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改革者たち  作者: いつみともあき
5/8

第五章 蝦夷地随行

   1 

 子平は長崎から江戸に戻ると、以前借りていた浅草長屋のすぐ近くを川柳に世話してもらい、直ぐに執筆を開始した。

 当初は耕牛に申した通り、朝鮮、琉球、蝦夷の三国を中心に、地図や風俗を紹介する書籍にするつもりであった。分量も、三国をそれぞれ同量に予定していた。

 が、執筆を開始してからも書物を調べたり、旅をして人の話を熱心に聞いたりしているうちに、北方の、蝦夷への脅威が迫っている、と感じた。長崎へも何度となく足を運び、親しくしてくれたカピタンのアレント・ウィレム・フェイトなどから、ロシアが蝦夷を窺っている、と何度も警告を受けた。

 フェイトは友人と雖も、オランダの国益を第一に考えている。故に、子平はすぐに真に受けた訳ではない。

 が、実際に蝦夷の漁師などにも話を聞いたところでは、確かにロシア船の出没や、ロシア人の村が徐々に南下していた。

 加えて、平助もその頃にはロシア研究を始め、ロシアの南下に危機を抱いていた。平助は、子平より一足早くの天明元年(一七八一年)に『赤蝦夷風説考』の上下巻を出版し、蝦夷防衛の重要性を世に問うた。

 子平は『赤蝦夷風説考』を意次に呈上して、是非に目を通すようにとお願いしていた。

 それ故に、子平も大部分は、蝦夷に関する記述にした。平助の『赤蝦夷風説考』の多くが蘭書から得た知識の訳と伝聞から成り立っていたため、子平は現地を具に調べて書こうと思った。また、日本の直近の脅威を優先した理由もある。

 天明四年の暮れに奥書と付図を仕上げて、全てが完成した。そこから出版に至る道のりは、思っていたほど遠くなかった。平助や玄白が、子平の出版を後押ししてくれている。

 此の度、須原屋市兵衛の元から『三国通覧図説』を出版した。執筆途中で疑問を抱けば蝦夷などの現地に足を運んだため、足掛け数年の時を要している。 

 須原屋市兵衛は蘭学者の出版を多く手掛けていた。玄白も市兵衛の元から何冊か出していたため、子平を市兵衛に引き合わせてくれている。

 天明五年(一七八五年)の梅の季節を迎えていた。

「子平先生。『三国通覧図説』の出版、おめでとうございます」

 お春が鉄漿の歯を見せ、にっこりと笑った。でっぷりと肉の付いた腰が、揺れている。 

 喜んでくれている姿は嬉しいが、若い頃のお春を知っているだけに、少々太り過ぎではないか、と口に出しそうになった。

 江戸にいる間や旅先では、細々とだが日々の糧を得るために医師を続けていた。が、正直に申せば、兄や師の平助など周囲の助けを得て、なんとか暮らしが成り立っていた。

 特に友諒は、長年ずっと顔も見せずに何をしているやもわからぬ子平に、毎月欠かさず仙台から金子を送ってくれていた。お昌からは恐らく、その都度、小言を貰っておるに違いない。

 感謝を仕切れぬし、現世ではもはや恩を返しようがないとも思えた。それ故に、出来上がった初版本を、いの一番に伊達家の御用飛脚に託して仙台に送っている。

 ――多くの助けのおかげで、ようやく本を出せた。

 もちろん、一冊の本を出したくらいで、何かが変わるものではなかった。

 が、子平は四十七歳になっていた。侍を捨て、仙台を出奔してから二十年余の己のために、何かを形にしたかった。決して無為に過ごしてきた訳ではない、という自負はあったが、それでも何か縋れるものが欲しかった。

「……ようやく、形に残せる。お春、真に礼を申す」

 子平は、随分と薄くなった頭を下げた。気概は若いつもりだが、頭はだんだんと薄く、白いものが増えている。

 お春は、再び江戸に戻った子平を、何かと世話してくれた。夫婦の団子屋は相変わらずの繁盛を見せており、娘も授かっている。亭主との中は今も、申し分ない。

 お春の幸せは、もちろん嬉しかった。が、子平が手に入れる機会を捨てた幸せは、たった一冊の本の重みと釣り合うのだろうか、などと考える機会もある。後悔している訳ではないが、ふと比べると、お春が眩しかった。

「先生が精魂を込めて書いた本です。きっと、売れますよ」

 お春が屈託のない笑みを浮かべた。顔も随分と丸くなり、肌の染みも浮いてきていたが、透けるような肌の白さは、若い頃のままであった。

   2 

 お春の屈託ない笑いは、気休めに過ぎなかった。

 なぜなら、天明二年(一七八二年)の冷害に端を発した飢饉が、翌年の岩木山(後世の青森県弘前市)と浅間山(後世の長野県北佐久郡軽井沢町)の噴火による火山灰の堆積で、収拾のつかぬほどの大規模で日本全国を覆っていたからだ。

 食べ物が減りはしても、食卓から消え失せる状況がない江戸者にはわからぬが、少し足を伸ばして北関東や、陸奥の村々を歩けば、悲惨な光景が目に焼きついた。

 枯れ木と見紛うような人間が大勢、通りや畑に溢れていた。水や食べ物を求め歩いているのだが、上手く在りつけぬ者は、地面を這いつつ息絶えていた。死骸の中には、真に人であったのか、と疑うほど痩せ細った手足もあった。

 幕府の発表では、飢饉の死者は数万となっていたが、実際は違う。遥かに多いに違いなかった。

 そのような世相のため、本を買う余裕がある者など、ほんの一部であった。

 御公儀にも子平の想いを伝えるため、意次にも『三国通覧図説』の初版を贈呈していた。

 が、意次も此度の飢饉が元で、それどころではなくなっていた。むしろ、窮地に立ってさえいる。

 意次は実権を握って以来、商業を重視して奨励する政を採ってきた。事実、商いは盛んとなり、国が富み始めていた。大飢饉さえ起こらなければ、しばらくは良い時代が続いたやもしれぬ。

 しかし、飢饉以来、米価は鰻登りになっていた。大商人たちがここぞとばかりに米を買い占めて儲ける裏では、多くの民が命を落としている。

 飢饉を経て、意次は大商人を保護して民衆を顧みない老中だと、陰口を叩かれるようになっていた。

 やがて、旭日の勢いであった意次に翳りが垣間見え始めたと思ったのか、意次の政策を露骨に批判する勢力も台頭してきていた。白河松平家に養子に入った定信も、その一人である。

 さらには、意次が期待を懸けていた息子の意知が、昨年に江戸城内で暗殺された。意次に似て頭が切れ、若年寄の任に就いていた才器である。

 意次は、待ったなしの飢饉対策、財政再建を迫られていた。

 その意次から夏に入って直ぐに、子平と川柳に急な呼び出しが来た。

   3

 子平は川柳の庵まで、駕籠を連れて行った。

 通りの桜は三分咲きで、あと数日で見頃を迎える。飢饉の最中とはいえ、此処、江戸の大川沿いは、大変な賑いになるだろう。

「そこの家じゃ」

 二人の駕籠舁きに声を投げ、子平は戸の前に立った。

 同時に、ズズズと、ゆっくりと戸が開いた。

「子平先生。朝から、待ちかねておりましたぞ」

 川柳が木彫りの人形のような皺を寄せた頬を、歪めた。子平が五十歳を目前にしているくらいである。川柳に至っては、六十七歳になっていた。

 髪は既に抜け落ち、つるりとした頭は、皮を剥いた甘藷のようであった。

「明け方からそわそわと、祭の始まりを待っている童のようでしたよ」

 お玉が顔を見せ、目尻に皺を刻んだ。お玉は川柳の七つ下であるが、年に似合わず瑞瑞しく、ふっくらとした頬を保っている。

 ――良い夫婦だ。

 いつ見ても、そう思えた。江戸の町は年々に姿を変えても、川柳夫婦はずっと変わらずにいるような気がする。

 川柳の手を支え、駕籠へ移るのを手伝った。お玉から杖を渡され、駕籠に腰を降ろした川柳に預ける。

 川柳は足腰も弱り、前句付けの点者も、第一線からは退いていた。が、前句付けへの飽くなき情熱は持ち続けており、句会には勇んで出て、意見を述べている。

 逆境の中から前句付けを発展させて育て上げた自負と誇りは、死ぬまで捨てぬであろう。子平も見習いたいと思う、男の生き様であった。

 意次の屋敷は、以前と同じ神田橋御門の北にあった。が、大名に成り立てであったあの頃とは違い、今や五万七千石である。屋敷の広さは倍以上になっていた。

 門前に差し掛かった時に、ちょうど巳の刻の鐘が聞こえた。

 門前に駕籠を着けると、両側出格子の番所から、門番が走ってきた。

 子平は駕籠舁きに銭を渡し、門番に訪いを告げた。

 門番は予め聞いていたのか、子平たちに向かって丁重に腰を折って挨拶をした。その間に、別の門番が潜戸を開け、子平たちを中に通した。

「ほう」

 石畳に杖を突いた川柳が、庭園に見とれていた。川柳は、子平が長崎に行ってからも、何度か意次に招かれているが、此度は久しぶりである。  

「見事な庭でございますな。玉砂利の並びや木々の配置など、絶妙にござる」

 当代一級の庭師が造り上げたに違いなかった。風流人の川柳を招くに当たり、手を入れたのやもしれぬ。

 庭の見事さには感嘆させられたが、意次の屋敷にしては、どこか閑散としていた。以前に訪れた際には、屋敷が小さかった状況もあるが、来客者が庭を埋めていた。

 しかし、此度は屋敷内に通され、庭園を横切っていても、人は疎らにしかおらんかった。

   4

 屋敷の奥座敷に通された。二十畳ほどの広さで、意次が極々身近な者と使用する居間である。女中などの人通りが少なく、意次の寝所が近いところからも察せられた。

 襖絵や水墨画は目を瞠るほどの物だが、部屋自体は質素であった。いや、大出世を果たし、大商人たちとの繋がりも囁かれている意次にしては、屋敷全体が意外に簡素な印象である。

 僅かに開いた腰高障子から庭の木々が陽を受け、青々と照り返っていた。勢いを増した夏草の匂いが鼻を擽る。女中などが時折ふっと廊下で音を立てる他は、屋敷内は静かであった。

 意次は、すぐに現れた。小姓のみを連れている。

 子平らが平伏すると、笑みを浮かべながら上座に着き、脇息を両腕に包んだ。

「よくぞ、参られた。二人とも、久しぶりじゃのう」

 意次は上機嫌であった。が、話をし過ぎているのか、嗄れた声である。

 年を経ても聡明で覇気の衰えは感じられぬ。が、飢饉への対処や意知の暗殺で、どこか疲れたような感じを受けた。川柳からも、意知の事件以降の意次は、以前のような溌剌さが影を潜めている、と聞いていた。

「儂は、ちょうど一年ぶりくらいにございます。侍従様には、お変わりございませぬか」

 川柳が、意次の心労を気遣った。息子の死、政策非難など、意次は心の休まる間もないであろう。

「大丈夫だ。案じて貰おうて、忝い。今や儂は、隙を見せれば、誰かに噛みつかれる状況だ。川柳先生や子平先生のように気を置かずに話せる人間は、少ない。それだけに、言葉が心に沁みる」

 意次は、ふう、と息を吐き、沈思の面持ちになった。

 が、すぐに穏やかな表情に戻った意次は、小姓に茶菓子の用意を促した。

「久方ぶりに三人で会えたのじゃ。しばし、菓子でも食しながら、四方山話でも致そう」

 小姓が運んできた最中を無造作に口に入れ、意次は前句付や歌舞伎などといった、政とは全く関係のない話題に興じた。

 子平と川柳は、少しの間でも政から離れたいという意次の気持ちに添って、相槌を打ち、時に言葉を挟んだ。

 半刻くらいが経った。そろそろ、午の刻である。

「さて、儂は充分に話を堪能できた。まだまだ話し足りぬ気持ちはあるが、忙しい身だ。本題に入るとしよう」

 意次が眩しい庭から視線を戻し、子平たちを見渡した。手で弄んでいた湯呑みを置き、表情を引き締めている。

 同時に傍らの小姓たちも、雰囲気を読んで姿勢を正した。

「急なお呼びでしたから、何かのお話かとは思うておりましたが」

 川柳が前屈みであった背筋を、少し伸ばした。

「ひょっとして、儂の本に関係がありましょうか」

 子平が本を贈呈したにもかかわらず、今まで全く話題には上がらなかった。あえて話を避けているように感じていたため、子平も触れなかった。

   5

「その通り、子平先生の本にも関わりのある内容じゃ。が、真面目な話だが、腹が空いてはいかんな。雑炊でも、運ばせよう」

 意次が小姓に命じると、小姓の一人が障子を開けて、炊事場に向かった。

「目を通して頂けましたか」

 子平は、思わず声が弾んだ。まさか多忙な意次が、読んでくれているとは思わなかった。

「平助先生の『赤蝦夷風説考』も、興味深く読ませて貰うた。おかげで儂も、蝦夷にはかなりの関心と期待を抱いている。ロシア人たちの南下も、気掛かりではあるしな」

「期待、と仰せられましたか」

 平助や子平は、どちらかといえば危惧を抱いている。

「そうじゃ。知っての通り、大飢饉以来、此の国は、特に陸奥や北関東はひどい状況になっておる。商業を重視した儂の政が間違っておるとは思わぬが、飢饉を利益獲得の好機と捉えた商人どもが、こぞって米を買い占めた。買い占めを止めるようにと、何度も触れは出したが、どうにも効き目がない。米は、有るところから回せば、人が飢えずに済むほどあるのだ」

 意次は、途方にくれたように吐き捨てた。これまでは、商人に活発に商いをさせておれば、どんどん幕府の財政が潤った。が、それが行き過ぎると、此度のような天災には対処できぬ。意次ほどの為政者でも、匙を投げ掛けている。

「それは、買い占める商人どもの責ではありますまいか」

「いや、天災が元とは申せ、多くの餓死者を出している責は、為政者として儂が負わねばならん。落ち着いたら、いずれ、身を退くつもりだ」

 登り詰めた出世の地位を、軽々しく捨てると言い放った。意次はやはり、ただの権勢欲に駆られた成り上がりではない。尊敬に値する人物である。

 川柳に目を遣ると視線を向け返してきて、微笑み、頷いた。

「さすがの御覚悟でございますな。儂なんぞは、まだまだ未練たらしく句会に顔を出しておりますが、己の引き際の見極めは、見習わせていただきたく思いまする」

 川柳の穏やかな声音は、赤子が眠りに就くかのように、心地良かった。齢を重ねた川柳は、ますます人生を達観している。

「何の、未練がたらたらである故、蝦夷に期待しておるのよ」

 意次が、かかか、と声を広めた。

 話の頃合いを見計らってか、障子がするりと開き、小姓が女中たちを伴ってきた。三人の前にそれぞれ、雑炊と漬物を乗せた膳部を置いていく。

「ささっ、続きは食べながら話そう。やはり、先生たちとは砕けた感じがよい」

 意次が箸を持ち、ズズズと雑炊に口を付けた。

 口にしては非礼に当たるが、老中とは雖も、やはり意次は、出自の低さが垣間見えた。たとえば定信であれば、どんな物でも上品に、音も立てずに食する。

 しかし、子平は、そういう庶民じみた意次の様子を、好ましく思っていた。恐らくは、川柳もそうであろう。

 庭の敷石には雀が数羽、降りていた。静かな庭園に人の気配がなく、広大な遊び場と考えたのであろう。

   6

 意次が勢いよく雑炊を啜っているので、子平と川柳も箸を付け始めた。

「蝦夷への期待とは、貿易にございますか」

 二、三口を喉から流し込み、意次に目を向けた。

「むろんじゃ。貿易の魅力も然ることながら、先生が書かれていたように、金山や銀山の採掘も試みる所存だ。が、儂には、もはや失政は許されぬ。それ故、まずは探検隊を送ろうと思う」

