あなたにぴったりの靴2
女が一人、小さな小屋の中で作業台に向かって座っていた。
彼女は、靴作りを生業としている。
九つの年から十年間働いた大きな街の工房を後にし、山を三つ越えた場所にある故郷に戻ってきてから、はや一年。
女の作る靴は軽くて丈夫で、しかも足を優しく包んで心地よいと評判だ。
それをどこからか聞きつけた国王陛下の目に留まり、たちまち王室御用達の仲間入り……なんて夢のような出来事は、さすがに起きてはいなかったが。
しかし彼女には、身分に関しては国王陛下にも引けを取らないほどの上客が付いていた。
その上客とは、彼女が師匠のもとを離れてからの最初の客となった人物である。
――否、その者は、“人”ではなかった。
「――おい、靴屋。いるか?」
プキュ! プキュ、キュ、キュ!
夜も更けた頃、ノックもなしに靴工房の扉を開けた者は、足元から上がるキュートで軽快な音とは似つかわしくない姿をしていた。
艶やかな黒髪と白磁の肌を持つ美貌の青年は夜闇を纏い、見上げれば首が痛くなるほどの長身だ。
彼は頭を打たないように大きく腰を屈めて扉をくぐると、プキュ、プキュッと相変わらず可愛らしい音をさせながら、靴職人の女の側までやってきた。
その歩く音が、今青年の長く黒いマントの下に隠された足をどんな靴が包んでいるのかを教えてくれる。
それはもともと靴職人の女が、自分の従妹が生んだ赤子のために作った代物だった。
柔らかい布を丁寧に縫い合わせ、ふわふわのボンボリ飾りをつけたベビー靴である。
そんな小さな靴が、こんな長身の男性の両足にぴったりで、しかも彼がそれをいたく気に入っているだなんて、靴職人の女にとってもいまだに信じ難いことである。
ただし、この日はどこか、青年の足元が覚束無い。
彼は、椅子から立ち上がって自分を迎えた靴職人の女に向かい、僅かに眉をしかめて口を開いた。
「これの履き心地が少しばかり悪くなった。何とか致せ」
「承知しました、魔王陛下。きっとまた、足の爪が伸びていらっしゃったのでございましょう」
靴職人の女は、背の高い美貌の青年――薄い唇から四本の鋭い牙をのぞかせる人ならざる者を見上げ、苦笑した。
そう、彼は人間の世界とは対なす世界――魔界の長たる魔王陛下、その人であった。
一年前の帰郷の道中、ならず者の一味から救ってくれた魔王陛下に、靴職人の女は件の幼児靴を譲った。
彼の体躯は熊のように巨大で、大きな手には鋭いかぎ爪が備わっている。
だというのに、そんな立派な上半身を支える足ときたら、まるで子鹿のようにか細く貧相なのだ。
だからこそ、靴職人の女が赤子のためにこしらえた靴が、ぴったりだったのだが。
魔王陛下はその履き心地と、歩く度に鳴る笛の音をたいそう気に入り、今後彼女を贔屓にすると宣言した。
そしてその宣言とおり、魔王陛下は女の一番の上客となり、彼女が作る靴の一番のファンとなった。
「魔王陛下、こちらへどうぞ。僭越ながら、お爪を整えさせていただきます」
靴職人の女はそう言って、けして広くはない工房の奥のカーテンで仕切られた一角――そこで幅を利かせている大きなソファへと魔王陛下を促した。
ソファは足繁く工房に通う彼のために用意されたものであり、それを調達してきたのは靴職人の女の父親だった。
靴職人の女の他には父親だけが、魔王陛下の存在を知っている。
なぜなら工房を開いてすぐの頃、女はうっかり両名を鉢合わせさせてしまったのだ。
その時、本能的な恐怖で全身を強張らせた父親に対し、彼女は慌てて、魔王陛下に救われて命拾いしたことを打ち明けた。
すると父親はすぐに我に返り、冷静な顔つきで長身の人外を見上げた。
彼の中で、魔王陛下の姿に抱いた戸惑いや畏怖よりも、娘の恩人に対する感謝の気持ちの方が勝ったのだ。
父親は、魔王陛下に向かって深々と頭を下げ、丁寧に礼を言った。
以来彼らは親交を深め、今では時たま酒を酌み交わすほどの仲になっていた。
「魔王陛下、失礼いたします」
「うむ、苦しゅうない」
魔王陛下がソファに腰を下ろすと、靴職人の女は彼の足元へと跪き、まずはそのバンビ的な足からベビー靴を脱がせた。
そして、傍らの戸棚の引き出しを開けて専用のノミを取り出すと、二股に分かれた蹄の表面を慎重に削り始めた。
靴のアフターケアだけではなく、その持ち主のメンテナンスまで請け負うなんて、こんな良心的な靴屋は他にはおるまい。
