第四章 江戸参府と定信との別れ
1
安永三年(一七七四年)になった。
子平が長崎に来てから、かれこれ六年が経っている計算になる。子平自身、六年も長崎で過ごすとは、正直には思っていなかった。
が、此処での暮らしで、学ぶことの深さを、つくづく認識している。
若き頃から伊達家では俊英と謳われた子平であったが、全国から続々と成秀館に集まってくる者たちのすば抜けた才能には、舌を巻いた。己が考え違いをする前に、上には上がいる、と知り得た経験は大きい。
故に、日々の精進を怠ることはなかった。才能を補えるものは唯一、努力しかない。
また、多くの者たちが主として学ぶ医術や天文学、地理学とは別に、軍事を学んでいる状況が救いとなった。
早々とオランダ語の才を見限ったおかげで、翻訳力が重要になる医術などでは、上を目指せぬ、と認識できた。何とはなしに関心を抱いた軍事が、いつの間にやら、心の支えになっている。
もちろん、世界情勢と軍事については、情熱を持ち続けていた。
まず子平が調べて驚愕した状況は、あれほど強大だと考えていたオランダが、西洋ではイギリスやフランスなどに押されて、弱体化していた。いや、オランダはかつて、スペインの領土にされていた時期があった事実にも絶句した。
かつては日本とよく交易をしていたポルトガルやスペインに至っては、とうに没落している。
間違いなく言える事実は、イギリスやフランスは、オランダより強大な軍事力を持っている。
とすれば、オランダが敗れた国に、日本が勝てる道理がなかった。
イギリスやフランス船が侵略の意図を持って日本に現われた場合、幕府や大名は対処できるのであろうか。約百年も前の旧式の装備で立ち向かう状況となる。
西洋では、日本が島国で平和を謳歌していたこの百年ほどの間、ずっと戦争を繰り返していた。まるで、日本の戦国時代のように。
詳しい書籍は手に入らなかったが、大砲などの兵器についても、各段に進歩していると聞く。カルバリン砲やカノン砲も、改良を重ねられている。
戦争が長く続けば、自然と兵器の改良、新兵器の開発が行われた。簡単である。勝つために、死なぬためには、やらざるを得ない。
鉄砲も、日本に伝わってから僅かの間に、改良が重ねられた。
「子平殿。ちと邪魔してよいか。耕牛先生から言伝がある」
幸吉が、障子を開けた。此の男も、未だ学び足りぬらしく、なかなか国に帰ろうとはしない。
長崎も、雪がチラつくような寒さであった。差し込んでくる風が、瞬時に部屋を冷やす。
暮れ六つを過ぎ、辺りは薄暗い。部屋には行灯が一つ、点っていた。風のせいで炎が消えそうなほど小さくなり、再び元に戻っている。
「先生が、どうした? 夕餉の際に言葉を交わしたが、何も申されなんだが」
「儂とお主に、江戸参府の供をせよ、と仰せであった。久方ぶりに、江戸を見られるのだぞ」
幸吉が、声を弾ませた。細い目が、笑みを浮かべたせいで、線のようになっている。
春の終わり頃に発つ江戸行きの準備で、出島や付き添う通詞たち関係者は慌しく準備に追われていた。
川柳や平助、お春、久米吉たちの顔が浮かんだ。意次は今や老中になり、五万七千石の大名になっている。
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慌ただしくも、正月六日には長崎を出発した。
カピタンの一行は五十九人と定められていたが、子平や幸吉のように、その他で加わる者も多い。そのため、一行の宿を確保するのに毎度、長崎奉行所の役人たちは難儀していた。
江戸の長崎屋を始めとして、下関の伊藤・佐甲家、京の海老屋が定宿であり、『阿蘭陀宿』と、庶民に親しまれていた。此度も利用する。
護衛の後にカピタンの豪奢な乗物が続き、大通詞、正・副の検使役、医師、書記などの乗物が順々に進んでいた。
乗物と乗物の間には、夥しい量の旅の荷物や江戸への献上物が、大八車に積まれていた。
行程は例年通り、片道がそれぞれ約三か月、江戸滞在が二十日程度と聞いていた。
子平と幸吉は、荷車の切れた直ぐ後尾に従っていた。
「カピタンは、偉く憂鬱そうだったな」
第百三十代になる出島商館長のアレント・ウィレム・フェイトは、出発の際は不機嫌そうだった。何度か耕牛に付き添い面識を得ていたが、いつもは陽気なオランダ人である。
「当たり前ではないか。儂らは、江戸に行けるなどと喜べもするが、カピタンたちオランダ人は道中は自由に出歩けぬ。その上、儀礼や慣例に雁字搦めに縛られ、楽しかろうはずがあるまい」
幸吉が、憐れむような視線を、前方のオランダ人たちに向けた。
一行の宿には、幕府の厳しい護衛が付く。オランダ人たちは宿に軟禁状態となり、外部の人間との接触は、堅く禁じられていた。
「確かに、気の毒な状況だ。普段は出島に軟禁され、旅では宿から出してもらえず」
西洋諸国の多くは陸続きで、異国人と交わる状況が、日常茶飯事だと聞いていた。
島国とは申せ、日本だけが異国との交流を極度に制限している状況は、取り残される恐れがある。軍事面では、既に相当に日本は遅れていた。
此度の江戸で、意次に目通りできる機会があれば、話をしてみようと思っていた。
幕府は、カピタンと将軍との謁見や、老中など幕閣への挨拶回りを、順序や形式をも含めて、事細かく定めていた。殿中でのしきたりなど、オランダ人には鬱陶しいだけであろう。
「子平殿。カピタンたちが不機嫌なのは、それだけではないぞ」
幸吉が、子平の思索を断ち切った。
「他にも理由があるのか。わかった。見世物になる状況が、気に入らぬのだな」
カピタンの一行は、道中は元より、宿にいる時も、見物客に囲まれた。毎年、判で捺したように同じで慣れるとは申せ、陽気なオランダ人と雖も、気が滅入る時もあるに違いない。
「そうではない。大きな声では申せぬが、公方様との謁見が、憂鬱なのじゃ」
真面目な幸吉が、耳元で囁いてきた。
「どういう意味だ。謁見など、一瞬で終わるはずだぞ」
将軍との謁見は、あくまで儀礼的なものであった。形ばかりの挨拶を述べるだけと聞いている。
「お主は、真に儀礼に関心が薄いな。医師で出世するにも、侍との付き合いは避けられぬぞ。公方様に謁見した後、『蘭人御覧』と申して、公方様や御台所様、大奥の側室方の前に引き摺りだされ、いろいろと質問を受け、さらには、踊ったり、跳ねたりなどの芸までさせられる」
幸吉は医術を極め、あわよくば御典医を、国に引っ込めば大名のお抱え医師を狙っていた。
「それは、真か。医師や学者に、芸をさせておるようなもんじゃぞ」
カピタンはもちろんだが、商館長次席のヘトルやオランダ人医師たちは、皆が教養の高い人物ばかりであった。そもそも、役者でも何でもない。
――せっかく教養の高いカピタンたちを謁見する機会なのだから、他にもっと意見を聞き、学ぶべき話があるだろうに。
3
小倉から兵庫港に入り、川を上って京に着いた。京から江戸までは一路、東海道をひたすら進んだ。
弥生に入っていた。如月の末には江戸に入る予定であったため、一行は急ぎ足になっている。桑名で大雨が続き、七里の渡しで足止めを食った状況が、大きな原因であった。
長崎を出た頃の眺めは枯木ばかりであったが、今や街道は桜の季節であった。繁みの緑も、日に日に強さを増している。
南品川宿の辺りで、急に人が増えてきた。さすがに、江戸は人口が違う。
二年前の明和の大火では、目黒から麻布、京橋、日本橋、神田付近までが焼け野原になった。火事の影響が色濃く残っているとは聞いていたが、ここら辺りは災難を免れたのだろう。旅人相手の商いが、活況を呈している。
桜見物のついでにカピタン一行も見物しようとしてか、通りの脇で固まる見物人たちの中には、艶やかな着物の女子が多く混じっていた。
「幸吉殿。先ほど、耕牛先生に良い知らせがあった」
耕牛の江戸参府を見計らって、文が届いていた。
「実は、儂も気になっておった。待っていても儂らは江戸に向かうのに、わざわざ江戸から文を届けてきた理由がな」
「平助先生からだったらしい。何でも、杉田玄白先生と前野良沢先生が、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を終えられ、今年中にも出版される。その序文を、急ぎ、耕牛先生に書いて貰いたい、との依頼だ」
江戸の蘭学者である杉田玄白と前野良沢が、オランダの医学書である『ターヘル・アナトミア』の翻訳を志してから、三年が掛かった。
二人は、子平が長崎に来てから、工藤屋敷に出入りするようになっていた。参府のために江戸に向かう耕牛から、尊敬すべき医師である、と存在を聞かされていた。
工藤屋敷を縁にすれば、いわば同門であった。
『ターヘル・アナトミア』は、ドイツ人医師クルムスの記した解剖学書の、オランダ語訳書である。子平も出島で目にする機会はあったが、とても翻訳しようなどとは思わなかった。が、日本中に進んだ蘭学を広めるためには、かなり意義がある。
「子平殿。儂らは、まだまだ足らぬな。長崎の出島という恵まれた環境におりながら、江戸の蘭方医に、かなり先を行かれておる」
「同感だ。我らはそこそこに学問や医術をこなす。が、物事を成し遂げる執念のようなものが、足りておらぬ」
幸吉が黙り込んだ。思うところがあるのだろう。
子平も無言になり、一行に沸いている民衆たちを眺めた。
4
江戸の中心街に深く入るに連れて、明和の火事が原因か、空地や、家を建てる大工の姿が目に付いた。
江戸は火事が多いが、復旧もまた早い。不本意ではあろうが、庶民は度重なる火事に慣れていた。
カピタン一行が到着すると、本石町三丁目の長崎屋の周囲には既に人だかりができていた。一行はゆっくりと門前に着け、位の高い順に、宿内に入っていく。
乗物からオランダ人が降り立つ度に、歓声が沸いた。一方で、降り立った者が通詞などの日本人だと、露骨に残念がる童の声が響く。
オランダ人たちは皆が陽気に手を振っていた。が、確かに、毎年が同じ状況だと考えると、憂鬱になるのも理解できた。
カピタンたちオランダ人は、長崎屋の二階を宛がわれた。オランダ人たち全員を二階にやってしまうと、警固や監視がし易い。
カピタン、ヘトルなどは、さすがに個室であった。が、小さな窓が一つ付いているのみの、暗い部屋である。これも、幕府が警戒して、長崎屋に命じてわざと窓を小さく造らせていた。
一行全員が長崎屋に入ると、周囲の家の塀や屋根によじ登って、見物に精を出す者もいた。
子平たちに外出の許可が下りたのは、翌々日であった。といっても、厳重に持ち物は検査を受ける。オランダ人たちから文を預かるなどしていないか、入念に調べられた。
「ようやく、解放されたわ。子平殿は、耕牛先生と工藤屋敷に行かれるか」
検査を終えて長崎屋の裏門から出た幸吉が、民衆の視線を受け、居心地が悪そうに肩を竦めた。
「いや、平助先生のところには、後日、改めて行くつもりだ。儂は、浅草の川柳先生に会いに行く。お主は江戸見物か」
まずは、江戸で一番に世話になった川柳やお春、久米吉と再会したかった。学問や医術から離れて、友と他愛ない話がしたい。
「儂は、江戸を練り歩く。むろん、工藤平助先生には、これを機にお近づきになりたいとは思っているが」
幸吉は、江戸が初めてだった。人の多さ、商いの大きさに、目を瞠っている。江戸に来たら、訪れてみたい場所があるのだろう。
「ならば後日、儂と同道しよう。耕牛先生と一緒には、行けぬかもしれぬが」
耕牛は、カピタンンたちが将軍と謁見する際や、老中などへの挨拶回りに、付き添わなければならなかった。れっきとしたお役目がある。
もちろん、弟子たちも手伝いはするが、交替で外出くらいは、できるはずであった。
変わらぬ両国広小路の賑いを眺めながら、浅草に向かった。大川沿いに並ぶ桜が川面にまで姿を映し、絶景となっている。
水に浮かんだ多くの屋形船や屋根船からも、桜を愛でている者がいた。
のどかな、晩春の朝であった。
龍宝寺門前町に近づくと、童たちが駆けていた。どうやら、追い掛けっこをしている様子である。
ふと、童の背に目を向けた。四つか、五つくらいであろうか。ちょこちょこと、小さい草鞋で跳ねていた。