「それは良いお考えにございます。東蝦夷にも、探検隊は送られまするか」

 西蝦夷の渡島半島の和人地とアイヌの住む東蝦夷などの地域との往来は、松前家が厳しく制限していた。松前藩はアイヌとの貿易の利を独占して、潤っている。

 幕府の探検隊が来ると知れば、良い顔をせぬどころか、暗に邪魔をする恐れもあった。 

 なぜなら、松前藩はロシアやアイヌなど北方の様子を、幕府に偽って報告している可能性があった。探検隊が、松前の偽りを嗅ぎつけ、幕府に露見する状況を恐れるだろう。

 子平など蘭学者の間では、周知の事実であった。蘭書やオランダ人から入ってくる情報では、松前藩の虚偽報告は、ほぼ間違いない。

「松前家が何と申しても、儂は探検隊を送る。先生方の書物と松前から御公儀に齎される情報には、かなりの誤差があり、それを確かめる。探検隊は遣り難かろうが、行って貰わねばならぬ」

「どなたを、差し向けなさるのでしょう」

 川柳が箸を置き、湯呑みを手にした。

「……此処だけの話だが、本来ならば、源内を押したかった。あ奴の才は、真に惜しまれる……。それ故に、誰か推挙するように申したら、本多三郎右衛門の門弟で、最上何とか、と申す者の名が挙がってきた」

 平賀源内は安永八年(一七七九年)の冬に、勘違いが元で酔って人を殺し、獄死していた。源内の多才の内には鉱山開発も入っており、川越藩秩父大滝(後世の秩父市大滝)では手腕を発揮した。

「本多三郎右衛門は、音羽塾でござるな」

 本多利明は、越後出身の数学者・経世家であった。江戸で音羽塾を主宰して、多くの門弟を抱えている。

 蝦夷地での交易や開発、重商主義の思想は、子平や平助たちと似通っている点があった。が、利明は交易と同時に異国の領土を奪うなど、西洋の植民地政策を真似るように強く主張している点で、交易や日本の防衛に重点を置いた子平たちの思想とは距離がある。

「三郎右衛門自身は、体調が優れぬようじゃ。蝦夷地の冬は、とても耐えられぬだろう」

「侍従様。探検隊の末席に、儂も加えては下さいませぬか。むろん、旗本ではないため、ただ同行させて頂くだけでけっこうでござれば」

 子平も一度、東蝦夷のアイヌの様子を自分の目で見たかった。己の齢を考えれば、此の機を逃せば次はない。

 意次が目を見開き、川柳に視線を向けた。

「実は儂も、子平先生に行って貰うて、意見を聞きたかった。が、東蝦夷は、西蝦夷の和人地などとは比べ物にならぬほど、過酷だと聞いている。気候だけではない。松前が、何を仕掛けてくるやもしれぬ」

「ご心配は有難いですが、大丈夫です。せっかく、己の目で東蝦夷を見て回れる好機。行かねば、死ぬまで後悔致しましょう」

 相変わらず穏やかな陽光が、庭園を照らしていた。

 が、子平の脳裏には、豪雪の大平原の向こうに、飛沫を巻き上げた海原が浮かんでいた。

   7

 意次との面会を終えた数日後には、幕府の東蝦夷検分隊が組織された。

 江戸の事務方には、勘定奉行の松本秀持と勘定組頭の土山宗次郎らが当たり、現地検分隊は山口鉄五郎、青島俊蔵、最上徳内、大石逸平、庵原弥六らで構成された。子平は付添役という名目で、加わっている。ちなみに、徳内は本多利明の推挙にもかかわらず、出自の低さから、下人扱いであった。

 秀持と宗次郎といった意次の側近が事務方になった状況から、期待の大きさが窺えた。 

 もし、蝦夷で何らかの光明が見いだせれば、再び意次の勢いが盛り返す可能性もある。ある意味、意次の起死回生の一策となるやもしれぬ。

 組織されるのも急であったが、出発の期日も五日後と定められた。既に松前家へは協力要請の使者を発し、必要な物資は順次に江戸から送るという段取りで決まっている。

 急ぐ理由は、一刻も早い飢饉からの挽回を狙う意図もあったが、東蝦夷は冬の訪れが早いからだ。想像を絶するような雪の厳しさと聞いていたので、なるべく雪のない内に検分を進めさせたかったのであろう。

 深川の永代橋近くから、弁財船に乗る。

 子平は旅行李に矢立と日記、医療道具を詰めた。手にした風呂敷には、二、三枚の厚衣を、気休め程度に入れている。

 編笠を被り、手甲と脚絆を付けただけの、軽装な形であった。冬になれば狼などの毛皮を買って、過ごす仕儀となろう。アイヌの村々では、熊の毛皮も売り買いされていると聞く。

 浅草を出る際には、川柳夫婦とお春、久米吉夫婦が見送りに来てくれた。久米吉も、既に子供が三人おり、内儀が赤子をおぶったままである。

「また、必ず会えますな。皆が信じて、疑いませぬぞ」

 川柳が念を押すと、お玉やお春、久米吉が頷いた。皆の視線が、子平の黒目に優しく入ってくる。思わず、涙が出そうになった。

「儂も、ちょっくら伊勢参りにでも行くつもりです。御公儀のお役目に随行するのですから、何も心配はありませぬ」

「しかし、寒さが厳しく、アイヌと申す得体の知れない輩が住んでおると聞きます」

「久米吉さん。子平先生が大丈夫だと仰るのだから、間違いありませんよ。長崎の時も、本当に帰って来られたじゃないですか」

 不安げな久米吉を、お春が窘めた。久米吉のほうが齢上であるが、出会った頃から、お春の方が姉のようであった。

「久米吉。真に心配無用だ。お主は、三人の童のためにしっかりと商いをしてくれ」

 波が良ければ、巳の刻までには船が出る。子平はもう一度、皆に別れを告げると、踵を返して草鞋を踏み出した。背中に「御達者でー」と、お春の叫びが貼り付いた。

 旅の多い人生を歩んでいる子平にとって、出会いと別れは日常的であった。慣れているつもりではあるが、いざとなれば、心の奥底に一抹の悲しみが落ちていく。

 ただ一度の別れが辛い訳ではなかった。人の生き死には、いつ訪れるかわからぬため、いつも今生の別れだと思っている故だ。

 が、感傷にひたる間は、ほんの一瞬に過ぎない。一町も歩けば、子平の胸は、東蝦夷での新たな出会いに湧いていた。

   8

 八丁堀の武家地を右手に見ながら、日本橋川に沿って永代通りに入った。

 ようやく日本橋の賑いが少し衰えてほっと一息吐いたところ、今度は富岡八幡宮に向かう人波が子平を包み込み、永代橋の上まで畝っていた。

 両橋の袂からは、通りの両側に整然と並んだ出店が伸びていた。そこかしこで足を止め、暖簾を潜っている状況である。人の波は、橋に近づくに連れ、緩慢になった。

 陸地だけではない。橋の下を流れる大川でも、猪牙船、屋形船、樽廻船、弁財船と、大小入り乱れての往来が盛んであった。もうすぐ子平も、あの群れに入り、江戸を離れる。

 永代橋は渡らず、豊海橋から箱崎の御船蔵に向かった。此処に、蝦夷地検分隊の船が、停泊している。

 潮の香りがきつくなり、鴎が空を舞っていた。港に近づくと、船頭や水夫たちが、荷の積み下ろしをしている姿が目に入ってきた。

 御用船は港の中央に、どっかと鎮座していた。

「付添役の林子平にござる。此度は、御世話になり申す」

 検分隊の面子は、既に甲板に上がっていた。汗を拭う間もなく船に乗り込み、皆に挨拶を投げた。

「此方こそ、何かとご教授くだされ」「侍従様が直々にご推挙なされた、子平先生ですね。真に、宜しくお願い致しまする」

 青島俊蔵、最上徳内が、好意的な視線で応じた。が、残りの者たちは会釈こそ返してくるものの、視線は、どうも冷ややかである。

「初めにはっきりと申しておくが、いくら侍従様の肝煎りとて、あくまでも付添役に過ぎぬ。余計な口出しは、一切無用にして貰いたい」

 一番冷たい視線を送ってきた大石逸平が、敵意を剥き出してきた。旗本の出と聞いている。隊の中では一番身分が高い。

「もちろん、各々方の検分に口出しする気など、毛頭ありませぬ。儂はただ、己の目で見たものを自分なりに解釈して、考えるのみ。侍従様には、意見は申し上げますが」

 意次に意見を具申するのが、唯一の義務であった。

 それにしても、子平以外は皆が若かった。逸平の敵意も、若さ故と思えば、腹も立たない。

「それが、余計だと申しておる。儂らが検分した結果のみが、侍従様のお耳に入れば宜しい。検分隊の中で意見が分かれておっては、御公儀の判断も揺るぐと申すもの」

 逸平が、濁った目を左右に動かした。他人の同意を求めている様子だ。恐らくは、自分の意見に自信が持てぬのだろう。

「可笑しゅうござるな。先ほどは、あくまでも付添役と申され、次には検分隊の中で意見が分かれる、などと仰られる」

 逸平は、何か手柄を焦っているのだろうか。あえて、厳しい職務が予想される東蝦夷の検分隊に入っている。野心があるか、何か別の目的があるとしか、思えなかった。

「何を! 揚げ足を取るおつもりか」

 逸平が気色ばった。

「出航準備が整ってござる。船を、出しますぞ」

 船頭が割って入った。

 途端につまらぬ話から解放され、波風の音が心地よく響いた。

「帆を張れ!」

 船頭の掛け声が響き、水夫が柱によじ昇った。ぴんと張られた帆が、徐々に風を捉えていく。

   9

 水戸を越えた辺りから、風が強く、冷たくなった。仙台を過ぎる頃には、さらに肌に凍みるようになるだろう。

 船は快調に波上を滑っていた。

船頭たちも、こんなに航海のし易い海は、滅多にないと口を揃えた。時折、際ですれ違う南行きの船頭たちの顔も、穏やかに見える。厳しい海と日々格闘している者にとって、しばしの休息であった。

 頭上では陽で白光りした鴎たちが、水面に泳ぐ魚を狙っていた。海風はねっとりとして、生臭さを含んだ香りを漂わせている。

 他の者は船室に降りたが、子平は甲板上に残っていた。逸平との仲が気まずいからではない。

 ただ、大海原を眺めるのが好きなだけだ。床几に座し、懐手で煙草を銜える。ジジ、と煙草の燃える音が風に飛ばされ、温かい煙が鼻腔を心地よく擽った。

 よく、海に限らず自然は、ちっぽけな人の存在を教えてくれる、と言われる。もちろんそれもあるが、子平は、大海原と対峙していた。ちっぽけで、この世に子も残さぬ己が、必死に何かを成し遂げ、足跡を刻もうと足掻いてる。素の自分の姿を海に晒し、負けぬ、と言い聞かせていた。

 また、行き交う船群からは、どこの海で、何を見てきたかを、想像した。間違った想像がほとんどであろう。が、それはそれで、思いを巡らせるだけで子平は楽しかった。小さな存在の子平でも、心の中での想像は、どこまでも大きく広げられる。

「子平先生。先ほどの一件はお気になされずに、下で茶など飲みませぬか。いろいろと、お話もお聞きしたく存じまする」

 首を向けると、徳内が立っていた。小柄で五尺ほどの体躯であるが、声に張りがあり、どこか人懐こい男である。齢は三十を越えたばかりだ。

「儂は、何も気にしておりませぬ。ただ、狭い船室にいるより、せっかくの空模様な故、景色を見ていたいだけにござる。儂からすれば、むしろ、船室に降りられた方々が、勿体ない」

 子平は金色の波頭を顎で指し、目を向けた。

「……全くにござる。反対に、皆様方を此処に呼んで、酒でも飲みたい気分にございますな」

 徳内が子平の傍まで来て、笑みを浮かべた。よく陽に焼けた頬は、痩せて窪みができている。

「徳内殿は、出羽のご出身だとか」

「はい。貧しい百姓の長男ですが、侍になりとうて、家を継がずに、学問の道に進みました。全く、親不孝者にござる」

 徳内が、諦めたように呟いた。

「儂は江戸で生まれましたが、以前は伊達家に仕えており申した。お隣でござったな。さすれば、此度の飢饉は大変でござろう」

 仙台も出羽も、壊滅的な被害を被っていた。仙台で顔見知りであった者の中にも、恐らくは死人が出ているだろう。考え出すと、米を買い占めている者たちへの怒りが沸いてくる。

 此のように、初めは商人たちに抱いた怒りがだんだんと大きくなり、やがては対処できぬ為政者に向けられる仕儀となる。意次が、窮地に立つ訳であった。

「家族の状況を、毎日ずっと案じております。が、悩んでおっても、仕方がありませぬ。それ故に、此度の検分は命懸けで果たそうと心がけておりまする」

 徳内の目の奥に、強い意志が宿っていた。俊英として推挙されて下人の扱いを受けている状況を、全く気にしておらぬ。置かれた環境の中で、己の為すべき仕事が何かを見定めている。また、将来が楽しみな逸材に会えた。

「御手前はお若いが、強うござるな。心強い同志を得た気分にござる」

「しつこいようですが、逸平殿との軋轢はお気になされますな。儂に対しても、同じような態度でござれば。御身分が高い方故、我らに手柄でも立てられると、腹に据えかねるのでござろう。旗本の面子、という奴です」

 徳内が、離れた両目を寄せ、頬を歪めた。面子に拘るだけの男に、良い仕事はできぬとでも言いたげだ。

「他の旗本の方々も、だいたい似たようなお気持ちのようでござったな。まあ、我らは気にせずに己の道を進みましょう」

 若い頃なら噛み付いただろう。が、今はつまらぬ面子より、成すべき仕事であった。

   10

 江戸から松前まで、四十日を費やした。途中で時化にも遭わず、まずまず順調な航海である。

 触れれば船体ごと断ち割られそうな鉞半島(下北半島)を南に見て、湾内に追い込まれる魚の如く、津軽海峡に入った。

 北の白神岳の山頂には、一瞬、雪と見紛うほどの白雲が棚引いていた。白神岬を回ると、松前港が目前に迫った。

 松前の港は初めてではないが、水主や人足に出稼ぎのアイヌが混じっている点で、異国の風情が漂っていた。長崎で、オランダ人や唐人を目にした時の状況に似ている。

 アイヌは、見た目で、直ぐにわかる。オヒョウやシナノキなどの樹皮から繊維を取って作られるアツシと呼ばれる民族衣装を身に着け、耳には装身具、男は長い髭を伸ばしていた。顔や腕に刺青を入れている者もおり、例外なく皆、色が浅黒かった。

