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改革者たち  作者: いつみともあき
1/8

第一章 放浪

   1

「御自分たちが、お困りにならぬからだ!」

 激昂のあまり思わず口をついて出た林子平の言で、殿の御座から両側に居並ぶ重臣たちの顔が朱に染まった。

 僅か四十石取りに過ぎぬ身分の子平に侮辱されて、ほとんどが憎悪の眼差しに変わっている。

 宝暦十二年(一七六二年)は霜月半ばの出来事であった。

 今朝は霜が下り、外は雪がチラついているだろうが、広間は熱気に包まれていた。

 ――また、抑えが効かなんだ。

 子平は瞬時に後悔した。

 何も、間違った話をしているとは思っていない。

 予てから、後の次第を考えずに、直情で物を具申する己の短気さに、少しは反省していたところである。話し方によっては相手も聞き耳を持つ、と兄の林友諒から度々諌められていた。

「貴様、何を申すか! 下郎の分際で、手討ちにしてくれる」

 一門の伊達数馬が刀に手を掛けた。いつもは垂れた目が怒りに震え、血走っている。

 数馬が立ち上がり掛けた。さすがに武勇に秀でた伊達一門である。足運びが尋常ではない。

 子平にしても、剣には多少の覚えがあった。幼き頃より、学問と剣の修行だけは、怠っていない。手向かわぬまでも、殿様育ちの数馬などに、むざむざと斬られはせぬ。

 子平も、少し腰を上げた。

「待て! 城内で勝手な振る舞いは控えよ。それに、子平の姉君は政徳院様(伊達宗村)のご側室であられるぞ」

 筆頭家老の伊達織部が、毅然と声を放った。背筋をぴんと張り、威厳を見せている。

「……くっ。姉に子守でもしてもらうがいい」

 織部に制せられた数馬が腰を下ろしざま、短く吐き捨てた。目下には威張るが、権威には逆らえぬ男の典型である。

 友諒と子平が伊達家に取り立てられた経緯は、姉の清が前当主の伊達宗村の側室に上がった縁からだった。百五十石取りの侍医の兄とともに伊達家に仕えるようになって、数年が経っている。

「子平。これ以上の言は許さぬ。早々に下がれい」

「ご返答を、頂いておりませぬが」

 子平は、場の雰囲気にそぐわぬほど、落ち着いた声を出した。逆波立った状況で、話を変えられては敵わぬ。

「其方の提案を、心には留めおこう。が、政に口を出すは、其方の分ではない。我ら重職で決める」

 織部は有無を言わさぬ物言いで、話を終らせた。もはや、重職の誰一人として、子平の存在は気に留めておらぬ。

 子平は形ばかりの礼をして、広間を退出した。

 広間を出て、長い廊下を真直ぐに歩く。さすがに子平も火照っていたのであろう。足裏が、ひんやりしている。

 ――何度しつこく申しても、埒が明かぬ。

 全てが、この調子であった。

 伊達家は当主の重村の命により、困窮した御家の状況を打破するために、身分を問わず幅広く意見を求めていた。

 それに応じた子平は数々の提言を試みてきた。

 が、重臣たちは「ほう」と感心して見せたり、「それは良い案じゃ」と褒めたりするだけで、何一つ実行しようとはしなかった。

 子平が歯に衣着せぬ直言をする理由は、言わねばわからぬ者たちばかりだからであった。いや、何度言っても分からぬ、分かろうともせぬ。

   2

 子平が居間で上役たちを罵った話は、すぐに城内に広まったと見える。屋敷に戻ると直ぐに、兄の友諒から使いが来た。

「先生から、すぐに屋敷に来られるようにと、言付かってございます」

 兄の弟子で、良雲と申す若者であった。

 良雲は、子平の行いを知っておるのだろう。どこか、呆れた表情が見て取れる。

 子平が友諒から呼ばれる際には、いつも良雲が来る。兄の信頼が、厚いのだろう。

「確かに承った。しばし、書見をした後、未の刻半ばまでにはお伺いします、と伝えてくれ」

 兄には毎度、肩身の狭い思いをさせているので、断れぬ。

 書見をすると伝えたが、本当のところは悩み、決めかねている事柄があった。

 侍の身分を窮屈に感じていた子平は、以前から禄の返上を考えていた。禄を返上して自由の身になれば、何者にも縛られずに何処へでも行き、物を申せる。

 が、武士が禄を捨てた末路がどのように悲惨かがわからぬほど、馬鹿ではない。禄を返上しても、行く先の宛は、全くなかった。どこかで野垂れ死ぬ運命になるやもしれなかった。

