1話
こん、と足元で軽い音がした。視線を下げてみると、ちいさなボタンがころころと転がっていた。ほかの砂利にまぎれてきらきらと光るそのボタンを手に取る。自分の手元についているブレザーのボタンと模様が同じだ。無意識にそれを照らし合わせる。土で汚れた部分を袖口でふき取る。太陽のひかりが上手く反射してとてもきれいに輝いた。
小澤芳尚はしばらくの間ボタンの落ちていた中庭でぼうっとただ突っ立っていた。なにもせず、なにも考えず。芳尚はそういう時間を好んでいたわけではないが、うるさい空間に放り込まれるよりはずっとひとりのほうが落ち着くことを知っていた。深呼吸をする空気が、しっかりと感じられる。息を吸う、そしてはく。
――ダム
ぴくりと芳尚の右手が小さく震えた。音のしたほうをゆっくりと振り返る。また無意識に芳尚の足は、通いなれた道を進んでいく。今日で卒業するまで、通い続けた学校の中庭への道だ。体育館の無い小さな東京の端くれの学校に、唯一あれが存在した「俺たち」の居場所だ。
――ダム
芳尚はそこで動き回るものを視野にいれる。
見慣れたリング、ボール、コート、そして――。
「俊」
ぐるり、と勢い良く小さな影が芳尚のほうを振り向いた。その勢いで汗がぶわりと周りに散る。
「俊」
「あ、よし」
「なにやってんの」
「え、いやあ最後に一回とおもって」
「ふうん」
芳尚は俊の手のなかにあったボールを取り、リングに投げる。あ、と小さく俊が呟いたような、そうでないような。歯切れの良い音と共にボールはネットを通った。ふ、と視線を感じて芳尚は隣を見る。俊がいつもより真っ赤顔をして、俯きながら芳尚を見る。上目遣い。余計に小さく見えるから俯くな、といいそうになって止めた。なんとなく、なんにも言いたくなかった。
「……」
風の音と、俊の少し乱れた呼吸の音。それから自分の鼓動を感じる。まだ少し肌寒い三月。俊は何も言わない。芳尚も何も言わなかった。
「よし! しゅん!」
しかし、その均衡を破ったのは拍子抜けするくらいに場違いな第三者の声だった。聞きなれたその音にふたりは同時に振り向く。よく透る澄んだこえ。
「なにやってんの! もう出席取ってるよ!」
「あ、行く行く」
「最後の最後まで遅刻する気?」
「わかったって、りょう、もう行くよ」
離れた場所からなのに、怜奈の声は嫌というほど良く通った。俊が大きくてを振って、怜凪はふう、とため息をついていた。ここからでもあきれているのが目に見える。
「ねえ卒業式の日まで、練習してたの?」
「俊はな」
「えっ、よしもだよ」
「俺は見てただけ」
「うそだあ」
「はいはい、わかったから……って俊!」
「ん?」
「あんたここ! ボタンどうしたの!」
「え? あっ」
怜奈がぐわし、と俊のブレザーを掴みあげて青白い顔をした。糸がほつれて、そこからボタンが綺麗になくなっている。芳尚はあ、とおもって自分のポケットのなかからボタンを取り出した。
「なんで! こんな大事な日に限ってあんたはいつも」
「わーごめん、ごめん。ごめんなさい」
それに気がつかずに、怜奈は俊を怒鳴りつけていた。ふうん、と芳尚は自分にだけ聞こえる声でうなる。そんないつもどおりのやり取りを見ているだけだったのに、もう少しだけ、とおもっている自分がいる。ヘンなの、とおもいながら芳尚は怜奈の暴れる肩をつん、とつつく。
「怜奈」
「ん? あ、え? これよしの?」
「拾った」
「うわ、あんた天才なの」
「うん」
そう言って軽く経緯を話すと、怜奈はほっとしたような笑みを零してありがとう、とそのボタンを受け取った。芳尚はうん、と自分よりもはるかに小さい怜奈と俊を交互に見て、また頷く。
「あんな砂利ばっかのところから良く見つけられたね、ほら早くブレザー脱ぐ俊は!」
「なんだよー、よし持ってるなら持ってるって言えよ、俺怒られ損じゃ」
「なに人のせいにしてんの。最後の最後までまぬけな俊が悪い」
「えー!」
「うん、わるい」
「よしぃ」
声を出さずに芳尚は笑う。いつも3人でいるから、いつも芳尚はふたりを見下ろすような格好で生活していた。芳尚がバカでかい、というわけではない。確かに中学生にして175センチを超えていれば大きいほうだが、問題は芳尚にあるわけではなかった。俊と怜奈が小さかったのだ。ふたりともどんぐりの背比べで150センチあたりをふらついている。150センチくらい、という曖昧さを俊は許さなかった。153センチだ、と言い張る。それはもう合言葉のようになっていて、別に芳尚は俊を小ばかにしているわけではなかった。また、怜奈も然り。俊よりも大きい、が彼女の口癖でそのひとことでふたりの言い合いが始まるのも身体測定のたびに見てきた。ここに3人でいると、懐かしいことばかりを思い出すな、と芳尚は笑う。
「家庭科室で針と糸」
「え?」
「早く借りてこい!」
「行くよ、行くってば!」
だっと俊が走り出す。足の早い俊だから、きっとすぐに戻ってくるんだろうなあ、と芳尚がぼうっと立っていたら怜奈に手首を引っ張られた。
「しゅーん! 教室にいるからねえ!」
あ、そっか。芳尚は怜奈に引張られたままずるずると教室に戻った。なんとなく、動きたくなかったんだなあ、と教室よりも馴染みのある裏庭を恋しくおもっていたことを、そこを離れてから初めて分かったような気がした。
「……さびしーの?」
「べつに」
つい、と怜奈から目をそらす。その仕草が、無愛想なものから来ることではないのを怜奈はよく知っていた。ふふ、と芳尚に聞こえないように息だけで微笑む。芳尚が拗ねたように目を逸らすときは、きまって嘘をついているとき。そのことを芳尚本人だけが気づいていない。
「ま、高校楽しみだね」
「んー」
「クラスだって8クラスだよ、はち」
「俺ら最後まで一クラスだったもんな」
「そうそう、だから楽しみだね、下界は」
「下界って」
3月のそら。まだ少し肌寒くて、桜は綺麗につぼみをつけている。今度3人で一緒に通る頃には満開になっているといいなあ、と芳尚はねがう。となりで、なんとなく怜奈も同じことを思っているんじゃないかと横をちらりと見る。ただ機嫌がよさそうに彼女は微笑んでいた。冷たい風が吹く。
「卒業おめでとう」
耳に新しい、その言葉をどこかに残したまま、芳尚の願いどおり桜満開の入学式を迎えることになることを、このときの彼らはまだ、知らない。