 蝦夷地は広大な故、港の造りも大きかった。遠く能登などからも船が入るため、千石船はもとより、二千や三千石船なども多く停泊していた。

 子平たちは下船し、松前家の迎えに連れられ、番所に向かっていた。

 港の北側には、勝軍・神止などの山々が連なっており、冬になると北風を防いでくれた。おかげで、松前に留まっている限りでは、それほど厳しい寒さを感じずに済む。が、此度の主目的は、山々を越えた遥か東である。

「話が違うぞ! 松前家は、御公儀の命を下位に置くと申すか」

 番所の中から、何やら言い争う声が聞こえてきた。声の主は、検分隊の……。

「玄六郎殿にございますな。何事でしょう」

 徳内が、小さい背に担いだ旅行李を揺らした。

 佐藤玄六郎は、検分隊の隊長格であった。松前家との交渉や、検分隊の班分けを決める。

「下位に置いておるのではござらぬ。船の手筈に手違いが合った故、しばらく松前でお待ち願いたい、とお頼みしており申す」

 番所の責任者らしき男が、負けじと声を張った。

「だから、いつまで待てばよいのじゃ、と聞いておる」

 玄六郎が怒気を含んだ声を震わせた。常ならぬ状況を気にしてか、番所の周囲に松前家の侍たちが集まってくる。

「何度もお応えしております。今はわかりませぬ故、後日に使いを出します、と」

 責任者が、冷たく言い放った。

 ――松前家の妨害が、早速に始まったようだ。

 松前家の意図的な妨害なら、下っ端役人に何を申しても無駄である。子平は無言で、事の成り行きを見守った。 

   11

 松前家は、検分隊を松前に足止めして、検分を遅らせる意図であった。

 初めは船の手配がつかぬと申し出て来たかと思うと、今度は水主たちが東蝦夷には行きたがらないなどと、言い訳を繰り返した。

 検分隊独自で船や水主の手配をする方法も考えたが、誰も受け手がおらぬ。商人たち皆が、松前家の顔色を窺っていた。

 検分隊に協力を申し出た商人は、後で松前家からどのような嫌がらせを受けるかもしれぬ。商人たちにとって、今後も蝦夷で商いができるかどうかが重要で、蝦夷の検分などには全く関心がなかった。 

 もっとも、検分隊に協力すれば、後に幕府から優遇を受けられる可能性もあった。が、商人は政に敏感である。意次の落ち目な状況を知って、日和見を決め込んでいた。

「侍従様に、松前家を恫喝して頂こう。急ぎ、文を認めまする」

 玄六郎が眉を顰めながら、皆を見渡した。

 検分隊の一行は、松前家から割り当てられた宿に逗留していた。幕府からの派遣のために、下にも置かぬ待遇を受けている。が、個々の隅々の行動まで監視されている。

 毎夜の膳には松前の海で獲れた新鮮な魚が並び、酒は浴びるほど飲めた。一人一人に給仕女が付き、場合によっては床を共にする。ある意味、留まっていれば極楽であった。

 一日、二日は酒色も楽しめた。が、何もできずに酒色のみ与えられる日々は、だんだんと苦痛になった。皆が、痺れを切らせている。

 子平は全く女を寄せ付けず、静かに盃を重ねるのみの日々であった。

「松前家の役人を一人、たたっ斬ればよいのだ。検分隊を謀った、との罪での無礼討ちでな。それで事が公になれば、非は松前家にある」

 逸平が、刀の柄を叩いた。

「いや、それを松前家は逆に利用して、検分隊をさらに足止めするか、江戸に送り返そうとするでしょう。持成しについては、これ以上ないほどなのですから。それに、松前家との関係が拗れれば、今後も続くであろう蝦夷地検分が、やり辛くなります」

 徳内が、逸平を嗜めようとした。

「下人の分際で、口を挟むか!」

 逸平が、目を剥いた。威嚇のためか、左手で柄を取ろうとしている。刀に、力に縋らねば、威勢も張れぬ男か。

 子平は、逸平という人間の底を見たような気がした。

「逸平殿。徳内殿の申す通りにござろう。我らだけの状況を考えるのではなく、今後の検分隊への道標となるべきだ。まずは、江戸への文で、状況の打開を図ろう。松前家としても、いつまでも足止めをすれば、何らかの処罰を受ける結果となるは承知しているはず」

 俊蔵が大きく目を見開き、徳内を擁護した。丸顔で端正な佇まいは、育ちの良さを醸し出している。

 同じ旗本の俊蔵の言に、逸平は苦虫を噛み潰したように黙り込んだ。所詮はその程度の底が知れた威勢である。

「足止めを喰らっておる間、商人たちから蝦夷の情報を仕入れておきましょう。問題は、文を確実に届ける方法ですな」

 徳内と俊蔵の意見に皆が同意したとみた子平は、懸念を述べた。松前家に監視されている状況では、文すら握り潰される恐れがある。

「まさか、そこまでしますか。我らは御公儀から派遣されておりますぞ」

 玄六郎が、驚きの声を上げた。

「今の松前家のやり口から鑑みると、可能性がない、とは言いきれませぬ。余程、探られては困る事実があるに、相違ない」

 子平が皆に声を投げると、誰も否定しなかった。

 どうやら自分たちが歓迎されぬ客だと、しみじみと認識している。幕府の威光は絶対だと、ずっと江戸におる者は、勘違いするのやもしれぬ。

   12

 江戸への文は、江戸に本店を置いている商人の船に、密かに運ばせる方法が採られた。

 江戸が本店ならば、松前より当然、幕府の威光を気にする。

幸い、検分隊の中に、停泊中の商人とゆかりの者が、幾人かいた。それ故、玄六郎の文を、それぞれに分けて託している。どれか一つが、意次の下に届けばよい。

 急ぐようには頼んだが、早くても往復で一月半は掛かるだろう。その間に子平たちは、松前周辺を見て回るしかなかった。

 子平は港に出てみた。港にいる水主や商人から、蝦夷地や海の様子を聞くためである。

 蝦夷は夏真っ盛りであったが、江戸と違って風が乾いており、清々しい。潮と、山の木々の匂いが混ざり合ったような風が、山上から港に、海面から山頂へと、交替していた。

 風向きが変わると、忙しく着物の裾が揺れた。故に、海岸線を歩いているだけで、実に心地の良い散歩ができた。

 海面が岸壁を押す水音が、歩きながらも耳に入っていた。

 商人たちが水主に指示を出し、そこらじゅうで荷の積み替えが行われていた。真っ黒な水主たちが、船上や桟橋を蠢いている。

 子平は、作業の合間に休憩している水主や商人を見つけて、話し掛けようと思っていた。

 その時である。背後でざぶん、と音がした。

 荷を落としでもしたか、と振り返ると、様子が尋常ではない。人が海に落ちており、手足をバタつかせていた。

 顔と服装から、アイヌの男だとわかった。アイヌの男が岸に掴まろうと足掻いている上から、和人の水主が、長い艪を力いっぱい、何度も振り下ろしている。

 周囲の和人がヤンヤと囃し立てている傍で、三人のアイヌ人が俯き、海中の男を見詰めていた。

 咄嗟に、子平は足を進めた。男たちのいる桟橋まで、急ぐ。

 海中の男は額から血を流しながらも、振り下ろされる艪を掴もうと、必死だ。

「やれ、やれ! アイヌなんぞ沈めてしまえ」「艪で助かるか、血を流して溺れるが先か。アイヌ野郎、根性見せてみやがれっ」

 和人たちが一層に囃し立てた時、

「もう止めろ! 本当に死んでしまう」

 桟橋で俯いていたアイヌの一人が、忽然と顔を上げて、鋭い視線を周囲に投げた。頬に刺青を入れた、若い男である。

「何だと、アイヌの分際で反抗するつもりか。お前らが死のうが生きようが、儂らの知ったことではない。捨蔵。そいつを、本当に沈めてやれ」

 一人の和人が叫ぶと、捨蔵と呼ばれた男は、さらに激しく艪を振った。

 ゴン、と重たい響きが海面上を漂った。海中のアイヌが、途端にぐぅ、とくぐもった声を上げて白目を剥く。

「イトヘイヤ!」

 若いアイヌが鋭く叫ぶと同時に、海中に飛び込んだ。

   13

 海面に浮かんだ若い男は、沈み掛けたイトヘイヤの首に腕を巻き付け、岸に寄ろうと水を蹴った。

イトヘイヤは意識が朦朧としているのか、動かない。

 残りのアイヌも、何かの呪縛が解けたかのようであった。桟橋に前のめりになり、必死に手を差し伸べている。しかし、如何せん桟橋から海面までは距離があり、手が届かぬ。

 和人たちは、自分たちの戯れが過ぎたと思ったか、ばつが悪そうに佇んでいた。周囲の水主たちも集まってきて、事の次第を噂している。

 子平は、でき掛けた人の輪を掻き分けて、桟橋の前に出た。若い男は激しく水を蹴っており、飛沫が上がっている。

「捨蔵とか申したな。お主、そこのアイヌに艪を手渡してやれ」

 子平は怒りを抑えた低い声を、捨蔵に投げた。

「なんでぇ、藪から棒に。お前さんは、誰だ。こいつらアイヌは、儂らに反抗的な態度を取りやがったから、こうなったんだ」

 意識を取り戻したかのように、捨蔵が視線を向けてくる。

言葉は荒いが、不安気に視線を彷徨わせている。番所の関係者などであれば、不味いと思っておるのか。

「今は、そのような問答をしておる暇がなかろう! アイヌとて、殺せば処罰は免れぬぞ。これだけの証人がおるのだ、首から上が飛んでも良いのか。四の五の申さずに、早く渡してやれ」

 子平の言に、捨蔵は気後れして、仲間を窺った。

「捨蔵。ここは分が悪い。言う通りにしろ」

 がたいのいい親分肌の和人が、陽に焼けた首を振った。

「……ほらよ。さっさと取れ」

 捨蔵はすぐさま、前のめりのアイヌに艪を渡した。

 アイヌの一人がさっと艪を握り、海面に伸ばした。海面からも、ぬっと濡れた若い手が出てくる。黒く太い指が、艪の先を掴んだ。

 桟橋のアイヌが、二人を助け上げた。地面に俯せになったままの若い男は、激しい呼吸を続けている。が、隣のイトヘイヤはぐったりと、目を瞑ったままである。

「此処に、仰向けに横たえよ。脈を診る」

「あんた、医者なのか」

 親分肌の和人が、意外そうな声を上げた。

「そうだ。お主たちも手伝ってくれ。見たところ、額の傷は深くなさそうだ。意識さえ戻れば、お主や仲間たちの罪も軽くなるであろう」

「別に、儂は何も手を出しておらんが。やったのは捨蔵だ」

 親分肌が捨蔵に視線を投げると、

「そんな、丈吉」

 捨蔵が縋るように、丈吉の名を口にした。

「……わかったよ。皆、甲板に筵を敷け。アイヌたちを運ぶぞ。先生。静かな場所に寝かしたほうがいいだろ。船内なら、飲み水はあるし、簡単な薬草もある」

「よし、急ごう」

 子平は同意した。確かに周囲に取り巻きがいる喧騒の中よりは、静かに脈の音を聞きたい。

 丈吉の指図で手際よく、甲板の筵上に二人が寝かされた。

 意識の戻らぬイトヘイヤの脈を診ながら、水を吐き出させようと腹部を何度か押した。が、どうやら海水を奥まで飲み込んでいるらしく、反応がない。

 仲間のアイヌを手招きして呼び寄せ、イトヘイヤを背後から抱え上げた。背中を強く叩き、擦る。反応がない。もう一度、繰り返した。

「げふっ、かっ」

 イトヘイヤが目を瞑ったまま、血の混じった水を吐き出した。血は恐らく、口の中を切ったものだろう。

   14

 イトヘイヤは苦しそうに咳込みながら一通り嘔吐を繰り返した後、荒い息の中で意識を取り戻した。仲間のアイヌと少ない言葉を交わした後、ぐったりと仰向けになり、目を瞑っている。

 子平はイトヘイヤの額の傷に薬草を擦り込み、治療を終えた。

 次に、若い男の傍に寄り、しゃがみ込んだ。

 若い男は無言で目を開け、澄み切った空を眺めていた。

 行き交う鴎の鳴き声は楽しげであった。港に寄せる波音の静けさとは、対照的である。短いながらも、蝦夷の穏やかな夏であった。

「お主は、大丈夫そうだな。言葉は、わかるか?」

「わかる。松前で働いて、もう長い」

 男が太く、一本の線のように見える眉を、動かした。目と鼻は、木彫りのように、くっきりとしている。

「診察の必要はなさそうだが、どこか痛む場所はあるか」

「ない。岸に上がる際に水を吐いたら、随分と楽になった。しばらく寝ておれば、すぐに動ける」

 男は子平と目を合わせず、空を見上げたままだ。

「儂は林子平と申す医師じゃが、お主の名は? お主らは、此の船に雇われておる水主か」

 子平は膝を着いていた姿勢から、どっかと板に腰を降ろした。治療の必要がなく、二人とも無事で、ほっとしている。

「……オニアラキ。名を聞いたところで、お主ら和人には、アイヌは皆が同じに見えるだろう。『アイヌは、アイヌは』と、牛か豚のように一括りにしよって」

 オニアラキは視線を変えず、目に涙を浮かべた。気持ちが落ち着いて、悔しさが込み上げている様子だ。

「なぜ、あのような騒動になった。心配するな、水主たちは皆、港に降りている。番所に届けると申すのなら、儂は止めんし、事と次第では、証言してやってもよい」

 二人の怪我は大したものではなかった。それ故に、水主たちの処罰は軽いだろう。多少の薬は、必要である。

「……届けても、無駄だ。役人どもが、儂らアイヌの話を聞いてくれるとでも思っているのか。子平先生は、余所者だろう。だから、そのように甘い言を吐ける」

 オニアラキは自嘲し、息を吐いた。結んだ口元の髭が、揺れている。

「確かに儂は余所者じゃ。が、話くらいは聞いてやれるし、聞かせてくれ。そのために、蝦夷に来ている」

「そのためにとは、どういう意味だ。先生は、医師ではないのか」

 初めてオニアラキが、白目の部分が濁った視線を向けてきた。

 傍らでは、イトヘイヤが、寝息を立てていた。

   15

 子平は、自分が江戸から派遣された蝦夷地検分隊に随行している旨、松前家がどのようにアイヌと交易しているかなども調べている、と伝えた。

「しかし、所詮はシャモ(和人)の親玉から遣わされたんだろう。儂らの味方ではない」

「そう申すな。今、江戸で政を執っておる御方は、話がわかる故」

 オニアラキは、しばし思案気に視線を前方に据え、何かを噛むように口元を動かしていた。

「儂らは、アンナブリ岳(後世の北海道虻田郡ニセコ町)の麓の村に住んでいる。静かな山奥の村だ。和人地から遠くはあるが、東蝦夷ほど辺境でもない。チキウ岬(後世の北海道室蘭市母恋南町)から舟を出せば、松前まで数日で来られる。が、反対に和人地からも時折、商人などが通り掛かる。もちろん、松前家の息が掛かっとる者だ」