 再び仕官を願う頃には、姉の七光りも通用せぬだろう。

 約束通り、未の刻を過ぎたあたりに屋敷の門を出た。辻に出てすぐ、屋敷を振り返る。年老いた下女が一人で送りに出てきた他は、閑散とした住みかであった。

 家中の鼻摘み者の家には、むろん、嫁入りの話などは来ぬ。

 たかが四十石の屋敷である、先ほど広間にいた重臣たちからすれば、厠のようなものやもしれぬ。が、子平は、これを捨てきれずに迷っていた。

 歩を進める大地は、寒さのせいか堅かった。

 仙台の冬は、文字通り大地が凍てついた。十八歳で兄一家と仙台に越してきてから、もう数度、凍てつく大地を踏みしめている。

 しかし、厳しい寒さは己を鍛え上げてくれるような気がして、嫌いではなかった。人はぬるま湯に浸かっていると、弛む。まるで、今の伊達家のように。

――やはり、どう考えても儂が間違っておるとは思えぬ。

 寒風のびゅうびゅう吹きすさぶ武家屋敷の藪を抜けながら、子平は呟いた。

 己の非は認められぬが、兄を心苦しくさせておる件については、謝るつもりだ。

   3

「お主はまた、ご重職方にとんでもない暴言を吐きよって! 少しは、儂ら家族の立場も考えよ」

 友諒が、狐のような細い目を向けてきた。

 傍らでは、兄嫁のお昌がお茶を淹れている。雛人形のように白くて美しい横顔だが、子平に向ける眼差しは、いつも冷たかった。

 川内の屋敷に着くと同時に、友諒の怒りが爆発した。子平を怒鳴りつけたくて、疼々して待ち構えておったのだろう。

 川内は、伊達家十六代目当主の伊達政宗が築いた仙台城の東にあった。西には両端を氷に変えた広瀬川が、粛々と流れている。川水も雪と氷に阻まれて、舟が思うように進めぬ季節である。

「兄上の御心を痛める状況になったのは、謝ります。しかし、儂は、御家のために良い道筋を提案したのみです。それが、なぜ、いけないのでしょう? 家中の他に誰も提言する者がおらぬ故、仕方なしに為しておるまで。兄上が代わりに仰ってくれても、一向に構いませぬ」

「馬鹿者。医師の分際で、御家の舵取りに口を挟めるか。それこそ、余計に家中に良からぬ噂を立てられるわい」

 友諒は、尖った眉を顰めた。

 家中には、林兄弟はお清ノ方の後ろ盾があって成り上がった者と見られている。子平たち兄弟を快くは思わぬ連中もおり、時として、露骨に侮蔑の色を浮かべる輩もいた。

 それ故に、友諒は努めて家中では目立たぬようにしており、歯に衣を着せぬ物言いで御家を騒がせる弟の子平を、苦々しく思っていた。

 確かに、これまで子平の言が厳しい咎めを受けていない理由は、お清の影響が大きかった。とすれば、家中の見方も、一面では正しい。

 子平のせいで、お昌や四つになる子の結太郎も、近所から白い目で見られる機会もあると聞く。

 子平は、己が他人から罵られ、侮蔑される状況など何とも思わなかった。が、兄や家族に迷惑を掛けるのは本意ではない。結太郎がいじめに遭うと耳にすると、叔父として心も痛んだ。