仙台を出る際の結太郎が、ちょうどそのくらいであった。今ならば、大分に背丈も伸びておるだろう。
童たちは、追い付かれぬように、必死になって息を切らせていた。
子平も嫁を娶っていれば、あれくらいの子が二人や三人は、いても不思議ではなかった。侍を捨て、妻子も娶らず、己の人生は、どこへ向かっているのだろうか。
普段は耕牛の下での修行で精一杯であったが、ふと、考える機会がある。
暖かく、花の香りを含んだ風が、通り過ぎた。
子平は気を取り直し、川柳の庵を目指した。
5
「おお、子平先生! よくぞ、戻られた」
訪いを告げると、直ぐに川柳が顔を出した。若干ではあるが、髪に白い物が増えた気がする。
「真に、ご無沙汰をしておりました。此度は、カピタンの江戸参府に付き添う仕儀となりまして、お訪ねした次第」
生き別れた息子に再会したかのように、両手を強く握られた。往来の人たちが、何事かと、窺う素振りを見せている。
少し照れ臭い気がした。照れる素振りも見せず、素の感情を表現できる川柳が、なぜか眩しかった。久方ぶりに会っても、川柳の大きさを感じている。
「ささっ、遠慮なく上がられよ。お玉も、もうじき戻って来ます。いや、お春と久米吉に、使いをやらねば……」
川柳は心底から喜んでくれているようで、取り乱したように声を弾ませた。普段は世を客観的に見る前句付けの第一人者とは、思えぬ慌てぶりである。
川柳が淹れてくれた茶で、喉を湿らせた。
庵の中は以前と同じで、点々と季節の花の一輪挿しが差してあった。書物や句が書かれた紙、短冊が積まれている状況も同様である。
「皆様が、お変わりなさそうで安心を致しました。明和の大火の際は、長崎で案じておりました故」
川柳やお春たちと、何度か文の遣り取りはしていた。が、ここ最近は無沙汰になっていた。
「変わりなく、皆は元気にしておりますぞ。……いや。そういえば、お春が子を授かりましたわ!」
川柳の口の端が歪み、満面の笑みを浮かべた。
「本当でござるか! 真にめでたい!」
口には出さぬが、お春は子を欲していた。が、もはやできぬ、と諦めていたような節があった。いつも明るく振る舞う心の内で、お春は、自分を責めていたのやもしれぬ。
「子平殿。今から、お春の店に参りましょうぞ! 幸せそうな、お春とややが見られますぞ」
「それしかありますまい! 久方ぶりに、美味い団子を頂きましょう」
子平は一刻も早く、お春に祝を述べたいと思った。
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「先生、子平先生じゃないですか! また会えて、本当に良かった。久米吉さんと、いつも先生の話をしてたんですよ」
お春の白い頬の間から、鉄漿が顔を出した。
「お春。無沙汰であった。それにしても、表通りにこんなに立派な店を構えておるとはな。商いが上手くいって、何よりだ」
六年前は、亭主と二人で屋台を担いでいた。
幅は二間もなく、通りの片隅にぶら下がっているような店だが、表通りには間違いない。大した出世であった。
店内には細長い縁台が置かれ、手伝いの女子が、客に茶を出していた。亭主は団子を焼きながら、子平と川柳に頭を下げた。
「ささっ、子平先生。積もる話はあるけど、まずは団子を食べておくれ。ちょっと、お忍ちゃん。此処はあたしがやるから、久米吉さんとこに使いに行っておくれ」
お春がてきぱきと指示をして、皿に団子を盛ってきた。
「相変わらず、醤油の焼けた匂いが良いな。鼻の奥まで、たれが沁みてくる気がするぞ。お春の店の団子を食って、初めて江戸に戻って来られた気がする」
「嬉しいことを言ってくれるね、子平先生は。お二人とも、熱いうちに、食べてくださいな」
お春は、店前の通りに出された縁台に、子平と川柳を促した。
腰を下ろした子平たちは、団子を口に入れた。
「美味いなあ、相変わらず……」
思わず、しみじみと呟いた。餅とたれが、じわと口内に広がっていく。なるほど、繁盛し続けている状況も理解できる。
「お春。子平先生は、お主のやや子を見に来たのじゃ」
腰を落ち着けた川柳が、お春に目を向けた。
「ようやく、授かったようだな。良かったな、お春」
「有難うございます。奥に寝かせていますので、抱いてきますね」
少し照れたようなお春の横顔は、心底から幸せそうであった。
浅草寺の花見客が、次々と団子を買いに来ていた。亭主だけでは、とても捌ききれそうもない。
「松吉って名付けました。抱いてやってください。あっ、すいません。先生方、しばらく松吉をお願いします」
列を作り始めた客を見て、お春は応対に入った。すっかり、団子屋の女将が板に付いている。
「……真に可愛いらしいですな。目元はご亭主、鼻から下は、お春にそっくりじゃ」
松吉は、子平の肘から先にすっぽりと収まるくらいに小さかった。御包の中で、気持ちよさそうに目を閉じて、眠っている。
「儂も、真の孫のような気がしており申す」
川柳が目を細め、指で松吉の頬を撫でた。
本当ならば、川柳夫婦にも松吉くらいの孫がいてもおかしくはなかった。川柳も、どこか心の奥では、子を生せなんだ悔いがあるのだろうか。
周囲から見て、川柳夫婦は申し分のないほど仲が良かった。が、長く連れ添った夫婦である。それなりに葛藤はあったのだろう。
「子平先生!」
遠くから、掛けてくる二人組があった。先ほど使いに出されたお忍と、久米吉である。
7
客足が落ち着いたところで、子平、川柳、お春、久米吉の四人は、奥の間に移った。お忍だけは帰ったが、亭主が気を効かせ、店の切り盛りは一人で大丈夫、と申し出てくれている。
隅に蒲団を敷き、松吉を寝かしていた。松吉は一旦は目を覚ましたが、お春が乳をやると、吸いながら、再び眠りについた。
「お春は、すっかり母であり、女将であるな」
お春は松吉が乳を飲む間、ずっと頭や頬を撫でていた。愛しげに松吉の寝顔を見ているお春の様子に、母親が子に向ける愛情の大きさを、垣間見た気がする。
子平は母親を早くに亡くしていたが、精一杯に愛情を注がれた記憶はあった。
「何とか、幸せにやっております。そうだ! 久米吉さんにも、縁談があったのよね」
お春が久米吉を見るに続けて、一斉に皆の視線が従った。
久米吉は照れたように鼻を膨らまし、苦笑いしていた。金柑のような頬が、紅潮している。
「へえ。長屋の大家さんから、後家を世話する、と言われておりまして。儂もこの歳でのご縁ですから、受けようかと……」
「ほっほっ、久米吉も満更ではないのですよ、子平先生」
川柳が、嬉しそうに口を挟んだ。人の吉事を、我が事のように喜んでいる。
「皆が幸せそうで、安心した。川柳先生。相変わらず、句会も盛んにされておりますか」
「それは、変わりなく。ただ……」
川柳の表情が、一転して曇った。
「あっしらも、先般の句会に出ましたが、お忍びで来られていた上総介様が、えらく沈んでおられたのです。川柳先生は、それをご心配なされており申す」
久米吉が、言葉に詰まった川柳の後を、引き継いだ。
上総介とは、徳川定信が元服後に得ている現在の官位であった。
「上総介様に、何かありましたか」
川柳に目を向けた。
店内には客はおらぬが、店先で団子を買っていく客足は、途絶えていなかった。亭主が、焼き上がった団子にたれを塗り、客に手渡している。
正しく江戸の町人街の光景であった。長崎だと、一番の繁華街であっても、往来が途絶える時刻はあるし、夕暮れ時からは、だんだんと人気を減らしていく。
「上総介様は近々、陸奥松平家へ養子に出されるそうです。上総介様が申されるには、どうやら、ご老中様の陰謀だとかで、かなり憤っておいででした。儂らは、どちらにも面識があるので、何とも心苦しい限りにござるが」
川柳が、眉間に皺を寄せた。どちらにも好意を抱いているため、複雑な面持ちである。
「何と、陸奥にござるか。行く行くは将軍世子か、とまで言われた御方が」
定信は七男だが、兄たちが病弱であった。それ故に、何かあった時には田安徳川家の後継者と目されている。
また、あまりの聡明ぶりから、将軍世子に、との声も、幕閣から多く上がっていた。
8
子平は、定信が気掛かりであった。川柳とは、子平が次に外出できる機会を得た際に、訪ねてみようと約束していた。
が、カピタンが将軍と謁見する日が迫り、長崎屋の警固が、より一層に厳しくなっていた。耕牛からも、将軍の謁見が終わるまでは外出を控えるようにと、申し渡されている。
オランダ人たちでも謁見は緊張するのか、ここしばらくは口数が少なくなり、神経を尖らせているような気がした。もっとも、ずっと長崎屋に閉じ込められているせいかもしれぬが。
朝から小雨が降ったかと思えば、突然に雨脚が強くなったりしていた。幸いにも、桜はほぼ散っている。雨が花見の時季を避けてくれただけでも、天には感謝をせねばならぬ。
それにしても、オランダ人たちには悪いが、一歩も外に出られずに雨空だけを眺めていると、気が滅入る。
居間の腰高障子を少し開け、流れる灰色の空を追っていた。
「物憂そうな顔をしとるな」
幸吉が入ってきた。先日来から、外出の際には日本橋、両国など江戸の名所を回り、宿にいる際には、珍しい来客に目を光らせている。
幸吉は、己のためになる人物が来ると聞けば、なるべく面識を得るように努めていた。江戸の蘭学者である、玄白や良沢が『ターヘル・アナトミア』の翻訳を成し遂げた事実に、触発されている。
「今日も、誰か来るのか」
カピタン一行が江戸に到着して以来、蘭学者や医師たちが、ひっきりなしに長崎屋を訪れていた。西洋の様子や進んだ医術の情報を、少しでも得ようとしている。
大名や旗本たちも訪ねてきたが、真面目に西洋の様子を知ろうとする者もいれば、ただ単に物珍しいから、やって来る者もいた。
いずれにせよ、カピタンたちには休む暇もなかった。
むろん、誰でも自由に出入りできる訳ではなく、面会者は事前に幕府に届け出て、許可を得ている。
「平賀源内先生が、午後に訪ねて来るらしい。先ほど、耕牛先生から聞いた。謁見までは、あまり来客者の予定は入れぬようにしていたらしいが、源内先生は別じゃ。耕牛先生や玄白先生らとも、長年の付き合いだそうだからな」
平賀源内は、過去に長崎に遊学に来た際に、耕牛と昵懇の間柄となっていた。玄白や良沢とも親しく、恐らくは、平助とも交流があるだろう。蘭学者の世界は、真に狭い。
源内の名は、日の本中に聞こえ、『天才』の名を欲しいままにしていた。本草学や医術、蘭学で高名かと思えば、油絵や浄瑠璃も一流の腕前である。
『本日土用丑の日』の宣伝では、江戸中の鰻が飛ぶように売れて、姿を消した。
何をやらしても極める源内の能力は、なるほど多才といえた。
子平と幸吉は、何かを成そうと志して長崎くんだりまで行って、未だに一つの道も極めてはいなかった。源内が羨ましくも、妬ましくもある。
「是非とも儂も、同席させて貰いたい。源内先生に会える機会は、めったにあるまい」
「日の本各地を、転々としてご活躍されておるようだからな。元々は、儂と同じく四国のご出身だそうだ。確か、讃岐だったと思う。では、儂と一緒に参ろう」
幸吉は、同郷意識が強かった。四国出身で活躍している人物の話を聞くと、嬉しい半面、 複雑な心境にもなる。表情に、憂いを含んでいた。
「お主の一存で決めても、良いのか。儂も直に、耕牛先生にお願いをしてみるが」
「耕牛先生が、お主も一緒に、と仰られた。源内先生は平助先生や、何でもご老中様との繋がりもあるらしい。お主が、ご老中様と面識があると言うておった話を、覚えておられたのではないか」
9
耕牛の居間の腰高障子を開けると、寛いだ様子の耕牛が、歯を剥き出して笑い声を上げていた。
「子平殿と幸吉殿か。遠慮せずに、中に入られよ。こちらが、高名な源内殿じゃ」
子平は思い出していた。今の耕牛は、平助と語らう時のようである。それほど、源内との仲も、親しいという事実を示していた。
八畳ほどの部屋の中央で耕牛と源内が向かい合い、茶を啜っていた。子平たちは、障子を閉めた入口付近に並んで、腰を下ろしている。
