stage2・場所
長い、
長い夢を見ていたようだ。
凍えそうなほど寒く、絶望の色と呼べるような深い暗い黒い闇のなか…さ迷う夢。
夏目 夕愛はゆっくりと目を開く。
「………?」
見知らぬ天井。
夕愛はゆっくりと起き上がる。
「………」
身に覚えのない質の良い白濁無地のシーツや掛け布団、そして今夕愛が体を休めているベッド。
「………??」
それだけではない。
周りを見渡す限りここは病院の個室のようだ。
いや、病院の個室ではない。
病院の個室と見せかけた別の建物の一部屋だ。
「ここは、どこ?」
「ここは生と死の間、マの世界だ。」
「………、は?」
「遅い目覚めだな。アホで馬鹿で無力なマスター」
夕愛の膝の上には猫。
美しいブルーの毛並みとグリーンの瞳は、特徴だけ見ると紛れもないロシアンブルーだ。
なぜ猫がここに。
いや、と言うか…なぜ猫が人語を話している。
「おい。あんたは命の恩人を忘れるつもりか」
訪ねる前に釘を指すように訪ねられてしまった。
「……、夢じゃないんだ。」
さ迷ってた中、スレーブと名乗る者がマスターと名乗った自分の冷たい体に一撃、電撃を走らせ火傷するくらい熱くしてくれた。
「……スレーブ?」
「そうだが?マスター。」
あの寒い闇にいた時、自分が闇に一体化しかけていた時、諦めかけていた時。
姿は見えなくとも、この声は夕愛にずっと語りかけていた。
「…、」
まさか猫だったのか。
しかしこのロシアンブルー、見たことがある気がする…頭の隅でこの猫の記憶が小さく丸まっている気がする。
ダメだ。
…頭が重くて何かを考えることが出来ない。
思い出すことが出来ない。
思考や考察をすることが出来ない。
自分の名前は夏目夕愛。
大丈夫、覚えている。
自分は誰だ。
誰なんだ。
「…あたし、夏目 夕愛。夕日の夕に愛でゆめ。」
「思い出せないんだろ。
おそらく、名前と先ほどのマの世界にいたことくらいしか。」
猫は軽やかなステップで、この部屋にある豪華なソファーの上に飛びつきリラックスするように丸まった。
「そんなこと!!」
「そんなこと?」
「……」
続く言葉が口から出なかった。
そんなことない、と言いたかった。
しかし、本当に名前と先ほどの夢の出来事しか正明に思い出せない。
過去はぼんやりと。
本当にぼんやりと。
これこそ、夢ではないかと…疑いたくなるほどぼんやりと。
思いだそうとすればするほど、ぼんやりとした幻しか浮かび上がらない。
「記憶障害」
夕愛は声が聞こえた方を見た。
方向はこの部屋の出入口である押す引くタイプの扉だ。
「早安」
目の前の人物は女性だ。
露出度がない、淡い蒼い中国を匂わせるチャイナドレスを身に付けていた。
髪を後部で団子にしている。
そして、歯切れの良い自分とは違う言葉。
「に…にーはお…」
「日本でいいよ」
日本語喋れるんかい!!…と内心思ったがあまりに違和感のない日本語に首をかしげたら、女性小さく笑った。
「あたし。中国の血が混じるクォーターなんだ。じい様が中国の人でね。」
女性は夕愛が体を休めるベッドに近づくと手を伸ばした
「困惑しているだろーけど、まずは自己紹介。
あたし、小明。
桜田門小明。」
「…夏目、夕愛…です」
夕愛は相手の手を握った。
彼女がはめている金属製の指輪だけがひんやりとしていて冷たい。
「記憶障害って…」
両方の手が離れたのを見計り夕愛尋ねた
「あんただけじゃない。あたしたちも、記憶がなくなってる。
自分自身の事はわかる。
でも過去が思い出せない。
桜田門小明がどのような人間としてどんな経験を培ってきたのか、全く思い出せない」
「…私は…」
名前しかわからない。
本当に名前しかわからない。
「……あんたは特に重症みたいだ。」
重症。
その言葉が夕愛の気持ちを重くさせる、トドメの一言だった。
