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改革者たち  作者: いつみともあき
6/8

第六章 新たな改革

   1

 子平は体調がかなり快復したところで、ぽつぽつと医師業を始めた。

誰にも会わずに、ずっと養生しておる生活も気が滅入る。働いていたほうが気も張り、人との出会いがあるため、病が癒えるのも早いと考えた。

 もっとも、診察のない時間はひたすら筆を執り、蝦夷や国防について書き認めていた。

 そうこうしている内に、年が明けた。

 江戸の春は、時折は寒風が通り抜けるが、概ね穏やかに過ぎている。やはり蝦夷とは異なり、風が優しい。

 体調が完全に戻っておれば、弥生から再開される蝦夷検分に参加したかった。が、どうも以前のような力が、体幹に漲らぬ。

 ただ単に養生で体が鈍り、気力が足らぬのかとも考えて、毎朝起きると木刀を振ってみたりもした。が、駄目であった。

 体調に不安を残したまま蝦夷に渡っても、皆に迷惑を掛ける仕儀となる。故に、此度は涙を呑んだ。

 鉄五郎や徳内にその旨の文を届けると、松前から返信が届いた。

 昨年は択捉島には至らず、今年はイコトイやツキノエらの協力を得て、択捉島はもちろん、さらに北上してロシア人との接触を試みる、と意気込んでいた。

 江戸で燻っておる子平の心が疼かぬわけはなかった。が、その分の口惜しさを含めて、無心にひたすら筆を動かしている。

 体躯が東蝦夷の大地を駆けられぬ故、筆と頭の中の想像のみで、どこまでも北を目指していた。

「此処のところ、越中守様のご評判は、鰻登りのご様子ですね」

 お春が長屋に来て、持参した団子に茶を淹れていた。少し元気になった子平の、快気祝いだという。

 越中守は、久松松平家を継いだ定信の現在の官名であった。定信は、天明三年に家督を譲り受けている。

 天明の大飢饉による被害が甚大であった奥州や北関東にあって、久松松平家の領地がある白河では、一人の餓死者も出さなかった。

 定信が日頃から飢饉に対する備えをしていたのはもちろん、殿様自らが率先して粗食など倹約に努めたと聞く。定信の手腕は全国に大いに喧伝されていた。

 近頃では、意次の失政と対比して、定信の功績が語られていた。それ故、意次の焦りも、募っているのであろう。

「真に、喜ばしい限りである。しばらくお会いしておらぬが、立派に名君となられたようだ」

 久松に養子にやられた折には、意次に対して激しい憎悪を向けていた。それを物ともせずに、才能を開花させている……。

 いや、一つ妙な噂を耳にしていた。

 定信は飢饉に対処する際に、いち早く近隣や西国諸国の米を買い占めたという。意次が米の買い占めを禁止した命に、真っ向から逆らっている。

 恐らくは御家や民を救わんがためであろうが、意次への憎悪も残っておるのではなかろうか、と思った。また、御家や民のためであるとしても、米を買い占めれば、近隣諸国や他国がさらに飢える状況は、予想できたはずである。

 とずれば、自国のみを救うために、近隣を犠牲にしたとも言えなくもなかった。その点に、一抹の不安を感じていた。

   2

 夏も終わりを迎えた頃には、子平の体はすっかり元気になっていた。この分であれば、来年の蝦夷探索には同行できそうだ。

 徳内から、択捉島に渡る前に書かれた文が届いた。

 一見して、文体が弾んでいた。徳内の、心の底からの興奮が伝わってきた。妬む気持ちは微塵もなく、子平も素直に嬉しくなった。

 ――次は、儂も必ず……。

 子平の胸も弾み、報告が待ち遠しくなった。一刻も早く、択捉以北のロシア人たちの動向を聞きたい。

 いつ徳内の手に渡るかはわからぬが、来年は一緒に、どこまでも北に向かおう、と返事を書き送った。

 体に力が戻り、夏の陽気も手伝ってか、仕事も筆も面白いように進んだ。体が元気だと、気力も充実する。

 往診の帰りに、川柳の庵を訪ねていた。お玉が外出中であったので、川柳が茶と砂糖菓子を出してくれている。

 川柳も齢のせいか、以前のようにそこかしこを出歩かなくなっていた。そのため、子平が庵を訪ねる機会が多くなっている。

 相変わらず短柵が山と積まれた居間には、季節の花が飾られていた。腰を落ち着けるために短冊を掻き分けて場所を空けた。

 一通り世間話を済ませた頃、意次の話になった。

 川柳も意次の状況を気に懸けていた。漏れ聞く内容では、意次の幕閣での旗色は、日増しに悪くなっているらしい。

「加えて、窮めて内密で他言無用な話だが……。公方様が、どうもお悪いらしい」

 周囲を窺って一旦は間を置いた後、川柳が低く囁いた。額の皺が畝って、模様を作っている。

「真にございますか! では、侍従様は、ますます……」

「公方様がご快復なされなければ、窮地に立たれるだろう。後ろ盾をなくす次第となる」

「お悪いとは、そこまでにござるか……。確か公方様は、某と齢が変わらぬはず」

 将軍家治の歳は、子平の一つ上であった。戦国の世なら人間五十年ともなれば、天に召されても、決しておかしくはなかった。将軍が心配ではあったが、変わらぬ齢の自分も、いつ同じ状況になるやもしれぬ。

 何しろ、蝦夷での病が死病であれば、既に生きておらんかった。蝦夷の病や凍傷で、和人が死ぬ例は、毎年けっこうあるくらいだ。

 意次は、将軍家治の威光があってこそ、幕政に大鉈を振るってこられた。ただでさえ窮地に立たされている上に後ろ盾がなくなれば、意次の立場はむろん、幕政が混乱する状況は目に見えていた。

   3

 葉月になると、将軍の具合が良くないとの噂が、江戸の巷で流れ始めた。巷に流れるくらいである故、相当に重い状況であるのは間違いなかった。

 葉月の終わり、駕籠を飛ばして川柳が長屋を訪ねてきた。深刻そうな表情である。

 子平は川柳を畳に促し、辺りを窺ってから戸を閉めた。葦簾の模様になった陽が、土間に落ちている。

 表では童が数人遊んでいるが、少々騒がしいほうが、話し声が掻き消えてよかった。川柳の表情を見た瞬間から、容易ならぬ内容なのは想像がついている。

「公方様が、身罷られましたぞ」

 川柳は喉が渇いていたのか、嗄れた声を洩らすと、ごくりと差し出した茶を啜った。

 将軍が死んだ話に驚かぬ訳ではなかった。が、その話を、わざわざ川柳がしに来たとは思えぬ。それ故に、黙して続きを待った。

「また、侍従様が老中を解任させられた由」

「公方様が身罷れたと同時にござるか。いったい、どのような理由で」

 将軍が死んだばかりであれば、誰が意次解任を判断したのか。

「儂には、皆目わかり申さぬ。ただ、侍従様の解任の事実のみが耳に入りました」

 川柳が、諦めたように首を振った。さすがに江戸城内の出来事である。それ以上は、探りようがなかった。

「公方様の死は、たいていは、しばらく伏せられます。恐らくは、公方様が御危篤の折から、激しい権力争いが起こっていたのでしょう。とても、我らでは力が及ばぬ場所にござれば、状況を見守るしかありますまい」