 外は風が強くなっているのだろう。裏庭の門戸がガタガタと、音を立てている。

 僅か四十石ばかりの禄のために、尊敬できぬ者たちに頭を下げ、日々を雑用のような仕事で費やしていた。

 己の私欲のみしか考えぬ男たちが執政を牛耳り、舵を取っている。

 それでも、領民の暮らし向きが、少しづつでも良くなっていれば、文句は言わない。

 が、そうではなかった。伊達の家に連なる者たちだけが富み、下々の者たちは、今日をなんとか生き延びるために四苦八苦している。

 何も起こらねば、今のままでも生きていけるが、一度、飢饉でも起きれば、多くの者が職を失い、飢え死ぬだろう。

 政は、万が一の事態にも備える必要がある。子平が提案した内容は、平時から新たな産業の育成を模索するために、御家ぐるみで捕鯨に力を入れるなどであった。が、上の者たちは、余計な仕事を増やしたくないらしかった。

 たとえ飢饉や天災で領民が飢えても、上の者たちは決して飢えぬ。故に、「他人事だ」と、口をついて出た。

 名門の伊達家にして、名門だからこそかもしれぬが、子平はほとほと侍勤めに嫌気がさしていた。

 その時、フッと何かが降りてきたような気がして、胸元辺りが軽くなった。

   4

「わかり申した。これ以上は、兄上らに肩身の狭い思いはさせられませぬ。また、いつまで経っても変わろうとせぬ御家に、嫌気がさしており申す」

 口から出る言葉が軽い。どうやら、迷いが吹っ切れた。

 子平が言い終わるや否や、友諒とお昌の表情が明るくなった。子平が、さすがに反省している、と思うたであろう。

「つきましては明日、御城に参り、禄と屋敷を返上仕る。無禄と相成りまする故、心苦しゅうはござるが、兄上、此の屋敷にて厄介になり申す。明日の御城の帰りには引っ越して参りますので、姉上、夕刻までにはお部屋を空けておいてくださりませ」

 ぽかんと口を大きく開けた友諒夫婦に頭を下げ、子平はそそくさと屋敷を後にした。友諒夫婦が何か言い掛ける前に、逃げるが勝ちである。

 保守的で、周囲に気を遣い過ぎる嫌いのある友諒ではあったが、昔から子平の我がままは、よく聞いてくれた。六つ、歳が離れているせいもある。

 通りには霙のような雪が、パチパチと積もっていた。雨傘を掲げると、背後から音が追い掛けてくる。

 申の刻を過ぎたばかりだが、辺りは薄暗かった。霙のせいか、行き交う人たちも、どこか寂しげに濁って見える。

 ――これで、良かったのだ。

 気持ちが吹っ切れた理由は、このまま死ぬまで川内の屋敷と御城を往復し、わからずやの重臣たちと不毛な議論を続けて生きるのは耐えられぬ、と思ったからだ。四十石のために、一生を腐りながら生きていくなど、子平には金輪際できん。

 それに、剛直な性格を変えられぬ以上、このまま伊達家におっては、いずれ手討ちにされかねなかった。嫌な重臣に手討ちにされるくらいなら、どこぞで野垂れ死ぬほうが、マシである。

 そう考えると気持ちが軽くなり、一気に迷いが吹っ飛んだ。

 周囲は暗いが、子平の心は、明日からの新しい人生に弾んでいた。頬には、笑みも浮かんでおろう。

 ――狭い川内から出て、もっと世の中を見て、見聞を広めたい。

 一所にじっとしているのも、子平の性には合わぬ。

 その点、子平は出奔して放浪の旅に出た父に似ていた。

 父の岡村良通は御書物奉行で六百二十石取りの幕臣であった。故に、子平たちは江戸で生まれている。

 父は子平が三歳の頃、故あって浪人の身となり、姿を消した。幼心に聞き耳を立てていたところ、どうやら同僚と刃傷沙汰に及んだらしい。

 父は、後事を弟の林従吾に託していた。そのため、子平たち兄弟は、江戸の開業医の叔父に養われて育った。子平は十八の歳まで、江戸で暮らしていた。

   5

「早速に言上をば致そうぞ。しばし、待っておれ」

 昨日までの上役が、そそくさと退室して、廊下で音を立てた。

 予想はしていたが、子平が禄の返上を申し出ると、誰も引き留める者はなかった。ほとんどの者が無関心か、驚きの表情を浮かべているだけである。今の時代に禄を返上するなど、思いもよらぬのだろう。