此処にも大きな窓はなかった。人が通れるか、通れぬくらいの窓の障子紙を通して、薄明かりが畳を照らしている。
生憎の天候で空が暗く、見物人に中を覗かれる恐れがある状況から、室内が薄暗くても、窓は少ししか開けらぬ。行灯を点けるには、まだ早いので、しょうがなかった。
子平と幸吉は気にせず、それぞれ源内に挨拶をした。
「おお、耕牛先生の秘蔵の弟子たちだな。とすれば、儂は、兄弟子ということになりますな」
源内は、鮮やかな藍色の着物で身を包んでいた。耕牛が上品な仕立ての、土色の単衣を着ているので、対照的に見える。
源内は細面で、色白であった。着物から出ている首筋は、妙に艶めかしい。男色と聞いているためか、歌舞伎役者のように見えぬこともない。
が、一点、惜しむらくは、惚けたような眼差しが、川魚を思い出させた。
「まさか。源内殿が儂の弟子などと、誰も考えておらぬ。長崎に来られた時から、儂はずっと友だ、と思っております故。仮に弟子としたならば、師を遥かに超えた、いや、師が教えておらぬ才まで、見事に発揮しておられる」
耕牛が謙遜し、源内を誉めそやした。耕牛が人前で、しかも本人の前で、これほど絶賛する状況は珍しい。
「いいえ、儂は端から、先生の弟子だと思っており申す。先生に長崎で出会わなければ、今頃は人生が違ったものになっておりましょう」
「源内殿は、儂に会わずとも、いつかは才を発揮されたでしょう。何しろ、多才ですからな」
「源内先生のご活躍は、かねがね聞き及んでおります」
幸吉が、丁寧に言葉を挟んだ。才人に会えて、興奮している様子である。
一層と薄暗くなったかと思うと、また、雨が強くなり出した。地面や壁を、パチパチと叩く音が鳴っている。
しばらく談笑した後、源内が、子平に目を向けてきた。
「子平殿。少し前だが、ご老中様の屋敷に招かれた折に、貴殿の話が出た。何でも、貴殿も、以前に屋敷に招かれ、ご老中様にお会いになられたとか」
「は、いや……。儂は招かれた訳ではのうて」
子平は、あの時、川柳の身が心配で押し掛けただけであった。
「理由も、聞いておる。川柳殿を救いに参られたとか。ご老中様は、貴殿たちに会いたがっておられた。儂も、高名な川柳先生には一度、お会いしてみたい」
意次は、子平を覚えていてくれた。
正直、時の老中に名を覚えられていた状況は嬉しかった。が、先日に川柳から聞いた、定信の養子の件が浮かんだ。真に、意次の陰謀が働いての仕儀なのだろうか。
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カピタンの将軍との謁見と、その後、老中たち重職の挨拶回りである『廻勤』が終わった。
此度も、一瞬の謁見の後、一刻にも及ぶ蘭人御覧があったと聞いている。口には出さぬが、カピタンたちは疲れを見せていた。
カピタンたちは、オランダ国を代表して、将軍と謁見している。将軍や老中の機嫌を損ねては、本国に顔向けができんのだろう。故に、自分たちが見世物にされても、黙って耐えていた。
オランダ人たちは陽気なばかりではなく、日本で生活するために、かなりの気を使っておるのだ。此度の江戸参府に付き添って、つくづくと感じた。
いずれにせよ、これから暇乞いの謁見までは、公の行事がなく、皆が職務から解放される。
故に今朝、子平たちに外出が許された。
「真に、工藤屋敷には行かぬのか」
裏門の土間で、先に出ようとした幸吉が振り返った。
「平助先生には、くれぐれも宜しく伝えてくれ。文も、忘れずにな」
幸吉と一緒に、工藤屋敷に行く予定であったが、まずは川柳と定信を訪ねるほうを優先した。此度の外出を逃せば、次は、いつになるかわからぬ。
「……わかった。お主は、よほど上総介様が心配なのじゃな。聡明な御方だと聞き及んでおる故、儂は大丈夫だと思うが。御血筋と能力から考えれば、将来はまず有望である状況には、間違いない」
「確かに、お主の言は、もっともだ。恐らくは、問題はないと思う。が、幼き頃より総明過ぎる故、一度の挫折に、死ぬほどの苦しみを味わう可能性もある。上総介様が養子に入られるまでに会える機会は、今しかない。とにかく、田安家の屋敷を訪ねてみる」
浅草まで川柳を迎えに出た。復路は御徒町を南に下り、飯田町から田安御門に至っている。
江戸城の外堀に湛えられた水面が、金色の糸を這わしていた。夏の陽が、惜しみなく水面に注いでいる。
当然の如く、門番に誰何を受けた。
「柄井川柳と申します。前句付けの点者で、いつも上総介様には御贔屓にしていただいておりまする。今日は、恐れ多くも、上総介様より直々のお招きに与りまして、お訪ね致しました次第」
突然に名主と浪人医師が訪ねて、御三卿の七男に面会できる訳がなかった。故に、道中で策を練り、川柳が定信から招かれた状況を考えた。
取次から話を聞けば、定信ならば、きっと察してくれると考えた。
子平たちの期待は裏切られなかった。取次に走った門番が戻ってくると、直ぐに中へ通されている。
門を潜ると、道中から目前に聳えていた江戸城本丸や西ノ丸の姿が、視界一杯に広がった。
が、子平たちが向かうのは、直ぐ傍の田安徳川家の屋敷である。江戸城とは比べものにはならぬが、それでも広大な屋敷であった。
将軍世子とまで言われた定信は、此処からどんな気持ちで、江戸城を眺めておっただろうか。ふと、頭を過った。
川柳も、まじまじと江戸城を眺めていた。何かを感じておる様子である。
11
田安家の門を潜り、式台から玄関に通された。御三卿の屋敷らしく、式台は磨き上げられており、檜の香りが漂っている。
奥の様子を窺うと、人が激しく出入りしている様子だ。
十万石の大名であった。昼餉の仕度をする女中や料理人だけでも、かなりの数に上るだろう。加えて、屋敷内の事務を取り扱う家臣たちがいる。
「此方へ。儂に従いてきてくだされ」
玄関でしばらく待つと、奥から侍が出てきた。見覚えがある。前句付けの句会の際に、定信に従っていた供連れであった。が、侍は、子平に見向きもしない。
川柳が、親しみの込めた挨拶をした。やはり、何度か面識があるようだ。とすれば、定信に会える状況に間違いはなかった。
記録、配膳、書院の間を横目で通り過ぎ、中庭に出た。
庭の真ん中には井戸があり、少し離れて池が広がっている。松ノ木と砂利が添えられ、赤と錦の鯉が、水中で蠢いていた。
中庭を迂回して廊下を行くと、喧噪が遠ざかっていった。小さな中庭を挟んだだけで、別世界のように落ち着いた雰囲気が漂っている。
此処から先は恐らく、主や一族の方々が暮らす場所なのであろう。
御客の間に通された。一面に畳が敷かれ、上座がぽつんと備えられている。
上座の背後に山水画が一つと、壁にも花鳥画が掛けてある他は、がらんと寒々しかった。子平たち二人だけでは、広すぎる。いや、このような無駄な広さも、大名屋敷のうちか。
子平と川柳が下座で待っていると、やがて、肩衣姿の定信が姿を現した。
「お二方とも、よくぞ参られた」
定信は、いつぞやの句会の際のように、くだけた調子であった。
子平と川柳は突然の訪問を謝し、恐縮した。身分の差から申せば、叱られても文句は言えぬ。
定信は齢十六になっていた。もはや、童の面影は少しもない。頬と鼻が鋭い線を描き、濃い眉は、しっかりと存在を主張している。
落ち着きある微笑には、自然と気品が漂っていた。立派に、大名の風格を備えている。
「子平先生は長崎に行かれた、と聞いていたが。いつ、戻られた」
定信が川柳から子平に、視線を移した。川柳から、子平の長崎行きを聞かされていたのだろう。
「いいえ、此度のカピタンの江戸参府に付き従うて来ており申す。故に、カピタンの帰国時には、一緒に長崎に戻る所存」
「それは、忙しい時に済まぬな。儂を案じてくだされたのであろう」
子平たちからは言い出し辛いと思ったか、定信から話を振ってきた。
「江戸に来て直ぐに、川柳先生から上総介様の御養子の件を聞きました。出過ぎた真似とは思えども、御養子に入られる前に、お会いしておこうと考えましてござる」
「お二人のお気持ちは、有難く頂戴しよう。儂も正直、養子の件が決まってから、しばらくは鬱いでおったのじゃ」
定信の視線に、翳りが見えた。口元が、引き締まっている。
「お鬱ぎになられることはありませぬ。上総介様なら、何処におられましても、才を発揮されるでしょうし、御出世は間違いないでしょう」
「確かに、まだまだお若い。これから先、いくらでもご活躍の場がございましょうな」
川柳が、穏やかに言葉を添えた。
「……儂も、同じ心意気じゃ。白河から、這い上がってみせる。儂をこのような目に遭わせた侍従とて、小姓上がりじゃ。儂が、這い上がれぬ道理があるまい」
定信は、意気込みを見せた。生気の漲った若者の表情に戻っている。
ちなみに、意次はこの頃、従四位下侍従に昇っていた。
12
和やかな雰囲気となり、子平はほっと、胸を撫で下ろし掛けた時であった。
「しかし、儂は侍従を絶対に許さぬ! 必ず、彼奴を叩き落としてくれる。そのためならば、刺し違える覚悟だ」
定信の目に激しい憎悪が宿り、語気が鋭くなった。舌を噛み切らんばかりの歯軋りが、寒々しい居間に響いた。
「上総介様。お控えくだされ」
堪らず、定信の供連れの一人が、宥めた。
定信が唇を噛んで黙り込み、静寂が訪れた。先ほどとは様子が異なり、落ち着きなく視線を彷徨わせている。
「憚りながら、申し上げます。己の信念をしっかりと持ち、貫いて行かれれば、自ずと道は開かれましょう。以前にお約束した旨、儂は忘れてはおりませぬぞ」
川柳が、孫を諭すように声を掛けた。定信の自尊心を傷つけぬように、配慮している。
「儂もです。長崎にいても、時折は思い出しており申した。あの時に約束したおかげで、己の不遇を嘆く機会もなく、ただひたすら精進ができています」
道に迷いそうな時に、川柳や平助、定信、意次たちとの交流を思い出した。
人との関わりによって傷つけられる機会も多いが、人に救われる機会も、また多かった。傷つけ、傷つけられるを繰り返していく生き物が、人である。
「……フフフフ、フハハ。申し訳ござらぬ、見苦しい様を見せてしもうて。お聞き及びかわからぬが、この口が、此度の養子も招いたようなもの」
定信は、飛ぶ鳥を落す勢いの意次の政を、諸所で批判していた。が、どうやら、話を聞いた者たちが、こぞって意次に注進に及んだようだ。
皆が、意次に上手く取り入ろうとしての仕儀であった。自己の保身と出世のためなら、人を売る輩も多くいる。
若い定信は、理想と信念を至上のものとしていた。故に、保身や出世のためなら、己の信念などは平気で捨てる者たちを、見抜けぬに違いない。
意次の陰謀と喧伝されてもいた。が、周囲が意次の権勢を憚って定信を養子に出す方向に進めたという説、または、意次の側近たちの画策である、と噂されていた。
「昼間じゃが、興直しに少し飲みましょうぞ。仕度をせい」
定信が息を吐き、小姓に命じた。定信の目は、血走ったように赤くなっている。
また、言葉とは裏腹に、表情からは憎悪が消えていなかった。意次への恨みは、消えておらぬに違いない。
結局、酒の力で興は戻らなかった。それぞれが静かに、盃を重ねただけである。
13
子平が予想した通り、三度目の外出許可が出ぬ間に、幕府からカピタンに帰路出立の許可が下された。
カピタンは今日、暇乞いの謁見に伺候し、明日の朝には長崎屋を発つ予定であった。それ故に、子平たちも出立準備に追われている。
弥生も末であった。江戸に到着した際には、朝晩は袷が手放せなかったが、そろそろ不要になっている。連日、穏やかな陽気が続いていた。いつの間にやら、長崎屋の庭の木々も、新緑に覆われている。
カピタンの動きをどこで耳にするのかわからぬが、謁見のための乗物が門に横付けされる頃には、民衆の人だかりができていた。耕牛が、うんざりした様子で人々を眺め、乗物に乗り込んでいった。
昼餉の後、長崎屋の店子が、子平の部屋に来た。
「林子平様は、こちらの部屋でございましょうか」
奉公に上がり立てなのか、童顔で、ぎこちない物言いであった。おどおどした様子だが、己の役割を一生懸命に果たそうという気概のようなものは、感じられる。