「初めて聞く村の名だ。儂も、蝦夷の海辺の村については、随分と調べもしたが」

 よく書物などで耳にする蝦夷の村は、海辺が多い。江戸からの主な交通が船である理由と、書物に纏める者が交易に主眼を置いている。

「山々を探る和人の目的は、金だ。どこぞで金の噂を聞きつけると、餌に群がる狼のように、どこからともなく和人がやってくる。静かな、ちっぽけなアイヌの村など、そっとしておいてくれればよいのに」

 オニアラキが、吐き捨てた。眼の奥に、憎悪が揺れている。

「目が覚めたか」

 気が付くと、イトヘイヤが目を開けて、子平たちの様子を窺っていた。

 イトヘイヤが起き上がろうとして、顔を顰めた。傷が、痛んだのだろう。額に手をやり、低く呻いた。

「先生。有難う」

 傷の手当てをしたのが子平だと、わかっていたようだ。イトヘイヤの日本語は、流暢ではなかった。一言一言を、区切るように話す。が、聞き取れない訳ではなかった。

「オニアラキ。儂が話す」

 イトヘイヤは甲板を擦り寄ってきて、胡坐を掻いた。濡れた衣服から海水が滴り、板に線を引いている。

「大丈夫か、イトヘイヤ。わかった、儂は黙っている」

 オニアラキが頷き、上体を起こした。三人ともが胡坐を掻いて、円になった態である。

 空が青い。手元に酒でもあれば、と思わぬ気分でもない。が、とにかく話の内容が深刻であった。

 二人に、真水を勧めた。先ほど、たっぷりと海水を口にしている。

「儂の父は首長だが、和人に唆されて博打をして、村に借金を作った。それで、儂らは松前の水主として働かされておる。いや、儂らだけではない。村に残った男たちは山々を巡って鉱山開発に使役され、村の若いメノコ(娘)まで、松前の旅籠などで給仕女などをさせられている」

 イトヘイヤが、ぴんと伸びた鼻を歪めた。体の線が細く、端正な顔立ちである。和人に近いような気がした。

「首長の借財のために、村中が働かなければならぬのか」

 子平は事情が呑み込めず、イトヘイヤの鼻に視線を向けた。

「首長は、和人に騙されたのだ。村に妙な疫病が流行った時に、治療薬を賭けて博打をする破目に陥った。首長は私財を全て擲ち賭けに臨んだが負け、最後に村の井戸水を賭けた。村が主としている水脈だ。使えなければ、村は潰れる。が、疫病自体が仕組まれたものだった!」

 オニアラキが込み上げたように、口を挟んだ。低い声色の語尾が、怒りに震えている。

「和人は村を横切る恵の川に、毒を入れていた。村人の多くが熱と腹痛に苦しみ、父は止むに止まれずに、賭けに出た。今となっては、賭けの勝敗さえも、仕組まれていたような気がする」

 イトヘイヤが、諦めたように呟いた。が、目の怒りは、消えていない。

 陽射しが、三人を包んでいた。濡れそぼった二人の衣服も、温かな風が、直に乾かしてくれるだろう。

「俄には信じられぬが、何のために、商人がそこまでするのじゃ」

 事実であるとすれば、夜盗と変わらぬではないか。

「鉱山開発には、人手が要る。が、さすがに大人数で蝦夷に渡るのは、松前家もよい顔をせぬ。そのため、土地のアイヌを使役する方法を考えた。和人たちは、儂らアイヌが、土地を離れられぬ状況をよく知っておるのだ。態よく村人を使役するために、蝦夷の各地で罠を仕掛けている」

 イトヘイヤが、北の山々を窺った。恨めしそうな横顔からは、縛り付けられた悔しさが滲んでいる。

 オニアラキも、無言で拳を握り、板をゴンゴンと、叩いていた。

「番所にでも、と申す策は、意味がないのだな」

 二人に声を投げた。わかっていたが、先ほどのオニアラキのように、二人が鼻でせせら笑った。

「そこまで、和人たちのアイヌに対する仕打ちは、酷いものか……」

 子平は、二人に聞かせるでもなく、噛み締めるように呟いた。

 松前家はもちろん、蝦夷では和人が、アイヌを過酷に扱っている状況が耳に入っていた。

 不平等な価格での交易取引、アイヌの娘への陵辱、アイヌ人を低すぎる銭で使役するなど、挙げ出せば切りがなかった。

 商人や松前家の侍たちは、一歩でも和人地を出て蝦夷に足を踏み入れると、鬼にでも変わるのか。

 とても、人に対する仕打ちとは思えなかった。川に毒を流せば、もちろん、赤子や幼子までの口に入る。

 ――またいつか、大規模な反乱が起きるやもしれぬ。

 松前家や和人の不当な扱いに対して、各地でアイヌと小競り合いや騒動にはなっていた。

 寛文九年(一六六九年)には、シブチャリ(後世の北海道日高郡新ひだか町)で首長シャクシャインを中心とした大規模な反乱が起こり、松前家と戦になった。 

 松前家は幕府に援軍を要請し、津軽家、南部家などと乱を鎮圧したが、長引けば改易になる危険すらあった。 

 交易や鉱山の利に目が向いて、過去を顧みぬようだ。目前の二人だけでも、和人に対して激しい憎悪を持っている。憎悪が広がり、大きくなる火種が、蝦夷地にはいくつもありそうだ。

「和人は、儂らを水主として扱き使うだけでは稼ぎが小さい故、村の娘たちに松前家の侍の相手を求めてきた。先ほどの水主は今夜、儂の妹を夜這う、とまで言った」

 イトヘイヤの眉間が歪み、声が荒くなった。

   16

「オニアラキ。先ほどお主は、村から舟で松前を目指す、と申しておったな」

 子平が突然に話を変えたので、オニアラキが拍子抜けしたように目を見開いた。

「確かに申したが、何か問題があるか」

 オニアラキは、真水の入った器を置いた。

「お主らの村は山の麓だと聞いた。とすれば、舟はどうやって手配しておる?」

「……チキウ岬の村の漁師に頼んでいる」

 オニアラキが、怪訝そうに視線を投げてきた。

「やはり、アイヌの漁師か。ふと思いついた話だ。儂ら蝦夷検分隊は、松前家に船や水主の手配を頼んでおる。が、松前家から妨害を受けており、なかなか算段がつかずに途方に暮れている。そこでお主らが、アイヌの舟と水主を揃えられぬか、と考えた。もちろん、松前のように不当ではなく、正当な銭を払う。水主には、お主らは当然として、村の衆が加わってくれてよい。さすれば、銭になるのではないか」

 ただの付添役という立場では、明らかに出過ぎた真似になるやもしれぬ。が、目の前で困っている二人を、放っておけなかった。

「先生、真の話か! それならば、何としてでも舟と人は揃える」

 イトヘイヤが、弾んだ声を向けてきた。歪んでいた表情から、怒りが潮のように引いていく。

「喜ぶのは、まだ早い。儂から検分隊の上役に提案し、了解が得られればの話だ。が、儂らが困っている状況は事実だ。ただ、儂らの手伝いをした場合、松前家に睨まれる恐れはあるぞ。それを恐れて、なかなか受け手がおらぬ故」

「松前家など恐れぬし、むしろ、奴らが困る手助けができれば、嬉しい。銭が入れば村は助かり、メノコたちも売られずに済む」

 オニアラキの目に、気が宿った。戦う男の顔になっている。

 イトヘイヤの体が問題なく動けたので、船を降りた。

 二人とも、港で別れた。船と水主の手配がつけられるかどうか、数日は動いてみるようだ。

 子平は一応、旅籠の場所を教えた。が、松前の監視の目があるため、五日後に港で会う約束をしている。

   17

他の者に聞かれると良い顔をされぬため、玄六郎の居間を訪ねていた。

申の刻を過ぎた頃であった。まだまだ陽射しは強く、障子戸を抜けて畳に落ちてきている。

「アイヌの舟と、水主でござるか」

 旅籠で玄六郎に話をすると、案の定、難しい表情で考え込んだ。口元を囲んだ皺が、深くなっている。

「水主がアイヌだけだと、不安にござるか。言葉が通じ、操船の腕があれば問題はないと存ずる。それに、アイヌの海や土地は、アイヌが一番に良く知っており申す。検分の途中で土地鑑のあるアイヌがおれば、何かと役立つように思うが」

「仰る内容は、ご尤もでござろう。儂も、案内役にはできれば、アイヌに加わって貰いたいと思っており申す。しかし今は、江戸からの便りを待つが上策と存ずる」

 玄六郎は、子平と視線を合わせぬように、断りの言を述べた。

「このような良い話を、なぜ断られる。江戸からの文が届いても、直ぐに我らが動ける、とは限らんのですぞ。その間にも、冬は一刻一刻と、近づいてきております」

 文を待つ策が、間違っている訳ではなかった。が、子平は冬が来る前に東蝦夷に入れるものなら、何としてでも前に進みたかった。

   18

 玄六郎に断られた後、居間に戻り、徳内と俊蔵にオニアラキたちの話をした。

「儂らも是非、その話に乗りとうござる。子平先生。もう一度、玄六郎様に掛けあいましょう。一緒にお供致します故」

二人が賛同してくれたので、夕餉の後、再び玄六郎の居間を訪れた。下人扱いの徳内はともかく、俊蔵の意見を、無碍にはできぬであろう。

 点された行灯は薄暗いが、今宵は月が明るかった。障子に木枠の影が、くっきりと浮かんでいる。

 事前に徳内、俊蔵と話をした際に、玄六郎を説く策を、俊蔵が思いついていた。

「隊を分けて、我らを先に、東蝦夷に向かわせてほしい」

 俊蔵が、鋭い眼差しで言葉を投げた。意見を通そうと、喰らいつく覚悟である。

「……しかし、俊蔵殿。やはり、江戸からの指示を待たれたほうが」

「玄六郎殿。隊長格の貴殿には、江戸にお伺いを立てずとも決める権限がある。松前家の策に嵌り掛けていたところに、思わぬ幸運が舞い込んできた。これを活かさぬ手はあるまい。それに、我らを先遣隊として何か問題が起きても、残った貴殿らがおられるではないか」

 アイヌの船、アイヌの水主で向かう状況が嫌であるのと、江戸からの指示があるほうが気持ちが安心できるのだろう。俊蔵の考えは、玄六郎の決断を促すための障壁を取り除くものであった。

「玄六郎様。何卒、お頼み申す。せっかく侍従様が差し向けてくだされた我ら故、一刻も早く結果を出せるように尽力いたしましょうぞ」

 徳内が伏し拝むような態になった。百姓から侍になるためには、侍以上の働きを要求される。親や田畑を捨ててまで出羽を飛び出した徳内である、必死だ。

「何かの際には、あくまでも先遣隊である、と言い張られよ。先遣隊であれば、貴殿が慎重に事を運ばれようとした次第となる。また、運よく成果を上げられた時には、隊長である貴殿の手柄となり申す」