 子平の直言に賛同してくれている一部の者たちが、何か言いたげであった。が、他の者たちがいる場所では、何も言えぬようだ。

役所では、波風を立てる者は弾き出される。良い意味でも、悪い意味でも、皆が役所勤めに染まっていた。

 上役から重職に話が行き、とんとん拍子に話が進んだ。

「子平。急な申し出なれど、ともかくは、お許しが出た。追って沙汰はあるだろうが、明日からは、出仕に及ばず。屋敷についてだが……」

 上役が言い澱んだ。禄を返上した者には、さっさと出て行って貰いたいのだろう。または、上から一刻も早く追い出すよう申し渡されたか。

「御心配には及びませぬ。今日、これから荷物を整理して、屋敷を出る所存でござる。明日からは、蛻の殻です。皆様方、長らくお世話になり申した。では、これにて失礼仕る」

 奥まで届くほど喉を張った。胸を張り、役所を後にする。

 御家の財政が苦しい折である。禄の返上を申し出た子平を、勘定方などは舌なめずりする面持ちで見送っているだろう。

 二ノ丸の役所を出て、大手門を潜った。

 冷たい風がびゅんと、下から舞い上がってくるように、子平の足元から月代を通り抜けた。

 東の遠くに目をやると、乾いた空の下には、濃紺の仙台湾が広がっている。ともすれば陽を遮る雲が多く流れていたが、冬の陽気であった。弁財船であろう。沖の海上を、幾つかの船が北と南に向かっている。

 ふと、役所の者たちの、人生を諦観したような目が浮かんだ。

 ――儂はまだ、人生を諦めぬ。これから新しく、切り開いて見せる。

 黙ってぬるま湯に浸かっておれば、一生を食うに困らぬ。後ろ髪を引かれぬと言えば嘘になるが、子平は己を鼓舞した。

 冷たい風を一飲みにした子平は、力強く歩を進めた。

 城から下がり、手際よく屋敷内を片付け始めた。

 通いの下女には、突然に暇を出したので、当座の給金に色を付けた。下女は、主の子平が禄を返上して来たところにも拘わらず、手にした給金に思わず喜色を浮かべた。

 その後、ハッと覚ったようで、気まずそうに荷物の整理を手伝ってから、帰って行った。倅夫婦の世話になっていると聞いているので、まずは心配ない。

 がらんと蛻の殻となった屋敷を、改めてまじまじと眺めた。 

 代々の侍たちが使用してきた屋敷なので、柱や梁は汚れて、年月を感じさせる。畳や廊下を布で丁寧に拭いたが、さほどに綺麗になったとは思えぬ。せいぜい、埃が取れた程度だろう。

 だが、それでいい。何一つ、この屋敷に未練は残さぬつもりであった。

 仙台に来てからの数年を、ここで学問と剣術に励んだ。

 若手の俊英として最初の一、二年は博学であり、剣の達人でもあるとして、将来を有望視された。江戸への遊学も何度か許され、当主の参覲の折に江戸に従った機会もある。 

 が、その間、一家臣として伊達家を内から見るに、いかに政が疎かにされ、家中が弛んでいるかを感じていた。商人たちから重職たちに、多額の金子が渡ってもいる。

 当主の重村も、江戸と仙台を往復する中で、同じ想いであったのだろう。故に、家中の意見を集めた。学問と武勇を好む、英邁な君主である。

 が、君主が英邁だからといって、国元の匙を握るのは家老たちであった。執政を握る立場が保守的で、己の利と保身のみに精を出しては、政が変われるはずがなかった。

――政を学んだ。見せて貰うた。

 仙台での数年は、力を蓄えていた時間だと考えることにした。禄を貰いながら学問と剣術に精進し、執政の良い面、悪しき面を十分に見られたと思う。

 もっとも、政の深くまで覗き見られたは、姉の清や友諒のおかげであった。

 この先に何があるか見えておらぬが、子平の人生にとって仙台での数年は、決して無駄ではなかったと思う。そう考えると、あれほど腹立たしかった重職の方々にも、感謝できた。