「いかにも。何用じゃ」
「裏門に、柄井川柳先生がお見えです。本日は面会を控えるようにとのお達しでしたが、主の源右衛門が特別に、と申しまして。主は、川柳先生の前句付けを、大層に好んでおります。ですが、御役人の目もありますので、手短にお願いします」
「わかった。すぐに、参る。後で儂からも礼を申すが、源右衛門殿には、くれぐれも良しなにと、お伝えくだされ」
明日の出立の準備のため、今日は面会は控えるようにと、カピタンから通達されていた。が、川柳の人気が役立ったようである。
川柳の前句付けは、庶民から大名、大商人に至るまで幅広く支持されていた。
裏門に歩を進めた。通りすがりの部屋でも、帰り支度をしている姿が垣間見えた。
子平の姿が見えると、土間の端で佇んでいた川柳が、笑みを浮かべた。
「川柳先生。よくお出で下された。実は明日、江戸を発ちます」
「わかっております。明日発たれると耳に挟みました故、こうして訪ねて参った次第。また、いつ会えるかわかりませぬ故。お春や久米吉は店がありますが、儂は自由が利きます」
川柳は、目尻の皺を深めた。
川柳の幅広い交流を持ってすれば、カピタンの出立日を知る手段など、造作もないようである。
普段は口の堅い役人や商人なども、川柳には心を許して口を開いた。全ては、川柳の人柄が成せる技であった。
「庭で、ようござるか。居間にお通しするには、憚りがあり申す」
カピタンからのお達しを、一介の付添いに過ぎぬ子平が、破る訳にはいかなかった。川柳には失礼とは思ったが、庭で立ち話をするしかあるまい。
「もちろん。儂も主に、無理を申しました故」
陽光の下に出ると、目が眩むほどの明るさであった。瞼の裏にまで、光が染み込んで赤く見える。堪らずに、木陰に移動した。
カピタンたちが出払ったため、民衆たちも姿を消し、散っていた。今は、静かなものである。
「子平先生。道中をご無事で。また、必ず江戸に来てくだされ。儂が生きておるうちに」
川柳が呟いた。湛えた笑みの奥が、寂しげに見える。
川柳は五十半ばを過ぎていた。白い物が増えた気はしていたが、齢を気にするようになっているのか。
「もちろんにございます。そのようなことを仰いますな。川柳先生は、まだまだお若い。お春や久米吉、それに上総介様にも、宜しくお伝えくだされ。また必ず、皆様にお会い致します」
定信は養子に入っても、なるべくは江戸で暮らすつもりだと言った。野心がある。将来に向けて這い上がるためには、江戸に腰を据える必要があるのだろう。
定信の意次に対する憎悪は激しいものがあったが、時が経ち、定信が歳を重ねれば、憎しみは何も生まぬ事実を理解するだろう、と川柳と話していた。今は憎悪が勝っても、立派な大名になる、と信じている。
翌朝は、辰の刻の鐘を背に聞きながら、ゆっくりと江戸を離れた。
道中のオランダ人たちは役目を終え、表情が和んでいた。手を振る江戸や街道の民衆にも、快く応えている。
帰路の三か月は、のんびりと旅ができそうであった。
14
文月の六日に、出島に到着した。これから幾日かは、江戸参府の後始末で忙しくなる。
それだけではない。既に水無月の終わりにオランダ船が入港を終えており、一年の内で、出島は最も忙しい時期を迎えていた。
耕牛の屋敷に戻ると、入港したオランダ船の書物の通訳作業が始まっていた。耕牛が留守にしていた分、高弟たちが指揮を執り、寝ずに作業を行っている。
「此の分では、儂らも旅の疲れを落すどころではなさそうじゃ」
幸吉が嘆き、天を仰ぐ素振りを見せた。が、表情は、さほど困った様子ではない。根っからの、働き者だ。
耕牛の内儀や高弟たちへの挨拶を済ませた後、荷物を部屋に運んでいた。
どこから従いてきたか、室内を蚊が飛び回っていた。子平も幸吉も、視界に入った蚊をぱちんぱちんと、手の平で追い掛けている。が、なかなかに退治できなかった。
荷を置き、廊下に出た。弟子たちからの挨拶を受けている耕牛に、指示を仰ぐためだ。耕牛が休めと言えば休み、働けと言えば、他の弟子と同様、寝ずに働く。
廊下を行くと、庭の木々で鳴く蝉の声が、喧しかった。
ふと塀の外に目をやると、侍の姿が目に入った。 子平は、どうも違和感を抱いている。
――妙に、侍の姿が多い。まるで、耕牛の屋敷の周囲を窺っているような……。
「幸吉。何か変ではないか。戻ってから、妙に屋敷の周囲に人気が多い。それも皆が、侍のようじゃ」
耕牛の屋敷は、普段から人の出入りが激しかった。が、屋敷を訪う訳でもなく、侍たちは、周囲を見張っている様子だ。
「儂は、さほどに気にならぬ。が、事実だとすれば、これから向かう耕牛先生にお尋ねするが、一番の早道である」
幸吉が、塀の向こうに視線を向けた。
15
「二人とも、疲れておろう。今宵はゆっくりと、休むが良い。儂も、そのつもりじゃ。が、明日の朝からは、他の弟子たちと同様に手伝って貰わねばならぬ。ゆるりとさせてやりたいが、時期が悪かったのう。既に、船が入っておる」
二人とも異存はなかった。弟子に申し渡して、自分だけがのんびりと過ごせる耕牛ではない。間違いなく耕牛も、明日から弟子以上に働くはずだ。多くの弟子たちが、耕牛の背を見て、なお一層の精進に励んでいた。
陽は暮れかけ、だんだんと人の顔が見づらくなっていた。女中の一人が頭を下げて入ってきて、居間の行灯を点した。
ちょうど同じ頃、屋敷の周囲にも、点々と提灯が浮かんでいた。先ほどの、侍たちであろうか。
「ところで耕牛先生。先ほどから、屋敷の周囲にちらほらと、侍らしき姿を見かけるのですが、何かございましたか」
一息吐いて茶を啜っている耕牛の横顔が、行灯に照らされた。元々かなり肌の黒い耕牛は、道中の日焼けで真っ黒になっている。褐色の手の甲が、湯飲みを盆に置いた。
「……子平殿は、さすがに軍事を学んでおるだけあって、目敏いな。儂にも、つい先ほど知らせがあったところだが」
耕牛が一瞬、逡巡した。辺りを窺っている。
「あまり、不安を煽るといかんのでな。それとなく皆の耳には入れるが、他言無用にして貰いたい。儂らが江戸参府で留守の間に、唐人屋敷で、一騒動あったらしい」
「唐人屋敷での騒動と此の屋敷が、どう繋がりますので」
幸吉が、どうも理解できぬ、という風に首を傾げた。
「まずは、聞け。以前から、唐人屋敷の役人たちが、唐人に対して酷い扱いをする事件があった。出島の役人たちは、オランダ人たちを客人として扱っているがな。どうも、日本人には、オランダ人に比べて、唐人たちを軽く見る傾向がある」
扱いの差の元は、オランダ人たちの齎す技術や文化は、日本人を驚かせ、畏怖させている状況があった。オランダ人たちは、蘭学は申すまでもなく、学びの対象である。
対する清国にも学ぶ点はもちろんあったが、どちらかといえば、純粋な交易に重点が置かれていた。
「唐人が、反乱でも起こしましたか!」
知らぬ間に、長崎では大事が起こっていたか、と考えた。
「いや、それほどの大事ならば、江戸に注進があったはずだ。事実は、役人に逆らった唐人を、役人たちが寄ってたかって痛めつけた。それに怒った唐人たちが群れをなして、役人たちに詰め寄り、あわや一触即発の事態になる状況にまでなったらしい」
「ますます、此の屋敷との関わりが、わからなくなってきました」
「役人たちが申すには、唐人たちは、自分たちの扱いが悪いのは、オランダ人たちが唐人についての悪い噂を、日本に吹き込んだからだ、と考えるに至っているそうだ。故に、過激な者たちが、唐人屋敷を抜け出ぬように、厳重に注意している」
耕牛が、子平と幸吉を見渡した。二人の疑問を、改めて確認したかのようだ。
「さて、なぜ此の屋敷に侍が護衛についておるか、わかったか」
「もしかすると、オランダ人たちが噂を吹き込む手伝いを、通詞が担ったとでも」
子平の声は、上擦った。まさかとは考えたが、唐人たちは、通詞がオランダ人とぐると看做し、敵意を抱いているのか。
「まさか、全くのお門違いであろう」
幸吉が鼻を鳴らし、有り得ぬ、という表情になった。
「が、そのまさか、なのだ。儂の屋敷だけではなく、通詞の家には、しばらく護衛が付く」
耕牛が、低く吐き捨てた。
屋敷の周囲の灯りは、やがて動かなくなった。護衛が、定位置に就いたのだろう。
16
出島と唐人屋敷が、静かに睨み合うような緊張状態が続いた。が、無事にオランダ船は日本を去り、出島の時はゆったりと流れるようになった。
出島の時の流れが遅くなれば、長崎の町全体がのんびりとしたようになる。次第に緊張状態も忘れられるようになり、屋敷の護衛たちも、いつしか、いなくなった。
そうこうしている内に安永四年(一七七五年)の年も明け、再びカピタンの江戸参府の準備が始まっていた。
此度は、子平も幸吉も留守を預かる。耕牛はもちろん、此度も大通詞として江戸に赴く。
如月の初めにカピタン一行が出立する時機を見計らったように、唐人屋敷の動きが不穏になった。何度か、役人と唐人たちの騒動が起こり掛けている。
弥生に入り、長崎奉行配下の役人が増員されて、唐人屋敷の周囲や出島、通詞の屋敷などに護衛を振り分けていた。
「カピタンの江戸参府を狙ったような、騒動の起こり方だな」
居間で書見をしながら、通りを歩く提灯を眺めていた。屋敷の周囲の定位置には、いつぞやのように護衛が立っている。
「たまたまであろう。考えすぎではないか。暖かくなると、人間は血が滾るもの」
幸吉が、書に落としていた視線を上げた。
「そうであれば、儂も良いとは思うが、どうも焦臭い。誰か、騒動を煽っている者がおるのではないか」
子平は、唐人屋敷の中に、指揮をしている者がいる状況を想定していた。昨年もカピタンの江戸参府の時期に、騒動が起こっている。
「考えすぎであろう。唐人が騒動を煽っても、何の得にもなるまい。むしろ、交易がやり難くなるだけだ」
幸吉の言には、一理あった。唐人たちは交易を済ませて国に戻れば、大きな利益を手中にできる。とすれば、自ら交易を困難にする状況を作りだすとは思えなかった。
「確かにな。が、儂はどうも、すっきりとせぬ。一度、外の役人にでも聞いてみようかの」
見回りの役人と持ち場は、ほぼ決まっていた。同じ人間が同じ場所にいれば、自然と顔見知りにもなる。
遠くで、犬の鳴き声が響いた。夜が更けているせいか、鳴き声がやけに耳を騒がせる。
「聞くのは勝手だが、儂らには何もできぬ。そもそも、火の粉は役人が撒いておるし、騒動を取り締まるのも、役人だ。余計な厄介事に、要らぬ首を突っ込もうとするな。儂らは、日々の精進に励んでおりさえすればいい」
幸吉は、再び書に視線を落とした。
「まあ、好きにするさ」
子平も書見を再開した。が、頭の中からは、唐人屋敷が消えなかった。
17
翌朝は出島に出かける用事があったので、出掛けに、表門の傍で立っていた役人に、唐人屋敷の状況を訪ねた。
屋敷の庭や通りの根際に植えられた梅が、白い花弁を咲かせていた。潮風が吹けば、陽光が花弁の色合いを、さまざまに変えている。
梅は直に、実を落とす。普段は洋酒を好むオランダ人たちも、梅酒で持て成すと、大層に好評であった。
「拙者は、ただ此の屋敷の護衛を仰せつかっているのみにござる。唐人の内部の状況までは、知らされてはおりませぬ。しかし、上役が申しますには、昨年来より、どうも唐人たちの動きが不穏の様子で、これまでとは違うとのこと」
役人は、緒方重助と名乗った。春の陽気の中、ぽつんと通りに立ちっ放しである。
「お役目、真にご苦労にござる。此れからも、良しなに」
子平は労いの言を投げて、出島への坂を下った。
出島に入ると、カピタンたちが出払った後のため、行き交う人の数は、極端に少なかった。留守を預かる者たちの姿が、ちらほらと見えるだけである。
出島の周囲も警戒は厳しくなっている様子だが、如何せん守るべき対象がいなかった。護衛するほうも、身が入らぬだろう。
所用を済ませ、乙名部屋を訪ねた。彦蔵ならば、何か情報を持っているのではないか、と睨んでいる。
「子平先生がわざわざ訪ねていらっしゃるとは、また何か、好奇心でも湧きましたか」