などと考えていると、靴職人の女の顔は自然と綻んでいった。
最初は緊張するばかりだった魔王陛下とのやりとりに、自分が随分と慣れてしまったことに気づいたのだ。
そんな女の顔を、高い位置からじっと見下ろしていた魔王陛下は、ゆったりとした背もたれに身体を預けながら口を開いた。
「こんなに足に触れさせたのは、お主が初めてだ。我は昔から、この足があまり好きではない」
「まあ、何故でございますか?」
可愛らしいのに、と続けそうになった言葉を、靴職人の女は咄嗟に飲み込んだ。
それはおそらく、魔王陛下が望む言葉ではないだろうと思ってのことだ。
その判断は賢明だったらしく、彼は忌々しそうに自分の足先を眺め、いささか憮然とした顔で続けた。
「ぴったりの靴が、なかったからだ」
女の生家の裏――靴工房のすぐ近くには、昔から枯れ井戸があった。
魔王陛下はその枯れ井戸を通って、ここにやってくる。
――枯れ井戸の向こうには魔物がいる。
そう靴職人の女に語っていたのは、今は亡き母方の曾祖父であった。
曾祖父曰く、自分達の先祖は勇敢な騎士であり、かつては優れた神子に仕えていたらしい。
その神子と、今靴職人の女に足の爪を切らせている魔王陛下が交わした盟約により、人間と魔物の住む世界は完全に分たれ、両者の間で争いが起こることもなくなったのだそうだ。
魔物と相対することがなくなった人間は、時代の流れとともに彼らの存在を想像の産物だと思うようになっていった。
だから、曾祖父の語る話を家族は誰も本気にしていなかったし、靴職人の女も特別興味を抱くこともなかった。
しかし、その曾祖父の言葉を憶えていたおかげで、彼女は魔王陛下に命を助けられることになり、彼との縁が今日まで続いているのだ。
靴職人の女は亡き曾祖父に感謝し、帰郷以来週に一度の墓参りを欠かさない。
そんな彼女の故郷はというと、よくある寂れた小さな村であった。
これといった特産もなく、子供達のほとんどは家計を助けるために幼いうちから周囲の町へと奉公に出た。
こんな村で工房を開いたところで、果たして商売していけるのだろうかと不安を抱えながらも、靴職人の女は退っ引きならない事情で奉公先を後にしなければならなかった。
だがそんな彼女を、十年ぶりの生家は温かく迎え入れた。
かつて納屋であったはずの場所が、小さいながらもすでに工房へと改装されていたのだ。
女は、業界では名の知れた師匠に、一時は工房の跡継ぎにしてもいいとさえ思わせたほど、腕のいい靴職人であった。
ただし、いくら高度な技術を持っていたとしても、靴作りは身一つで何とかなるような仕事ではない。
靴はまず、人の足の木型を作り、それに合わせて布や皮の型を抜き、側面や底を縫製する。
それには、木型を削るための大小様々なノミや、布や革といった材料も必要であるし、靴縫製用のミシンも用意しなければならない。
どれもこれも安価なものではなく、靴職人の女は故郷で独立するにあたって、この十年間細々と貯めた金を全部はたいてしまう覚悟でいたのだ。
ところが、真新しい小さな工房は、すぐに仕事を始められる状態で彼女を迎えてくれたではないか。
靴作りに必要な道具の中古品をあちこち頭を下げて回ってかき集め、さらには当面の材料をなけなしの金をはたいて用意してくれたのは、父親だった。
それを知った靴職人の女の目には、十年世話になった奉公先を出た時にさえ浮かばなかった涙が溢れた。
帰郷の際、わざわざ途中の村まで迎えに来てくれた父親の顔には、いつの間にか幾重にも皺が刻まれていた。
眉間の皺が減った分、目尻の皺が増え、幼い記憶の中では厳しいばかりだった父親の顔が随分優しくなった。
それを見た靴職人の女は、時の流れをしみじみと噛み締めるとともに、これから精一杯の親孝行をしようと心に決めた。
さて、そうして故郷で靴屋を始めた女だったが、彼女の帰郷と時を同じくして、村にはある大きな変化が起こった。
村役場の裏に広がる森の一角から、突如水が噴き出したのだ。
しかも、それはただの湧き水ではなく、熱水――いわゆる温泉だった。
それを成したのは、何を隠そう靴屋のお得意様である魔王陛下である。
寂れた故郷を憂う靴職人の女の話を聞いた彼は、偶然村の外れを通っていた温泉水脈を見つけ出し、それを地層の裏からちょちょいと突ついたのだ。
そうとは知らない村人達は最初、地面から噴き出す熱湯にたいそう驚いた。
しかし、すぐさまそれを有効利用する方法を思いついた。
