父と龍
どうしても忘れられない雪の日の風景がある……あの日、俺はドラゴンスレイヤーとしての禁を犯した。
思い出す風景の中、深く積もった雪の中に大きな緋色の龍が倒れている。それはついさっき俺が仕留めたもので、すでに息はない。
新たに降り始めた雪が濃い朱色の鱗の上にちらちらと降りかかる。さらりと目の細かい粉雪は風に吹き飛ばされながら、それでも冷たい龍の死体にしがみつくようにして積もる。
だが俺の目に映っていたのは雪に埋葬されてゆく死んだ龍ではなく、その大きな体に取りすがっている仔龍のしぐさだった。
その仔龍は呼吸でも確かめようとしているのだろうか、動かなくなった母龍の鼻先に自分の鼻先を擦り付けてしきりに鼻を鳴らしている。まるで泣いているかのようだ。
数いる竜の中でも特に緋龍は情が深いといわれている、親子の情のようなものがあるとも。それもこの光景を見れば合点がいく。
仔龍は母親の死がわからず、突然動かなくなったことに驚き、狼狽している。
――そして、泣いている――
俺は大型犬ほどもある仔龍を抱えて連れ帰り、それから5年間、彼が一人前になるまで育てた。
名前はスノウ、異国で『雪』を指す言葉からとった。
やたらと懐こくて、誰にでも尻尾を振ってすり寄るような、愛嬌のある龍だったっけ……
◇◇◇
「起きてください、やつが来たようです!」
クルストは弟子に揺すり起こされて夢から覚めた。
手早く起き上り状況を確認する。
日はまだ上りきっておらず、野営テントの中は薄暗い。むしろ外の方が明るいのは雪が深く積もっているからだ。
「寒いな」
朝の挨拶より先にその言葉が出てくるくらい空気は冷えきっている。吐く息が白い。
それでも彼は毛皮の寝袋からはい出してテントの外へ出た。
白銀というのはこういった景色を言うのだろう……木々の一本、一枝に至るまでが失った葉の代わりにもっさりとした雪綿を背負って登り始めた朝日の前に立ちはだかっている。細かな氷の粒の一つ一つがレンズのように光を通すから、清々しい白銀の色に世界が輝いているように見えるのだ。
しかしそんな風情を楽しむ暇もなく、クルストは雪中に膝を着いて地面を確かめた。新雪は大きな足跡で踏み固められて荒れている。
「間違いない、やつだ」
不格好に太くて長い三本の指、その先端に爪、そして全体が四角い形は、龍の後ろ足のあとに違いない。
「夜中、この辺をうろついていたんだな」
彼は弟子に命じてテントをたたませた。
このまま足跡を追おうというのだ。
テントを担ぎ上げた弟子はクルストの背中に言葉を投げかける。
「他の龍だという可能性はないのですか?」
クルストには自信があった。
「俺があいつの足跡を見間違えるかよ」
右の真ん中の指が少し曲がっている。これは小さいころに岩にぶつけて痛めた痕だ。
「それに夜中じゅうテントの周りをうろついておきながら、俺たちを食わなかった。龍っていうのは頭のいい生き物だ、テントの中にうまそうな肉が転がっていることぐらいお見通しだっただろうさ」
特にスノウは賢い龍だった。芸はいくつか仕込んだが、そのどれもをすぐに覚えた。
クルストが特に気に入っていたのは『ちょうだい』である。これは前足を胸の前にそろえて出すだけの簡単な動作だったが、スノウがやると非常に愛くるしい。
バカでかい図体をした龍が小動物のような姿勢でちょこんと座って、首をかしげて何かをねだるのだから、その滑稽な不釣り合いさが見る者の頬を緩ませるのだ。
この芸で彼が村中の者からどんぐりやら、食べ残しの骨などの『褒美』をせしめていたことを、クルストは知っている。
しかし、それを咎めたことはない。ただ見て見ぬふりをして、村人のスノウに対する警戒心がほぐれるままにしていたのだ。
「あいつは……本当に賢い子だった」
雪道を歩きながらクルストが弟子に語る。
「手加減というものを知っていた、俺たち人間がもろい生き物だと知っていたのさ。だからあいつが人を傷つけたことはない」
弟子はかじかんだ指先に息を吹きかけながら師の言葉を聞いている。
それはもう何度も聞かされた話だが、まるで初めて聞いた話であるかのようにふるまうのも弟子の務めだと心得ているのである。
クルストにしてみれば、半ば自分自身と会話しているような具合であった。
「だから、あのスノウが人を傷つけるわけがないんだ……絶対に!」
この北の山に住む緋龍討伐の命がドラゴンスレイヤーに伝えられたのは一週間前のことだった。
その名を受けてすぐにクルストは旅支度を始め、弟子を連れて誰よりも早くこの北の山中に踏み入ったのである。
ふもとの村人たちの話によると、その緋龍は人を食いに里の近くまで下りてくる、安心して表に出ることもできないので退治て欲しいということであった。