彦蔵が、人懐こく頬を持ち上げた。彦蔵が笑みを浮かべて両目を細めると、黒目の部分が大きくなったように見える。
「儂が顔を出すと、難題を持ち掛けられるような言い草であるな。……なれど、好奇心と言えなくもない」
出島で彦蔵と顔を会わせる機会はあるが、改めて乙名部屋を訪ねる状況は、まずなかった。故に、特別な用事だと思われている。
「それで、どのような好奇心でございましょう。今や出島は、蛻の殻でございますが」
彦蔵が、人気のない広場を見渡した。遮るものが建物しかないので、真っ青な海原までが視界に入る。
「唐人屋敷の件だ。儂には、カピタンの江戸参府に合わせて、不穏になっているように思える。お主が、何か知っておらぬかと思うてな」
「耕牛先生の御屋敷にも、既に護衛が付いておりましょう」
彦蔵は、窺うような視線を向けてきた。
「むろんだ。昨年もそうであったが」
「別に、今に始まった騒動ではございませぬ。これまで何年も、いや何十年来、唐人とオランダ人たちは仲が良くない。が、昨年来からの騒ぎは、なかなかに収まりませぬな。一旦は消えかけたかと思えば、また風が吹いて燃え出す炭のように」
「出島で育ったお主も、そう思うか。何かまた、事が起こりそうな気がしている。原因は、噂の通りなのか」
耕牛から聞いた、オランダ人たちが、唐人について悪い噂を流している件だ。
「それも、ずっと以前からなのですよ。耕牛先生は、話を簡潔にされたようですな。出島にずっといればわかるのですが、オランダ人は、日本との貿易の利を独占したいと思っています。それ故、ポルトガルやスペインなども、御公儀に悪い印象を与えて、締め出したとか。今では、唯一の競争相手が清国です。日本に、唐人について悪印象を与えようという、明確な意図はありましょう」
「御公儀は、オランダ人たちに何も申さぬのか。長崎奉行は何をしておるのだ」
「オランダ人たちは、巧妙に物事を運びます。尻尾を掴まれるような手は、まず使いますまい。また、長崎奉行の配下の役人たちには、たんまりと袖の下を渡しておりましょう。中には、唐人たちを酷く扱うようにと、頼まれておる輩もいるやもしれませぬ」
「オランダが、陰で唐人たちの騒動を煽っている、と申すか」
子平は、唸った。いつもは人の良いように見えていたオランダ人たちが、国策とはいえ、そのような姑息な手段を採るだろうか。
「儂から見れば、唐人たちが騒動を起こして貿易を制限されれば、得をするのは誰か、という観点で考えます」
なるほど、彦蔵は長年、出島で乙名を務めてきた町人であった。子平などより、きっちりと利害関係で算盤を弾いて物事を考える。
「オランダがそこまで巧妙ならば、唐人の中にも、指導者どころか、騒動を煽っておる者があるやもしれぬな」
子平も、彦蔵と同じ観点で考えるように努めた。貿易の利を独占するためならば、唐人を金で寝返らせる方法を取る状況も、十分に有り得る。
「それも、以前から幾人かはいる、と看做されており申した。此度は、そ奴ら裏切り者たちも、有能なのでしょう」
彦蔵が、平然と言い放った。
子平は、あまりに冷静な彦蔵に、違和感を持った。
「彦蔵。お主はなぜ、そのように冷静なのだ。まさか、一枚、噛んでおるのではなかろうな」
オランダが貿易を独占すれば、出島は潤い、当然に乙名なども潤う。商人が、目の前に転がった利を、みすみす見逃すわけはない。
「それは、断じてございませぬ。何か事が起こり、乙名が手を貸していたとなると、儂へのお咎めはもちろん、子孫たちにも影響します。それに、長崎の町で騒動が起これば、民衆も無事では済まぬ場合もありましょう」
彦蔵が、不快に頬を歪めた。さすがに、子平の言は失礼であった。
「……疑って、悪かった。すまぬ。が、正直に申さば、お主らが関わっておらず、少し安堵した」
彦蔵たち乙名が加担していたなら、子平は溝を感じていただろう。いや、許せなかったかもしれない。
「ですが、何かを掴んでも、乙名はもちろん、出島の者がオランダを裏切ることはありませぬ。我らは出島のおかげで、こうして潤っておりますでな。黙して様子を窺い、きっちりと利は頂く。それが、出島商人でござる」
彦蔵の視線が、強い光を帯びた。出島商人としての生き様に、恥じる所はないのであろう。
海上の風は強いのか、和船の行き交う様が、早く感じた。これから夏、秋に向けては、航海には良い季節である。
今年も、水無月か文月には、オランダ船の入港が予定されていた。
18
再び唐人屋敷の周辺には、静かな緊張状態が漂った。が、護衛が増えると、唐人たちも沈黙している。
事が有耶無耶のままに、平常に戻ろうとしていた。
水無月に入った。月末から来月に掛けて、オランダ船の入港を控えている。
船の入港があれば一斉に人と物が動き出すが、今は皆が、オランダ船の姿を心待ちにしている時期であった。
オランダ船が頃合を見計らって訪れるくらいなので、航海には絶好の季節である。耕牛の屋敷からは連日、沖や湾内を往来する船の姿が見られた。
「船が入ると、寝る間がなくなるほど忙しくなる。今の内に、気を抜いておくことだ」
真面目な幸吉が、珍しく遊女を買いに行った。
長崎の梅雨は明けたようで、連日の晴天が続いていた。灰色の空は見ていて鬱陶しいが、朝から晩まで猛烈な陽射しに降り注がれると、さすがに人も動物も、はては庭の植物さえも、げんなりしている。
颯爽と訪れた真夏が、追い討ちを懸けるように、蝉の鳴き声と蚊の大群を齎した。例年通りの夏の風物詩ともいえなくはなかったが、それでも夜毎、寝床の周囲を飛び回る蚊には悩まされている。
その日の夜、子平はいつものように書見をしながら、時折、居間に紛れ込んでくる蚊を、ぺちんと、叩いていた。
亥の刻を過ぎ、行灯の油が勿体ないので、そろそろ床に着こうかと考えていた矢先であった。
「唐人屋敷で、反乱が起こったらしいぞ!」
弟子の一人が大声を上げると、バタバタと幾人かが廊下や庭に出ていく音が聞こえた。
子平もすぐさま縁側から庭に降りた。中島川の向こう、十善寺郷(後世の長崎市館内町)に目を向けた。
「煙が、上がっておる! 火の手だ」
子平より先に、他の弟子が叫んだ。それほど大きくはないが、唐人屋敷の空は明るく照らされ、ところどころに火が見える。
「真に火事か。無数の松明にも、見えなくもないが」
子平は、誰に聞かせるでもなく呟いた。無数の炎が、闇に揺れている。
しばらく、じっと目を凝らしていた。
その間に、長崎奉行所より使者が訪れた。
使者は、唐人屋敷で反乱が起こった状況を正式に説明し、奉行所が早急に鎮圧するため、騒ぎ立てずに静観しているように、と通達して来ている。事が大きくなると、長崎奉行が腹を切らねばならぬ事態も、予想される。穏便に済ませたいのであろう。
にわかに、眼下の江戸町(後世の長崎市江戸町)にある奉行所は活気づき、唐人屋敷に向かって提灯の群れが進んでいく。
「唐人たちは、屋敷に立て籠もっておるらしい。故に、通詞は狙われておらぬ。此処には、まず害はなかろう。安心せよ。使者も、すぐに鎮圧できる、と申しておった故」
高弟の一人が、屋敷の皆に説明に来た。緊張の面持ちであった弟子たちが安堵の声を洩らし、表情を緩めた。
耕牛の屋敷でも用心のため、庭と周囲に篝火を用意した。事が収まるまでは、弟子が交代で、役人たちと一緒に見張りに立つ。
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「いかぬ! 犠牲が大きくなる」
続々と唐人屋敷に向かう奉行所の手勢を見て、子平は呻いた。
「どうした、子平殿。何か、気になる状況でもあるのか」
この頃になると、遊郭から幸吉も戻り、庭に出ていた。危急時に遊んでいて罰が悪いのか、ずっと成り行きを見守っている。
「この反乱は、オランダ船の入港に合わせた、計画的なものだ。とすれば、屋敷に籠った唐人たちには、ある程度までは持ちこたえる算段があるか、逃げる手立てを確保しているか、だ。無闇に正面から突っ込んでは、犠牲が出かねん。まして、低地から坂を上がって高所を攻めるなど、愚の骨頂じゃ」
奉行所の役人たちは恐らく、唐人たちを舐めて掛かっているだろう。それ故に、無策のまま鎮圧に向かっていた。
「考え過ぎではないか。たかが、唐人屋敷だぞ」
「いや、唐人屋敷は、今や城と同じだ。高台にあり、空堀、水堀に加えて竹柵まで備えている。外との人の出入りを見張るには便利な物だが、反対に守る側となれば、防御に役立つ。唐人たち約千五百人が立て籠もる城を攻めるつもりで、用心して懸からねばならぬ」
「儂らは、ただの蘭方医に過ぎぬ。お主が軍学を好んでおる状況は、よくわかっておる。が、たとえお主の言い分が正しいとしても、如何ともしようがないし、一介の蘭方医が口を挟んでも、役人たちは聞き入れまい」
幸吉が、首を振った。幸吉は常識人だ。学問の、学者の限界を、よく弁えている。
「それでも、申さねばならぬ! でなければ、余計な命を失う状況になる。我ら蘭方医は、人の命を救うのも、仕事であろう」
言い終わらぬうちに、子平は駆け出していた。屋敷の門を飛び出て、奉行所の手勢、提灯の光を目指していく。
「お、おいっ。子平殿、待て! 無茶だぞ」
幸吉の声が、背に刺さった。咄嗟に、追いかけて来たようだ。
「何処に行かれる」
様子がおかしい状況に気づいた護衛の役人も、声を投げて来た。
子平は、振り返った。自分の姿は既に闇の中であったので、篝火が目に飛び込んでくる。
「幸吉殿。説明しておいてくれ。儂は大事ない」
吐き捨てて、再び坂を駆け下った。
奉行所を脇に見ながら走り、中島川に架かる橋を渡った。
奉行所で子平が面会を求めても、まさか奉行が取り合ってくれるはずがない。それならば、直接の戦闘現場に向かおうと思った。
子平が出島の側を抜けた頃、銃声が、夜空に鳴り響いた。奉行所の手勢が、仕掛け始めたのだ。
銃声は、さらに続いた。が、数は少ないが、応戦らしき発砲の音も、ちらほらと聞こえている。
――信じられぬが、唐人たちも鉄砲を持っている。
やはり、計画的な反乱だと思った。それならば、簡単にはいかぬ。
20
長崎奉行配下の手勢が、唐人屋敷と、堀を隔てた通りで向かい合っていた。役人たちは竹盾で壁を作り、銃弾を防いでいる状況が見える。
攻め込めておらぬようだ。やはり、空堀・水堀が城と同様の役割を果たし、近づけぬのだろう。水堀の表面は真っ暗で、役人の持つ提灯の灯りが時折、水面を映す。
奉行所の手勢の数は、ざっと見渡したところ、二、三百くらいであろう。とてもではないが、唐人屋敷の周囲を囲める数ではなかった。せいぜいが、主要な橋や門の出入りを押さえるくらいしかできぬ。
攻城の定石である、立て籠もった兵を圧する大軍で囲むなど、考えもつかない。しかも、手勢のうち前線で火縄を撃っているのは、五十にも満たなかった。
子平が坂下で聞いたほど、激しい銃撃戦ではなかった。
夜更けのために、音が激しく響いて耳を突いてくる。硝煙の匂いは、海からの風に流されて、微かに鼻を擽っている。
それでも、長崎の民衆は固唾を呑み、自分たちに被害が及ばぬかどうかを、見守っている状況には違いなかった。故に、早期の決着が望まれるし、できなければ幕府に知らせが入り、責を負わされる人間がでる。
「そこの者、危ない故、近寄るな」
具足姿の侍が、声を投げてきた。戦闘域に民が入らぬための見張りである。
「これは、申し訳ございませぬ。儂は、大通詞である吉雄耕牛の弟子で、林子平と申します。つかぬことをお伺いしますが、奉行所の手勢の指揮は、どなたが執られておりますか」
「耕牛先生の……。指揮は支配組頭の中里様じゃが、なぜそのような話をする」
組頭の中里修理とは一度、耕牛の供連れをしている時に挨拶を交わした覚えがあった。ほんのすれ違いであったため、それ以上の印象は残っておらぬ。
「ちと、中里様に申し上げたき儀がござる。もう一つ、なぜ前線で鉄砲を撃っている方が、あんなにも少のうござるか」
残りの手勢は待機しているのか、傍観していた。
奉行所には相当な数の鉄砲が置かれているはずであるが、所持すらしていない。唐人たちを、舐め切っているとしか思えぬ。