 意次が解任され、誰が国の舵を執るのか。はては、意次の巻き返しが成るのだろうか。

「いずれにしろ、侍従様が心配にござる」

 川柳が、呟いた。駕籠を飛ばしたは、居ても立ってもおれんかったのだろう。

「確かに……。ですが、侍従様も此のままでは終わりますまい。また、侍従様以外で、政を与れる人物などおりましょうか」

 口に出したものの、一人の人物が頭に浮かんだ。今、最も名君として名高く、血筋も申し分がない大名は、定信であった。 

   4

 坂道を転がり落ちる、とはこういう状況であろうか。

 老中を解任された意次は、閏十月には知行を二万石減らされた。その上、大坂の蔵屋敷は没収、江戸屋敷も明け渡しを命じられ、さらにはその後、蟄居させられている。

 庶民には何が何だかわからぬうちに、政変が進んでいた。噂では、徳川御三家が反意次に回り、大勢は決したと聞く。

 子平と川柳は意次への面会も考えたが、蟄居させられたばかりの意次に面会する手段はなかった。心配ではあったが、今は成り行きを見守るしかない。取り立てて罪状が挙げられておらぬため、よもや腹を斬らされる結果とはならぬだろう。

 天明七年(一七八七年)の夏の終わりには、新将軍である徳川家斉の若年を補佐するため、定信が老中になった。

 意次が失脚した頃から、次代の政は定信に、という声は高かった。が、あまりのトントン拍子に世代交代が済み、意次の無念は然る事ながら、子平は背後に陰謀の存在を感じている。

 というのも、なぜか意次失脚後には、意次が多額の賄賂を受け取っていた旨の噂が、市中に急激に出回った。反対に、定信の政が清廉潔白であるとの情報が、対比されて流れている。

 飢饉が続いている折である。意次は、貧苦に喘いで不満の溜まった諸国の民の怨嗟の的となった。

 ――間違いなく、何らかの、誰かの意図が介在している。

『田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水』

 誰が詠んだかわからぬが、歌が流行る時期も、ぴたりと合っていた。

 世論を味方にした定信は就任後、公然と意次政治の批判を開始し、意次の息の掛かった者たちを、次々と排除していた。一連の流れは、滑るようである。

 日本は、悪政を敷いた意次が倒れ、清く正しい政を掲げた定信が台頭した形となった。

 文月も半ばを過ぎ、じめじめした梅雨空も明けた。

 通りを行く童たちはどこも元気だが、行き交う大人たちには、どうも勢いがない。花のお江戸が、地味な田舎町になったようだ。羽振りよく、華美な着物を着ていた商人たちも鳴りを潜めている。

 定信の政が始まった故であった。

 定信は、意次の商業を重視した政から、吉宗公時代の政に回帰しようとしていた。つまりは、農業重視である。百姓たちを畑に返し、米の収穫量を増やそうと目論でいる。また、徹底的な倹約を、役人はもちろん、庶民にまで命じ、諸国に触書を立てた。

 それ故に、江戸の町が徐々に色褪せたように地味になっていた。店屋なども控え目に営業する破目となって、どこか活気が薄い。

「何だか生きづらい世になりましたな。侍従様も、昔はお優しく、寛容な御方であったのに」

 久米吉と、夕刻から開かれる川柳の句会に向かっていた。

 久しぶりに、お春と三人で行く予定であったが、お春は急用で、店から離れられぬようだ。さすがに団子屋まで倹約せよとは言われず、相変わらずの繁盛ぶりであった。

 上野から子平の長屋を訪ねた久米吉は、寛永寺の参拝客もつとに減ったと嘆き、定信の政に愚痴をこぼした。倹約の通達が参拝にどう影響するかわからぬが、とにかく履物の売れ行きも悪くなっているようだ。

 定信は、意次から剥奪した侍従職に就いていた。意次の政策のほとんどを否定している状況から、相当な悪意が垣間見られる。

 が、川柳と共に、三人で将来を語り合った時の爽やかな笑顔が思い出され、とても定信の一存とは思えぬ。誰か、良からぬ輩が背後に付いておるのだろうか。

「儂も、昔の侍従様を思っておった。何か、違和感を抱くのう……。落ち着いたら、侍従様にもお目通りを願ってはみるつもりだが」

 かつては気楽に訪れた定信だが、年月や噂が、何やら壁を造り上げているような気がした。

 なかなか落ちない残滓が、大川に紅を棚引かせていた。影と朱が鬩ぎ遭う川面の上を、猪牙や屋形船が通り過ぎていく。

   5

 句会は龍宝寺の講堂で行われていた。腰高障子は、庭の聴衆のために開け放たれている。

 確か、子平が初めて川柳の句会を目にした際も、蚊に悩まされた記憶があった。今も引っ切り無しに、聴衆の中でぺちんぺちんと音が聞こえ、手の平で蚊を追う仕草をしている者もいる。

 篝火が天を焦がす中で、次々と秀作が詠まれ、点者が真剣な眼差しで批評を交わしていた。

 川柳はといえば、昔のように会を主催しているという風ではなく、時折、鋭い意見を投げ、点者や聴衆を唸らしていた。老いて第一線からは距離を置いているが、別格の存在感がある。