薪で大量の湯を沸かすのは難儀な時代、湯浴みは一般市民が毎日満足にできることではなかった。
村人達は力を合わせて大きな浴槽をこしらえ、そこに温泉の湯を引き込んで、村共有の湯浴み場としたのだ。
すると、近隣の大きな街からやってきた学者が湯の成分を調べ上げ、これは骨や神経の病に効くと言って騒ぎ立てた。
瞬く間に噂は広まり、今度は貴族や豪商といった金持ち連中がこぞって湯治にやってくるようになった。
閑散としていた小さな村はにわかに騒がしくなった。
来訪者が増えれば宿が儲かり、周辺の商店が賑わった。
荒れ地に別荘が建ち並び、村人には新たな職に就くチャンスがもたらされた。
かくいう靴職人の女の父親も、もともとは年老いたロバで荷運びの仕事をしていたのだが、いつしか大きな別荘のお抱え御者となり、収入が大幅に増えた。
そうして、父親が大きな屋敷の使用人に相応しい身なりになったのと同じくして、靴工房へ舞い込む仕事も増えた。
足元にも気を配るほど、村人達の生活に余裕ができてきたのだろう。
おかげで靴職人の女の仕事が途絶えることはない。
それもこれも、魔王陛下のおかげである。
そう思うと、その蹄を削る靴職人の女の手もますます丁寧になった。
彼女は削蹄を終えると、子鹿のような足に再びボンボリ飾りの付いたベビー靴を履かせた。
魔王陛下はソファから立ち上がり、その場で二度三度足踏みをする。
そして、「うむ」と満足そうに頷いて言った。
「やはり、お主の靴は、我の足にぴったりだ」
「光栄でございます。魔王陛下」
それから数日後の、ある月の明るい晩のこと。
その日も、靴職人の女は遅くまで工房にこもって作業を続けていた。
すると、コンコンと控えめに扉を叩く音がして、彼女は手元から視線を上げて「どうぞ」と声をかけた。
この一年で随分賑やかになったとはいえ、所詮は田舎の小さな村である。
強盗や殺人のような凶悪事件は村の歴史を百年遡っても見当たらず、空き巣さえほとんどない長閑な地域だ。
外出する時でさえ施錠しない家も多く、在宅中に鍵をかける者など皆無と言ってもよかった。
その例にもれず、靴屋の工房も基本的に鍵は開けっ放しだ。
そもそも、こんな夜も更けた時間にやってくる相手といえば、母屋にいる父母や兄弟、あるいは件の魔王陛下くらいだろう。
ところが、そろりと開かれた扉の向こうに目をこらし、靴職人の女は自分の予想が外れたことを知った。
「夜分に申し訳ありません」
そう言いつつも、ゆっくりとした足取りで工房の中に入ってきたのは、見覚えのない人物であった。
たっぷりとして艶やかな黒髪を長く背中に垂らし、同じく黒くて裾の長いドレスを纏った少女だ。
工房の質素なランプに照らし出されたその容貌は、お忍びでいらした王女殿下だと紹介されれば、疑いもせずに信じてしまいそうなほど、高貴な美しさをたたえていた。
だが、その透けるように白い肌と、完璧なシンメトリーにパーツが配置された美貌は、ある者を彷彿とさせた。
靴屋の麗しきお得意様、魔王陛下である。
魔王陛下が靴職人の女とその父親以外の人間の目を避け、いつも夜闇に身を紛れさせて現れるように、この美少女もまた同じ理由でこんな非常識な時間にやって来ざるを得なかったのだろう。
なにしろ、彼女の両のこめかみからは、その愛らしい顔にはひどく不釣り合いなものが飛び出していたのだ。
黒曜石で作られたような、立派な二本の角である。
その角と、少女の赤い唇からちらりとのぞいた牙を見て、靴職人の女は真夜中の訪問者が人間ではないこと悟った。
「こちらで、靴を作っていらっしゃいますか?」
可愛らしく小首を傾げてそう問う少女は、おそらく魔物であろう。
しかし、枯れ井戸を通って地上にやってくることを許されているのは、魔王陛下ただ一人のはず。
靴職人の女は椅子から立ち上がり、顔を強張らせて警戒を露にする。
すると、魔物らしき少女は血のように赤い両目を潤ませて口を開いた。
「突然押し掛けた無礼を、どうかお許しください。兄上様がはいていらっしゃる靴を作ったのが、人間の靴職人であるとお聞きしました。わたくしは、あの靴が羨ましくてならず、兄上様が頻繁に出入りなさる井戸の先にそれを作った方がいらっしゃると信じ、こうしてやって来た次第です」
「あ、あにうえさまとは、もしや……?」
「兄上様は、魔界で一番尊いお方。誰よりも強く美しく、そして恐ろしい魔王陛下であらせられます」