 玄六郎の視線が揺れていた。逡巡、というよりも、心が動いている。

「……わかり申した。先遣隊として認めましょう。その代わり、無茶はなされぬように」

 玄六郎が、心配気に子平たちを見渡した。打算的ではあったが、根は人の良い男である。

   18

 きっちり五日後、朝餉を済ませた子平は、港に出た。申し出があったため、徳内と俊蔵も連れている。

 辰の刻であった。海沿いに通りを歩いていると、海風が袴を翻した。寄せてくる波が磯の香りを運び、海面から突き出した岩で弾けている。

 近海には舟が浮かび、漁師たちがそれぞれ、網を操っていた。沖には、大型船も浮かんでいる。

 港の東、大きな黒褐色肌を顕にした蝦夷松の下に人影が見える。

 人影は既に、子平たちに手を振っている様子だ。アイヌは、和人より、遠くまで目が効く。

 手を振っているのは、イトヘイヤたちであった。が、子平が姿を確認したのは、半町も歩いてからである。

 イトヘイヤとオニアラキ、二人の髭の下からは、肌の色とは対照的な白い歯が、覗いていた。

 蝦夷松の陰に入った。細切れになった陽射しが、土の上でそよいでいる。

「子平先生。結果は、どうなった。儂らは、都合がつきそうだぞ」

 オニアラキが待ちきれんとばかりに、言葉を発した。

「駄目ならば、こうして二人も連れてこぬ。安心しろ、こちらも上手くいった」

「真か! これで村は息を吹き返せるかもしれぬ」

 オニアラキの声が弾んだ。よほどに嬉しいのか、小刻みに肩を揺すっている。

「……安心しました。村の衆の喜びようから、もし駄目になっていたら、とても報告できぬ、とオニアラキとも話しておりました故」

 イトヘイヤが、噛み締めるように頷いた。

 二人に徳内と俊蔵を引き合わせた後、五人で港を見て回った。

 和人とアイヌが仲が良さそうに肩を並べて歩いていると、周囲から怪訝な目で眺められた。松前では、あくまでアイヌは、和人に仕える下僕のようなもの、と認識されている。

「して、いつ松前を発ちますか」

 イトヘイヤが、先日、突き落とされた桟橋を見ていた。

複雑な表情である。和人への怒りと、あの騒動がなければ子平と出会い、村を救う手立てが見つからなかった状況を、思い浮かべておるやもしれぬ。

 ――逆境は時に、好機に姿を変える。

 誰が初めに申したかはわからぬが、昔から、苦しい時こそ懸命に足掻けば、一筋の光明を見いだせる、と言われていた。

 もっとも、長年のアイヌの辛苦を思えば、とても光明とは言えぬ状況かもしれぬ。が、少なくとも、イトヘイヤの村には希望が宿った。

「反対に、いつ船が揃いますか。儂らは、できるだけ早く東に向けて船を出したい」

 徳内が、イトヘイヤの横顔を見詰めた。

「わかりました。三日の内には、チキウ岬から船を連れてきます故、それまでに御用意くだされ」

 振り向いたイトヘイヤの顔に憂いはなく、覇気が漲っていた。

   19

 前夜は深酒を控え、早々と床に着いた。おかげで今朝は寅の刻に目が覚め、旅籠の庭に出ている。

 今日が、イトヘイヤとの約束の日であった。それ故に、目が冴えてよく眠れなかった。

 齢を重ねても、何かに挑戦し、立ち向かう状況は興奮するものだし、己が生きている、と感じられる。

 まだ夜は明けておらず、空は炭のように暗い。蝉もさすがに騒いでおらぬので、しんと、大地の息遣いが聞こえそうなほど静まり返っていた。

「先生も、気が急いておりますか」

 気が付けば、縁側に徳内が、ぽつん、と立っていた。剥き出した歯が、やけに白く見える。

「恥ずかしながら、老いぼれても、心の躍動は止まぬらしい」

 子平は髭に手をやり、苦笑した。

「いやいや、当然にござる。東蝦夷は前人未踏の地です。心が躍らぬほうがおかしい」

「右に同じく。目が冴えてしもうた」

 徳内の背後から、がっしりした体躯の俊蔵が、ぬっと色黒い顔に笑みを浮かべた。

「恐れもあり申すが、やはり楽しみですな」

 子平が、しみじみと言葉を投げた。

「真に。誰も、挑戦した機会のない検分にござれば」

 俊蔵が返した言に、隣の徳内も微笑んだ。

 ――なぜか儂は、いつも人に恵まれるようだ。

 世に出る機会には、なかなか恵まれぬ。だが、どこに行っても、良い師や仲間に囲まれていた。負け惜しみではないが、時々には一番の幸せではないか、とまで思う。

 朝餉の後に玄六郎に挨拶をし、旅籠を出た。

 松前家には先遣隊の旨は届け出ているため、堂々と旨を張って通りを行く。

 陽光が家々の屋根を照らし、範囲を広げていた。漁師たちが、銛や竿を担いで、早足で追い抜いていく。

 俊蔵、徳内、付添役に子平、普請役の山口鉄五郎が、先遣隊の頭として玄六郎から付けられた。心配症な玄六郎が手配した御目付役である。

 が、子平たちは、鉄五郎に好感を持っていた。越後の百姓出身で、意次に手腕を買われて幕臣になった男である。徳内などは、手本にしたいくらいであろう。

 港の海面は陽を吸い込み、波が光の筋を順々に覆っていた。航海には、良い日和である。

 一行は停泊中の船を見渡し、イトヘイヤたちを探した。いや、探すまでもなく、多く繋がれた和船の中に、一際ぐんと異相のアイヌ船が、存在を主張していた。

 黒塗りの船体に、白色でアイヌ独特の模様が彩られていた。帆柱は一つで、二十人も乗れば一杯になる大きさである。

「子平先生。こっちだ!」

 オニアラキが、甲板から桟橋に片足を掛けながら、手を上げた。背後では、アイヌ人の水主たちが、何やら忙しく動いている。

 子平たちは、小方儀や間縄、磁石などの測量道具の他は、各々の旅行李に袷の着物と、出発前に急いで買い求めた黒貂の毛皮のみ入れている。

 食糧や野宿の準備は、イトヘイヤらアイヌを信頼して任せていた。ほとんどは現地調達となるため、アイヌの知識に頼る機会も増える。アイヌの土地に入る以上は、アイヌと同じ生活をするつもりである。

 桟橋を渡り、船に乗り込んだ。ぶわっと、南の津軽まで海が広がり、鼻の奥まで潮の香りが満ちた。

「お世話になるが、宜しく頼む」

 子平は、自分を見つめるアイヌの視線たちに、頭を下げた。その後に乗り移ってきた三人が揃い、イトヘイヤが水主を紹介する。

 イトヘイヤとオニアラキの他の水主は三人で、その内の二人は、言葉が覚束なかった。ほとんど、アイヌの居住地から出た機会がないという。が、それぞれ操船や弓といった特技を持っているために選ばれていた。

 天候に恵まれたため、船はすぐに松前を離れた。帆が風を上手く掴んでいるため、見るみるうちに港の船群が小さくなっていく。

 白神岳を左に見て、東に向かった。

 海岸線にぽつぽつ、和人の姿が見える。が、次に陸に上がる時には、アイヌばかりの土地であろう。

   20

 数日で、アッケシ(後世の北海道厚岸郡)の港に入った。アッケシはアイヌが名付けた町だが、オヒョウの皮を剥ぐ場所、という意味らしい。港から東にアッケシ湖があり、さらに東には湿地が広がっている。

 東に来るに連れて、文月が近いためか、風が冷たく、強く感じられるようになった。

 此処からは、陸路を行く。途中で上陸しなかった理由は、夏の間に東蝦夷を見て回りたかったのと、後続の隊が蝦夷の中央付近を見てくれるだろうと思った。

 港に船が入った。

「和人の姿が、かなり多いですな」

 徳内が、港を一望して呟いた。確かにアイヌが多数を占めていたが、商人のものと思われる和船が何艘も停泊し、和人たちが闊歩している。

「アッケシは天然の漁場で、鮭、牡蠣、鱈などが多く獲れる。また、ラッコやアザラシ、森に入ればシカや熊の皮も獲れる場所だ。商いが、それだけ大きいのだろう。確か請負は、飛騨屋であったと思う」

 松前家は、蝦夷地の各地で交易を商人に請け負わせ、その利益を運上金という形で納めさせていた。各地に運上屋が置かれ、商人たちがアイヌを使役している。

「飛騨屋の名は、悪いほうの評判で、よく聞きますな」

 俊蔵が、懐手から煙草を取り出しながら、話を受けた。

 厚岸湾と厚岸湖を隔てる、槍の穂先のような半島に、船を着けた。港から番所の役人らしき者が数人で、駆け寄ってくる。

 鉄五郎がアイヌの水主たちが船を舫っている間に分け入り、役人たちの応対に出た。

 番所の役人たちは、無許可で和人地を出た者を、厳しく監視していた。松前家の関知せぬところで、勝手に交易する者が現れては困る。松前家に入る莫大な利益が減る状況も困るが、請負の商人たちの利が減ると、役人たちの懐に入る賂も少なくなる。

 和人地を出て辺境の地に赴任する役目は、嫌われるようでいて、懐が温かくなる分、人気があった。この点は、長崎の出島に群がる役人や商人たちも同じだ。

 子平たちも陸に上がった。東蝦夷だからといっても、江戸や仙台の地とは変わらぬ大地である。が、東蝦夷の土を足裏に感じると、胸がじんと震えた。

 徳内たちも同様であろう、皆が、その場で草鞋を地に押し付けるようにした。

 鉄五郎の傍に近寄ると、番所の役人が謙るような態度で向き合っていた。

「御心遣いは真に有難いが、儂らはアイヌの村で寝起きをする。そのつもりで、アイヌの水主たちも連れてきておる故」

 鉄五郎の大きな背中が、苛立っていた。どうやら、押し問答になっている。

「いいえ、御公儀の検分隊の御方たちが来られましたら、丁重にお迎えするように命じられております。港に、宿をご用意致します。アイヌの村では、何かと暮らしが不便ですから」

 役人は、縋るような目付きで、何度も頭を垂れた。恐らくは、松前から指図があったと見える。

「鉄五郎殿。イトヘイヤたちが村のアイヌと繋ぎを付けます故、早々に向かいましょう」

 子平は声を投げると、驚いたような役人の脇を通って、道を前に進み始めた。

「この期に及んで、まだ我らを監視しようと必死ですな。アイヌの口から、何か都合の悪い内容が、洩れる懸念がありますのか」

 俊蔵が子平に並んで、笑みを浮かべた。

「恐らくは、アイヌも皆、堅く口止めをされておるだろうよ。このような大きな番所があり、役人たちが多い地には、松前家の手が深くまで及んでおると見てよい」

 背後では、鉄五郎が役人を振り払っていた。取り残された役人が、ぽつんと、悲愴な面持ちで佇んでいる。

   21

「さっさと、しやがれ!」

 前方で荷を運んでいたアイヌの背を、和人が棒で叩いた。途端に、アイヌの手から荷が落ち、中に入っていた物が地面に散乱した。

 十間ほど先であった。アイヌは体躯からして、まだ子供のようである。

 再び棒で打たれる状況を恐れるように、和人を窺っていた。卑屈に頭を下げながら、荷を拾い集めている。

「このようなアイヌの本場でも、和人が幅を効かせておりますか」

 徳内が、怒りを込めた目で見つめた。踏み込む歩に、力が籠もっている。

 語らずとも、イトヘイヤたちアイヌの水主たちは、怒りの眼差しに変わっていた。

 子平たちが近づいて見詰めると、和人が鋭い視線を投げてきた。

「なんだ、お主らは。何か儂に、文句があるのか」

 男は黄色く尖った歯を剥き出し、吐き捨てた。細く伸びた髭は、鯰のようである。

「お主は、飛騨屋の者か」

 俊蔵がずい、と身を乗り出した。威嚇する訳ではないが、こういう時の二本差しは、強い。

 荷を拾い終えたアイヌの子は、関わり合いを嫌がったのか、いそいそと荷を担いで行く。

 小さな丘に続く道の先には、同じように荷を担いだアイヌたちが連なっていた。

 ほとんどが成人したアイヌの男たちだが、どこか虚ろな表情に見えた。アイヌの子が、目の前で和人に、棒で打たれている状況だというのに。

 丘の上にはコタン(村)があり、チセ(家)が連なり建っていた。

 ところどころに昆布や魚を干しており、鼻に寄せる風は、生臭さを含んでいた。

「そうだ。此処から先はアイヌの村だ、余所者が行ける場所ではねえぞ。お侍たちは、松前家の御方ではないだろう。許可を得ておるのか」

 男は居丈高な態度で、腕を組んでいた。請負商人にとって、松前家こそが蝦夷での権威である。

「儂らは御公儀からの検分隊だ。松前家からの許可は、もちろん取っておるし、先ほど、番所の役人にも話をつけた」

 子平が声を投げると、男がぎょっと、目を剥いた。一瞬、言葉を噤んだ後、表情を立て直している。

「そ、それは、失礼いたしやした。あっしは飛騨屋の利兵衛と申します。以降、良しなにお頼み申します」

 利兵衛は急にしおらしくなり、媚びるような視線に変わった。

「お主は今しがた、アイヌの子を棒で打ち据えていたな。どういう次第でじゃ」

 徳内が、意気込んだ。

「いえいえ、打ち据えたなどと。あまりに働きが遅い故、軽く叱っただけにございますよ。その証拠に、ぴんぴんした体で、丘を登っておりましょう。それに、アイヌなどは犬畜生と同じ。甘い顔を見せれば、すぐに増長して仕事を怠けます。付け上がらねえように、時折は灸を据えてやる必要がある。我らも商でござれば」

 利兵衛は、少しも悪びれていなかった。

「お主は、何ということを。アイヌも同じ、人であるぞ」

 徳内が声を荒げる間もなく、オニアラキが利兵衛に踏み込んでいた。

 オニアラキの拳が利兵衛の頬に減り込み、利兵衛が尻餅を搗いて倒れた。カラン、と利兵衛が手にしていた棒が通りを転がり、脇の雑草で止まる。

「な、何をしやがる! アイヌ野郎め」

 利兵衛が叫んだ瞬間、オニアラキが馬乗りになり、拳を振り上げた。

「いかん、オニアラキ」

 子平は後ろから、オニアラキの腕を押さえた。俊蔵もすかさず、オニアラキを背後から引き剥がしに懸かった。

 引き剥がされたオニアラキは我に返ったように、気まずそうに顔を伏せた。

「利兵衛。すまんかった、許せ」

 子平と鉄五郎は、手を出したオニアラキの非を詫びた。

 利兵衛は、先ほど自分が、武士である鉄五郎たちにした非礼を思い出したか、特に咎めはしなかった。

「気をつけてくださいよ」と、頬を押さえながら、目を逸らしだだけだ。

   22

 丘を登り終えると、目前にはコタンが、背後には厚岸港が一望できた。

 コタンは三十戸ほどのチセで構成されていた。ほとんどのチセが、笹で葺いている造りである。

「思っていたより、大きな村だ。アイヌの村でも、大きいほうか」

 鉄五郎が、イトヘイヤに視線を向けた。

 びゅうと風が鳴り、干魚の臭いが強くなった。よく見ると、先ほど荷を運び終えたアイヌたちが、物陰から子平たちの様子を窺っている。

「此処は違う。普通のアイヌのコタンは、多くて十戸までだ。それ以上は、よほどに大きなコタンとなる。が、厚岸のコタンは和人によって、強制的に集められた」

 イトヘイヤが、抑揚を殺した声を発した。悔しさを隠すような響きである。

 鉄五郎も返す言葉がなく、前方を無言で見詰めた。

「あまり、歓迎されておらぬようじゃ。どうも、村の衆の視線が、突き刺さる」

 俊蔵が居心地悪そうに、黒い頬を歪めた。肌の黒さは一番、一行の中でアイヌに近い。

 アイヌの男はもちろん、女子までが、腫れ物を見るような視線を向けてきていた。決して歩み寄って来ようとはせず、息を顰めている。

「当たり前だ。和人が村に来れば、災いしか齎さぬからな。皆の衆も、よくわかっている」

 オニアラキが、呟いた。四角ばった顔に、同胞に対する情が滲んでいる。

「言い過ぎだぞ、オニアラキ。少なくとも、先生方はこれまでの和人とは違う。俊蔵様、お許し下され。歓迎しておらぬ、と申すよりは、警戒して恐れておるのです」

「イトヘイヤ、大丈夫だ。儂は気にしておらぬ。アイヌの民をあそこまで警戒させておるのは、儂ら和人のせいなのであろう。オニアラキが愚痴りたくなるのも、理解できる」

 子平たちが佇んでいると、壮年のアイヌが二人、背に大刀を下げて近寄ってきた。

 アツシの模様に、赤や紺で派手な刺繍が施されていた。二人とも髭が黒々として、遠目には顔の区別がつかぬ。

 二人は間近に来ると、イトヘイヤたちに話し掛け始めた。しばらく、アイヌ語での会話が飛び交い、耳元を通り過ぎた。

「コタンには和人は泊められぬ、と申しています」

 イトヘイヤが振り向きざま、言葉を投げた。すぐに、二人のアイヌに向き直る。

 イトヘイヤの真剣な形相から察するに、何とか食い下がろうとしてくれているようだ。

「きちんと宿代は払う、と伝えてくれ。れっきとした江戸からの検分隊故、怪しくもないし、危害は加えぬと」

 鉄五郎が、イトヘイヤの横顔に口を開いた。

「……松前家の妨害であろう。イトヘイヤ。江戸は、松前家より力が上だ、と申してくれ。それ故に、此のコタンが松前より咎めを受ける状況にはならぬ、とな」

 子平も、鉄五郎に加勢した。村が、後の松前からの嫌がらせなどを恐れておるならば、幕府と松前の力関係を教えておく必要がある。

「駄目だぜ、先生。此処のウタリ(同胞)は、頑なになっちまっている。和人の言など、端から信用できぬようだ」

 オニアラキが、首を振った。

   23

 しばらく、子平らがイトヘイヤに声を投げ、イトヘイヤが二人のアイヌと議論をする、という奇妙な押し問答が続いた。が、二人のアイヌは首を振るのみで一向に進展がない。

「埒が明かぬな、村長に会わせて貰おう。そのほうが、話が早い。宿が決まらねば、儂らは路頭に迷う次第となる」

 子平の言を、イトヘイヤが繋いだ。が、またしても二人のアイヌは首を振り、丘の下を指差した。和人は港に泊まれ、という指示であろう。

「お願いです! コタンに泊めてもらわねば、儂らの検分は片落ちになりかねませぬ。せっかく厚岸にまで参って、それでは役目を果たした次第にはならぬ。何とか、村長に会わせて頂きたい」