 子平は、日頃から精進を怠らぬ川柳を見ておればこそ、感嘆を覚えずにはいられなかった。

 ――老いても、人は輝ける手本が、目の前にあるではないか。

 一度の病如きで落ち込んだ自分が、とてつもなく恥ずかしく、小さく思えた。

 講堂の隅で観賞しながら、子平はぎゅっと唇を噛んだ。

 句会を終えた後、後片付けを弟子に託した川柳と、一緒に通りを歩いていた。久米吉が提灯を手に、道を照らしている。

 暑い夜で眠れぬのか、通りにはまだけっこうな人が残っていた。蕎麦屋や天麩羅屋も暖簾を降ろさず、客を呼び込んでいる。

「なんだか、昼間より夜のほうが、江戸は元気らしいや」

 久米吉が、嬉しそうに弾んだ声を出した。根っからの商人であるため、賑わいが好きなのだ。

「昼間に派手な商売をやっておると、役人の目を気にするのだろう。夜なら、闇を隠れ蓑にでき、手入れなどがあっても、闇に紛れて逃げられる」

「なるほど! じゃあ、あっしも夜に華美な履物を売ったらいいかもしれませんや」

 久米吉がくく、と背中を揺らした。

「それにしても川柳先生、句会にあっては圧倒的な存在感にございましたな。久しぶりに拝見して、感服致しました」

 川柳が杖を突きながら歩くに合わせていた。子平は、なるべくゆっくりと歩を進めている。

「弟子たちが、年寄りを大事に扱うてくれます。それはそうと、子平先生。侍従様の件で、小耳に挟んだ話がござる……。良い知らせではありませんが、気になっておられる内容にござれば」

 前屈みに杖を出していた川柳が、顔を上げた。

「蝦夷検分隊にござるが、中止され、隊の方々は罷免された由にござる」

 川柳は、子平を窺うように眉を傾けた。

「えっ……。罷免されたとは、如何なる次第で」

 検分隊の中止については、意次の政を悉く否定している定信ならば、いずれは有り得ると危惧していた。が、せっかく、徳内たちが択捉に渡り、逸平たちは西蝦夷から北の検分に出ている今の時期に罷免とは、何とも解しがたかった。蝦夷検分は、幕府にとって利となり、国防の観点からは必須である。

「詳しい状況までは、わかりませぬ。が、弟子の中に幾人かは、今の侍従様に仕えておる者があります。小耳に挟んだ次第にて」

「いけませぬぞ! 政が変わっても、蝦夷の重要性やロシアの脅威は顕在しており申す。何とか侍従様に御目通りして、お諫めせねば」

 子平は一瞬、我を忘れ、叫んだ。

 十間四方は轟いたらしい。驚いたような町衆が振り返って、暗闇の三人を窺っている。蕎麦屋からは、客の一人が暖簾から首を出していた。喧嘩と思われたか。

 周囲だけでなく、川柳と久米吉も驚かせていた。二人は無言のまま、子平を見詰めている。

「相済みませぬ。心が高ぶってしまいました」

 二人に頭を下げ、恥ずかしさを紛らわすように、ゆっくりと歩を踏み出した。

 久米吉が再び前を照らすと、川柳も杖を突き、従いてきた。

「……とにかく、一度、侍従様の御屋敷を訪ねてみます。恐らく、江戸城内では門前払いされるのが関の山でしょうから」

 子平の身分で、江戸城内で老中に面会できる訳がなかった。意次の時代とて、屋敷にしか行った機会はない。また、たとえ定信が会う気になってくれたとしても、江戸城内は格式に煩いため、誰かの咎めを受ける可能性があった。

 加えて、定信の政の方針は、意次時代に少し緩んだ身分関係を、今後は厳格にするつもりであった。とすれば、なおのこと城内での定信との面会は、困難である。

「ならば、以前のように儂もお供を致しましょう。子平先生を御一人で行かせるは、心配にござれば」

 川柳がにっこりと皺を作った。

 川柳の申し出は、非常に有難かった。川柳には、皆を心服させる気のようなものがある。子平の意見は聞けずとも、川柳が間に入ってくれれば、定信とも話しやすい。

「川柳先生。忝のうござる。また、昔のように楽しく話ができればよいと思います」

「儂は、そのつもりでござる。あれだけ聡明であった御方な故、根は変わっておらぬはず」

 川柳が、噛み締めるように頷いた。

 多くの人間の機微を目にしてきている川柳が、人の本質は変わらぬ、と悟っていた。ならば、自分も信じてみよう、と子平は思った。

「なんだか深刻そうですが、以前の調子でお話すれば宜しいじゃありませんか。あれだけ親しかったのだから、偉くなられたからといって、よもや邪険には、せんでしょう」

 久米吉も振り返り、肉の付いた両頬を揺らした。濁った白い歯が、提灯の灯で淡く浮かんでいる。

   6

 定信に面会する前に下調べをしたところ、やはり蝦夷検分隊は中止と決まり、お役目に就いていた者たちは罷免と決まっていた。

 鉄五郎や玄六郎は、既に江戸に呼び戻されて謹慎しており、事情聴取される手筈となっていた。俊蔵や徳内、もう一方の隊に随行していた逸平などは、残務処理のために松前に残されている。

 子平は、久方ぶりに、激しい憤りを感じていた。

 確かに、それぞれの野心はあっただろう。とはいえ、日本国のために体を張って蝦夷検分に乗り出した男たちを、まるで罪人のように扱っていた。意次の政を否定したとしても、検分隊の一行には何ら非はないはずだ。

 数日後に、定信を訪れた。

 数日の間を空けた理由は、齢を経たとはいえ、子平は元来が短気な性分である。老中になった定信に無礼な言動をせぬように、自らを戒めた。せっかく三人で会う場を、台無しにしては元も子もない。

 川柳を駕籠へ誘い、いつかのように子平は寄り添って通りを歩いた。

 前後の駕籠屋は、子供くらいの若者である。額に汗しながら、元気よく掛け声を上げていた。

 定信の老中屋敷は、以前の田安屋敷から、さらに江戸城を東南に入った西ノ丸下にあった。江戸城の東南の守りの要に当たる。

 子平たちは、南の桜田御門の番所を訪ねた。

 門は開け放たれたままであり、江戸城内へ出入りの侍が行き交っている。皆が月代を綺麗に剃り、小奇麗な上下に二本の大小を腰に差していた。江戸城内に勤める侍たちは、田舎とは違い、身形が洗練されている。

「柄井川柳の弟子にござる。侍従様からのお召にて、参上仕りました。良しなに、御取次ぎくださりませ」

 勝手知ったる江戸城の番所である。権力者の名を出せば、少なくとも話は上まで届く。あとは、定信がどう判断するか、であった。

 優に半刻は待ちぼうけた。

 御堀の水が干上がるような炎天下であった。桜田門の軒下で影を取っているとは申せ、何度も懐から手拭を出して、汗を拭っている。

 さすがに川柳は高齢なので、床几を借り受けていた。暑い最中を待たされている状況に、一つも文句を言わぬ。が、体力は消耗しておろう。

「話は伝わってござろうか。済まぬが、もう一度、お取次ぎくだされ」

 川柳だけでも、どこかの居間に通して欲しいと思った。番所の役人に、頭を下げる。

「確かに、伝えてござる。屋敷の者が、恐らくは城内に居られる侍従様に繋ぎを取っておりましょう。侍従様はお忙しい。繋ぎも、直ぐには取れぬ。それ故に、時間が掛かるのは仕様がない」