 本当に、心が晴れ晴れしていた。

   6

 大八車と人足を頼み、友諒の屋敷に向かった。といっても、子平の荷物のほとんどは、書物ばかりである。衣服や調度品など、ほとんど持ち合わせていない。

 子平にとって書物から得られる知識は、他の何にも代え難かった。武士の魂たる差料を除けば、家財の中で次に高価なのは、書物である。

 武家屋敷の立ち並ぶ間を進んでいた。子平と気付いた者たちが、訝しげな視線を向けてくる。いつもなら、城に出仕している頃だからだ。

 中には、「何かのお役目ですか」などと、行き交う商人が声を掛けてきた。

 さすがにまだ、子平の禄返上の話は広まっておらぬ。子平は曖昧に流しながら、黙々と足を運んだ。

 四半刻もせぬうちに、屋敷に着いた。

 訪いを告げると、お昌が無精そうに子平を案内した。友諒は、どこぞの病人を診に行っている。

 屋敷内で一番、日が当たらぬ部屋を宛がわれた。恐らくは、お昌の無言の意思表示だろう。お昌としては、子平に早く出て行って貰いたいに違いない。

「子平おじさま、今日から此処に住むの」

 薄暗い部屋で書物を紐解いていると、結太郎が顔を出した。

 前髪をちょこんと下げ、お昌によく似た丸い両目を向けてきた。剃り上げた頭の形は、歪んだ茄子のようである。確か、今年で四歳になったはずだ。

 子平は、結太郎を殊の外、可愛がっていた。

 優しい顔立ちと言われるが、いつも毅然とした仕草の子平は、子供たちから怖がれる機会が多かった。が、不思議と結太郎も、赤子の頃から子平にはよく懐いている。

「そうだ。しばらくは、一緒に遊べるな」

「やった、やった。おじさまと、毎日あそべる」

 結太郎が相好を崩し、畳を跳ね回った。前髪と着物の裾が、同時に上下している。

「ただし、儂が書見をしておる時に邪魔をしてはいかんぞ。その時は、静かにしておれ」

「わかった。じゃまは、しないよ」 

 どうやら子平を歓迎してくれるのは、今のところ、この甥一人であった。

   7

 一度、禄を離れると、金はないが、時間だけは無限にあるように感じられた。

友諒の屋敷に世話になっているので、食うにも困らない。お昌の冷たい視線さえ気にしなければ、あれほど恋い焦がれていた書見も誰にも邪魔されず、夜通しででも行えた。

 たまに結太郎の遊びに付き合うのが、唯一の義務である。

 いつでもできると思えば、書見も長くは続かなかった。無禄になって半月も過ぎると、子平の楽しみは、専ら釣りに移った。

 夜明け前には竿を肩に、作並街道沿いの林に入った。深い渓谷の岩場を物ともせず、子平は黙々と歩いた。足場が悪い分、釣り場の競合は少なく、山女魚などが面白いようによく釣れた。

 もちろん、ただ遊んでいただけではない。己の今後の身の振りを、じっくりと考えていた。

 宝暦十三年(一七六三年)の年が明けていた。

「子平。今から出る。少し、手伝え」

 友諒から、往診を手伝うように命じられた。友諒は、江戸の町医者だった養父の影響から、侍医となった今でも、身分に関係なく往診を引き受けている。

 家長であり、扶養者である兄の言には当然のことながら、逆らえぬ。子平は薬箱を手に、友諒の背を追った。

 三歳から町医者に育てられた縁で、後継ぎの友諒ほどではないが、子平も幼い頃から医術を学んでいた。助手くらいなら、十分に務められる。

 一昨日から降り続いていた雪は今朝早くには止み、日の出を待ちきれずに、辻では皆が総出で雪掻きに精を出していた。武家や百姓、町人だろうが、雪は容赦しない。どの屋根も、圧し潰されんばかりに積もっていた。

 冬の陽光が溶け出した地面を照らし、ところどころ煌めいていた。踏み出した草鞋がザクッ、ザクッ、と雪に減り込む。

「今まで何も申さなかったが、お主はこれから、どうするつもりだ。このまま毎日を、書見と釣り三昧、という訳にもいくまい」

 胸を張って前を行く友諒が、斜め後ろを振り返った。声を掛けられた時から気づいていたが、友諒は子平に話をするために誘っている。

「兄上には、真に厄介を掛けて、申し訳ありませぬ。こちらから申し上げるところでございましたが、雪解けと共に旅立つ所存にござる。まずは奥州各地を回り、江戸を目指そうと思います」