 思い余った徳内が、伏し拝むように前に出た。小柄で色の白い徳内である、アイヌに混じると童のように見える。

 が、徳内の行動が、明らかに場の雰囲気を変えた。目前の二人のアイヌはもちろんのこと、様子を窺っていた村の衆たちも、一様に驚いている様子である。まさに、呆気にとられる、という状況に相応しい。

 子平たちが、訳がわからずにアイヌの衆の表情を見渡していると、

「和人がアイヌに頭を下げる機会など、ないからだ。初めて目にして、ウタリたちは驚いている。むろん、儂らもだ」

 オニアラキが子平たちに説明し、再び徳内に視線を向けた。

 徳内も不思議な様子であったが、オニアラキの言で合点が行ったようである。

「アイイムカ! その御方たちを、儂のチセにお連れしろ」

 物陰から出てきた老人が、重く、よく通る声を発した。日本語である。

 両頬から首に掛けて刺青を彫り、頭には装飾の施された鉢巻、首飾りもいくつか提げている。アツシの柄が一際に目立つ鳥の刺繍である状況から、村長ではないかと思われた。「それは……。よろしいのですか」

 二人の内の一人、アイイムカが日本語で応じていた。話せるのだ。

 確かに、松前家の場所請負制が取られ、これだけの和人がいる港で働いている。全く日本語がわからぬ状況など、有り得なかった。

「良い。先ほどからの問答を眺めておったが、どうやらその者たちには目的があるようだ。まずは、話を聞いてみよう」

 言い残すと、老人は姿を消し、コタンの奥に引っ込んだ。

「……聞いての通りだ。長がチセで、話を聞くと仰られている。従いて来い」

 少し不満げなアイイムカは、仕方なく踵を返し、チセの間を進み始めた。

 子平たち一行は、二人の背を追う。追いながら、コタン内部の様子を窺う。

 長の家に招かれた状況で害意がないと思われたか、アイヌの子供たちが顔を出した。奥に隠されていたのであろう。

 子供らは、子平たちをしげしげと見詰めて来た。中には、測量道具を入れた箱を触ろうとする者もおり、慌てて親が抑えている。

 長のチセは村の奥にあった。村で一番大きなチセで、六間四方の敷地に、玄関・物置・作業場を兼ねたセム(納室)と母屋がある。

 アイイムカが、つと振り返り、顎で促した。促されるままに、子平たちは母屋の中に入っていく。

   24

 母屋の中央には囲炉裏があり、焼べられた炭が、鈍い光を放っていた。

チセでは、一年を通じて火を絶やさない。東側には神が出入りすると信じられている神窓があり、向かって左の北側には棚が置かれ、漆器など交易で得たと思われる品々が並べられている。

 アイヌのチセは、どこも同じような構造であった。 

「儂がコタンの長であるイコトイで、これは妻のウエイマイです。そちらへ、お座りなされ」

 穏やかだが、どこか威厳のある低い声であった。

 イコトイは神窓を挟んで棚を背にした北東に座し、子平たちを東側に誘った。神窓を背にしては非礼に当たり、窓の両側がチセでは上座に当たった。

 子平たちは、蒲で織られた茣蓙の上に席を取った。隊長格の鉄五郎から順に、俊蔵、子平、徳内、イトヘイヤたちアイヌ人たちが並ぶ。

 イコトイから少し離れた北西の方角にはウエイマイが佇み、囲炉裏の炭を除けていた。子平たちが暑くないようにとの配慮である。子平は、軽く会釈した。

 アイイムカたちは、イコトイと向かい合って、南東に座った。

 チセでは、方角によって、それぞれ、座る位置が決まっている。

 天井から整然と並んだ笹を通して、陽が滑り落ちていた。壁の笹は、ところどころ模様の付いた茣蓙で覆われている。

 木の実や皮、薬草などを煎じたアイヌの茶が出され、場が少し馴染んだ頃合いであった。

「次の検分地に行くまで、此処で宿を取らして貰いたい」

 一通り自己紹介を終えた後、鉄五郎が真っ向から口火を切った。

 イコトイの眉に陰りが出る。煙草を取り出し、ゆっくりとした動作で、囲炉裏から火を取った。

 イコトイが一息を吐き出すまで、皆がじっと煙草の先を注視していた。

「皆様が江戸からの使者で、松前家より身分が高く、力も上だ、という状況はわかりました。が、もし儂らが宿を提供して松前家、いや目の前の飛騨屋から何か嫌がらせや不当な扱いを受けた場合、本当に江戸から救いが来てくれますか。松前からなら、すぐに鉄砲を持った和人どもがやってくる」

 イコトイの目が、先ほどの穏やかなものではなくなり、突き刺すような視線に変わった。声も、どしんと腹に響いてくるほど図太い。

 対照的に、童の明るい声が、周囲に響いていた。チセでの話し合いを、囃しながら窺っておるのだろう。どこの世界も、子供は好奇心の塊である。

 鉄五郎がぐうの音も出なくなった様子で、俊蔵や子平たちを横目で窺ってきた。

「イコトイ殿の言は尤もにござる。確かに、厚岸で何か事が起こっても、江戸から駆け付けるには遠すぎましょう。ですが、我らの検分によっては、今のアイヌが置かれている状況を変える可能性がござる」

 子平は思い切って述べた。何も確約できる話ではなく、あくまで子平の一存ではあったが、ここで退いては、検分は意味をなさなくなる。

 子平の言には、鉄五郎や俊蔵、徳内までもが関心を寄せたような表情になった。むろん、イコトイたちアイヌは、言うまでもない。

 イコトイが煙草を置き、身を屈めるように乗り出した。聞く姿勢である、無言で先を促している。

「儂らの検分次第によって、蝦夷は御公儀の御料、つまりは松前家ではなく江戸が治める状況になる可能性があり申す。そうなれば、松前家の顔色を窺う必要はなくなりましょう」

「子平先生! 真にござるか」

 驚愕の声を発したのは、アイヌではなく徳内であった。窪んだ小さな両目が、大きく見開かれている。

 徳内の言に二の句が告げなくなったのか、他の者は子平の次の言に注意を向けていた。

 和人とアイヌが一様に驚きの表情を浮かべている状況は、何となく一体感があった。

「あくまでも、可能性と申しております。が、次第によっては十分に有り得る、と儂は読んでおります。そのために、イコトイ殿、儂からも質問しても宜しいか」

 子平の読みが微かな可能性の蕾となるのは、条件があった。

「何でござろう。儂でお答えできる内容ならば。まずは、お聞きしましょう」

 イコトイがどっしりと胡坐を掻く姿勢に変わった。何かを受け止めようというのか。話の内容によって、姿勢を変える癖がある。

 チセ内に熱気が充満してきたため、また、ウエイマイが炭を除けていた。ウエイマイは平然としている。どうやら、日本語を解さぬようだ。

「先ほど来から、其処な棚の上に置かれた品物や壁に掛けられたアツシを拝見しております。ところどころ、金が使われておりますが、蝦夷の各地では、それらの金が取れましょうや」

『三国通覧図説』に書き記し、意次にも申し述べた。実際のアイヌから金が出る状況を聞ければ、幕府が直接開発する旨の食指が動く。意次が見逃さぬ、とも考えていた。金山開発が成功すれば、間違いなく一時でも国は潤う。

「儂が思い当たるところで、何箇所かは砂金が採れる場所があります。が、アイヌには土を掘る技術がありませぬ。江戸に限らず、松前も情報を集めておるようですな。お主らは、どうじゃ」

 イコトイが頬の刺青を歪め、アイヌたちに声を投げた。

「儂も幾つか知っておるが、長と同じ場所も含まれておると思う」

 アイイムカが、子平を向いた。先ほどからの険が、少し薄らいでいる。

「既にお話したかもしれませぬが、儂らの村の近くにも、いくつかあります。どれほど埋まっておるかは、わかりませぬが」

 イトヘイヤが、静かに述べた。イトヘイヤたちの村は、鉱山開発に目を光らせた和人たちのために災難に遭っている。鉱山開発には、あまり関わりたくはないやもしれぬ。

「いや、それで、けっこう。それらの場所を検分させて貰い、確かに少しの砂金でも出ておれば、開発の可能性は出てくる」

 佐渡を始めとする本州の金山は、とうに掘り尽くされている。新たな金山が見つかる可能性に懸ける価値は、十分にあった。

「もう一つ、お聞きしたい旨がござる。ロシア人たちが、東蝦夷に現われた情報などはありますか」

 幕府は鉱山や交易の利を重視して検分隊を派遣した。が、子平自身は、此方に関心の重きを置いていた。

 イコトイが意外そうな顔をして、アイイムカに目を向けた。アイイムカも、驚いたような表情になっている。

「いや、申し訳ござらぬ。あまりに当たり前の話をされたので、どう答えてよいものやら、と思案しました」

 イコトイが鼻を膨らませると、入れ墨の皺がすうと張る。愛想笑いを浮かべた口元には、いくつか欠けた黄色い歯が剥き出されていた。

「現れておるのでござるな。して、何処に? 儂らも、得撫や国後など千島での目撃情報は、いくつか得ておりますが」

「真に、江戸の方々は知らぬのですか。もう七年も前に、厚岸にもロシアの船が入りました。その際には松前家の代表も厚岸に来て、ロシア人と数日を掛けて、何やら宴会を催すなどして、話をしていたようです」

「なんと!」

 俊蔵の声が裏返り、鉄五郎が唸った。子平と徳内は唖然として、声を忘れている。

 皆の様子を窺っていたウエイマイが、不思議そうな眼で、和人たちを見渡していた。

「松前家は、大事をひた隠しておったか。許せぬ」

 鉄五郎が渋茶を啜ったように、吐き捨てた。

 鉄五郎たち江戸で育った者たちは、これまで、どちらかといえば、松前家が幕府の権威に逆らうなど有り得ぬ、と考えていた。イコトイの話で、天地がひっくり返るような衝撃を受けているに違いない。

「儂もノッカマップ(根室)に行った際に、見た機会があるぞ。ラッコを獲りに来ておったが、クナシリの番所の役人が追い返した。確か、三年くらい前だ」

 ウチムタイが、初めて口を挟んだ。アイイムカと共に、子平たちを誘ってくれている。

 長のイコトイが耳を傾けている様子から、アイイムカとウチムタイは、コタンでの右腕のような地位であろう。

 ウチムタイの言が、さらに子平たちの肝を揺るがせた。気持を落ち着かせるように、ウエイマイが淹れてくれたアイヌ茶を啜る。

「儂は、寒さ厳しい北で居住するよりも、南の蝦夷を目指して、ロシア人たちはどんどん南下してくると予想しており申した。オランダなどからも情報が入っておったし、少しでも住み易く、豊かな土地を目指す状況は、人としての本能にござれば。むろん江戸も、ロシア人たちがどんどん南に下ってくる状況を警戒しており申す。が、まさか危機が目前に迫っておるとは……」

 子平の中では、ロシア人たちの南下が千島で止まっている状況と、蝦夷にまで及んでいる状況では、全く異なっていた。

 一旦、東蝦夷にロシア人の村ができれば、どんどんと西に広がる状況は、燎原の火が広がるが如くとなる。航海技術が発達したとは申せ、やはり陸続きとなるは脅威であった。

 また、ロシアの村が点在するようになれば、当然にアイヌとの交流が生まれる。

 漁民同士の交流・交易ならよいとも思われる。が、西洋諸国の手口は、最初は交易や布教などで人心を掌握し、最後には軍事力を持って土地を奪うを常套としていた。全く油断のならぬ状況となる。

 しかも、どこのアイヌも、松前家を始めとした和人の態度に反感や恨みを抱いていた。戦に慣れた西洋の国が、利用しない手はあるまい。

 恐らくは、アイヌの和人に対する反感を上手く煽り、蜂起させようとするに違いなかった。

 ――もしその上に、ロシアの持つ最新の大砲などの武器が加わったら……。

 子平は出島で見たオランダ船の大砲を思い浮かべた。とても、松前や津軽では抑えきれぬ。

「確かに、子平先生のご意見にも一理あり申すな。ロシアが蝦夷を狙っておるとすれば、たかが一万石の松前家では防げぬ。御公儀が乗り出し、蝦夷の防備を固める必要があるかもしれませぬ」

 俊蔵が視線を投げてきて、頷いた。俊蔵も、江戸の旗本にしては、北方の脅威を理解している。

「だけどよ、松前家から江戸に替わったからといって、和人が良くなるとは限らんのではないか。だとすれば、儂らアイヌにとっては、ロシアのほうが良いかもしれぬではないか」

 オニアラキが、疑問を投げてきた。眼の奥の光が、これまでの憎しみを含んでいる。

「口が過ぎるのではないか!」

 鉄五郎がオニアラキを叱りつけようとした。が、子平は手で制した。

 子平はまず、西洋諸国が植民地を侵略していく方法を説明した。それ故に、和人に替わりロシアが蝦夷を支配するようになっても、アイヌの暮らしが良くなる訳ではなく、他の植民地から鑑みれば、今以上に悪くなる可能性がある。

「では、儂らは、どうすればいいんじゃ。未来永劫ずっと、このような虐げられた暮らしが続くというのか!」

 アイイムカの目が、再び憎悪に濡れた。ずっと気になっておったが、アイイムカの憎悪は、オニアラキやイトヘイヤより深い。何か、訳がありそうである。

「アイイムカ殿も、和人に何かされましたのか。どうも、他のアイヌとは異なる憎しみを感じるが」

 アイイムカは視線を逸らし、茣蓙の上に置かれた拳を握りしめた。

「アイイムカ自らは、言い難かろう。儂がお話しましょう。アイイムカは妻と娘を、クナシリの番所に連れて行かれ、今も帰って来ておりませぬ」

 イコトイが言い終わると、息を吐きながら目を瞑った。

 葺いた笹を通す陽が、相変わらず皆の顔に落ちていた。が、炭がちりちりと焼け、ウエイマイが茶を沸かす音のみが聞こえている。

 いや、アイイムカが息を堪えるように、時折、低く呻いていた。

「謝って済むとは思わぬ。が、アイイムカ殿、同じ和人の行いだ。この通りだ、すまぬ」

 子平は、俯いたアイイムカに頭を垂れた。

 アイイムカは顔を上げぬ。皆は、沈黙を保ったままだ。

「儂は、御公儀が蝦夷を治めるようになれば、アイヌが望むかはわからぬが、アイヌも日本の民として迎えられるべきだと考えている。アイヌと和人、という区別ではなく、同じ日本の民になるのだ」