 背の高い役人が、すまなさそうに首を振った。疲れた態の川柳を見て、同情はしてくれている。

 待たされている時の蝉の鳴き声ほど、鬱陶しいものはなかった。喧しい叫び声が、手持ち無沙汰で返答を待つだけの耳には、よく入ってくる。

「お通ししろ、との命だ」

 今日は無理か、と半ば諦め掛けた時に、門番が一人ようやっと掛けてきた。

   7

 西ノ丸下には、老中や若年寄など、国政を握るようなお偉方の壮大な屋敷が立ち並んでいた。出仕の侍たちも遠慮してか、静かに通りを歩いている。

 西ノ丸大手門はむろん、遠くの坂下御門や内桜田御門の辺りでは、侍が列を成していた。恐らくは、御城内に入る際の調べが厳しいのであろう。

 午の刻の鐘が響いた。驚いたのか、鐘の音が鳴っている間は、蝉がぴたりと鳴き止んでいる。

 定信の屋敷は老中阿部正倫の隣、馬場先御門と向かい合う位置にあった。馬場先御門を潜った向こうには、内堀の水面が眩しく光っている。

 番所の役人から屋敷の用人に引き継がれ、表門から中に誘われた。

 玄関から目を瞠るような豪奢な造りの式台に通され、別の、身分の高い用人が挨拶に出てきた。

「殿は、御城内の昼餉の後、一旦は、こちらに戻られます。が、多忙の故に、四半刻ほどしか時間が取れませぬ。それでご容赦くだされ」

 用人が邪険そうな目で、二人を眺めて来た。面識はないので、身分の低い二人を訝しんでいる様子だ。

「むろん、けっこうにござる。侍従様が、お忙しい中を足を運んでくださるだけで、有難い。お手数をお掛けする」

 突然こうして訪れても、対応してくれている。素直に、感謝を表した。

 子平と川柳が丁寧に礼をしたおかげで、用人の表情も少し晴れた。納得したように頷くと、奥への廊下へと先導してくれた。

 通された御広間はだだっ広いが、殺風景であった。さすがに倹約を旨としているだけあって、上座に置かれた棚や脇息には、蒔絵すら入っておらぬ。いかにも体裁を繕うために書かせた山水画が、いくつかあるだけだ。先ほどの豪奢な式台は、恐らくは前の大名の置き土産か。

 子平は、意次の屋敷と似た雰囲気を感じていた。意次にしても、あれだけの権勢を誇りながら、己の屋敷は質素であった。意次も定信も、私欲を捨てて国政に尽力している点では、一致しておるやもしれぬ。

 その点において二人は、間違いなく尊敬できるし、優れた為政者であった。

「川柳先生の庵のほうが、ある意味、華美にござるな」

 傍らの川柳に、小声で囁いた。川柳の庵は、お玉が必ず季節の花をいくつか活けて、常に風流を感じさせている。

「ほっほ、物は言いようにござるな。金はなくとも、部屋を彩る方法はありまする故」

 出された茶を喉に通して生き返ったような川柳が、頬に皺を寄せた。

「御養子に入られる際に侍従様にお会いしてから、もう十二年が経ちまする……」

 子平は、年月を経て、老中にまで登り詰めた定信の意思の強さを思った。

 あの時、定信は、「必ず這い上がって見せる」と高らかに宣言した。どのような成り行きであっても、定信は己の夢を実現させている。 

 感嘆と称賛する想いと共に、微かな嫉妬の気持ちがある。それ故に、検分隊への仕打ちへの怒りも、増した面もあろう。私心で怒りをぶつけてはいかん、と改めて自戒した。

「いろいろありますが、さぞかし御立派になられておりましょう。儂なんぞは、言葉は憚れますが、孫を見るような気持ちにござれば」

 川柳が、まだ誰もいない上座に目をやった。あそこに座る若者の姿を思い描いている。

   8

 女房がお茶のお代わりを訪ねに来た他は、静かな時が流れていた。のどかな夏の昼餉に、川柳と茶ばかり飲んでいる。

 定信は、未の刻の鐘が響いた後、しばらくしてやってきた。恐らくは着替えもせずに、御城内にいたままの裃姿である。

 上座にどっかと腰を降ろした定信の傍らに二人の小姓が付き、一段下がった下座の端にも、二人の侍が控えた。

 以前とは異なり、老中首座ともなると、お付や警固がしっかりしていた。

 意次の身軽さとは、一線を画している。いや、意外にも意次が無防備すぎた故に、簡単に政権を奪われたとも思えた。意次には、抜け目のない才人の部分と、どこか無邪気な面があった。

「お二方とも、真に久しぶりだのう。息災そうで、何より」

 定信の声には、威厳があった。かつての十代の青年の面影は、もはや欠片もない。

 あどけない面を残していた目は鋭くなり、元からしっかりとした眉が、権力の象徴のようにも見えた。が、頬は鰓が張るように痩せ、どこか病的である。急に大権を手にしたため、嬉しさもあろうが、心労も大きかろう。

「真に……、御立派になられましたな。この川柳、我が事のように嬉しゅうござる」

 川柳は、いつも感情の露出が正直であった。

 心から自分を思ってくれて、一緒に喜んでくれる人物に、人は悪意を抱かない。川柳が、人から信奉される所以である。

 何しろ、傍らで聞いている子平までが涙ぐみそうであった。定信にも当然に、熱いものが伝わっているだろう。が、川柳の人柄から滲み出る雰囲気なので、おいそれと真似できるものではない。が、いつも見習いたいと思う部分ではあった。

「お約束を、果たされましたな」

 子平は、定信に笑みを向けた。喉元まで発したい言が満ちているが、偽りのない素直な気持ちなのは確かだ。やはり、一緒に将来を誓った者が夢を叶えた状況は、嬉しかった。

「……白河にやられてから、真に長うござった。して、突然のご訪問、よもや旧交をあたために参られただけではございますまい。時間が差し迫っておるので、御用件を承ろう」

 定信は一瞬、遠い目をした後、川柳と子平に温かい眼差しを投げてきた。が、直ぐに鋭い目付きが戻っている。こちらが普段の定信、老中の目であろう。

 川柳が、子平に視線を向けてきた。子平を促している素振りがわかったので、川柳に頷き返す。

「されば、早速に申し上げましょう。本日こうして罷り越しましたのは、蝦夷検分の儀にござれば」

 子平は、首を畳に垂れたまま、視線だけを強く、定信に投げた。

「はて、蝦夷検分は、中止に致したはずだが」

「御無礼は承知ながら、即刻の再開をお願い致します」

 子平は鋭い声を放つと、自分が昨年の検分隊に同行し、目にしてきた状況を具に報告した。

 定信は関心があるのか、ないのかわからぬような無表情に聞いていた。が、話を遮らぬところを見ると、聞く気持ちはあると判断した。故に、さらに話を続け、ロシアの南下に備える国防の急務を、力強く説いた。

