前編
猫の王様は働かない。なぜというなら王様だからだし、猫だからだ。
面倒くさい仕事はすべて臣下に丸投げするし、それほど面倒くさくない仕事でも、まあたいていは押しつける。王様のすることといえば、どうしても王様自身がしなくてはならないことだけだ。すなわち寝ることと、食事を摂ることと、グラ・エジュパを狩ること。
グラ・エジュパは宙飛ぶ船に居座る怪物だ。図体こそ小さいが、死病の種を運び、食糧を食い荒らし、人の眠りに滑り込んで悪夢の種を植え付けて、乗組員たちの心を惑わす。この化け物に支配された船では、船乗りたちは仕事をしなくなる。怠け、妬み、互いを見下し、ささいなことで口を極めてののしりあう。被害の半分くらいはねずみのしわざに似ていることと、目撃情報からするとある種のネズミと同じくらいの大きさと推定されることから、宇宙ねずみと呼ぶ者もいる。
人間たちの心から魔法が去り、かわりに科学技術が幅を利かせるようになってから、ずいぶん長い年月がたって、とうとう人類が自由に宇宙を旅して回るようになったころ、忘れ去られたはずの魔法の逆襲が始まった。科学では説明のつかない怪奇現象が、大宇宙時代の人々を襲ったのだ。
グラ・エジュパの存在も、そのひとつだ。
そんなものはただのおとぎ話だ、人間の精神が見せる幻覚だと言う者もいる。集団心理が作り上げた都市伝説だと。
だがこの怪物はセンサーに捉えられる。実体があるのだ。生身のくせして隔壁の、格納庫の、食料保存庫の、厳重すぎるほど厳重な警備を突破して、どんな場所にでも入り込む。それでいて、退治されればその場で幻のように消失し、何の痕跡も残さない。しかも記録映像に残そうとすれば、なんだかよくわからないあいまいな靄になってしまう。実はどこかの国の軍事兵器で、電磁的迷彩がほどこされているのではないかという説もある。だがどのような科学技術をもってすれば、何ら化学物質を残すことなく消失してのけるのか、説明できた者はいない。
だから宇宙船乗りたちは、この魔法の鼠の存在を、ひどく恐れ続けてきた。手のひらに乗るほどの大きさのくせに、宇宙船一隻に暮らす幾十人、幾百人もの人々を、悪くすればわずか数日で根絶やしにしてしまう、おそろしい怪物を。
鼠退治には猫の力を借りるものだ。それは人類が宇宙に飛び出すよりも、ずっとずっと昔からの、変わらない約束。
かくして宇宙船には猫が乗るのが定法となった。何人も、猫を載せずして外宇宙を旅してはならない。たとえ猫アレルギーの乗組員がいようとも。どんなに猫の毛が機器類に入り込んで、故障の原因になろうとも。
広大無辺の宇宙を旅する御殿のひとつ、連邦の技術の粋を集めて建造された外宇宙探査船キュロス号にも、お定めのとおり、王様がいる。
ぱっと見には黒猫のようだが、被毛を掻き分ければ根元近くにゆくほど白くなる。もし五分刈りにすれば、きっと白猫に変身できるだろう。胸のところに一筋、三日月のような形をした白い模様がある。
猫だというのにその体重は十五ポンドを超え、ボス猫にふさわしい大きな顔の中で、金色の目が鋭く光っている。なかなかの男ぶりである。
今日も王様が通りかかったのを見て、整備主任が手を止め、帽子を脱いだ。「やあ、王様、今日もご機嫌ですね」
宇宙船の中で帽子を被るいったい必要がどこにあるのかと思うようだが、これは抜け毛を機器の中に落とし込まないようにという整備士の知恵だ。しかしながら王様は帽子などという面倒なものは被らないので、猫の毛は容赦なく落ちる。だから整備士たちはいつでも大わらわである。それでも主任は王様に頭を下げる。ものの道理のわかった人間である。
臣下のあいさつに鷹揚にうなずいて答えると、王様はぴんと尻尾を立ててパトロールを続行する。王様は船内のどこでも自由に歩き回ることができる。そうでなければグラ・エジュパを狩ることなどおぼつかない。なんせ相手は、船のどこにでも忽然と現れる魔法の生きものだ。
王様の行く先々で、小さな自動ドアが、音も立てずに開いてゆく。彼専用の通路だ。王様の首のところには、目に見えない小さなチップが埋められていて、これが鍵代わりになっている。ところによっては気密の都合で二重扉になっているから、開ききるまでに時間がかかるのだが、王様は王様なので、慌てず騒がず、泰然と待っている。
船内の多くの部署には、きちんと王様のための食事と水と、猫砂とが常設されている。その休憩所のひとつで、王様はおもむろに脚を止めると、掃除していた新米操縦士ににゃあと声を掛けた。「くるしゅうない」と言ったつもりである。