もちろんクルストは信じている。スノウはただ、人恋しさに山から下りてきただけだと。それでも彼が龍であることは間違いがないのだから、万が一ということも……
「その時はきっちりと仕留めてみせる。それが禁を破った俺への罰だ」
ひそうな表情を浮かべる師に対し、弟子はどこかのんきであった。少し間延びした口調で尋ねる。
「でも、あの龍は、人を食ったんですよねえ」
「そんなバカなことがあるか!」
間髪いれぬ師の言葉。
「龍が人食いだなんていうのはただの言い伝えだ」
「でも、実際に食われた人がいるって……」
「それこそが嘘なんだ。村の近くに自分たちの生活を脅かしかねない大きな生き物がいたら誰だって不安だ。そこに住むものは最優先でこれを排してほしいと思うだろう。しかし、国命が下るのは人食いドラゴンに対してだけだからな、そりゃあ嘘もつくだろうさ」
「じゃあ、俺らドラゴンスレイヤーに退治されるドラゴンってのは……」
「いや、ドラゴンが人を食わないとは言わない。あいつらは肉食だ。だけど人間だけを選り好みして食べるわけじゃなく、牛を食う、熊を食う……そういったことと同じ感覚だろうよ」
弟子がそれに返した言葉は残酷な真理、クルストの心を深くえぐる。
「じゃあ、俺らは何のためにドラゴンを殺すんですかね」
「なんのために……」
ドラゴンの肉は固くて臭く、食用に適さない。人の体を温める毛皮があるわけでもない。
だからクルストは、すぐには答えられなかった。かつての若かった自分がドラゴンスレイヤーになったのが金のためだったとは、この若者に聞かせたくなかったのである。
サクサクサクと雪を踏み分けてクルストは進む。弟子はその足跡を踏むようにしてひょいひょいと歩く。柔らかい雪が辺りの音を吸い込んでしまうので、ここにはその足音きり音というものは存在しない。
その静寂の中でクルストは、かつての自分の師を思い出していた。
――ああ、かつて俺もこうやって師の後をついて各地を回ったな。
その頃の彼はこの弟子よりも若かったが、叩き込むようにして教えられたドラゴンスレイヤーの心得は何一つ忘れてはいない。
かつて師は言った。「ドラゴンスレイヤーとして最大の禁は龍に情けをかけることだ」と。
その禁を犯して母を失った仔龍を連れ帰った日から、彼の苦悩は始まっていたのかもしれない。
「ドラゴンっていうのは本当に賢い生き物だ。スノウは特に賢かった……と。この話はしたことがあったか?」
「いや、たぶん聞いてないです」
うそだ。
クルストがこれから始めるのはかつて一緒に暮らしていた緋龍がどれほど自分に懐いていたかの自慢話で、弟子である彼は師匠が酔っぱらうたびにそれを聞かされているはずなのだ。それでも彼は、まったく知らぬ話を聞くようなそぶりを見せた。
「なんですか、スノウがどうかしたんですか?」
「ああ、あいつは俺の靴を片方隠す癖があってな……」
静かな雪色の林の中、師と弟子の柔らかな会話の声だけが響く。
件の龍もこれをどこかで聞いているだろうか、近づきつつあるその緋色の鱗の気配を、老スレイヤーは確かに感じていた。
◇◇◇
焚火のそばで夕食をとっていた師弟は、ほぼ同時に皿を置いた。
何者かが近づく気配がある。
「これは、スノウ?」
「わからん。だが、油断はするな」
クルストは傍らに置いてあった剣を引き寄せる。もちろん、弟子もそれに倣った。
さく、と雪を踏み分ける音と、何かの獣が木立の陰からこちらを覗き込んでいる気配。
「……かこまれていますね」
「ああ、おそらく狼かなんかだな。やつらは群れで動くからな」
クルストは剣を鞘からぬき、片膝を立てて構えた。
それから傍らの弟子に向かって言う。
「俺の後ろについて来い、狼どもが道を開けたらお前は先に行け」
「いやですよ」
弟子もすらりと剣を抜き、クルストと背中を合わせるようにして構えた。
「以前もそうやって俺を逃がしてくれたことがありましたよね?」
「ならばわかっているだろう、あの時と同じだ」
「同じじゃありませんよ。あのときのあなたは若くて最盛期だったから狼の十や二十、なんでもなかったでしょうけどね、今じゃ歳をとりすぎている……オオカミに食われるのが関の山でしょう」
「だからって、お前を巻き込むわけにはいかない」
「スノウがしでかしたことは俺の責任だから……ですか?」
「……」
弟子はため息をついた。吐き出された温かい息は白い湯気になって大気中に散る。
クルストも同じように白いため息をついた。ただし彼のは、温かい呼気の中に苦悩に満ちた声が含まれたものだ。
「わかってくれ、俺は『家族』を失いたくないんだ」
「それは、スノウも含めてですよね」
あまりに鋭い弟子の言葉に、クルストの剣先が震える。