「なればこそ、もはや一国の猶予もございませぬ。幸いにも、まだ検分隊の一部は松前に残っておると聞き申した。早々に継続をお命じになられれば、択捉島よりさらに北の状況なども知り得ましょう」

 子平が話を終え、定信を凝視した。が、定信の表情は動かず、黙って子平と川柳の二人を眺めている様子だ。遠くを見ているような眼差しから、定信との距離を感じる。

 つと、定信が子平に視線を向けてきた。何かを咀嚼し忘れたように、口元に皺を寄せている。

「先に断わっておられたが、御公儀の決定に口を挟むなど、無礼千万にござるな。大方、主殿頭から何かを吹き込まれたのでござろう。蝦夷検分に随行するなど、随分と親しかったようだ」

 定信の目には、憎悪が浮かんでいた。子平に怒っておるのか、意次への憎しみなのか、或いは両方かもしれぬ。

「誤解にござる。主殿頭様とは、検分から戻って、たった一度、会ったきりにござれば。今も申し上げた通り、国難を避けんがために、御無礼を承知で」

「無礼にも程がある! 一介の町医師風情が、老中首座に国防を意見するなど、本来ならば許されぬ仕儀じゃ。昔の好で、話だけは全て聞いた。が、それで終わりだ。御公儀の決定が覆る状況にはならぬ」

 定信の怒声が響き渡った。釣られて、屋敷内の物音も止まる。用人たちも、息を潜めたのだろう。

「侍従様。主殿頭様への憎しみと国の行末は、別にござる。もう一度、じっくりとお考えくだされ」

「くどい! 儂が主殿頭への私情から、蝦夷検分を中止したと申すか。それは違う。今は他に為すべき政策がある故、取り止めた次第」

 定信の憎悪が、今度ははっきりと子平に向けられた。見開いた黒目が、血走っている。

「では、お聞き致しますが、それならばなぜ、検分隊の者たちは皆がお役目御免となり、蟄居させられておりましょうや。蝦夷検分は、時の御公儀の命にて派遣されておるはず。御公儀の命にて働いた者たちに、何の咎がありますか」

 子平は食い下がった。検分の継続もそうだが、幕府にとって有為な人材を私情で罷免するなど、あってはならぬ。

 また、ロシアの脅威が迫っておる現在において、最も蝦夷に詳しい者たちを遠ざけるなど、国益を損ねるだけであった。江戸にいる幕閣など政の中枢にいる者たちには、もっと蝦夷を知り、危惧を感じて貰いたい。が、それこそ余計な御世話で、そのような意識を持っておる幕閣は、皆無であろう。

「侍従様。子平先生は真に国を憂いておる故、無礼を承知で申し上げております。願わくば、この川柳からもご再考をお願い致します」

 川柳が間に入ろうと、口を挟んだ。豹変した定信の憤りように驚いたのか、少し困惑気味である。

「……いかに川柳先生のお言葉とは申せ、子平先生の言は、明らかに出過ぎておりましょう。お二方とも、無沙汰の間に、すっかり主殿頭の毒気に当てられてしもうた。もはや、検討の余地はありませぬ。子平先生、もう二度と申されるな。これ以上になると、儂も咎めずにはおられぬ」

 定信が冷静さを取り戻したように、言葉を和らげた。

 それでも、子平は食い下がろうと、言葉を発し掛けた。が、傍らの川柳が小さく首を振り、諌めている。取りつく島がない、と判断したようだ。

 嫌な沈黙を嫌ったか、定信がすっくと立ち上がった。

「気まずい再会となってしもうたが、時間がない故、これで失礼を致す。お二方には、これからも息災でお過ごしくだされ。では」

 定信はもう一度、二人を見渡すと、踵を返して廊下に出て行った。

 廊下の板を叩く数人の足音が遠ざかった後、再び、広間には静けさが戻った。

   9

 定信と気まずく別れてから、子平はまた、元の生活を続けていた。昼間は患者を診察し、夜はひたすら執筆に励んでいる。

 が、どこか虚しい気分であった。

 それもそのはず。蝦夷検分は完全に中止となり、俊蔵や徳内も江戸に戻されて幕府の吟味を受けていた。何度か面会を申し込んだが、調べが終るまでは幕府の目が光っている。

 また、老中首座となった定信は、新しい政策を次々に出し始めていた。囲米などの飢饉対策は、さすがに白河を救った手腕を活かしていた。

 が、定信は朱子学を幕府が公認して重んじ、蘭学者を公職から排除し出した。さらには幕政批判を禁ずるとの触書も立てている。

 子平は閉口した。世の蘭学者たちにとっては、まさに晴天の霹靂である。

 幕府の重要な地位に就いていた蘭学者は罷免され、代わりに朱子学者が登用された。平助や玄白なども、今や幕府から遠ざけられている。

 それ故に、子平が日々、欠かさずに書き続けている蝦夷や海防についての意見は、幕政批判とも取られかねなかった。

 子平としては、政が少しでも良い方向に行き、異国の脅威に毅然と立ち向かえるように建設的な意見を述べているだけである。が、周囲はむろん、幕府の役人たちは、そうはとらぬ。

 権力者の定信に気に入られようとする役人たちは、喜んで子平を捕らえようとするだろうし、そもそも後のお咎めを恐れて、版元たちが出版してくれる望がなかった。

 それ故に、自分が書いているものが生涯、日の目を見ぬやもしれぬと思っていては、どこか書いていて虚しかった。全てが、水泡に帰すのではないか、と。

 ――批判を力で抑えつけようとする政など、続かぬ。

 善良な施政で庶民に喜ばれてこそ、支持されて権力の座を保てる。

 意次が長期に亘って執政を保っていた理由は、国や民が豊かになった故だ。決して、批判を許さなかったためではない。

 定信ほどの才人であれば、わからぬ道理ではなかった。やはり、憎しみが、目を曇らせておるのか。それとも、白河を継いでから、変わってしもうたか。

 若い頃の定信は、子平など身分の低い者の意見もよく聞いた。が、今や批判を抑えつける手段に出ている。

 噂では、幕政に批判的な大名の国はもちろん、江戸市中にまで多くの隠密を放っておると聞く。隠密の活躍かどうかは定かではないが、実際に捕らえられた者もいた。

 これも、吉宗公の御庭番を真似たと思われるが、御庭番は主に諸大名や市中の情報収集に従事した。幕府への反対意見を封じ込める意味合いではない。

江戸の緑に、ぽつぽつと黄色が混じり始めた長月の初めに、徳内が訪ねて来た。

「子平先生。すっかりお元気になられたご様子で、安堵致しました」

「徳内殿。よくぞご無事で……」

 言葉が続かず、徳内の背を叩いて家の中に促した。

 元々、かなり小さい徳内の体が、一回り小さくなったように窶れていた。詮議を終えてすぐに訪ねて来てくれたのか、顔や手の皮膚が渇いている。蟄居の間の暮らしぶりが、何となく垣間見えた。

