新しい場所・彼の記憶・有士
その後、紫遥はいつもどおりのままで、俺たちはホッとしていた。
昼食も終わり、紫遥は用事があるからと帰っていった。
そして俺は沙紀さんに連れられて、でかい扉の前に立たされている。
「こちらが有士様のお部屋になります。それから旦那様から、今まで通りの郁様の身の回りのお世話に、これからは有士様の身の回りのお世話も仰せつかりましたので、何かありましたらお申し付けください」
「はぁ…どうも」
何度も見た事のある、この家のどこにでもある扉だが、その先の一つが自分の部屋になるなんて…一昨日までの自分が知ったら卒倒モノだな。
…ん?
ということは、あれか?
「ってことは、俺と郁が沙紀さんの『ご主人様』…?」
「その通りです」
にっこり、と答えた。
アメリカンドリーム…いや、アメリカンが萌えるかは分からん。
電気街男児の夢、叶う。
…何考えてんだろうな、俺。
「どうぞ」
扉が開かれ、中へと導かれる。
おお、これぞまさに俺の部屋。
窓の位置が少し違うくらいで、華やかすぎず、かといって質素すぎず、生活感のあふれた部屋になっている。
「前の俺の部屋と全く同じ配置にしてあるんですね」
「物と物の間は広がってますけどね」
言うとおり、ベッドのすぐ脇に置いてあったテーブルが、ベッドから1メートル程離れたところに置かれていた。
クローゼットも確認すると、服の並びも変わってないうえに、きれいに折りたたまれている。
「ちょっと置き場所に無理がありましたか?」
「そんなことないよ。むしろ綺麗になってて助かったよ。それより、午前中に全部終わらせるなんて凄い」
「プロですから」
果たして何のプロかは分からんが、業者をやたら呼んでやらせなければ無理ってものだ。
「力使えば簡単ですよ。さすがに一人では荷物は運べませんでしたけど」
「え?沙紀さん天啓得てたんですか?」
力を使っているところを見た事無いから、驚いた。
「メファシエルの力で、この部屋の壁と有士様の部屋の壁を、扉一つで行き来できるようにしましたから」
納得。
メファシエル、扉を開く者の意。盗賊の守護天使とされる彼の力を使えばそれも簡単だな。玄関が開いてなかったのに家の中にいたのは、そういうことか。んで、あとは他の数人のメイドや憲吾さんのお付きの黒服軍団に重い物は運ばせた…ってとこか?
でも、どこでも●アみたいだ。メファシエルの力って…いい。今度世話になろうかな…。
「ところで、何であの時まだ家にいたんですか?」
3人で驚いたときの事を聞いてみる。
「何か忘れてたりしたらいけませんので、日常生活に必要であると思われるものを確認して回っていたんです。新しい物でもいいんですが、使い慣れた物の方がいいでしょうから」
ほう、さすがメイド服を着ているだけの事はある。
細かい気配りもしっかりできている。
「そこまでさせると何か悪いですね」
「いえいえ、好きでやっている仕事ですから、お気になさらず。それから物の配置はお好きなように変えてもらっても結構です。それでは、私は他の仕事があるので失礼しますね」
「うん、ありがとう沙紀さん、お疲れ」
軽く一礼をしてにこりと笑うと、沙紀さんは部屋から出ていった。
ふぅ…実際結構でかいよな、この部屋…。
前の自分の部屋が8畳間フローリングだったのに対し、この部屋は20畳とはいかないまでも、一人部屋にしては大きすぎる気がする。初めて郁の部屋と圭君の部屋を見せられたときは、おっどろいたよなぁ…。
ベッドに倒れ込み、天井も結構高い事を認識する。
ま、そのうち慣れるだろ…。
あ、それにしてもベッドの下にあったヱ絽本、あるのかな…?
一度ベッドから降りて、確認する。
あー、やっぱ無いよ…。
微妙な心情のまま、もう一度ベッドの上に横になる。
それにしても、布団が気持ちいい。カバーこそ同じ物だけど洗ってあるし、多分中の布団は新しい物になっているのだろう、前の布団とは大違いの素敵な感触に誘われ、思わず眠りに落ちた…。
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もうすぐ夕日が沈む時間。
…遅い。
いくら何でも遅い。
今日もここで遊ぶって約束してたのに。
この時間じゃ今日はもう遊べないかな…。
ふぅ、帰るついでに郁と圭君にちょっと会って文句の一つでも言いに行こう。
んで、いつも以上にいぢめたる。
仕方なしにそう思い歩き出した時に、見慣れた黒く大きい車が俺の近くに止まった。
中から顔を出したのは、憲吾おじさんだった。
あわてた様子で、俺も車に乗るようにと言う。
おじさんが言うには、郁が車にはねられたらしい。
それを聞いて俺も車に乗り、病院へと向かった。
『咲倉紀 郁』
手書きで、そう書かれたプレートのある病室へと入った。
白い病室に、色鮮やかな花が目立っていたのを、良く覚えている。
郁は、不思議そうに俺の顔を見つめている。
「無事で良かったな、郁」
「…」
「?どうした、郁」
「あなたは、誰?わたしの、お友達?」
そう言った彼女の目は、少し怯えているように見えた…。
また来るから、と言って郁の病室を後にした。
圭君は塾に行っているが、里紗おばさんとふたりで今病院に向かっているらしい。
今は憲吾おじさんと二人だけだ。
二人して廊下にある椅子に座り、話をしていた。
郁を、守ってやってくれないか、とおじさんは言った。
返事をする間もなく、おじさんはこう言った。
「…簡単に説明するよ。事故のショックで、一般的な知識は残っているが、人物の記憶が抜けてしまって、物の記憶の一部もすっぽりとなくなってしまったようだ。それを思い出せる可能性は限りなくゼロに近い」と。
記憶喪失。
子供の俺にもわかりやすいように、そう説明してくれた。
ばかばかしい。
あまりにもばかばかしい。
これは、ドラマじゃないんだ。現実なのに。
でも、おじさんの様子や現状を見る限り、嘘ではないことぐらい分かった。おじさんは、目に少し涙を浮かべながら続けた。
「だが、思い出せないのなら、またもう一度覚えさせてあげればいい。今までの記憶がないのは悲しいことだが、私たちが不安になっていてはいけない。一番不安なのはあの子のハズだから、しっかりしなくてはな。だから、また、今まで通り遊んでやってくれないか。有士君のことは私から話しておくから」
それから、おじさんは黙ってしまった。
俺は、子供ながらに、おじさんはえらい人だなと思った。
自分の子供がこんな状態で自分も悲しいだろうに、俺を元気づけてくれるなんて。
本当は、誰より不安なはずなのに。
俺は、この人を裏切ることはできない。
いろいろ教えてくれた、両親の代わりにたくさん遊んでくれたこの人を、裏切ることはできない。
初めて、心から尊敬した人。
そして、初めて人を…郁を守り続けようと心に強く、誓った。
俺は…郁のことが好きだから。
俺はおじさんに、まかせてください、と言った。