後編
目を覚まして、王様はゆっくりと伸びをした。それから後ろ脚を長々とのばして、爪のあいだまで丹念に舐めた。そうしながら、心の隅に奇妙な不安が居座っているのを感じていた。だからこそ、かえって丁寧に毛繕いをした。自分の心を落ち着かせ、感覚を研ぎ澄ませるために。
なぜあのような古い夢を見たのか。
王様は考えた。考えて、ゆっくりと立ち上がった。夢の中からずっと、いやな臭いがしていた。初めて嗅ぐのに、よく知っているにおい。
王様は昂然と顔を上げて、彼専用のドアへと向かった。慎重に、足音を殺しながら。慌てて走っても意味はなかった。どのみち自動扉はすぐには開かない。
格納庫を出て、通路をずっとまっすぐに歩く。いつになく、空気が荒んでいた。行き交う乗組員たちの表情がどことなく暗く、硬い。道すがら、ささやくような抑えた声での口論が幾組も聞こえた。あるいは憮然とした沈黙の気配が、そこここからかぎ取れた。
何がきっかけだったのかはわからない。おそらく、船の中にいる誰にもわからないだろう。苛立ちは伝染し、疑念を呼び、気がつけば誰もが、隣に立つ誰かをぎこちなく警戒している。
彼の友達も、その中にいた。交替の時間なのだろう、見たこともないような暗い目をして、鈍い足取りで機関室に向かっている。王様は通りすがりにそのふくらはぎめがけてパンチを繰り出した。
――しっかりせい。
小さく悲鳴が上がったのを聞けば、少々手加減が足りなかったかもしれないが、王様は特に反省しなかった。何するんだよ、ナツという声が背中から追いかけてきたが、それも聞き流した。
通りかかった二人組の整備士のあとに続いて、王様はエレベータに飛び乗った。それまで何か言い争いをしていたらしい二人組は、あっけにとられて喧嘩を中止すると、ぽかんと王様の背中を見つめた。
食料庫は最下層。下っぱ整備士が頻繁に備品を取りにゆかされる備品庫の、すぐ隣だ。身を低くして食料庫に向かう王様の背中を、整備士たちは不思議そうに見送ったが、彼は振り返らなかった。
だが、いざ食料庫に飛び込もうとして、王様は脚を止めた。ここではない。
グラ・エジュパは食料庫に出ることが多いという。船に積まれている食糧や水を汚染して、病を広げるのだと。どれほどセキュリティを高め、監視を厳しくしても、まるで湧いて出るかのように忽然と現れる。そういう話を聞き知っていたから、王様は、てっきりここだと思ってやってきた。
だが嫌な臭いは、隣の部屋からしていた。
次期女王の眠る、コールドスリープ・カプセル。彼がかつて愛した雌に少しだけ似ている、まだ一度も話したこともない猫の姿を、王様は思い浮かべて、表情をけわしくした。
いまこそ彼女を護らねばならぬ。そうでなければ自分はいったい何のためにこの船にいるのか。
王様は無音で自動扉に忍び寄った。瞳孔は縦に細く絞られ、尻の筋肉には力が溜められている。
尻尾を振って、彼は、間合いを計った。自動扉が開くまであと三秒、二、一。
扉の隙間を風のように走り抜けて、王様は、影に飛びかかった。
背筋の凍るような悲鳴が上がる。街のドブネズミのような、キーキーと甲高い声ではない。もっと低く、重く、世界中のあらゆるものを呪う声だった。
反射的に飛び離れながら、王様は負けじと唸った。気づかれないうちに襲いかかって一度で仕留めるのが上策。それが失敗した以上、気配を隠す意味はない。獲物をとらえたはずの爪に手応えはなく、つめたい霧のような、正体の知れない感触だけが残っていた。
毛を逆立てて、低く、長く、彼は唸った。街での喧嘩を思い出して血を騒がせるような余裕は、どこにもなかった。