「儂らに、アイヌ民族の誇りを捨てさせるつもりか!」

 オニアラキが、顔を赤らめた。頬の刺青が歪んでいる。

「捨てよ、とは申さぬ。徐々に、日本の民になってくれれば良い。そうすれば不公平な交易や、不当な扱いもなくなっていく。ロシアに対しても、同じ日本の民として対処できよう。今のまま、和人がアイヌを差別し続ければ、やがては、日本とアイヌ・ロシアの戦いにもなりかねぬ。そうなってからでは、取り返しがつかぬ」

 子平は思いの丈をぶちまけた。ロシアという西洋でも強大な国が日本を狙っておる時に、蝦夷の原住民たるアイヌまで敵に回すべきではない。

 また、子平はアイヌたちの素直な性情を、好ましく思っていた。

「子平先生。いささか、話が行き過ぎかと存ずる。さすがに、我らが約定できる内容ではありませぬ」

 鉄五郎が、膨らんだ頬を引き締めた。先遣隊の長として、分を弁えるようにと忠告してくれている。役目柄、当然だと思う。

「あくまでも、儂個人の意見にござれば。が、儂の考えは、必ず侍従様にはお伝え致します。どう判断されるかは、イコトイ殿たちにお任せしたい」

「鉄五郎殿も、ロシアの脅威が迫っている状況には同意にござろう。儂と徳内も、その点には異存はない。とすれば、御公儀が蝦夷を御料とされる案は、少なくとも現実味を帯びてきましょう。これらを踏まえて、イコトイ殿にご判断を頂きたい」

 俊蔵が、鉄五郎と子平の間に入るように続けた。

「少なくとも、我らの検分で、何かが変わる可能性があり申す。儂らも命懸けにござれば」

 徳内の眼差しが、力強かった。目的にひたすら猪突猛進する型の男である。どこか自分に似ている、と子平は思った。

 イコトイが、再び煙草を手に取った。火を点したまま、じっと囲炉裏を見詰めて動かない。やがて、

「儂には決められぬ。厚岸の未来を決めるのは、アイイムカ、お主たちじゃ」

 ゆっくりと、腹に沁みるような声であった。昆布が棚引いたような眉の下からは、鋭い視線が飛んでいる。アイイムカとウチムタイに、全てを託していた。

 皆の視線も、釣られて二人に向けられた。二人は一瞬は驚いたが、イコトイから委ねられた言葉の重みを噛み締め、沈思黙考している。

 アイイムカが、ウチムタイに視線を投げ、二人が頷き合った。

「長……。儂は、此の話に乗りたい。今のままでは、何も変わらぬ。であれば、アイヌが幸せになれる可能性がある選択肢に懸けたいと思う。儂らの代では叶わぬでも、未来のアイヌが、笑って過ごしていられるなら本望だ」

 アイイムカは、込み上げてくるものを喉で堰き止めながら、強く訴えた。四角ばった顔には、決断した男が持つ覇気が漂っている。

「儂も、アイイムカの決断に異存はない」

 ウチムタイが、アイイムカの背を叩き、頷いた。大きく見開いた目には、笑みが浮かんでいる。

「よし、お主ら二人の判断が、儂の長としての決断となる。皆に知らせよう。此の方々をウタリとして、コタンに迎える」

 イコトイは煙草を置き、背筋を伸ばした。チラと神窓を気にしている。神に対して、己の判断を問うたやもしれぬ。

「忝い。心から礼を申す」

 鉄五郎が深く頭を下げたので、皆で倣った。アイイムカたちの想いが胸に沁み、決して疎かにはできぬと思った。

 風に乗って聞こえる童たちの声は、まだ聞こえている。

   25

 翌日からは早速、子平たちは東蝦夷の検分を開始した。付近各所のコタンをつぶさに見て回り、海岸線の測量もしている。

 イコトイやアイイムカに聞いた砂金を調べ、先々のアイヌから聞いた場所にも、金銀を始めとした鉱山開発の可能性を探りに行った。

 ちなみに、イコトイらの言の通り、そこかしこで砂金が出ており、幕府が開発するに十分な状況と思われた。

 検分には必ず、イコトイがコタンのアイヌを従けてくれた。そのため、土地勘のない一行も短い夏を無駄にせず、調査を進められている。

 イトヘイヤやオニアラキも、子平の意見を聞いてからは、一層と張り切って協力してくれていた。

 実際に歩いて感じたが、東蝦夷の大地は、とにかく広かった。江戸や奥州、松前とは比べものにならぬ。草原がどこまでも続き、同じような森林の中を進んでいると、目印すら覚束なかった。磁石がなければ、己の位置すら見失う状況である。

 米が獲れぬ土地とは聞いているが、これだけの広さと自然があれば、先々は何か活用方法が見つかるかもしれぬ。そもそも、伐採し尽くせぬほどの木々がある。

 葉月になった。厚岸の夜は、日に日に肌寒くなっている。

 コタンの中には常に火があるので暖かったが、昼間、野山を歩いていると袴の裾から冷気が沁みた。

 若い頃は仙台の雪深い道も何ともなかったが、やはり体は確実に衰えている。気力は充実しているが、こればかりは如何ともし難かった。

 ――今、目にしておる東蝦夷の状況が、一生の山場となる。

 長い人生の間で培ってきた確信があった。目前の仕事は、一生を懸けるに相応しい、と感じている。

 検分から戻って荷を解き、囲炉裏の周囲で、皆が寛ぎ始めた頃合いであった。

 囲炉裏の火が、赤々と熱い光を放っていた。隅では、酒が温められている。

 コタンから手伝いに出された老婆が、皆にアイヌ茶を淹れていた。

 イコトイは、子平たちをウタリとして待遇してくれていた。が、若い女子たちは、和人を恐れて手伝いを嫌がっている。また、アイイムカの妻子のようにクナシリに連れ去られた女子も多く、そもそもコタンには若い娘が少なかった。

「鉄五郎殿。ちと提案がござる。皆も、宜しいか」

「何でござろう、改まって」

 鉄五郎が大きな肩を揺らし、胡坐を掻いた。ずっと外を出歩いておるせいで、アイヌと変わらぬくらいに黒くなり、髭も伸びている。

「厚岸周辺の検分は、大いに進んでおる。そろそろ一度、クナシリに渡りたいと思うが、如何にござろうか」

 子平の関心は、さらに東の島々に移っていた。クナシリの場所を見て、ロシア人たちの出没や居住状況を詳しく調べたかった。

 東に行かず、このまま陸地の調査を広げていく選択肢もあるし、そのほうが安全で検分も進むだろう。それ故に、隊長に改めて相談した。一人で行く手もあったが、そこまでの勝手は慎むべきだと考えている。

「卒璽ながら、儂も、遠くにクナシリの島影を臨んだ際に、吸い込まれそうな気が致しました。できれば、お願いしたいと思います」

 脇から、徳内が言葉を弾ませた。検分が始まってからの徳内は、測量などで博識な面を見せ、鉄五郎たちに舌を巻かせていた。

「儂が反対すると思われたか。皆と一緒にござるよ。心はさらに東へ。鉱山や交易も大事だが、異国に国を奪われては、元も子もござらぬ故」

 鉄五郎が、にんまりとした。鉄五郎は東蝦夷に来てから、明らかに考えが変わっている。

   26

「国後に渡られますか。それならば、長のツキノエを紹介しましょう。あれは、儂の母オッケニの兄ですから、何かと便宜を図ってくれるはずです」

「それは有難い。厚岸以上に、松前家が妨害に出てくる可能性がある故」

 何しろ、松前家の場所の最北端であった。蝦夷交易の最先端ともいえる。交易の量、アイヌやロシアとの関わりなど、江戸にいては探れぬ情報の宝庫であろう。

 イコトイのチセで、国後行の相談をしていた。子平たち一行とイコトイ夫婦、アイイムカ、ウチムタイという面子に変化はない。

「明日未明には、出立を致す故、慌ただしくも、ご挨拶に参った。短い間であったが、世話になった。恐らくは、今後も度々に立ち寄る次第となろうが、まずは礼を申す」

 鉄五郎が、イコトイに会釈し、笑みを向けた。短い間だが、鉄五郎とイコトイは長同士で話をする機会が多く、気心が知れている。、イコトイが黙って微笑み、鉄五郎の盃にトノト(酒)を注いだ。

「では、今宵は、しばしの別れを惜しみましょうぞ。アイイムカ、仕度を命じろ」

 イコトイの言で、アイイムカが外に出て、酒と料理の仕度を命じに行った。

 すぐに、大樽のトノトと鹿肉が山盛りに運ばれ、宴会となった。

 子平たちの出発を聞きつけたコタンの衆が、一人、また一人と加わっていく。酒豪の多いアイヌたちである。明け方まで終わるはずもない宴であった。

 薄暗い水面に、船を出した。見送りは、イコトイと他数人である。宴に出ていたアイヌの多くは、今頃は夢の中だろう。

 出立を知らせておいたので、番所の役人もいた。名残惜しげで、丁重な挨拶を投げてきたが、内心は邪魔者が出て行って、せいせいしておるやもしれぬ。

 訪れた頃とは違い、かなり海風が冷たくなっていた。離岸したばかりというに、帆が風でぴんと張っている。

 これから冬に掛けて、どんどん風は冷たく、強く変わっていく。その状況を見越して、決断から出立までを駆け足に急いだ。冬になると寒さも厳しいが、何よりも海が荒れて航海の危険が増す。

「子平先生。如何なされた。どうも、顔色が冴えぬようですが」

 傍らの徳内が、無言で岸を見詰めている子平を見上げていた。

「気を付けたつもりが、昨夜、少し飲み過ぎたようだ」

 腸が揺れるような感覚がしていた。その状態で海に出たため、喉から迫り上がるような息が続いている。

「少し、横になっていてください。要所要所では、お声を掛けます故」

「忝い。甘えさせて頂こう」

 自ら提案しておいて、何とも不甲斐無い船出となったが、今は体を休めることにした。国後に到着すれば、また歩き回る日々となる。

 休まずに船を走らせて国後まで船を進める予定であったが、子平の体調はどうも優れなかった。そのため、ノッカマップで二泊した。

 ノッカマップの長ションコは、イコトイや国後のツキノエとも懇意にしていた。三人ともが、互いのコタンの内情に通じており、コタン同士の交流も盛んだと聞く。

 東蝦夷のアイヌたちは横の繋がりを密にして、情報や物などを交換していた。

 思い描いていたアイヌは、コタンごとに独立性が強く、広い大地に、独立国が点在していた。が、少なくとも東蝦夷は、それぞれのコタンの独立を尊重し合いながら、アイヌの繁栄を共に模索している。

 子平は、やはりアイヌを一枚岩にして日本の民にする案が、蝦夷防衛にも好都合だと考えた。東蝦夷のどこか一つのコタンでも異国と結べば、碁石のように色が染まっていく。想定し、回避しなければならぬ状況であった。