「唐人の反乱規模は、小さなものだ。すぐに、収まる。それに、今あれにて撃っておる者たちは、鉄砲方じゃ。鉄砲方以外は訓練を積んでおらぬ故、火縄の扱いに慣れておらぬ」
「斬り込みのために、時機を待っておられますな。しかし、このままでは近寄れませぬぞ」
遠方での射撃を繰り返していては、事は収まらぬ。つまり、早期の解決が困難になる。かといって、強引に斬り込めば、恰好の的にされて撃たれよう。
「支配組頭様は、どの辺りにおられますか」
「そこの通りを南に一町も下らぬ場所に、本陣を構えておられるが……」
侍は怪訝そうに呟いたが、耕牛の名を出しているので、子平を邪険には扱わなかった。意外と素直に、本陣の場所を教えてくれた。
「忝い。では、急ぎまする」
走れば侍たちに余計な警戒を抱かせると考えたので、できる限り無防備を装って歩いた。役人に誰何を受けるが、耕牛の弟子だと答えると、皆が通してくれる。
通詞役は、長崎奉行配下である。役人の中には、耕牛に従って奉行所や出島などにいる子平を、見かけた者もおるやもしれなかった。それ故に、警戒されることなく、本陣に進めている。
歩きながら、先ほどの侍の言について考えた。心に残った違和感は、鉄砲を使えぬ侍の多さであった。むしろ、驚愕に値する。
戦闘集団であるはずの侍の中の、僅かしか使い方を知らぬ。海を渡ってきた唐人の商人たちですら、目前で鉄砲を使っているというのに、だ。
戦国時代は、侍はもちろん、足軽百姓までが、火縄を担いで戦に赴いたと聞く。
幕府が開かれて二百年近くを経ると、侍ですら鉄砲を扱えぬようになっていた。先ほどは斬り込みなどと、侍を持ち上げてはみたものの、剣術に長けた者も、それほど多くない。
侍は今や、最も得意としていた戦闘で、無用の長物と化しているのか。
以前、オランダ船で大砲を見た時、日本の軍船が、オランダの商船に負ける状況を想定した。
今は戦闘集団である侍が、唐人の商人たちの反乱に振り回されている。なんとなくだが、子平の心にはあの時と同じような、不安感が漂っていた。
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「懸かれ!」
突然、背後で喚声が上がり、抜刀した侍が門や堀に殺到し始めた。
早期に事を収束させたい奉行所としては、睨み合っている訳にはいかぬのだろう。
「無理押しは、いかん」
振り返った子平は、短く叫んだ。呆然と、立ち尽くした。
が、塀に取り付いた役人に向けて、唐人たちが発砲し、石を投げた。雲間から覗いた月光が、塀を上ろうと試みていた役人たちを、無情に見つけ出している。
バラバラと塀から役人たちが落ちていた。その姿を見ながら、子平は本陣へ急いだ。
本陣に到着した。といっても、手勢程度なので、床几があり、身分ある者たちが集まっているだけである。
子平は、見張りの者に、修理への面会を求めた。
遠目だが、修理と思しき姿は見えている。篝火を脇に挟んだ中央に、大将らしき陣羽織を着た男が、確かにいた。周囲の態度から、ある程度は察せられる。
「耕牛先生の弟子とか申したな。火急の用件とは何か。今の状況がわかっておるな。手短に申せ」
修理は、先ほどの突撃が失敗した旨の報告を受けたようだ。焦ったように手の指を動かし、細い目が、睨み据えるように向かってくる。唇が薄く、歯で下唇を覆い隠すように噛んでいた。
「お時間をお取り頂き、まずはお礼申し上げまする。が、先ほどの突撃は、無謀にござった。徒に、犠牲を出したご様子」
「お主は、儂をからかいに参ったか! 此の状況では、許さぬぞ」
修理の眉間に縦皺が寄り、細い目が怒りで濁った。
「滅相もございませぬ。『先ほどの』は無謀と申し上げたまでで、これから申し上げる儂の策ならば、決して無謀ではござらぬし、早期に決着がつきます」
子平は真直ぐ、修理の目を見詰め返した。
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「蘭方医ごときが、戦に口を挟むか!」
修理が叱責する声が、辺りに響いた。列席の役人たちは、固唾を呑んで様子を窺っている。
「確かに、一介の蘭方医に過ぎませぬ。が、以前は侍でしたし、耕牛先生の弟子になってからは、特に軍学を学んでおります。憚りはあり申したが、今の状況が続いては、お奉行所の方々も責を負わねばならぬ状況になりかねませぬ。故に、差し出がましいとは思えども、まかり越しました」
真正面から話をして、取り合っては貰えぬ。そのため、『責を負う』との文言を強調した。役人である。保身には敏感だと見ていた。
修理は怒りを解いてはおらぬが、思案顔になった。周囲の床几に腰掛ける役人たちを、見渡している。
しかし、示し合わせたように、皆が沈黙を守っていた。下手に意見をして採用されると、自分が責めを負うとでも考えておるのだろう。この期に及んで保身が大事か、と思った。今は何より、反乱を鎮圧するべき時であるというに。
と、その時、具足姿の侍が駆け寄ってきた。子平が膝を着いている脇で、同じ姿勢を取った。
「申し上げます。二度目の突撃を敢行するも、塀を越えられませんでした。御指示を、仰ぎに参りましてござる」
前線からの使者が、報告に来た。使者は、頭を垂れている。
しばしの間があった。突撃の失敗を告げられ、皆が難しい顔になっている。唸るような声が、辺りに流れていた。
使者の荒い息遣いが、子平の耳に入ってくる。激しく肩を上下させながら、修理たちの命を待っていた。
焚かれた篝火の熱気で、じっとりと汗が滲む。子平でさえそうなのだから、具足を着けた侍たちは、暑くて敵わぬだろう。その点においては、武門は泣き言を申さぬ。
「修理様。此処を離れた場所で、儂の話を聞いては頂けませぬか」
修理が煮え切らぬ様子であったので、子平から誘いを懸けた。
子平には、侍を辞めてつとに感じた事実があった。侍は、体面で生きている。皆の前で子平が意見をする状況では、修理を始めとした侍たちの誇りを傷付ける恐れがあった。それ故に、修理にだけ話をすれば、聞いて貰えるのではないかと考えた。
それならば、修理の策としてでも、子平の言が採られる可能性があった。今は、自分の手柄などを考えるべきではないし、また、子平は役人ではないため、手柄などとは無縁である。
歳を重ねて良かったことは、無私の心が芽生えた状況であった。そう考えると、伊達家に仕えていた頃は若かったと思う。己の出世や権勢欲が、口から飛び出んばかりに自己主張していた。
「良かろう。そこの南光寺を借りておる故、従いて参れ」
修理の表情は打算が勝ったようで、怒りはすうと、消えていた。修理は、子平を顎で促し、背を向けて歩き出した。
23
南光寺の敷石を越えて、境内の本堂に通された。修理が御本尊を背にした上座の畳に座し、一段下がった下座の脇に供が二人、控えている。
子平は、二間ほど離れた畳に座し、修理と対面する態となった。
バタバタと、寺の小坊主たちが茶を運び、有明行灯を配置した。修理の前には、煙草盆も置かれている。
仄かな明かりが三間四方の本堂を覆い、修理が煙管を一服したところで、口を開いた。ふう、と息を吐いている。
「さて、子平殿、其方の意見を聞かせて貰おうか。忌憚なく申してくれ。実を申すとな、儂は昔から算術が得意で、今のお役目まで這い上がった。それ故に、軍事はからきし苦手じゃ。先ほどは突然、医師に口を挟まれて、かなり憎らしかったがな」
修理は、煙を吐き出した、落ち着いたようだ。細い目に光が宿り、薄い唇を真一文字に結んでいる。
軍勢の指揮は、かなりの重圧なのであろう。言葉通り軍事に暗く、ただ地位によって指揮を執らされておるのだとしたら、不幸にも思えた。何しろ、最終的な責は、修理と奉行とで負わねばならぬ。
自分の不得手な仕事を押し付けられ、失敗すれば、腹を切らされる。
――侍とは、つくづく不自由なものだ。
伊達家を辞めた頃は、保身を第一に出世していく者たちを妬む気持ちがないではなかった。が、今は心底から、仙台を出て良かったと思っている。
子平は姿勢を正して、此度の反乱は計画されたものであり、城攻めと同じ状況である旨を、語り始めた。
修理と供連れたちは、意外にも素直に頷いていた。
「唐人たちの準備が整っているのはわかった。確かに、二度の突撃が何ら効果を上げておらん状況からすれば、頷ける。して、どうやって彼奴らを鎮める」
修理は煙草を飲み、目で先を促した。
「今の手勢では、城を包囲できませぬ。攻城戦の肝は、最低でも数倍の軍勢で幾重にも城を囲むのが定石にござる。また、城を囲めば、長引きます」
「長引かせるなど、論外じゃ」
修理が言い放った。頬が歪む。
「むろんです。それ故、奉行所の倉に眠っている大砲を使いましょう。唐人屋敷の出入り口を全て塞ぎ、裏の稲田から、大砲を撃ち込むのです。高台から、真下を狙うのです。面白いように当たりましょう。穴から鼠を燻り出す算段で、出て来たところを、一網打尽にしまする。今度は逆に、唐人たちが、堀のおかげで逃げ場がなくなりまする」
「しかし、騒ぎが大きく成り過ぎぬか。それに、大砲は、砲術指南役しか扱えぬ」
「すぐに終ります。大砲を撃ち込めば、屋敷内に火事が起きますし、唐人どもは戦意を喪失しましょう。元々は一部の者が始めた動きでしょうし、命を懸けて行っておるわけではありませぬ。大砲の扱いは、儂も書で、ある程度は学んでおります。砲術指南役様のお指図があれば、少しはお手伝いできましょう」
「よし、早期で終らせるには、それしか手がなさそうだ。唐人屋敷が燃えても、いつもの火事と、御公儀には報告できようし」
唐人屋敷は、過去に何度も延焼し、再建を繰り返していた。
「儂の勘ですが、恐らくは、唐人たち主導者が逃げるために、どこかの港に船が着けてありましょう。奉行所に残った手勢に、その探索をお命じくだされ。大砲を撃ち込み、こちらが本気だと感じれば、必ずや、逃げ出します」
話を終え、修理が本陣に指示を出しに行った。
子平は奉行所に戻り、大砲を引き出さねばならぬ。
24
奉行所の蔵に眠っていた大砲は、旧式のカルバリン砲が二つに、和製の青銅砲が一つしかなかった。いずれも、オランダ船に積まれていたものより、数十年は性能が遅れている物ばかりである。
「此れで、いかに訓練を行っていたのでございましょうや」
子平は、煤に塗れながら、提灯を奥に向けた。
「訓練といっても、形ばかりじゃ。まさか、大筒を使う機会があるとは、皆が思っておらぬからな。此度も、お主が提案せねば、お偉方は思いもよらなんだであろう。島原の乱の終結で、此の国の大砲文化はほぼ止まっておる、と申しても良い。後は細々と、儂らのような物好きだけが、砲術を伝えてきた」
砲術指南の久持佐内と、一緒に蔵を改めに来た。長谷川流に連なると聞く。
齢は五十を超えているらしく、髷の辺りは白く、月代は剃るまでもなく禿げ上がっていた。五尺程度の小柄で、長く伸ばした銀髭を除いては、取り立てて印象に残らない顔をしている。
佐内が、くく、と薄ら笑った。
「何が可笑しいのでござる」
「すまぬ。何も、お主を茶化すつもりはない。ただ、儂が生きている内に、此れを撃つ機会があろうとは……」
佐内が、黒い青銅砲を撫でた。行灯の灯が、白く舞い広がる埃の粒を照らしている。
大砲三つで唐人たちを恐れさせ得る訳がなかった。唐人たちは大砲を幾つも積んだ海賊船が跋扈する海を渡ってくるし、そもそも清国の商船にも、数砲は艦載されている。
子平は、蔵前で思案していた。
「子平殿、案ずるな。お主の策は当たる。別の蔵に、此れもかなり古いが、大量の大鉄砲と炮烙玉が眠っておる。全てを総動員して高台から射ち込めば、唐人屋敷とて堪らぬはずだ」
「安堵致しました。もし策が破れれば、儂はともかく、耕牛先生にもご迷惑をお掛けする気がしておりました故。それにしても、長崎奉行所の装備が、この体たらくでは……」
「太平の世が長く続いたからのう。むろん、戦のない世の中には感謝せねばならん。が、此度のような、いざという時に、侍が戦えぬまでの状況になってしまっておる。装備も、侍の戦闘技術もだ。儂ら砲術師などは、とうに世間からは骨董品のように扱われてきておるしな」