「……」
「…………」
無言。
沈黙。
静寂。
「ごめん、どうやらあんたにとって禁句みたいだったな。」
「い、いえ。…イマイチ状況が掴めない…だけ…なんで…」
お構い無く…と言おうとした言葉は第三者によって閉ざされた。
「まぁ!なんて危機感のない子!」
夕愛の声でも小明の声でも、ましてやあの罵倒暴言猫の声でもない。
「あぁ、あたしのスレーブ。」
小明が夕愛に背中を向けた。
小明の背中には黒と青色を交互に色付けられた縄のようなものが張り付いていた。
しかし夕愛が縄ではないと気づく事に数分もかからなかった。
張り付いているのは蛇だ。
あれは、蛇だ。
かっこよく言えばsnake
「ぎゃあああああああああああああああああ!!!!!」
反射的に枕を盾にした。
「失礼な子。
こんな美しいnicebodyの私にぎゃあ、だなんて…品がないわ。」
怒りを露にするようにシューシューと漏れたような息遣いをし、先の尾をバシバシと小明の背中に叩きつける。
「ちが、違う!!!」
ヘビは確かに苦手と判断するが、違う。
生理的に受けつけない訳じゃない。
「ヘ……ヘビが喋ってる。」
夕愛が絞り出した声にヘビはあら?と漏らす。
「そこにいる美しい猫は喋らないのかしら?」
ヘビの尾がソファーに寝ている猫に方向が向けられる。
猫はその言葉を聞き、片目を開け起き上がり猫特有の背伸びをした。
「バカでアホで無力なマスターの話し相手ご苦労だった。」
ヘビは小明の背中から降りてソファーに近づいた。
「あら?私の蟹味噌脳みそマスターに比べたら利口そうじゃない」
「バカいえ。うちのマスターは腐れ脳みそだ」
スレーブ…動物同士の会話は失礼極まりなかった。
「桜田門さん。この枕をあの猫にぶつけていいですか?」
「あぁ、できればヘビの方にぶつけてほしい。
あ、名前でいいよあたしの事。」
どうやらマスター…人間同士の信頼感が上がったようだ。
夕愛が枕を話に盛り上がる二匹にぶつけようと振りかぶった瞬間。
一瞬、目の前で眩しい光が弾け夕愛は一瞬目を眩ましてしまった。
「なっ!!」
気づいた時には両手をベッドに縫い付けられていた。
体にのし掛かる重みと、両手首に感じる力強い片手。
「遅い。さらにノロい。尚且つスロー。
お前はナメクジか、ナメクジなのか、ナメクジなんだな」
夕愛の体に股がる青年。
深い青色の髪にエメラルドグリーンの猫目。
八重歯に威張り散らした態度。
あぁ、
「(そのドヤ顔に一発。鉄拳いれてえ)」
夕愛の切実な思いだった。
小明とヘビにいたっては固まっている。
それはそうだ。
第三者から客観的に見れば男が女を襲っているようにしか見えないからだ。
性的に
「俺に歯を立てるなんて良い度胸だ。討ち返しにしてやる。歯食いしばれ(暴力的に)」
「あ、わ…わたくし少し貝殻拾いにへ行ってくるわ」
「普通にトイレといいなよ。あ、てかあたしも行く(巻き込まれたくないし)」
勘違いだ
誤解だ。
間違いだ。
「いやいやいや、助けてくださいよ。」
「そうだな。客がいた方が盛り上がるし(喧嘩的に)」
「あ、あら…サービス的な性格なのね(性的に)」
「いやいやいや違うから。今貴方達に見捨てられたら昇天しますから(魂が)」
「あ…あら、昇天だなんて(性的に)」
「あんた達、会話が噛み合ってるようで噛み合ってないから。」
「良い声で啼けよ?(悲鳴)」
「住口」
反れてしまった道を直そうと小明は一言ピシャリと言う。
「とりあえず猫さんは夕愛さんから降りて。
蝶桜は………うん。
とりあえず落ち着け」
小明がため息をつきながらヘビ…蝶桜の首を掴む。
「あ、まって小明さん。」
「さん付けじゃなくていいよ。何?」
「じゃあ…貴方も呼び捨てで。
いや、この人………誰?」
夕愛の言葉に本日二回目の硬直をした小明だった。