 徳内を居間に誘って、子平は竃で茶を沸かす。少しでも疲れを癒して貰おうと思った。

 竈の横に据えていた棚から、診立料の代わりに貰った芋羊羹を取り出し、皿に盛った。

 茶と芋羊羹とを前にして、徳内と向きあった。痩せた徳内に、口を付けるように促す。

「美味うござる! さすがはお江戸のお菓子だ。奥州や蝦夷では、絶対に口にできぬ」

 徳内が口を動かしながら、頬を歪めた。

「して、詮議は終わったのでござるか。他の皆様は、如何してござる」

「それが……、放免されたのは儂一人です。身分が低いのが幸い致しました。身分が低い者が主体的に検分に加わるはずもなく、また、能力もない、と御公儀には看做されてござる。複雑な心境ですが、久しぶりに外に出る機会を得て、素直に喜んでおり申す。が、鉄五郎様や俊蔵様たちの詮議は、まだまだ続く様子」

 徳内の目元が曇った。徳内一人だけが放免された罪悪を感じ、残された者たちの身を案じている。

「儂も昨年、侍従様に蝦夷検分の継続を言上仕ったが、お怒りになられた。昔は、他人の話にも耳を傾ける御方であったものが」

 徳内たちには、意次と定信の双方に面識がある旨を語った機会があった。

「侍従様の政は徹頭徹尾、主殿頭様を否定なされるものにございますな。あれほどの怒りは、やはり御養子の件でしょうか」

 定信が養子に出された件で、裏で糸を引いていたのは意次であるとの噂が、広く周知されていた。権力を奪った定信が、意次への復讐に燃えていると、誰もが感じている。

 しかし、今はまだ、意次の賄賂の噂が絶えぬおかげで、意次への批判が根強かった。それ故に、定信の政への批判は、それほど聞こえてはこぬ。

 もっとも、幕政批判の処罰を恐れて、誰も大きな声を出せぬ状況かもしれぬが。

 そういえば、最近は、また前句付の人気が盛り上がってきている、と川柳から聞いていた。前句付が流行する時は、民衆が世の中や政に対して不満を抱えている状況が多い。

「いずれにせよ、住みにくい世の中になって行きますな。徳内殿は、これからどうなされる。儂は、宛はないが、蝦夷で見た状況や己の考えを書に纏めている最中だ」

「そう、今日は、その件で参りました。文にも書きました通り、昨年は択捉と得撫島に渡り、ロシア人たちとも接触が叶いました。が、途中で検分中止の沙汰が参って、頓挫したままです。儂は、もっと蝦夷やロシアの状況を知りたい」

「なれど、検分再開の目途は、全くござりませぬぞ」

「それでも、何とかして蝦夷に向かうつもりです。旅立ちのご挨拶に、罷り越しましてござる」

「向かうと申しても、松前家の監視が光っておりましょう。至難の業に思いますが」

「確かに至難にはござろうが、儂らは、蝦夷のアイヌや商人に伝がありましょう。困難を承知で、立ち向かって行く所存。何度でも、挑戦しまする」

 徳内の目が、爛々と輝いていた。間違いなく、命を懸けて使命を全うする男の目だ。

 徳内は、子平が国後島を去ってから、一段と大きゅうなっていた。常に検分の中心にいたおかげで、自信が漲っている。

「いやぁ、儂は今、偉く刺激を受けております。侍従様の新しい政を江戸で見ていて、最近は少し弱気になっていました。が、徳内殿の不屈の意思を見て、儂もなんとか、書を纏め、世に出せる機会を探ろうと決心しました。本来ならば、儂も東蝦夷に御一緒したいところだが、患ってからは己の齢を意識するようになりました。今は、いつ己が死んでも良いように、書を纏める仕事を優先する所存」

「それぞれの生き方がございます。子平先生は、一番お気にされている国防のために、立派な書を纏めてくだされ。儂は、今まで日本の誰も見た機会のない東蝦夷から北を、さらに探検致します。身分が低い故に詮議の対象にもされぬ屈辱を、晴らしたい気持ちもござれば」

 徳内の言は、力強かった。定信の隠密がいたら、と庶民なら考えるやもしれぬ。が、そのような考えは、微塵もない。若さと強さを、東蝦夷での自信が後押ししている。

 徳内は長居をしなかった。一刻も早く、蝦夷に向かうつもりである。

「では、再びお目に掛かる日を、お互いに楽しみにしましょう。気を付けて、参られよ」

 子平は、手を差し伸べた。徳内も択捉島で、ロシア人と握手をしたと聞く。

「子平先生も、御達者で。出来上がった書物を読める日を、楽しみにしておりまする」

 フフと、息だけで笑った徳内が、子平の手を握った。西洋式の握手も、たまには良い。

 同志を一人、送り出す心境であった。子平の旅立ちの時、川柳たちは毎回、同じような心境になるやもしれぬ。

   10

 あっという間に天明八年(一七八八年)の正月が明け、駆け足のまま、春から茹だるような暑さの夏を迎えた。皐月も既に、半ばを過ぎている。

 今年は、どうも京が騒がしい年であった。年明けに京で大火が起こり、皇居を始めとして、京の市中の大半が炎上した。その熱も冷めやらぬうちに、光格天皇が父の典仁親王に太上天皇の尊号を送ろうとして江戸に使者を送り、幕府が撥ねつけた。いわゆる後世の尊号事件が起きていた。