   27

 ノッカマップの岬からは、北東に向かって、千切った餅を伸ばしたように千島の島々が遠望できた。

 船を北に進めるに連れて、向かい風が強くなってきた。恐らくは、風を遮る大地がなくなっているせいである。

「えらく大きゅうござるな。全くの予想外にござった。これだけでも、来た甲斐があり申した」

 国後島は、琉球と並ぶかもしれぬほど大きな島であった。視界に捉えたのは南の端の影ばかりだが、どこまで北に伸びているか予想がつかぬ。

 というのも、子平が、『三国通覧図説』に載せた蝦夷地図の国後は、かなり小さく描いた。文献や伝聞のみで描く限界であろう。

「百聞は一見に如かず。よい響きにござる。やはり、江戸城内だけで政は決められませぬ。それよりも先生、お体はもう大丈夫にござるか」

 徳内は、此の旅で子平に感化されていた。

「心配を掛けて、すまんかった。この通り、体はぴんぴんしてござる。明日からは早速、島内を歩き回りましょうぞ」

 二日も寝込んだおかげで、旅の疲れも落ちた。国後を目前に興奮しておる状況もあるが、もう大丈夫だろうと思う。

 子平たちが目指すのは、国後の南の端、運上屋が置かれている泊村であった。

 鰹節のような半島に沿って、泊港に船を進めていた。ぽつぽつと、沿岸で漁をするアイヌ舟が浮かんでいる。

 遠目でも、港の賑いが見渡せた。なるほど、北の交易町である。北前船も数隻は見えていた。

 飛騨屋の船や水主、使用人たちの姿も見える。此処の運上屋も、飛騨屋が請け負っていた。

 国後の港でも、厚岸の際と同じく、松前家の役人や飛騨屋商人に、アイヌへの接触を嫌がられた。が、構わずに、長のツキノエを訪ねた。

 国後のコタンは、厚岸の倍の規模はあった。当然、長のチセも豪奢な造りである。 

「厚岸から参られたか」

 ツキノエは、大きく鋭い目を、太い白眉の下から光らせた。かなりの老齢らしく、髪や髭に白い部分があったが、声の張りには艶がある。

 朱とくっきり浮かぶ黒をふんだんに使った蝦夷錦のせいで若く見える。が、イコトイの母の兄というからには、それなりの齢を重ねているはずだ。

「イコトイ殿から、ツキノエ殿に援助を請うように、と言われて参りました」

 対面と挨拶を終え、鉄五郎が口を開いた。鉄五郎の隊長役も、板に付いてきている。

   28

 がらんと人気の失せたチセで横になっていると、しきりに風の音が耳に沁みた。

 アイヌは、風から天候を読む。和人と違って耳がいいのか、風が招き寄せる雨や潮の流れをピタリと当てた。戦の際に軍師とすれば、これほど心強い味方はおるまい。

 鉄五郎たちは、島を北上して探索を開始していた。

 子平は床に臥せっている。いや、初日こそ皆と一緒に、意気揚々と歩を進めたが、その晩から寝込んでいた。

 ――全く、情けない。

 択捉島や国後の北部に行けば、ロシア人や船が見られる機会がある、とツキノエから聞いていた。あと一歩で、ロシア人と接触が叶ったやもしれぬというに……。

 臥せってからは、ずっと微熱が続いていた。食も随分と細くなり、胴回りが痩せてきている。

 無理をすれば体を動かせぬ訳ではなかったが、鉄五郎たちに気を遣わせ、かえって足手纏いになる結果が見えていた。故に養生に徹し、回復を待っている。

 国後には医師はおらず、子平は自分で診立てるしかなかった。思い当たる病はなく、長年の疲れが一気に出ている態である。

「子平先生、大丈夫か。シカを獲ってきた故、オハウ(煮込み汁)を作ってやる。たらふく食って、精を付けてくれ」

 オニアラキが、セム(納室)から顔を出した。探索を終わって、皆が帰って来たと見える。

「もう、日暮れが近いか。臥せっておると、時を忘れるわ」

 オニアラキの無邪気な笑顔が妙に腹立たしく、愚痴を吐いた。同時に、セムに大勢の足跡が響く。

「子平先生。お加減は如何にござろうか」

 鉄五郎が、此処数日の合言葉を投げ、炉の傍まで来た。皆が続き、荷を降ろし始めている。

「相変わらず、弱い熱が続いている程度です。熱さえ引けば、すぐにでも同道致すのじゃが」

 子平は、湧いた悔しさを紛らわせるため、天井を見詰めた。気力は充実しておるのに体が動かぬ状況ほど、歯痒いものはない。

 鉄五郎が何かを躊躇うように、周囲の皆の顔色を窺った。心なしか、皆の表情が硬い。

「子平先生。今日、北の択捉島で漁をして来たアイヌに会いました。彼奴等が申すには、択捉島にも、大きなアイヌのコタンがあるそうです」

 徳内が、割って入った。両の黒目に力が籠っている。

「是非とも、足を伸ばしてみたいものだ。して、何かロシアに関する情報は得られ申したか」

「それにござる。択捉島には、既にロシア人が住みついております。それだけではなく、先生が危惧されていたキリストの教えを、アイヌたちに広めて回っておる様子」

「なんと! それは、捨て置けぬ仕儀じゃ」

 徳内に向かって、声を投げた。己の頬が強張っている状況がわかる。

「儂らも、なるべく早くに、江戸の侍従様にお知らせせねば、と危惧を抱きました」 

 鉄五郎が徳内を後押しする。視線は、子平に向けられたままだ。

「むろんにござる。一刻も早く、御公儀で対処を図って頂く必要がござろう」

 子平も、もちろん異議はない。キリスト教の布教、交易の求め、軍事力での恫喝は、西洋の常套手段であった。

「侍従様への報告のお役目を、先生が引き受けては下さらぬでしょうか。皆で話し合い、お願いしようと決めました」

 言い切った鉄五郎が、一瞬だけ視線を下に向けた。なるほど、これが言い辛かったのであろう。

 別に、皆が子平を邪魔者扱いしている訳ではなかった。むしろ逆で、子平の体を気遣ってくれている心の内が、痛いほどわかった。

 此処にいても療養にはならぬし、雪で身動きが取れぬようになってから病が篤くなっては、命に係わる。

 日に日に窶れていく子平を見るに見かねて、江戸に戻そうと配慮してくれていた。お役目を口実にしたは、強情な子平の未練を、なんとか断ち切るためであろう。

「今、泊に入っておる飛騨屋の船か北前船が、松前に立ち寄るようです。それに乗り、松前に至れば、後は江戸に向かう船は、どうとでもなり申す。我らも冬が来る前には一旦、引き揚げます故、一足先に江戸に戻られ、侍従様にご意見を申し上げてください」

 俊蔵の目が、慈しんでくれていた。傍らのイトヘイヤも、心配げな様子である。

「……わかり申した。これ以上、皆に迷惑と、心配を掛ける訳にはいかぬ。今後の検分は、託し申そう」

 子平は薄く目を瞑った。先ほど聞いた択捉島の様子が、瞼に浮かぶ。

 コタンの広場で、大きなロシア人が十字架を片手に演説している。ロシア人を直に見た機会がないため、異人といえば、どうしてもオランダ人を思い浮かべた。

「子平先生。お元気になられたら、必ず戻って来てくだされ。一緒に、択捉島に渡りましょうぞ」

 徳内が少し声を震わせ、頬を歪めた。

 皆が帰って来た様子を察したか、手伝いの女子たちが、夕餉を運んできた。オニアラキが準備していた鍋の横で、魚を炙り始めている。

 魚から水気がじゅうと出始め、焦げた生臭いものが、鼻を擽るように舞っていた。同時に、オニアラキが煮ているシカ鍋が、ぐつぐつと音を立てている。

「ただ一つ、気掛かりを残しております」

「わかっており申す。途中で厚岸に寄って貰えるように、手筈を整えておきましょう。それ故、出発まで心おきなく、お休みくだされ」

 鉄五郎が目を細めて笑みを浮かべた。徳内や俊蔵、イトヘイヤたちも満面の笑みである。

 子平たちは、国後に着いたらアイイムカの妻子を始めとして、厚岸から連れ去られた女子たちを連れ帰ろうと考えていた。幕府検分隊の権威を持って、国後の番所や飛騨屋の手代とは、大方の話を済ませている。

 すぐに解放すれば事を公にはせず、罪に問わぬ、と伝えた。松前家や飛騨屋としても、公になれば、御家や身代が不味い状況となる。渡りに船とばかりに飛びついた。

「煮えたぞ。先生が、一番に口を付けてくれ」

 オニアラキが器にオハウを入れ、子平の枕元に置いた。

「上手いな。これは確かに、精が出そうじゃ」

 肩肘を立て、もう一方の手で器を口に含んだ。じわりと、喉から胃の腑に掛けて、血が通ったように温かかった。

   29

葉月の終わりに国後を発ち、五十日ほどの航海で江戸に辿り着いた。神無月の半ばになっていた。

 といっても、子平はほとんど寝ていたので、目が覚めると「どこまで進んだ」「此処はどこだ」と、水主たちに聞くだけの航海であった。そうこうしているうちに、見慣れた江戸湾に入っている。

 松前を発つ前と、江戸に戻って直ぐに、勘定方の松本秀持に文を書き、体調が戻り次第、仔細を直に報告する旨を伝えていた。意次にも、話は伝わっているだろう。

 戻って数日だが、一日の大半を養生に当て、残りの時間は蝦夷検分を筆に纏めていた。長屋は川柳の口利きで、浅草新堀端である。

 棒手振りの声が、辻から響いていた。豆腐屋だろうか。長屋の女房たちがこぞって障子戸を開けて、呼び止めている。

井戸の釣瓶を汲み上げる音も引っ切り無しであった。浅草の朝は、もう始まっている。

 風を入れようと窓を開けると、穏やかな陽光が目に入った。照らされた肌が、じんわりと温かい。

 国後では、葉月にもかかわらず、毛皮を敷いて横になっていた。また、厚岸や国後のチセで窓を開ける際には、吹き込む風に十分の注意が必要だった。風が強ければ、囲炉裏の灰を巻き上げ、荒れ狂う。

 ――江戸からすれば、真に、蝦夷など遠い異国だ。

 毎朝、決まって始まる喧噪を耳にし、何気ない江戸庶民の暮らしを垣間見ていると、江戸庶民が、蝦夷など全くの他人事と思っているのも、無理はなかった。

 子平ですら、東蝦夷の記憶が遠くなるような錯覚に陥る。

 しかし、白刃が身を裂いていくような風、遮るものない大地、水壁が襲い掛かってくるような波のうねりは、正しく北の現実であった。松前や飛騨屋のアイヌに対する横暴、キリスト教を布教している択捉のロシア人については、申すまでもない。

 恐らく今頃は、国後の空は雪が舞い、鉄五郎たちも撤退時期を模索しておろう。択捉まで足を伸ばせたか、はては、来年の春まで持ち越しか。

 江戸の、いや、日本の平和を保ち続けるためには、蝦夷とロシア人たちの問題は避けて通れない。早急に対処が必要な事柄であった。

 東蝦夷の風土や食が体調に応えていたのか、江戸に戻ってからの子平は、日に日に快復していた。熱も、ここ二日ほどは出ておらぬ。骨が皮膚に現われていた胴の周りにも、少しづつだが肉が付き始めている。

 食も、進む状況になっていた。川柳が頼んでくれた手伝いの女中が、たまたま仙台出身であったからか、飯の味付けも、よく口に合っている。

 また、お春や久米吉がしょっちゅう長屋に顔を出して、団子などを差し入れてくれていた。

「子平殿。御在宅か」

 うとうとしていると、障子戸の前で聞き覚えのある声がした。……まさか。

 がらりと開いた戸の間から、平助が、盛り上がった肩を揺らしていた。総髪と髭には、さすがに白い物が混じっている。

「平助先生。よくぞ、参られた。が、どうして……。儂こそ、ご挨拶にお伺いしなければならぬところを」

 平助にも時折は文を出していた。が、再び江戸に戻った状況は、知らせておらぬ。

「なに、先日、勘定方の松本十郎兵衛殿から聞いてな。体調を崩しておると聞いた故、診察がてら、蝦夷の話を聞こうと思ったまで」

 意次が蝦夷検分に乗り出す切っ掛けは、平助と子平の書物からだ。著者として当然、東蝦夷の様子を聞きたいのであろう。故に、多忙の中を、寸暇を惜しんで来た。

 平助は連れてきた弟子に外で待つように命ずると、上がり框にどっかと腰を据えた。

 子平は茶を淹れるために起き上がろうとしたが、平助に「横になっておれ」と促されている。

「やはり、松前はひた隠しておったか。よもや、そこまでの状況とは思わなんだ……」

 子平は首だけ平助に向けて、東蝦夷で見聞きした内容に、己の意見を加えながら話していた。 

 平助はぽつぽつと感想を述べる他は、思案気に目を瞬いている。表情から、驚いている様子が窺えた。無理もあるまい。

「択捉で布教が始まっておると聞いた際には、体に震えが走るほどにございました」

 危機が、目前に迫っている、と子平が実感した瞬間であった。

「子平殿、臥せっておる場合ではない。見たところ、顔色もかなり良い様子。薬方をいくつか置いていく故、早々に侍従様に面会されよ」

 全てを聞き終えた平助は言い置くと、外の弟子を連れ、長屋を去った。しばらくは診察も、手につかぬ状況になるだろう。

   30

 平助に急かされたのと、子平自身も焦っていた理由から、翌日には意次の屋敷に向かっていた。

 体の調子は良かったが、まだ脚には自信が持てなかったため、駕籠を呼んだ。駕籠舁きの威勢の良い声を前後に、神田橋御門は北の、意次の屋敷に急いだ。

 屋敷の門前では、心得た門番がすぐに奥に繋ぎを付けてくれ、春に訪れた奥座敷まで、なんなく通された。

 此度は川柳と一緒でなかったため、二十畳のがらんとした座敷に、ぽつねんと一人で佇んでいた。

「体は、もう良いのか。寝込んだままで戻って来た、と聞いたが」

 上座に着いた意次は、開口一番に子平を気遣った。藍色の着物に袴といった、軽い出立ちである。子平を気を置けない仲と感じてくれておるのか、小姓は一人のみ連れていた。

「江戸に戻ってから、随分と良くなり申した。一人だけ逃げ帰ってきたようで、情けない限りにございます」

「ならば、聞こうか。子平先生が体の不調を押しても、儂に報告したい事柄があったのでしょう」

 意次が目を細め、開いていた扇子を閉じた。刹那、眉間の縦皺が深くなる。報告を聞きながら、頭で吟味するつもりである。

「十郎兵衛殿から、お聞きになられたやもしれませぬが、ロシア人が択捉島でキリスト教を広めております」

 子平は、一番の気掛かりを最初に、語り始めた。そのほうが、聞く側の意次にも、重大事だと受け取られると思った。

「さすがに、驚いたわ。飢饉や火山の噴火などで、もはや、たいていの話では動じぬと思うておったが。次から次へと、国難は待ったなしで襲い掛かってくる」

 意次が、片頬を引き攣らせて苦笑した。干乾びたような皺の寄った両手を組み、脇息に凭れ掛かる。

「今更に申し上げるまでもありませぬが、西洋が他国を侵略する際の常套手段にござる。布教が一段落して、アイヌたちがロシア人に馴染んだところで、交易船がやって参りましょう。さらには、やがて山のような大砲を積んだ軍船が、択捉から蝦夷に南下して来まする」

「それも、間違いなかろうな。松前家や津軽家などには、海岸線の防備を固めるように申し伝えねばならぬ。既に、算段は付けておるところだ。して、金のほうは、どうじゃ? 十郎兵衛より、ある程度の報告は挙がってきておるが」

 意次は、すぐに話を変えた。松前家や津軽家が防備を固めたくらいで、どうにかなる問題ではない。

「金に限らず銀や鉄など、蝦夷の山々には、大いに開発する可能性を感じました。土地のアイヌに聞いて回り、実際に山に入って確認しましたところ、砂金などを見つけておりまする。御公儀が大規模に開発すれば、恐らくは良い結果を生むでしょう。これについては、後に鉄五郎殿からも詳しい報告があると思われます」

 違和感を持ちつつも、まずは問いに答えた。意次の一番の関心事である。

「ならば、引き続き検分が必要だな。今の検分隊には、春を待って、引き続き探索を続けるように指示を出す。アイヌとの交易の利は、どうだ。松前家は、やはり御公儀を謀っておるか」

 意次は、満足気に首を揺すった。

「松前家の請負商人の多くは、アイヌたちから二束三文で買い叩いた荷を、諸国で売り歩いております。利益の大きさは図り知れず、松前家に入る運上金も相当なものと思われます。また、松前家や請負商人たちのアイヌたちに対する不当な扱いは、見るに見かねました。アイヌの多くが和人に反感や恨みを持つ状況であり、放っておけばロシアとアイヌが手を組む状況にもなりかねませぬ」

 子平は、再び話を戻した。

「なるほど、子平先生の関心事はロシアでござったな。確かに、アイヌとロシアが手を組まれては厄介である。が、松前家の領内で行われておる商いについて、あまり御公儀からあれこれ申すのも、ちと躊躇う。何か大きな一揆でも起これば、別だが」

「松前家のアイヌに対する統治の不当を指摘し、蝦夷を御料にされるべきです。さすれば、鉱山開発や交易はむろんのこと、海防も御公儀の主導にて行えましょう。松前家や津軽家など一大名だけでは、海防は成りませぬ」

 子平は、毅然と意次に目を向けた。一番に伝えたかった意見であるし、アイヌたちとの約束でもある。

「……今日だけで、二度も驚かされた。フフフ、齢を重ねても、この世は刺激に満ちている。さすがは子平先生じゃ。いかに儂でも、蝦夷を御料に、とまでは、考えておらんかった。松前家から、どう利を吸い上げてやろうかと、思案しておった途中だ」

 意次が、目尻を緩め、怒られた童のように口を窄めた。

「では、前向きにご検討頂けまするか」

「面白い案だし、多分に興味もある。が、まずは検分の途中であるし、開発を最優先させたい。国と民を富まさねば、政の舵を執るのも難しいでな。今、儂が蝦夷を御料にする、などと申してみよ。また新たな敵が、わんさと増える」

「……しかし、ロシアは目前に迫っておりますぞ」

 子平は、何とか国防も進めたかったため、食い下がった。どうも、実際にアイヌの状況や蝦夷を見ていない意次には、危機感が薄い気もする。

「子平先生。意見は有難く頂戴した。が、今も申した通り、あくまで検分と開発が先だ」

 意次はもはや、取りつく島がなかった。労いの言葉を子平に投げると、さっさと腰を上げて退室し出した。以前の意次なら余裕を見せていたが、政の舵取りで追い詰められておるやもしれぬ。

 小姓が駆けて来て「侍従様からです」と、意次からの褒美を手渡してきた。気遣いは、有難く受け取った。

 意次の窮地は理解していたが、やはり国の大事は、個人の危機より先んじて考えるべきではないだろうか。いや、たとえ意次がそう具申したところで、幕閣の間で四面楚歌ならば、致し方ない。

 国を統べる幕閣が、国難を省みず権力争いに興じている状況に、子平は腹の奥が熱くなった。怒りが、沸々と燻っている。



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