、片付ける問題ではございませぬ。一度、異国が軍備を整えて日本国に攻め入れば、手遅れになりまする。国難を避け、日本国の将来を思うならば、幅広く意見を募ってくだされ。江戸にいて、隠密などから話を聞くだけではわからぬ状況も、多々ありますれば。蘭学者に限らず、在野には有能な人材が溢れておりまする」

 子平は背筋に力を入れ、声を張った。定信だけではなく、供連れたちにも、十分に声を届けたい。

「……全く、話にならぬわ。多少なりとも詫び言でも申すかと聞いてみれば、政を批判するとは。挙句の果てに、異国が攻め寄せるなどと、根拠のない話を……」

「儂は、此の目で長崎と蝦夷を始めとして、諸国を隈なく見て参りました。『海国兵談』に記したとおり、我が国は決して島国故に安泰ではなく、海で世界中と繋がっておりまする。元寇の時代ならいざ知らず、現在の西欧船の性能は、海をものともせぬ状況になっている。世界中に西欧の植民地が増えている現状を鑑みれば、根拠のない話などではござらぬ」

「黙れ! もう良いわ。これにて、吟味は終了と致す。沙汰を申し渡すまで、子平を牢に放り込んでおけ」

 定信が毅然と言い放つと、役人たちがわらわらと、子平に駆け寄って来た。子平は後ろ手にされ、両手首を縄で括られている。

 定信が背を向け、去ろうとした。

「侍従様、最後に一言だけ申し上げる。『民の為の善政』を成してくだされ! 堅く、三人でお約束しましたぞ」

 初めて定信に会った際に、定信自らが述べた言葉であった。もう一度、初心を思い出して欲しいとの願いを込めている。

 定信は一瞬、ぴくんと背を震わせて動きを止めた。が、何事もなかったように、無言で屋敷の中に入って行った。

 子平は、定信が気づいてくれたと感じた。また、定信の目が覚める日が、いつか訪れると信じている。

 子平は縄を掛けられたまま、屋敷の裏手にある石牢に連れて行かれた。

 冷たい風が、渇いた土の匂いを運んできた。江戸の冬は、これからが寒くなる。 



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