「なれど、此度は佐内先生がおられたから、こうして大砲を使用できます。骨董品ではなかったと気概を示す、格好の機会ですぞ」
「子平殿。お主には感謝しても、仕切れぬな。若い頃から砲術を学び、同僚たちからは『捨扶持役』と蔑まれてきた。それがやっと、此の齢になってお役に立てる時が来た。ようやく、外に待たせておる子や弟子たちに、日々の学びは無駄ではなかった、と伝えてやれる」
佐内が洟を啜り、再び砲身を撫でた。
「佐内先生。ささっ、今こそ、腕をお試しになる時にござる。是非とも、儂にもご教授くだされ」
子平も、初めて大砲を撃てる状況に、昂っていた。いつの間にやら、喉がからからに乾いている。
25
「急げ! 我らの訓練の見せどころぞ」
佐内が、戦場には似つかわしくないほど、弾んだ号令を発していた。佐内自身は、戦場故に神妙になろうと心掛けているようだが、周囲には嬉々として聞こえる。
下知に応じるように、佐内の子二人と弟子の足取りも軽かった。梅香崎から十人町の外周を大きく迂回して、大砲や大鉄砲を運んでいる。
唐人たちの襲撃を警戒しての迂回であったが、何分にも坂がきつかった。ギギキと、大砲が土に減り込み、砂埃を撒いている。その都度、皆で砲を押し上げている。
本来ならば弱音や不平が吐き出されそうな場面であったが、皆の表情は明るく、覇気に満ちていた。役割や活躍の場を得た人間は、水を得た魚のようである。
唐人屋敷の周囲は静かになっており、鉄砲や小競り合いの様子は全く消えていた。修理は出入り口を固めるのみで、睨み合う態を装い、子平たちの砲撃を待っている。
十人町から稲田に至る坂は、これまで以上に急な勾配で、全員が前のめりになった。地に膝が着きそうなくらいになって、砲を押し続けた。
最後の坂の手前からは道も狭くなり、両脇の繁みが厚くなった。顔や手足を、容赦なく草に掻かれる。
稲田の丘に上がった頃には、皆が汗だくになっており、体の何箇所を蚊に吸われたか、見当もつかなかった。夏草の匂いに鼻を擽られながら、一斉に、ぼりぼり痒くなった体を掻いている。
「着きましたな。唐人屋敷の屋根が、一望できます」
子平は唐人屋敷を見下ろしている佐内に、視線を向けた。
佐内は、つと振り返り、今度は地面に目を落とした。子平の声が耳に入っておらぬほど熱心に、地表を見渡している。
「此処に大筒を並べ、大鉄砲は、こっちからじゃ。皆の者、直ぐに取り掛かれ」
佐内は、既に砲撃の軌道を頭の中で描き、攻撃の配置を考え始めていた。
先ほどまでの老境に差し掛かった不遇の砲術師の面影は薄くなり、背には壮年の覇気が宿っていた。
四半刻も掛からぬうちに、準備は整った。さすがに佐内の弟子たちは日頃の修練を怠っていなかったようで、仄かな灯の中で、見事な手際を見せている。
子平は手伝うどころか、学ばされた。
『捨扶持役』と言われながらも腐らずに技量を磨き、技を伝え続けた佐内も凄いが、従ってきた弟子たちも偉かった。
「大鉄砲は、虎太郎が指揮せよ。子平殿、儂と一緒に大筒の指揮をお頼み申す」
並んだ大筒の砲身は眼下に向けられ、大鉄砲の狙いも屋敷に定められていた。
棒に吊るした行灯を持った灯役が、三つの大砲の脇に付いていた。静かに闇の中に浮かんだ砲身が、黒光りしている。南の雲が流れれば、月が一層ぐんと美しく照らすだろう。
虎太郎は、佐内の三男であった。佐内から向かって右に数間離れた場所で、大鉄砲の指揮を執る。
「儂などが指揮などとは恐れ多いですが、傍で勉強させて頂き申す」
子平は中央で仁王立ちをしている佐内の隣、半歩後ろに控えた。五尺ほどしかない佐内の背が、大きく見える。
佐内がすうっと、静かに右手を上げた。
「火付役の方、ご準備を!」
子平は、火付け役に声を掛けた。火付け役たちが、松明に火を点す。
「点火!、撃てい!」
佐内が叫んだ。と同時に、轟音が響き渡り、虎太郎の大鉄砲が先に火を噴いた。
眼下の闇の中に、ぱっと無数の花火が広がった。吹き上げる風のような叫び声があちこちで聞こえ、黒い人影が蠢き始めている。
一瞬の遅れで、大筒が火を噴いた。雷が地に刺さったような重厚な音が起こり、屋敷の屋根の砕ける音がする。
一発が竃を直撃したのか、一際ぐんと火柱が立った。めらめらと、周囲の屋根に火が飛び移り出す。
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砲撃を重ねていた。炎と大筒の煙が舞い上がり、煤の匂いが漂っている。
眼下の景色はみるみるうちに火の手が広がり、唐人たちは炎や煙の勢いを避けようとして、だんだんと塀の際に吸い寄せられている。
何度か唐人屋敷から、子平たちに向けて鉄砲を撃ってきた。が、丘上の子平たちには、とうてい当たるはずもない。
「子平殿。完璧な策だったな」
佐内の背の緊張が少し緩み、子平に目を向けてきた。
「いえ、策と申すのもお恥ずかしい。戦における初歩にござれば」
「その初歩も忘れてしもうたのが、今の侍たちよ。何にせよ、お主のおかげだ」
佐内が、手を差し出してきた。子平が出島に出入りする蘭方医と知って、握手を求めている。
子平は、佐内の手をしっかりと握った。佐内の手は小さかったが、角ばった骨の感触が、手の平で感じられた。
眼下では、炎に堪りかねた唐人たちが、塀を乗り越え、水堀に飛び込んでいた。唐人たちは、巣を壊された蟻のように、散り散りになっている。
塀を越えた唐人たちを、待ち構えていた役人たちが、次々と捕えていた。もはや、抵抗する様子も見られない。
「父上。唐人たちが、崖を登ってきます!」
大鉄砲の指揮を執っていた虎太郎が、声を投げてきた。
真下に目をやった。確かに、十人ほどの影が、崖を這い上がってきている。
影たちは、煙や繁み、岩陰で姿を隠そうとしていた。が、炎の明かりに、すっかり姿が浮かんでいる。
「気づかれぬ訳がない、無謀な攻撃ですな」
大鉄砲を撃ち込むだけで、片付く敵であった。
「自分たちの企みを潰された恨みを、向けてきておるのやもしれぬな。塀を越えての迂回路は、既に奉行所に押さえられておる。何が何でも、我らに一矢を報いたいのだろう。砲術師故に、斬り合えば勝てる、と侮っておる」
佐内が、口元を歪めた。どうやら、剣術にも自信があるようだ。
「佐内先生は、やっとうもお達者ですかな」
「子平殿も、できそうじゃな。前は、侍と聞いたが」
子平も江戸や仙台にいる頃は、かなり剣に精進した。道場でも、常に五本の指には入っていた。
「弟子たちにも、いい機会のようだ。皆の者、斬り合いをするぞ」
佐内の言に、「おう」と弟子たちが返してきた。皆も、自信があるようだ。
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「子平殿には、これをお貸ししよう。無名だが、斬れ味は儂が保証する」
佐内が、積まれた武器の中から大刀を掴んで手渡した。
「儂は、最後に刀を握ってから、十年以上は経ております。とても、お役には立てますまい」
謙遜しながらも刀を受け取り、鞘から刃を抜いた。暗がりだが、刃文を確認する癖は、年月が経っても消えていなかった。
久しくなかった刀の重みを手に感じ、鋭い刃先に目をやると、心が引き締まった。
が、佐内に申した通り、腕の衰えは如何ともし難かった。何しろ仙台を出て放浪し、江戸に住み着いてからは、ほとんど医師としての暮らししかしておらぬ。侍の頃ならば、毎朝の日課で、素振りを欠かしておらんかったが。
「はっはっ、案ずる必要はありませぬ。斬り合いは、我らでやります故、子平殿は、ほんの見物程度でけっこうにござる」
よほどに不安気に見えたのだろう。佐内が、刀を見詰める子平に、重ねて声を投げてきた。
もくもくと、黒煙が舞い上がってきていた。もはや、煤の匂いが当たり前になり、ふいに匂いが消えると、違和感がある。
その間にも、崖の影たちは、確実に近づいてきていた。
子平たちが大鉄砲や大砲を撃たぬ状況を、千載一遇の機会と捉えているやもしれぬ。子平たちを斬り抜ければ、逃げ道が開き、奉行所の網から脱出できる。
既に唐人屋敷での大勢は決していた。砲撃がなくとも火は燃え広がり、一向に鎮火する気配もない。そのため、並べていた大砲は後方に下げ、斬り合いのために場所を空けていた。佐内を中心に虎太郎と子平が脇を固め、皆が刀を抜いている。
油断しきっている訳ではなかった。崖下で妙な動きがないか、常に見張りを付けているし、唐人たちが鉄砲を所持している場合に備えて、幾人かには火縄の準備もさせている。
しばし、待った。子平の場所からは眼下が見えぬため、屋敷の梁や柱がパチパチと弾ける音と、騒然とした捕り物劇の雰囲気が感じられるのみである。耳の感覚が、闇で研ぎ澄まされていた。
子平の耳が、唐突に微かな雑音を捉えた刹那、
「唐人が来ます!」
見張りが叫んだ。
次の瞬間には、転がるように唐人が数人、丘の上に姿を現した。続いて三つ、獣のような影が、飛び出る。
灯りの浮かんだ唐人たちは辮髪で、後ろに長く三編みが垂れ下がっていた。服装は中国の服、清国を建てた満州民族の衣装である。
中央の背の高い影が中国語で叫ぶと、唐人たちは柳葉刀を抜いた。柄は短く、刀身が先端に向かって幅広になっている刀で、日本刀より斬れ味が数段劣るといわれていた。
「ナゼ、ウタナカッタ」
先ほどの影が、日本語を投げてきた。片言だが、話せる素振りだ。恐らくは、一味の首魁であろう。
「其方は、日本語ができるのか。撃たなかった理由は、お主らと斬り合いがしたかったからよ」
佐内が、鋭く言い放った。剣気を発している。既に、斬り合いは始まっている、という訳か。
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唐人たちの間で、笑いが起こった。
「ワジンハ、アマイネ。コロセルトキニ、コロサナイト。オカゲデ、ニゲラレルケド」
首魁が言い放ち、仲間に中国語を投げた。と同時に、唐人たちが斬り掛かって来た。
「我らの剣技を、見せてやれ!」
すぐさま、佐内が応戦を指示した。真っ先に佐内が上段から斬り込んでいく。
とても、高齢とは思えぬ胆力である。日頃の鍛錬を怠っておらぬ証拠だ。故に、あれだけの自信がある。
その佐内に鍛えられた弟子たちであった。若さ故に、佐内以上の踏み込みの速さで、剣を振るっている。
踏み拉かれた草と砂が撥ね、枯れ葉が風に舞った。白刃が篝火の灯を受け、怪しげに煌めいている。
乱戦になった。唐人たちは遮二無二、柳葉刀を振り回した。が、佐内一派の技量に圧倒されて、じりじりと後退している。頭の中では『甘い』と申した前言を、後悔しておるだろう。
既に三人の唐人が斬られ、地面に倒れ込んでいた。息の根は止まっているようで、ぴくりとも動かぬ。
唐人たちは崖の際、二間ほどの場所で、一塊になりかけた。打つ手なしの態である。
突然、子平の方向に、唐人たちが襲い懸かって来た。
別に子平を狙った訳ではない。子平とその周囲の弟子は、前線で剣を振るう佐内たちから少し下がった場所にいた。一度も刀を振るわずに傍観していた故、弱くて与し易いと見られた。唐人たちは此処から、突破を図る算段であろう。
「キィエー」
柳葉刀が、目前に突き出されてきた。子平の心の臓の辺りを狙っている。
子平は咄嗟に半身になって太刀筋を避け、空いた唐人の首筋に、刃を振り下ろそうと考えた。
しかし、刃を振り上げたまま、躊躇った。いや、全身が一瞬、岩のように固まった。
――侍を捨てた己が、異国人の賊とは申せ、人を斬り殺す次第となる……。
子平が迷った間に、唐人が体勢を戻した。次の攻撃に出ようとしている。
目前の敵に注意を引かれている間に、別の唐人が繰り出した刃先が迫っていた。気づくのが遅く、左の肩を一寸は斬られた。
怯む暇もなく、最初の敵が、薙いできた。
一歩跳び退り、反撃の一撃を加えるつもりであった。が、体の鈍りか、人を斬る躊躇いによるものか、体勢が整わぬ。躱すので精一杯となった。
もう一人が、踏み込んできた。
体のみで躱せば、深手を負う危険があったので、敵の刀を受けようと刃を振り上げた。 子平の視界の端には、最初の敵が間合いに入ってくる状況も見えている。