「あなたが山に入った時から気づいていました。ここ数日、あなたはあの龍を誘いだすふりをしてさらに山奥の方へと誘導しているのだと。殺すためではなく、彼を人のこないところに逃がすつもりなんですよね」
「それを……誰かに……」
「言うつもりなんてありませんよ」
「……ありがとう……」
「だからここであなたを狼の餌にして逃げるようなこともできないんです。俺だって『家族』を失いたくはありませんから」
その時、木立の間から唸り声と共に一頭の狼が飛び出した。
腹がすきすぎて先走ったか、それとも先陣を切ったつもりなのか、どちらにしろ迂闊者の動きに惑わされるクルストではない。気合いと共にそれを斬って捨てる。
しかし、それが狼どもを刺激したらしい。木立のあちこちから唸り声と遠吠えが巻き起こる。辺りが喧騒に包まれる。
「くそ、思ったより数がいる!」
「剣は低く構えろ、敵は四足だからなっ!」
師弟そろって下方四時の方向に剣を構える。
だがそのとき、狼たちの唸り声かき消すように不穏で尊大な声が響き渡った。
「ぐがあ」だか「ごがあ」だか知れぬその声は少し離れた場所から風に乗って届けられただけだというのにひどく力強く、低い。怒りを含んだ低さだ。
狼たちは威圧されたか、木立の間からは沈黙が聞こえるだけとなった。
静けさの中を今一度、声が響く。
「ぐごがあ!」
狼たちが立ち去ってゆくことは、サクサクと雪踏む足音ですぐに分かった。
「あれは……」
「間違いない。スノウの声だ」
彼はさほど遠くない、おそらくはここから少し先にある岩場にでもいるのだろう。しかしそれがわかってはいても、オオカミの急襲を逃れた安堵で膝崩れた師弟には、すぐにこれを確かめに行く元気などなかった……
◇◇◇
翌日、師弟はめぼしをつけていた岩場へと向かった。
緋龍は、やはりそこにいた。
「スノウ……」
クルストの声に鼻息だけで答えた龍は、岩場にたっぷりと積もった柔らかい雪をベッド代わりに眠っている。
「お前は相変わらずねぼすけだな、おい、起きろ」
クルストが鼻先を揺すってやると、龍はようやくに目を開ける。それから大きなあくびをして、目の前にいるクルストに生暖かい息を吹きかけた。
まるで彼を待ちかねていたようなしぐさだ。その証拠に素知らぬ顔をしながら、尻尾の先だけがしきりに揺れている。
だからクルストは龍の鼻先を優しく撫でて声をかけた。
「すまん。寂しい思いをさせたな」
龍が鼻を鳴らして目を細める。
「これからはずっと一緒にいてやる。だから、な、もう少し山の奥へ行こう」
クルストの声に応えたかのように龍が立ちあがった。
その姿を見て、弟子は(ずいぶんと小さい龍だな)と思った。
もっとも彼がこれまで相手にしたことがある竜はたったの二匹、いずれも危険度の高い第一種害獣と認定された龍なのだからただの龍であるはずがない。立ち上がった姿は人間の二倍はあろうかという大龍だった。
それに比べるとこの緋龍は明らかに小さい。大きさだって人間より少し大きいだけだ。
「こんな小さな子供が、そんな悪さをしますかねえ?」
弟子の疑問に、クルストは悲しそうな声で答える。
「大きさの問題じゃない、こいつはずば抜けて人懐っこいからな、人里に下りては遊んでもらおうと、人間を追い回したんだろう」
「ああ、それは知らない人からしてみればただの恐怖ですね」
「こいつを……こんなふうに育ててしまったのは俺だ。だから責任をとる」
「責任……ですか?」
「ああ、俺はこいつと一緒に人のいないところに行って暮らそうと思っている。なあに、俺の腕があれば、こいつと俺が餓えない程度の狩りはできるさ」
「俺は……連れて行ってくれないんですか?」
「お前はこのまま山を下りて暮らせ、俺の家財産はくれてやる」
「しかし!」
「お前は何か勘違いしているぞ。俺は別にお前を捨てようとか考えているわけではない。大事な家族だから、連れて行かないだけだ」
「家族……だから……」
クルストは願っていた。この弟子が普通に人として生き、良き伴侶を得て幸せな生活を送ることを。彼がそのために必要なものをすべて自分から学び終えた大人だとも信じている。
そして弟子は、そんな師の心を読み間違えることなく察した。
「わかりました。たまには会いに行ってもいいですか?」
「その時は酒でも持ってきてくれ、あれだけは自分で作れないからな」
「酒は控えろって医者に言われてるんじゃないんですか」
「まあ、たまにならいいだろ」
二人は笑って肩を叩きあった。
「達者で暮らせよ、『息子』よ」
「そっちこそ、年なんだから体には気を付けてくださいね、『父さん』」
こうして二人はわかれた。
クルストはさらに山の奥へ、尻尾を振りながらついてくる龍を連れて……そして弟子は一人前のドラゴンスレイヤーとして、妻を得て子をなした。
おそらくは二人とも、今もまだ幸せに暮らしているはずである。