 ギラギラした陽射しの日中が続き、青々と繁った緑が、山や森を賑わせた。が、どうやら梅雨入りが近いと見え、この二日ほどは曇り空が覗き始めている。

「子平先生。御在宅にござるか、川柳にござる」

 夜分である。子の刻は、とうに回っているのではないか。

 しかし、通常なら川柳が夜更けに訪ねてくる機会などなかった。よほどの事情と推察される。

 子平は半ば眠っていた意識を取り戻し、床から這い出て障子戸に向かった。暗闇の中を、手探りで心張り棒を外している。

「川柳先生。何かござったか。このような夜更けにお越しになられるなど」

 子平は隣近所を気にして、声を潜めた。開いた隙間から、虫の声が入ってくる。

「ここでは少し……。中でお話し申そう」

 川柳は周囲を窺うようにして、土間に入ってきた。

「主殿頭様より、儂の庵に使いがありました。すぐにでも、江戸屋敷に来て貰いたいと」

「えらく急にございますな。心当たりがありますか」

 夜中に呼び出される理由が、である。

 ちなみに、意次は昨年の神無月に、さらに三万七千石を召し上げられ、蟄居処分を受けていた。領地の相良城(後世の静岡県牧之原市)は打ち壊され、城内の財産も差し押さえられている。

 定信の意次へのやりようは、執拗で、悪意に満ちていた。もはや、誰から見ても、意次は力を失っている。それにもかかわらず、とことん追い詰めていた。

「使いの方が言葉を選んで洩らしたところでは、主殿頭様は、かなりお悪い様子」

 川柳は、夜の静けさに負けぬように、声を潜めた。隣の家とも、板一枚を隔てているだけであり、それなりの気を遣う。

「まさか! 御危篤、という状況にござろうか。御心労が続きました故……。それならば、何を置いても駆け付けねばいけませぬ。わざわざ御使者を寄こされたのですから、我らに話したい内容があると思います」

 嫡男である意知の暗殺、将軍・家治の死から意次自身の失脚から蟄居に至るまで、さぞかし頭を悩ませたであろう。いかに気力十分の意次とて、齢七十近い老人にとっては、大変な日々であったに違いない。

「儂も、御使者の話を聞いて、同じ考えに至りました。それ故に、すぐさま庵を飛び出して参りました」

 いつもゆったりと構えている川柳が、焦っていた。このまま会えぬまま、意次と今生の別れとなるは、やはり心残りだ。

「では急ぎ、参りましょう!」

 子平は居間に上がり、薬箱を手にした。医師であれば、木戸を通り易い。土間に置いていた提灯に火を入れ、障子戸を開けた。

 しんと闇が覆った通りを、粛々と歩いていた。さすがに人通りは絶えており、時折、見回りの役人などとすれ違い、会釈を交わしている。薬箱がなければ、どこかで詮議を受けたやもしれぬ。

 同じ神田橋御門の北でも、今の意次は、一万石の大名になっていた。いや、正確に申さば、家督は意知の嫡子である孫の意明に譲っている。家格上、当然のことながら、一万石格の屋敷に移転させられていた。

 大大名の屋敷群を抜け、小大名の屋敷が居並ぶ辺りに出た。この辺りだと思い、通りの両側の門を見渡す。

二十間ほど前方の門前に、意次の家紋である七曜星らしき紋が、篝火で薄っすらと浮かんでいた。

「川柳先生。どうやら、あれにござる」

 一緒に通りを窺っていた川柳に、声を投げた。子平が指差した先に川柳が目を凝らす。

 初めて意次を訪ねた時が、ちょうど一万石の頃であった。それでも立派な屋敷には違いなかったが、その後、五万七千石にまでなった意次の屋敷を見ているだけに、どこか落ちぶれた感は否めなかった。

「全くもって、権力など泡のようでござる」

 屋敷の門前まで進み、呟いた。蟄居故にわざとなのか、篝火も控え目に、ひっそりとしている。

「その儚さ故に、人は欲しがる。人の世が終らぬ限り、未来永劫に続きましょうな」

 川柳がゆっくりと、門番に目をやった。ちょうど、門番が動き始めている。夜分に門前で屋敷を眺めておれば、怪しむのが当然だ。

「不躾ながら、お尋ね申す。お手前方はもしや、柄井川柳先生たちにござろうか。であれば、主人から御通しするようにと、申し付られております」

 辺りを窺いながら声を潜めた門番は、川柳が応じるとすぐに子平たちを門内に誘った。 

 以前に一度、面識がある者だ。何度も周囲を窺う素振りを見せる理由は、此処にも、幕府の監視が光っている故だろう。

 心得たとばかりに、そそくさと、子平たちは門番に従った。

   11

 燭台を持った用人が、子平たちに背を見せながら、廊下を先に進んでいた。

「殿は臥せっておりますので、なるべく静かな声でお話くだされ。耳が遠いために、我らが声を張ると、煩がります故」

 用人に告げられた意次の状況は、今年の春頃から度々、臥せるようになり、夏に入ってからは床から起きられなくなっていた。

 屋敷の中央から少し奥に入ったところに、家督を継いだ意明の居間があった。そこからさらに奥に向かって、縁側を歩く。闇に沈んだ庭園の隙間に、ぽつぽつと篝火が焚かれ、敷石や木の幹が赤く映し出されていた。

 意次の隠居所は、離れにぽつんと、建っていた。正に隠居所というに相応しく、茶室もしくは庵に見える。

 恐らくは意次の意思だろう。俗世との関わりや未練を、断ち切りたかったのか。

「どうぞ、お入りくだされ」

 用人は隠居所の前の廊下で立膝を着き、丁寧な手付きで腰高障子を開いた。お役目は、ここまでなのだろう。

「お邪魔を致しまする」

 子平と川柳は、なるべく足音を立てぬように、畳を踏んだ。

 先ほど、用人に釘を刺されたからではない。

 意次は二人の訪れを知って通してくれているのだから、眠っているはずがなかった。が、なぜか臥せっておる者に会いに行く際には、静かにしようと意識が働いている。

「よくぞ、参られた。このような夜分に呼び立てて、すまぬな。蟄居の身分では、昼間に堂々と人と会うのも、なるべくは避けねばならぬのじゃ」

 意次は床に下半身を入れたまま、胡坐を掻いていた。小姓が両脇で、支えるように控えている。

 無理もないが、ひどく痩せていた。薄く笑みを浮かべた頬は皮ばかりとなり、肌は渇いている。両目の下には、隈が広がっていた。

 子平と川柳は、互いに適当な言葉が出ずに、ただ挨拶ばかりを述べた。意次が中央で胡坐を掻いているので、子平たちはどこに腰を降ろせばいいか、判断に迷っている。

「気にせず、床近くに来られよ。心配せずとも、移る病ではない、と医師から言われておる。ただ、寿命が近いだけだ」

 意次と向き合うように、床の近くに侍った。お互いの呼吸が理解できる距離である。

「何を弱気な話をされます。病など、すぐに癒えましょう」

 子平は、とにかく力付けようと、世辞を並べた。見ている限りでは、確かに回復の望みは薄い。

 川柳は子平の言に同意する訳ではなく、微笑を浮かべたままであった。川柳は人の生死は天命と考えているため、かりに寿命が近いとしても、受け入れるべきと思っている。

「フフ、戯言を。医師である子平先生ならば、とうに理解しておろう。儂はもう、長くはない。自分の寿命は、自分が一番に理解している、とは誰が申したか……。今になって、その意味がわかる」