周囲の斬り合いなどの音が、耳に入らなくなっていた。そういえば、生まれて初めて、生死の境にいる、と思った。
29
無我夢中で振り上げた刀で、唐人の刃の軌道を逸らした。鉄の弾ける音が、耳奥にごんと響く。
手には、ずっしりとした衝撃が残り、ぶるぶると肘から先が震えていた。
いや、衝撃による震えばかりではない。初めて生死の狭間にいる状況を、真正面から認識した恐怖だ。人を殺すかもしれぬ躊躇いと、殺されるかもしれぬ恐怖が入り混じり、子平の体を揺らし、硬直させていた。
――道場と実戦では、これほどにも違うのか。
子平の息は、激しく荒れていた。体が鈍っているだけではなく、実戦の重圧で、予想以上に体力を消耗している。
刀の軌道を逸らした男が左斜めに、もう一人とは正面で相対した。二人同時の攻撃は躱せるものではないし、今は一人を防ぐのも危うかった。
正面の男が腰を沈めた。左の男も、柳刃刀を構え直していた。
――同時に来る。
躱し切れぬと見た子平は、後退しようと地面を蹴った。
途端に足が縺れて、尻から地面に落ちた。下半身の自由が、思うように利かなくなっている。
今まで気づいておらんかったが、足も小刻みに震えていた。なんとか上体を起こして敵を睨み据えたが、とても逃げられぬ。
二人の唐人が、踏み込んだ。
――殺られる。
と、子平が観念仕掛けた時に、唐人たちの背後から踏み込む影があった。
不気味な音が、闇を震わせた。その音が、唐人たちの首から背の肉を断ち割ったものだと気づいたのは、二人が子平に踏み出した勢いのまま崩れ落ちてきた故だ。
倒れ込んだ二人の首筋から背に掛けて、どす黒い血が滲んでいた。
「子平殿。すまぬ、危うい目に遭わせてしもうた」
転がった唐人の亡骸を跨ぎ、佐内たちが傍に寄って来た。
子平は言葉が出ず、呆然としていた。全身が小刻みに揺れているせいで、顎も自由に開かぬ。
佐内に目を向けると、特徴のない顔が、何とも逞しくも、残忍にも見えた。唐人たちを全て片付けたようで、弟子たちの表情も緩んでいる。
「皆、殺したのですか」
だんだんと震えが小さくなり、呼吸が整った。気持が落ち着いてくると、今まで忘れていたかのように、煤の匂いや物が焼ける音が、耳に入ってくる。
「いや、二人ほど生かしてある。此度の詮議に使えるだろう」
佐内が顔を向けた先では、二人の唐人が、弟子たちに縄で縛られている最中であった。
「初めに日本語を話した男は?」
一味の首魁を詮議できる状況が、一番良かった。
「頭と思えるあの男を捕えようと思ったが、なかなかに手強くてな。手加減すると此方が危ういので、やむを得ずに斬り捨てた。あ奴に、此度の一件を、洗いざらい吐かせてやりたかったが」
「子平殿。我らの勝利にござる」
虎太郎が顔を出した。興奮気味に、声を上擦らせている。
子平が目を凝らすと、虎太郎は肩を震わせていた。
いや、虎太郎だけではなかった。周囲を見渡せば、弟子の多くが涙を堪えるか、唇を噛み締めている。
初めて陽の目を見る働きをした感慨が、皆を包んでいた。
「此度の一件は、間違いなく佐内殿らのお手柄が第一等にござる。これからは、大手を振って、御城下を歩けますな」
子平はやっと緊張が解け、笑顔になれた。佐内と虎太郎に、笑みを向ける。
篝火の灯で照らされた皆の表情が、晴れたように思えた。
「勝鬨を上げましょうぞ。えい、えい、おう」
「えい、えい、おう」
誰か一人が叫び始めると、忽ちに勝鬨が繰り返された。佐内は皆を満足げに見渡し、虎太郎は勝鬨を口ずさんだ。
子平にとっても、終生ずっと忘れられぬ勝鬨となるだろう。
30
唐人の反乱は無事に収まり、唐人屋敷への付火として処理された。故に、長崎奉行を始めとして、誰も責を負わずに済んでいる。
関係者や町衆には厳しい箝口令が敷かれており、御公儀に少しでも漏らそうものなら、二度と長崎の町を歩けぬ。
佐内たちが捕えた唐人たちは、修理が極秘裏に取り調べた。
過酷な詮議の結果、唐人たちはオランダ船の入港の妨害を目論んでいた節があった。オランダ人たちが優遇されている状況を妬み、暴挙に及んだという。
あくまで表向きの理由であった。調べが進む内に、唐人の首魁たち、奉行所の一部の役人、出島のオランダ人たち三者の間に、何らかの繋がりが見え隠れし始めていたからだ。
しかし、ちょうど役人間の内部調査を始めた矢先に、奉行所の与力一人と同心二人が自邸で腹を斬った。
三人の切腹で、繋がり掛けた糸が、ぷっつりと断ち切られた。真実は有耶無耶になったが、事を大きくすると奉行所も困るため、修理は事件は終息させた。
水無月の末に入り、出島に無事にオランダ船が入港した。居眠りしていたような出島がにわかに活気づき、いつもの如く耕牛屋敷の弟子たちも大忙しである。
文月の半ばを過ぎた頃、カピタンたちが出島に戻った。
「儂が留守の間に、お手柄であったそうだな。御奉行から本日、直々にお言葉を頂いた」
屋敷に戻った耕牛に、すぐに来るように呼ばれた。
居間の上座で胡坐を掻いた耕牛は、さすがに旅の疲れが溜まっている様子で、目は落ち窪んでいた。それにも拘らず、屈託のない笑みを浮かべ、白い歯を剥き出している。
「勝手をして、申し訳ございませぬ」
子平は、耕牛の留守に弟子の分を越えた振る舞いをした非を、謝した。偽りのない気持ちである。
此度は、たまたま結果が上手くいったから誉められただけで、失敗していたら、耕牛に迷惑を掛ける次第になっていた。半分賭けが当たっただけで、舞い上がるほど愚かではない。
「大手柄じゃが、謙虚だのう。子平殿。何か、吹っ切れた顔をしておるな。此度の一件が、影響しておるようだ」
疲れている割に、耕牛は鋭かった。
耕牛の交流範囲は広く、弟子も多い。日頃から多くの人間を見ているため、他人の些細な変化にも目敏く気づく。さすがであった。
夕刻で陽が衰えた頃から、蝉がうるさくなっていた。屋敷の庭ばかりではなく、そこらじゅうの木々で木霊していた。
31
「唐人たちの反乱で、此の国の、島国の危うさを認識し申した」
子平はおもむろに、考えを纏め始めた。
唐人たちの反乱以降は、ずっと考えていた。が、耕牛に改めて問われたため、漠然としていた思いを言葉に変換しようとしている。言葉にするためには、まず己の頭の中をはっきりさせねばならぬ。
「子平殿の申したい内容が、なんとなくだが、儂にも見える。大分と霧が掛かっておるがな。それが齢を経る、というものやもしれぬ。説明してくれ」
耕牛が息を吐き、煙草に火を点けた。旅の疲れからか目は眠たげに見えるが、弟子の話を最後まで聞く姿勢は崩さぬ。本当は、直ぐにでも休みたいほど疲労は溜まっているであろうに。耕牛はとことん、弟子と向き合う。
耕牛が煙を吐くまでの間、子平は蝉の声を耳に入れながら、額の汗を拭った。
「長崎に来てから、出島でオランダ船の装備を見聞きし、書物で西洋の状況を学ぶに連れて、なんとなく我が国の政に違和感を持つようになりました。一例を申さば、西洋と日本との圧倒的な軍備の質の差には、驚愕しました」
耕牛が眦に力を込めた。無言で先を促している。
「オランダの商船にさえ日本の軍船が間違いなく敗れるほど、大砲などの装備に差があり申す。恐らくは、唐人らの商船にも及ばぬでしょう。我が国の軍備は島原の乱を最後に、遅々として進んでおりませぬ。対して、西洋ではこの百年の間、戦が絶える時期がなかったため、軍備はどんどん進歩しています」
「つまり、我が国は西洋に比べて、百年も遅れておると」
耕牛が煙草を置き、茶を口に寄せた。子平も、つと、湯呑みを手に包んだ。
「仰る通りにございます。今や日本国は、オランダはもちろん、西洋のどの国に攻められても、勝てませぬ」
「それは、ちと、言い過ぎではあるまいか」
耕牛の黒く陽に焼けた頬が歪み、笑みが浮かんだ。有り得ぬと、微かに頭を振っている。
「事実にござる。オランダは今や、西洋では弱小国にござれば」
子平は毅然と言い放った。
耕牛は、何やら思案気な面持ちになり、再び煙草に手をやった。こういう時は、話を続けてよい。
「それに加えて、此度の反乱です。儂も実際に戦闘に参加して感じた危惧は、此の国の備えの、あまりの乏しさにござる。軍備の差も大きゅうございますが、日頃の修練を怠った戦闘に不慣れな者ばかりでは、とても戦えませぬ。厳しい訓練を経てこそ、実戦で力を発揮できるものなれば。実戦は、訓練とは格段に違いました。お恥ずかしながら、儂はいざ命のやりとりになると、足が竦んで体が震えました」
侍として道場でも認められ、伊達家に奉公していた過去を持つ子平ですら、日々の鍛錬から遠ざかると、戦えなかった。佐内たちは別格として、此の国のほとんどの侍が、使い物にならぬと思われる。それほど侍たちの武力は、お粗末になっていた。
八代将軍の吉宗は在世の頃に、侍たちの怠慢を嘆き、武門の復活を願った。長らく廃止されていた鷹狩りを復活させた試みも、不甲斐ない侍たちを鼓舞したかったのであろう。
「では、御公儀に軍備の増強を図るようにとでも、言上するおつもりか。が、なかなかに難しそうな……。御公儀や大名家の台所事情は、まだまだ厳しいものがあるようじゃからな」
耕牛が腕組みをして、首を捻った。
意次が商いを盛んにして、幕府や大名家の中には、財政改革が上手くいっているところも出てきていた。が、大多数の諸大名は今なお窮乏している。
32
耕牛と子平の話は、すぐに終わると思われていたようだ。女中が、湯が沸いていると、知らせに来た。
湯に浸かり、軽い夕餉の膳と酒を腹に流し込み、耕牛は休むつもりであった。
まだまだ陽が落ちたばかりだが、長居は無用であった。
「儂如きが御公儀に言上仕っても、歯牙にも掛けられませぬ」
意次の顔が浮かんだ。意次ならばあるいは、と思わぬでもなかった。が、意次にしても軍備などよりは、財政の再建を最優先させるであろう。
此の国の大多数にとって、異国との交流を堅く閉ざしている状況では、異国の存在は無きに等しかった。
子平や耕牛は、たまさか蘭方医で出島に縁があるため、異国との関わりが身近であった。が、関わりの薄い者にとっては、異国など夢物語に過ぎない。
商いで国を富ます方針を優先する状況は、ある意味では当然であった。いつ訪れるかわからぬ敵に備えた軍備を整えるよりも、日々の暮らしを立てるほうが、間違いなく先決である。
「侍従様と、面識ありと聞いていたが」
耕牛が天井の梁に視線を向け、閃いたように目を見開いた。
「いえ、無理にございます。出島の状況を目の当たりにしなければ、いくら聡明な侍従様とて、江戸にいては、見えぬ状況もございます」
「如何なされる所存じゃ。どうやら、何か腹積もりがあるようだが」
耕牛が、穏やかに声を投げてきた。やはり、嗅覚が鋭い。
「今はまず、此の国の人々に、異国の存在を幅広く知って貰う必要があります。そのために、書を纏めて出版する所存にござる」
考えが纏まったと同時に、口から出ていた。
ふと頭を過ったのは、川柳の姿であった。川柳も、『誹風柳多留』で己の存在意義を世に問うた。真似をしようという訳ではないが、子平が此の国に抱いている危機感を共有して貰う人を増やすには、書を出版する策が、一番だと思えた。
いきなり大砲などの軍備や船の性能の差を説いても、無駄だ。西洋の話などは、あまりに遠すぎて、誰も食いつかぬ。
初めは、日本を取り巻く朝鮮、琉球、蝦夷などの存在や風俗を紹介して、異国や異人への関心を、喚起させようと考えた。身近に異国を感じ始めれば、徐々に日本との関係にも興味を持ち、ひいては閉鎖的な政に思い至る者たちも出てくるに相違ない。
「書で、世の中を動かず夢を抱かれたか……。それはまた、大望にござるな」
「それほど大それた望みを抱いてはおりませぬ。儂はただ、己の抱いた危惧と言いますか、違和感を、少しでも世の人に伝えたい、と思うただけにて」
子平の書を読んだ他の学者や為政者の一部でも、異国への関心と脅威を抱いて欲しい、と思っていた。
しかし、一番肝心なのは、まずは書を纏め、出来上がった物を出版に漕ぎ着けられるか、であった。