非常灯の薄明かりでも、猫の目には室内のようすがよく見える。だがいまは、その中央、コールドスリープ・カプセルのすぐ傍に、闇が凝っていた。
何かがそこにあることはわかる。だがその輪郭は、茫洋として知れぬ。じっと見つめれば不確かに揺らぐ。
これがグラ・エジュパか。王様は頭を低くし、これ以上ないほど尻尾を膨らませて、再び間合いを計った。
影はじっとしている。逃げだそうとする気配もなければ、こちらに襲いかかってくる様子もない。
――ナゼ人間ナドニ使ワレテイル。
人間の言葉ではなかったし、もちろん猫の言葉でもなかった。これまでに聞いたことのない種類の言語。だがそれでも、王様には意味が分かった。
目の前にいる小さな影。これが喋っているのだ。その事実を、王様は受け容れた。
グラ・エジュパが口をきくなんていう話を、彼は聞いたことがなかった。だがそういうものかもしれない。彼がこの怪物について伝え聞いたのは、すべて人間たちの語る内容ばかりだった。人間はどうしようもなく鈍い。あの日、船長がナツの言葉を理解しなかったように、暗闇の底からわき出でた小さな怪物の言葉を、聞き取ることができなかったとしても無理はない。
――使われているわけではない。
猫の言葉で、王様は答えた。グラ・エジュパには、それでも通じるだろうという予感があった。実際に、小さな怪物は不愉快そうに身じろぎをして、低く囁いた。
――イイヨウニ飼イ馴ラサレテイル。餌デ釣ラレ、肥エフトッテ。
王様は鼻に皺を寄せて不快の念を示した。このごろ少々肥り気味なのは事実だったから、痛いところをつかれたと思ったのだ。だがそれ以外の点において、この悪い魔法の手先の言葉は、少しも彼の心を揺さぶらなかった。
――望んでここにいるのだ。己の意思で、護りたいものだけを護っている。誰も私に、ものごとを強いることはできぬ。猫とはそういうものだ。
――護リタイモノトハ、コノ猫ノコトカ。
暗闇の中で、グラ・エジュパは嗤った。狡猾そうな笑みであった。それから、呪詛のような怨嗟のような暗く低い声で、滔々と続けた。
――モトヨリ我ラノ狙イハ人間ドモダ。オ前タチガホンノ数日、我々ノスルコトニ見ヌフリヲスルナラバ、オ前ニモコノ雌猫ニモ、手ハ出スマイ。
悪い条件ではないだろうと、怪物は囁いた。
――彼女だけでは十分ではない。この船の人間にも、手は出させぬ。
――哀レダナ、愚カナ猫ヨ。護ル価値ノアル人間ナド、ドコニイル。連中ハ、航海中コソオ前ヲ持チ上ゲルカモシレナイガ、ヒトタビ船ヲ降リレバ、恩ナド忘レルゾ。
王様はわずかにひげを揺らして笑った。
――そうなったら、そうなったときに考えればよい。猫は先のことなど考えぬ。
口ではそう言いながらも、王様の表情には、動揺も疑念も、欠片ほどもなかった。
――大シタ信頼ダ。
小さな怪物は吐き捨てて、暗くくすぶる熾火のような目をした。王様は油断なくひげを震わせながらも、少し考えて、言葉を足した。
――別に、人間を信じているわけではない。猫にも友情に値する猫とそうでない猫がいるように、人にも、つい助けてやりたくなる相手と、そうでない相手がいる。それだけだ。
言いながら、王様は尻を震わせた。爪の手入れは十分だった。野生でなくなっても、爪も牙も、その鋭さは失われていない。
――眠っている猫にしか手を出せんような臆病者が。こざかしい理屈を捏ね回して、私の隙を突けるとでも思ったか。
王様は爛々と金色の目を光らせた。彼は、そう、怒っていたのだった。
――恥を知れ。
ひときわ大きな声で吼えて、王様は後ろ脚に力を込めた。