「では、あなたは陛下の妹君……」
魔界のとはいえ、やはり美少女は正真正銘のお姫様だった。
馴染みとなった魔王陛下の身内と知り、靴職人の女の少女に対する警戒がいくらか緩む。
それを感じ取ったのか、魔物の少女はドレスの裾を引き摺って女のすぐ側までやってきた。
「どうか、わたくしにも靴を作っていただけませんでしょうか」
「え?」
「わたくしが井戸をくぐってきたことを知れば、兄上様はお怒りになるでしょう。罰を受ける覚悟で参りました。こんな愚かなわたくしを少しでも哀れと思ってくださるのなら、どうか願いを聞き届けてくださいませ」
「は、はあ……」
魔物の少女は顔の前で両手の指を組んで、瞳をうるうるさせて訴えてくる。
その必死な様子に、靴職人の女は思わずたじたじとなった。
しかし、わざわざ禁を犯してまでやってきた少女の願いが無理難題ではなかったことにはほっとした。
靴職人の女は小さく苦笑を浮かべると、魔物の少女に向き直った告げた。
「私は靴屋です、お嬢様。私の靴を望んでいただけるのでしたら、喜んで請け負わせていただきます」
「ほんとうですか!?」
靴職人の女の言葉に、魔物の少女はぱっと顔を輝かせた。
ところが、すぐに笑顔を引っ込めて俯き、「でも」と呟いて赤い唇を噛み締めた。
靴職人の女が「どうかなさいましたか?」と問いかけると、彼女はもじもじとしながら口を開いた。
「あの……わたくしは人間ではございません。それゆえ、人間の貨幣を持ってはいないのです」
「はい、存じ上げております。魔王陛下もそのようにおっしゃって、いつも貨幣ではなく物でお代を支払ってくださっていますよ」
魔王陛下が支配する魔界と人間界とでは、当然通貨が違う。
しかし、幸いにも、口にするものにはほとんど違いがない。
淫魔や吸血鬼といった、特殊なものを糧とする種族を除けば、魔物も穀物を食べるし野菜や果物だって好んで口にする。
それらの種子の始祖は、現在人間界で栽培されているものと同じであるのだ。
なにしろ、かつて人間界と魔界の間に隔たりなどなかったのだから。
魔王陛下は、靴のメンテナンスや新たな発注の代償にと様々な品物を持ってやってくる。
食糧は靴職人の女とその家族の腹を満たし、酒は主に父親が喜んで口にしている。
宝石の原石などがもたらされた場合は、父親が大きな街の宝石商に持ち込んで換金する。
魔王陛下が支払う靴の対価は、一家の生活を充分に潤してくれていた。
だから靴職人の女は、魔王陛下の妹だというこの魔物の少女にも、同様に現物での支払いを願おうと思っていた。
ところが、彼女の言葉にほっとした様子の少女は、「それでしたら」と顔を上げて呟いたと思ったら、鈴を転がすような声に似つかわしくない言葉を吐いた。
「あなた様が恨めしく思う相手を、呪い殺してさしあげます」
靴職人の女は、息を呑んだ。
魔物の少女はにっこりと微笑んで続ける。
「簡単ですわ」
可愛らしい顔をして、なんて恐ろしいことを言い出すのだろうか。
背筋が凍り付いたように冷たくなって、靴職人の女はぶるりと身を震わせた。
しかし、何より彼女が恐ろしかったのは、“恨む相手”と聞いて一瞬、靴職人の師匠とその女房、そして彼らの一人娘の顔を思い浮かべてしまった自身に対してだった。
十年間師事した靴職人の師匠夫婦に、彼女は理不尽な理由でもって工房を追い出された。
師匠の一人娘は、姉妹のように育った女よりも惚れた男の言葉を信じ、最後は彼女を「泥棒猫」と罵って頬を打った。
靴職人の女は一方的に悪者に仕立て上げられ、家族のように思っていた一家に捨てられたのだ。
それは、彼女にとってとても辛い出来事だったが、故郷に戻って一年が経ち、実の家族に囲まれている内にもうふっきれたと思っていた。
しかし、心の底ではいまだに師匠一家を恨み、そのほの暗い感情を引き摺っていたのだ。
靴職人の女は、そんな自分自身に愕然とした。
「遠慮せずに、おっしゃって。さぁ、どこのどいつを葬りましょう?」
彼女の反応に、呪い殺したい相手に心当たりがあると悟ったらしい魔物の少女は、笑みを深めた。
赤く形良い唇が、にいと弧を描く。
靴職人の女は震える足を必死に動かして、少女から離れようと後ずさった。
愛らしい面に残忍な色をのぞかせる少女と、それに浮き彫りにされた己の浅ましい心が、たまらなく恐ろしかった。
と、その時――
――バン!