新米は猫好きなのか、でれでれと表情を崩したが、王様には敬意を払うように教育されているので、我を忘れて撫で繰り回したりはしない。代わりにポケットから取り出したおやつを、うやうやしく差し出した。
中には言いつけを破り、ろくすっぽ王様に敬意を払おうとしない無礼な連中もいるのだが、彼らの物言いについて、王様はすべて寛大に聞き流すことにしている。下々の者に悪口を言わせておくのも、王たるものの度量のうちだ。
ほかにも二、三、忠実なる彼の臣下にねぎらいの声を掛け、ちょうど掃除の済んだばかりの猫砂で用を足して、味の異なるみっつのフードにそれぞれ鼻面を突っ込んだあとで、王様は船の最下層へと向かった。
食料庫のとなり、よく空調の効いた、静かな部屋である。いや、静かと言っては語弊がある。部屋中を占拠するいくつもの機械がごんごんとうなりをあげて作動している。しかしその部屋には人がいないので、相対的に静かに感じられる。
部屋の中央、いくつも並んだ箱がある。ちょうど人間ひとりが入るほどの大きさだ。箱は箱でも、頑丈なフタがされている。
フタにはのぞき穴が空いている。王様はひょいと飛び乗って、そこから中をのぞき込んだ。きれいな長毛のサビ猫が、静かに眠っている。彼女の瞳がどんな色をしているのか、王様は知らない。
この眠り姫が何者なのかというと、彼の次の王様候補である。雌だから、女王候補というのが正しいかもしれない。コールドスリープ装置の中で、寝息も立てていないから、まるで死んでいるかのように見える。しかしながら表情は穏やかで、ご機嫌でうたた寝をしているかのよう。
猫というものは、人類の進出した惑星であればたいがいの土地にいるけれど、船の守護がつとまるほどの立派な猫は、そこらから簡単に集めてこられるわけではない。そして船旅はしばしば長い年月にわたる。だから探査船には、必ず、後継者が一緒に乗り込むきまりになっている。
王様はにゃあと一声鳴き、いっとき待って、また鳴いた。それを何度か繰り返してから、少しばかり苛立ったように、爪で窓をひっかいた。コールドスリープ・カプセルはあいにくと、猫の爪で開けられるようなやわなつくりをしてはいない。
あきらめて前脚を止め、ひとしきり眠れる美猫を見つめたあとで、王様は箱から降りた。
王様は賢い猫なので、自分が生きているうちに彼女が目覚めることがないことを知っている。
それでも王様は、毎日この部屋に通う。知っているのとあきらめがつくのは、べつのことなのである。
日課のパトロールを終えて、王様は寝床に戻る。王様の寝床は船内いたるところに据え付けられているが、近頃のお気に入りは非常用脱出艇の格納庫だ。船橋や食堂はしじゅう騒がしくていけない。少し前までは女性クルーの私室にお邪魔していたのだが、最近彼女の恋人が出入りするようになって辟易しているのだった。
寝床の箱の中で何度か姿勢を変えて、しっくりくる位置に納まると、王様は、ふんと鼻を鳴らして目を閉じた。
グラ・エジュパは今日も出なかった。
王様がキュロス号に乗り込んでから、はや一年あまりが経つが、王様はいまだに魔法のねずみに出会ったことがない。この船は規模のわりにおおむねクルー同士の仲が良く、人の目と清掃とが行き届いている。そういう船に、グラ・エジュパは居座りづらいのだという。
平和である。何よりのことだ。
だがしかし、と王様は思う。それならばなぜ、自分はここにいるのだろう。
助力を請われ、彼なりに納得して就いた王様業ではあるものの、何ともつまらないものだ。軒下で暮らしていたときのほうが、よほど気楽であった。
王様が王様になる前の名前を、ナツという。
まだ王様でなかった在りし日のナツは、とある辺境惑星の温帯地方にいた。地方都市の裏路地で毎日尻尾を立てて闊歩する、由緒正しき野良であった。
野良なのに名前があったのかと問うのは野暮である。野良であっても人間の友達はいる。
夏生まれだからナツだった。彼が生まれたのは、古びた家の軒下だ。
その家で暮らしていた人間の一家が食べ物を分けてくれなかったら、いまの彼はない。母は見事な毛並みの黒猫だったが、産後の肥立ちが悪く、彼と彼の兄弟を産んだ後、まもなく息を引き取った。彼には三匹の兄弟がいたのだが、生き延びたのは彼だけだ。
生まれたその軒下を拠点とし、彼は日々熱心に、近所をパトロールしてまわった。ときにはほかの野良猫たちと雌やナワバリを争って戦い、その多くを実力で勝ち取ってきた。
ハンターとしても、彼は優秀だった。ほんの仔猫だったころを別とすれば、たとえ食事を人間に頼ることがなかったとしても、さほど食うに困ることはなかったであろう。