勝負は一瞬だった。
よく撓めた発条のように、王様は飛び出した。つんざくような悲鳴が上がった。世界の全てを呪うようなその声は、船内の空気を震わせ、室内にはいまさらのように、異常事態を知らせる警告ランプが点り、無線のスイッチが入って慌てた誰かの声がした。
『誰か、その部屋にいるのか。何があった?』
にゃあ、と王様は答えた。ほかに答えようもなかったので。
無線は沈黙し、代わりに誰かの足音が近づいてきた。
人間たちの心から魔法が去って、ずいぶん久しい。科学では説明のつかない現象が、何度繰り返されたところで、信じない者は信じない。たとえ厳重なセキュリティに護られているはずの部屋で、防犯カメラに得体のしれない影が映っていようとも。奇妙なことに、そのタイミングで船中の乗組員が、同時に口論をはじめ、皆があとになって首を傾げていようとも。
グラ・エジュパなんていうものは、ただのおとぎ話だと、彼らは言う。どこにでも怪談が好きな連中がいて、自分たちの信じたいように事実を曲解し、ねつ造して、面白おかしく語るのだと。
もう少し柔軟な頭を持った人々は、センサーやカメラの記録を分析しながら、ひっきりなしに首を傾げている。
「やっぱりどう見ても、王様が飛びかかった直後には、煙のように消えているんだよなあ」
「ごみとか、虫とか、そういうものが映り込んでいる可能性は?」
「登録認証タグが埋め込まれていないかぎり、虫一匹だって、こんなところに入り込めはしないよ」
「王様が入るのと同時に、ぴったりくっついて猫用の通路から滑り込んだとか」
「それもない。真っ先に解析したよ」
どう見ても、何もないところに忽然と出現したとしか考えられないと、分析斑が首を傾げている。
「実体がない?」
「いいや。重量センサーにはしっかり引っかかってるんだ。コールドスリープ装置のログにちゃんと残ってる。そうだな……ハツカネズミ一匹分くらいの体重かな」
議論を聞き流しながら、王様は欠伸をした。騒々しくなってきたから、どこか静かな場所に移動しようかと、眠気のさした頭の半分で考えながら。残りの半分は、珍しく働いて疲れたので、このまま眠ってしまいたいと考えている。馴染みの整備士から豪華なおやつももらったので、腹はいっぱいだ。
「どこから入ったかは置いておいても、あとかたもなく消えたっていうのがなあ」
「王様が食っちまったんじゃないのか」
にゃあにゃあと、王様は不機嫌な声を出した。猫を何だと思っているんだ。あんなまずいもの、食べちまったら腹を壊すだろうよ。と言ったつもり。
だがやはり鈍い人間どもは、王様の言葉を理解しやしない。騒々しくて彼が機嫌を損ねたと思ったらしく、気を遣って、少しばかり声をひそめた。まあそれはそれで結果オーライだと、王様は思うことにした。
彼の友達も、部屋の隅のほうで議論に耳を傾けていた。最初は話に加わっていたのだが、いっときすると見切りをつけたのか、ひとり輪から外れて、王様の寝床に近づいてきた。
ひょろ長い新米機関士は、うとうとしかかった王様の傍にぺたりと座り込むと、彼の耳の後ろをひとしきり掻いて、
「やっぱりナツは頼りになるなあ」
そう感慨深げに呟いた。
にゃー、と王様は答えた。まあ、お前が分かっていれば、それでいいさ。
どこまで彼の言葉を理解したかは知らないが、彼の友達はいっとき王様の喉を撫でたあとで、思いだしたように整備服の上からふくらはぎのあたりをさすって、小さく苦笑した。
「でも、さっきはちょっと痛かったよ」
その言葉には、王様は、返事をせずにそっぽを向いた。
議論は終わるそぶりを見せない。