突然、扉が大きな音を立てて開いたかと思うと、工房の中に一陣の風が起こった。
靴職人の女は咄嗟に両目を瞑る。
ようやく風が治まりそっと目を開けた時、彼女の前には闇が広がっていた。
否――それは、黒いマント。
靴職人の女の前にあったのは、その黒いマントを纏った魔王陛下の広い背中であった。
「――ここで何をしている」
靴職人の女を背に庇うように立った魔王陛下が、今さっきまで彼女と向かい合っていた魔物の少女に向かって、そう問うた。
少女の話が真実であれば、彼女はこの魔王陛下の妹である。
しかし、質素な靴工房の中に響いた魔王陛下の声は、ひどく冷たく厳しいものだった。
「あ、兄上様……」
「ここで何をしているかと問うている。答えよ」
けして大きくはないというのに、魔王陛下の声は周囲の空気を一瞬で支配した。
自分に向けられた言葉でないと分かっていても、辺りを包む緊張感に靴職人の女は息苦しさを覚え、大きく胸を膨らませて喘ぐ。
一年前、乱暴なならず者達にだって向けなかった殺気を、魔王陛下はこの時、儚くさえみえる一人の少女に対して放っていた。
その違いは、前者が人間であり、後者が魔物であるというのが理由だろう。
魔王陛下は神子と交わしたいにしえの盟約により、地上の者に手出しをしてはいけない。
その一方、魔界の者――魔物の扱いを決めるのは、その支配者たる彼の領分であるのだ。
圧倒的な畏怖の前に、ガクガクと震える魔物の少女の細い首を、鋭い爪を携えた魔王陛下の手が鷲掴みにした。
とっさに靴職人の女は、その腕にすがりついて叫んだ。
「お待ちください、魔王陛下!」
「これは、魔界の問題である。人間のお主は口出し無用だ」
少女の首を鷲掴みにしたまま振り返った魔王陛下の顔は、静かだった。
妹の勝手な行動に怒り、感情に任せて処罰を下そうとしているわけではないらしい。
いっそ穏やかにさえ見える魔王陛下に、靴職人の女は彼の言う通り、人間の自分が口出しすべきことではないと理解した。
しかし、その手にぶら下げられた少女の苦悶の表情を見てしまっては、どうにも黙っていることなどできなかった。
「この方は、私の大切なお客様なのです! 私は、この方に靴を作ってさしあげると決めたのです!」
「こやつに靴を……?」
必死に少女を庇おうとする靴職人の女の言葉に、魔王陛下は困惑の表情を浮かべた。
女がどうか離してやってくれと懇願すると、魔王陛下はますます戸惑った様子を見せたが、やがて魔物の少女の首から手を離した。
解放された少女は力なく床に踞り、靴職人の女は慌てて彼女に駆け寄ろうとする。
しかし、魔王陛下が腕を持ち上げて、それを阻んだ。
腕から垂れ下がった黒いマントは、まるで人間と魔物を隔てるカーテンのようだった。
「神子との盟約により、我以外の魔物が勝手に人間界に渡ることは禁じられている。それを破った以上、この者は罰を受けねばならない」
魔王陛下は厳かな声でそう言うと、その鋭い爪を躊躇なく少女に向かって振り下ろした。
「陛下っ……!」
「きゃあっ……!」
爪は躊躇うことなく、魔物の少女を断罪する。
ただし、それが切り裂いたのは白い肌ではなく、長く伸ばされていた黒髪だけだった。
しかし、ただ髪を切られただけで済んだと喜べないのが魔物である。
何故なら、髪もまた彼らが魔力を蓄えている大切な体の一部であり、それを切り取られるということは、魔力をそれだけ失うということだ。
魔物にとっては致命的、かつ非常に屈辱的な罰であった。