だがそれでも恩は恩、友達は友達である。母親を亡くした寄る辺なき子猫が、独り立ちするまでのいっときの間、食べ物を分け、名前をくれ、頭を撫でてくれた。喧嘩をして帰ってきたときに、傷口に強烈なにおいのする消毒薬を振りかけられたのだけは、少しばかり閉口したが。
仔猫時代に世話になった人間への恩返しとして、あるいは友達への義理立てとして、いま、彼はここにいる。ねぐらにしていた家の長男が、いまや機関士となって、この船に乗り組んでいるからだ。
猫は恩を知らぬと誰が言ったか、王様は知らぬ。
ふつう船を守る猫というのは、専用の施設で生まれて、幼いうちからいつかそうなる日のために育てられることが多い。とはいえ、元野良につとまらない役目というわけではない。キュロス号の船長は、新米機関士に引き合わされたナツをひと目見るなり、いい顔つきをしているなと目を輝かせた。ボス猫というより、王様の貫禄だ。それにこの胸のところの白い模様も、強そうでいい。ツキノワグマみたいで頼もしいじゃないか。
うーうにゃななにゃうにゃー、とナツは答えた。ナワバリを離れるのは本意ではないが、そこの背丈ばかりがひょろひょろと高いひ弱な我が友が、是非にと助力を請うならば、船に乗るのもやぶさかではない。なぜならばそのひょろ長いのに、私は恩があるからだ。
だがその堂々たる口上を、船長はろくすっぽ聞いていなかった。はは、この猫なにか喋っているぞと、楽しそうに彼の口元をつついた。何とも無礼なことではある。
人間というものは、いかにも鈍い。日ごろからなにやら賢しげなことばかりしているくせに、猫の言葉くらい理解してもよさそうなものだ。
まあそれはいい。
ともかくそういうわけで、王様は王様になり、ねぐらを小さな一軒家の軒下から、外洋探査船へと移す運びとなったのだ。
この空飛ぶ御殿に移ってから、皆が王様と呼ぶから、彼はときどきうっかり自分の名前を忘れそうになる。
ナツと呼ばれるのと王様と呼ばれるのと、どちらがより自分にとって、居心地のよいことだろうかと、半分眠りに落ちかかりながら、彼は思った。
そんなことを考えながら眠ったせいか、王様はこの日、夢を見た。
ネズミの夢だ。生まれ育ったあの街に、グラ・エジュパはいなかったが、小型犬ほどもあるドブネズミならわんさといた。ナツは優秀なハンターだった。住処のまわりで見かけたなら、自分の体より大きな相手にでも、ためらわず襲いかかり、確実に仕留めてきた。
だがやつらは狡猾だった。
夏の、夜のことだった。ナツはナワバリの公園をパトロールしていた。いつもはさっと見回るだけで済ますのに、その日に限って脚を止めたのは、異臭がしたからだ。
いやな予感にかられて、彼は身を低くした。それから足音を殺して、そろそろと、においの元に忍び寄った。それは公園の端、低木の植えられた花壇のあたりからしていた。
そこで彼は、悪い予感が当たったことを知った。
茂みの中で、一匹のサビ猫が死んでいたのだ。その美しさで近所中の雄の心を奪い、熾烈な争いを巻き起こした雌猫。四月ほど前に彼の子を産んだ、猫だった。
月の明るい夜だった。彼女の亡骸には、ネズミに囓られた跡がいくつもあった。持ち主の違う、何種類もの歯形にむしり取られた傷口。子どもを育てるのに力を使った雌猫が、よくそうなるように、前に見たときよりもずいぶん毛づやが悪くなり、痩せていた。
動かなくなった彼女をじっと見つめたあと、ナツはそっと、その場を離れた。近づいて別れのあいさつをするような真似はしなかった。それが猫の流儀だからだ。死にかけている、あるいは死んだ仲間には、心のうちがどうであれ、素知らぬ顔をすることが。
子猫は生き延びただろうかと、公園から遠ざかりながら、ナツは思った。
近くに死体は見当たらず、もう独り立ちしていてもおかしくない月齢ではあったが、真相を確かめるすべはなかった。その後に彼が自分と同じにおいのする若猫に会うこともなかった。
もしもその場面に間に合ったのなら、ナツは彼女に加勢して戦っただろう。相手がどんなに多勢でも、自らの命を引き替えにしてでも、彼女を護っただろう。だがこうなった以上、彼はもう、ドブネズミたちを恨むことはしなかった。
自分もネズミをさんざん狩って血肉に変えてきた。彼もネズミも、生き延びようとした。そういうことの結果があるだけだ。
だから船長の求めに応じてこの船に乗ったのは、何も、仇討ちのつもりというわけではなかった。街のドブネズミのかわりにグラ・エジュパを狩ろうとしたわけではなかったのだ。
ナツはただ今度こそ、護ろうとしただけだった。彼の二本足の友人を。