 意次の目の奥には、悟りの感情があった。老いた男の目には違いないが、どこか澄んだように見える。

 ぼう、と四隅の行灯が音を立てて燃えているため、子平たちは額や手の平に汗を浮かべていた。が、意次の肌には湿り気は見られぬ。

 子平も医師故に、何人もの老衰患者を看取ってきている。乾いた、水気の消えた肌は、正しく死にゆく前兆であった。

 余命が幾許もないか、せいぜい今年いっぱいで、命が燃え尽きるであろう。

「こうしてお会いできて、嬉しゅうござる」

 川柳が、意次に声を投げた。素朴に、再会を喜んでいる。川柳にとって、今の一瞬が大事なのだ。

「おお、そうじゃ。お二人をお呼びした理由は、愚痴を申すためではない。ただただ、死ぬ前に一度、会うておきたかった。今更、儂に呼ばれても、御公儀に睨まれて迷惑やもしれぬが、老人の最期の勝手だと思うてくれ」

 意次の声の末尾はかすれ、息を継いだ。呼吸も少し、苦しい状況である。

「迷惑のはずが、ありますまい。儂らも、主殿頭様にお会いしたいと、ずっと機を窺っており申した故。御体が大変であれば、横になられて下さりませ」

 子平は、意次に横になるように勧めた。息が多少は、楽になると思う。

 やはり座っている状態は疲れるようで、意次は素直に、子平の言を入れた。

 小姓たちが意次を横にならせ、胸元まで掻巻を掛けた。同時に、子平たちは、意次が首を傾ければ見える位置に移動している。

 意次は一旦、遠くを見るように天井の板に目をやった。その後、子平たちに視線を送ってきた。

「侍従に私財のほとんどを持って行かれ、何も残っておらぬが、お二人には心ばかりの形見を残している。大した物ではないが、帰りにお持ちになられよ。……子平先生、真に残念な次第だが、蝦夷検分は中止に決まったそうじゃな」

 意次が話を変え、子平の目をまじまじと見てきた。

「仰せの通り。これから、という時にござった。お聞き及びかはわかりませぬが、二度目の検分で、徳内殿たちは、択捉から、さらには得撫島に渡り、ロシア人たちとも交流しております。実は儂も、侍従様に検分隊の再開をお願いしに行き申した。が、お考えは変わらぬままにござる……」

「あれは、儂への憎悪で政を動かしておるからのう。私情は別にして、国益を図らねばならぬ時にな。意外に思うかもしれぬが、儂は、侍従の才を高く買うておる。それ故、今の失政は、真に残念に思う」

 意次はこれまでの功績を全て否定され、貶められていた。が、憎しみよりも、定信の才を惜しんでいる。

「侍従様をお認めにござれば、主殿頭様の執政の折から、共に手を携える訳には参りませなんだか。儂ら庶民から見れば、そのほうが、より良い政になるような気が致します」

 川柳が、怪訝な表情で声を投げた。才人同士が知恵を持ち寄って協力すれば、一層良い知恵が浮かぶのではないか、と誰しも考える。なぜ無益に争ったと、こちらも惜しんでいた。

「儂は、侍従の才と出自を恐れ、侍従は、儂の出自と才を見下した、とでも申そうか……。いや、ただ単に相容れられなかったやもしれぬ。政においては、所詮、龍虎は並び立たぬ」

「執政の方々が皆、川柳先生のような御気性ばかりであったなら、叶ったやもしれませぬな」

 子平は、意次に話を合わせた。権力の争いは綺麗事では済まず、おどろおどろしい。川柳も理解はしているが、意次と定信の双方を好いておる故に、敢えて言葉に出していた。

「儂はな……。むろん、今の世評には山ほど反論はあるが、執政の座を追われたのは仕様がない、と思うている。権力の奪い合いとは、古今東西、そのようなもの故な。己の失政と浚明院様ご逝去の隙を、見事に突かれた。儂も油断があり、脇が甘かった」

 意次の声が、静かに響いた。口調の変化から、子平は、意次の遺言と思うて聞く姿勢である。背筋を伸ばし、意次の一挙一動を見落とすまいと、集中している。

「なれど、此の国の行く末を瞼に浮かべた時、やはり改革の夢は半ばと言わざるを得ぬ。儂と同じく、有徳院様を尊敬しておる侍従ならば、あるいは、改革を前に進めてくれるのでは、とも期待したのだが……。あ奴は有徳院様のお志を継ぐのではなく、真似事を始めてしもうた」

 意次がつと、天井を見上げて目を瞑った。唇を噛んでいる。無念、には違いなかろう。

「そこは、有徳院様から直に薫陶をお受けになられた主殿頭様と、書物や夢物語でしか有徳院様の御偉業を知らぬ侍従様との、違いやもしれませぬな」

 子平は常々、二人が吉宗公を手本としながら、相容れぬ理由を考えていた。むろん、元からの身分や気性の違いも、多分にはある。

「……大きな、真に大きな御方であった故。直に会うた者しか、理解できぬところはあった。確かに、子平先生の申しように、一理あるわ。が、そればかりは、如何ともし難い。きっぱりと諦めて、冥土で有徳院様にご報告を申し上げよう。儂は、それでいい、お迎えが近い故な。子平先生は、まだまだ侍従に食らいつく算段でござろう」

「ははっ、己の信念に従う所存にござる」

「皆が侍従を恐れる中、真に頼もしい。が、命は大切にされよ。川柳先生も、これからも良い句を、数多く世に出してくだされ。庶民の心の拠り所となるように」

「侍従様の世になった生き辛さからか、また句を詠む者は増えております。申されるまでもなく、儂には句を詠み、選ぶことしか能がありませぬ」

 川柳と意次が互いに目尻に皺を寄せ、頷き合った。何かを変えた者にしかわからぬ、呼吸があるのだろう。

 意次は水無月の二十四日に、屋敷の離れでひっそりと身罷った。絶大な権力を誇った意次の傍らには、孫の意明の他は、数名のみが付き従っていたと聞く。

 蟄居中で、定信に睨まれている状況から、意次の葬儀への参列者は、極僅かであった。賄賂為政者の噂から、意次の死は、江戸庶民には広く歓迎された。その状況が、悲しみにくれる子平の心を、より一層沈ませた。


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