「これで、こやつは人間を呪い殺すことなどできぬ」
魔王陛下は、背中に張り付いた靴職人の女にだけ聞こえる声でそう呟いた。
女は、はっとしてその黒いマントに覆われた背中を見上げた。
そして、師匠一家をいまだに恨み続ける卑しい心を見透かされたのだと思い、いたたまれない気持ちになった。
彼には、浅ましい自分を悟られたくなかった。
しかし、俯いて唇を噛んだ靴職人の女に対し、魔王陛下は声を柔らかくして続けた。
「心に刻まれた傷というのは、一年やそこらで癒えるものではない。それを抱えていることを恥じる必要はない」
「魔王陛下……」
「心の奥底にたゆたう憎しみや悲しみは、やがて笑い話にできる時が来よう。我はいつか、それを見届けよう」
魔王陛下の静かな語り声に、靴職人の女は徐々に心が凪いでいくのを感じた。
自身の弱さも浅ましさも全て、この大いなる存在によって許されたように思えた。
靴職人の女は慕わしさを込めて、また黒いマントを見上げた。
一方、髪を切られ、力を大きく削がれてしまったらしい魔物の少女は、床に踞ったまましくしくと泣き出してしまった。
「あにうえさま、あんまりでございます」
「黙れ、妹よ。この程度で許したのも、人間である靴屋の口添えがあったからだ。感謝するがいい」
魔物の少女は、髪が肩までの長さのおかっぱ頭になっていた。
しかも姿形そのものまで、幼い子供へと退化してしまっていた。
身体が縮んだのに伴い、少女の容貌に不釣り合いだった二本の角も、髪に隠れて分からないほど小さくなっている。
魔王が黒いマントに包まれた腕を下ろすと、靴職人の女は泣き濡れる少女の側に移動してしゃがみ込み、苦笑を浮かべてその手を取った。
「どうか、泣かないでください。せっかくこうしてお会いできたのです。さっき魔王陛下にも申し上げた通り、靴を作って差し上げますから」
「……ほんとうに?」
「はい。お嬢様にぴったりの靴になるよう、精一杯努めさせていただきます」
「うれしいっ!」
とたんに、少女の顔がぱあっと輝いた。
ピンク色に染まった円やかな頬の愛らしさは、人間の子供も魔物の子供も変わらない。
魔物の少女の満面の笑みを眺め、靴職人の女は微笑ましい気持ちになった。
ところが、にこにこしている彼女を見下ろした魔王陛下は、呆れたようなため息をつきつつ口を挟んだ。
「まったく、安請け合いをしおって。靴屋、お主こやつの足を見たのか?」
「え? いいえ……?」
「おい、妹よ。お主の足を見せてやれ」
「はい……」
少女は魔王陛下の言葉に従順に頷くと、もじもじしながら長く広がるスカートの裾をそっと持ち上げた。
それを、首を傾げながら見守っていた靴職人の女だったが、次の瞬間こぼれんばかりに両目を見開き、叫んだ。
「――っ、え? ええええっ……!?」
少女の黒いスカートの下から現れたのは、まるでイカの足のように吸盤のついた触手。
それが、おかっぱ頭の愛らしい少女の足元で、うじゃうじゃと蠢いているではないか。
靴職人の女の顔からは、サーッと一気に血の色が引いてしまった。
「全部で、百八本……だったか?」
「はい」
魔王が、安請け合いだと呆れた意味が、靴職人の女にもようやく分かった。
百八本の足にぴったりの、百八個の靴。
それを全て作り上げるのは、どれほど難儀なことであろう。
しかし、目眩を覚えた女の目の端に、あどけない魔物の少女のわくわくした顔が映る。
「よろしくおねがいいたします」
そう言ってぺこりと頭を下げられると、さっきの話はなかったことに、とは到底言い出せなかった。