 見聞を広め、旅をしつつ、まずは江戸に行こうと考えた。漠然と何かが見えている訳ではないが、江戸は日の本の中心である。書物や情報もむろん、一番集めやすいはずだ。

「やはり、そうであったか。無禄になった浪人が職に溢れずに暮らせる町など、江戸か大坂しかあるまいとは思うていた」

「儂は、江戸と仙台しかわかり申さぬ。諸国を見て歩き、これまで書物で得た知識が、果して正しかったかどうか、見極めとうござる。また、百聞は一見に如かず、と申しますれば、己の目で見られる物は、直に見たいと思います」

 書物で得た知識を、直に見て接し、経験に変えようと思っていた。為政者が領内を見て回らず、頭だけで生の政を決める愚を、知り抜いていた。

「良い心掛けじゃ。せっかく志を立てて己の道を選んだのだ。必ず、何かを成し遂げよ。儂にはできぬが、お主の思い切りの良さ、自由な生き様を羨ましく思う。負けるなよ、子平。他人にではない。己に負けるな、子平」

「『己に負けるな』ですか。多くの患者を診てこられた、兄上らしいお言葉ですな。奥深い気がします。よくよく、肝に命じておきましょう」

 考え方は正反対といっていいほど違う兄弟であったが、心の奥底では互いを認め合えていた。

 周囲に敵を作りやすい子平だが、強力な味方にも恵まれているのは、本当に有難かった。

   8

 睦月も半ばを過ぎた。

 子平は明朝、旅立つ。

 夕餉の後、友諒の居間に呼ばれた。お昌と結太郎も、同席している。

 結太郎は子平と別れる状況が寂しいのか、突っ慳貪な挨拶をした。

 反対に、いつもは無愛想なお昌が、何やら頬を緩ませていた。余程に、厄介者の子平が出て行くのが嬉しいと見える。

「些少だが、蓄えの足しにせよ。それから、これも持って行くがいい」

 友諒が巾着袋と薬箱を手渡してきた。子平は思わず、手に取る。

「兄上、こんなにも頂けませぬ。反対に、これまでご迷惑をお掛けした分を、お渡しせねばならんほどです」

 巾着袋の重みが、ずしりと手の平に圧し掛かった。かなりの額だ。恐らくは、友諒の半年分くらいの給金にはなろう。

 傍らから覗くお昌の切れ長の両目が、大きく見開かれていた。先ほど緩んでいた頬が、怒りで強張っている。

「良いから、取っておけ。儂は毎年、決まった額の役料を頂ける。が、お主はこの先、己の才覚で金子を稼がねばならん。銭を持っていて、困る状況にはなるまい。薬も、いざとなれば、売れる」

「それでも、多過ぎます。お気持ちは頂きまするが、儂にも今までのお役目で、多少なりとも蓄えがござれば」

 友諒も侍医とは申せ、弟子や小者も抱えて決して余裕のある暮らしぶりではなかった。その上、御家の財政事情で、俸禄の四分の一は、数年前から借り上げになっている。

「喧しい! たまには、素直に兄の命に従え。よいな、子平。儂は、お主の今後の活躍に期待しておるのじゃ」

 滅多に声を荒げた機会のない友諒に、子平はもちろん、お昌と結太郎も飛び上がった。

「儂も威厳を見せようと思えば、これくらいの声は出せるぞ」 

 皆が驚いた姿を見渡し、友諒がにんまりと笑みを浮かべた。

「……では、有難く頂戴致します。真に、兄上には何とお礼を申したらよいか……」

 発した言葉の端が、震えていた。目尻が熱くなり、滴が滲んでいる。

「姉上やお清ノ方にお会いする機会があれば、良しなに伝えてくれ。多智には、儂から伝えておく故」

 二人の姉は江戸で、妹は伊達家の家臣に嫁いでいた。仙台に移住してくる折が、兄弟が皆で揃った最後である。

 此度、国を出れば、もはや生きては戻れぬやもしれなかった。今の此の時が、兄や結太郎との今生の別れとなるやもしれぬ。


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