8 白井あすかにとって体育祭とは
一年前の体育祭はどうやって過ごしたんだっけ──。
白井あすかは、去年赤組だったか白組だったかも思い出せずに、高校で二回目の体育祭を迎えた。今年は白組だ。
けれどあすかが気を揉んでいるのは、紅白の勝敗の行方ではなく、体育祭のクライマックスであるクラス対抗リレーでもない。
お昼休憩が終わってすぐ、午後の一発目の競技である部活対抗リレー──風紀委員として出走するそのリレーが、あすかの胸を詰まらせる。昼食のお弁当がなかなか喉に通っていかない。
レジャーシートの上で三角座りをする。
「あすか、食べないと午後走れないよ?」
モゴモゴとした声。隣で真琴はおにぎりを頬張っている。
真琴の母親が作ったお弁当は、まるでおせちのように豪華だ。重箱には女子二人で食べるとは思えない量が詰められている。見るだけで食欲が減退しそうなのに、気の重さも相まって箸が進まない。
「あんまり食べると、このあとの部活対抗リレーで走れなくなるかも」
あすかの弱音など、真琴には届かなかった。
「あたしも手伝ったんだよ、お弁当。ほらほら食べて食べて」
真琴は箸でつかんだ卵焼きをあすかの口元まで近づけた。「あーん」と促され、渋々口を開く。噛むと、甘い出汁がはじけるように広がった。
「なんで部活対抗リレーでそんなに緊張してるの?」
「だってさ、クラス対抗は大人数だから、一人ひとりの責任が軽いでしょ。部活対抗は四人だよ? 責任も四分の一なんだよ?」
真琴はおにぎりを包んでいたアルミホイルを丸めて、あすかの意見を一蹴する。
「責任なんかないでしょ。部活対抗リレーは紅組も白組も関係ない、ただの娯楽、余興なんだから」
「そうかもしれないけどさぁ……」
あすかは眉尻を下げ、天を仰いだ。
暑くもなく、寒くもない。絶好の体育祭日和は、あすかの心に似た曇り空だった。
「部活対抗リレーに出場する生徒は集合場所に来てくださーい」
放送部のアナウンスを鼓膜に受け止め、あすかは目的の場所まで歩きはじめた。
ほとんどの生徒は半袖短パンの体操着を着ているが、あすかは学校指定のジャージを上下とも着ている。肌を見せることには抵抗があるからだ。そのためなら、多少の暑さは我慢する。
あすかは集合場所で風紀委員のリレーメンバーを探した。大和や由恵はまだ見えない。端のほうで長い髪を一本に結っていたのは、一年生のメンバー、近藤七瀬だ。
「七瀬ちゃん、気合入ってるね」
緊張と闘志の混ざった表情に声をかけた。七瀬はあすかをキッと睨みつけている。
「白井先輩、大和先輩と由恵先輩に恥かかせないように頑張りましょうね」
なぜか七瀬はあすかをあまり良くは思っていないようで、後輩としての礼儀は保ちながらも愛想はない。しかしそれが通常運転なので、あすかは七瀬からの威嚇など気にも留めず、むしろ身長の低さも相まって、可愛いとさえ思っている。
「うん、頑張ろう」
返事をすると、すぐに大和と由恵も集まってきた。円陣を組むと、由恵は聞こえよがしに「よぉし! 打倒生徒会!」と声を張り上げた。
その横にいた生徒会のリレーメンバーは風紀委員など眼中にもないようで、生徒会長である朔は冷笑を浮かべている。
「僕らは大声出したり、勝負前に無駄な体力使わないようにしようねー」
生徒会長と風紀委員長のあいだで早くも火花が散るなか、あすかは大和に声をかけた。
「大和、頑張ろうね」
「あすか、緊張してる?」
「え、そ、そんなことないと思うけど」
「負けたら委員長に何言われるかわからないしね」
大和は困ったように笑ってから、ポン、とあすかの頭に手を置いた。
「でも大丈夫だよ。負けたらアンカーの俺のせいだから、あすかは楽に走って」
頭のてっぺんが、焼かれたように熱くなる。
以下、あすかの心情である。
頭にポン! って。
えぇぇ────!
これ少女漫画でしか見ないやつでしょ!
無意識? この人、無意識にやってます⁉
やばい。にやける。でもなんか複雑!
平然とこんなことするなんて、大和はもしかして手練れなの⁉
わけがわからない。
鳴り止め! 心臓!
等々。
あすかは勝負の緊張からは解き放たれたが、別の緊張でパニックに陥った。
が、あすかの動悸など、誰も知るはずがない。
そんななか、
ついにリレー本番を迎えることとなった──。
部活対抗リレーには、運動部対抗と文化部対抗の二レースある。あすかたちが出場するのは、もちろん文化部対抗レースだ。
一周二百メートルのグラウンドを半周ずつ、四人で走る。
第一走者の近藤七瀬がスタートラインに立ち、足首をグルグルとほぐす。第二走者の由恵と、アンカーの大和は半周先で待機している。
「よぉい……」の声に第一走者が顎を引く。静けさに緊張感が走る。
パァンッ‼
ピストルの音で一斉に駆けていく。七瀬は元陸上部だったらしく、スタートダッシュは完璧だ。
先頭を切る七瀬のあとに続くのは生徒会チームだ。
そもそも、運動部対抗のリレーがオリンピック並みに盛り上がるのに対し、文化部対抗は、その嵐の前の静けさと言わんばかりに歓声もまばらである。
文化部というのは、基本的には運動をしたくない、もしくは苦手だから文化部なのである。
当然、文化部限定のリレーとなれば、応援するほうも走るほうもそれほどやる気がないのが必定。
すなわち──このリレーに燃え、気合いを入れて臨んでいるのは、生徒会と風紀委員の二チームだけなのであった。
スタートから一位のまま駆け抜けた七瀬は、スムーズに由恵へバトンを渡す。二位の生徒会との差はほとんどない。
あすかはスタートラインで由恵が近づいてくるのを待つ。少し遅れを取って暫定二位でバトンを受け取った。
まだ取り戻せる。
力強く地面を蹴る。
風を切る感覚。
きっと、今日のことは、来年になっても忘れないだろうな。
あすかはそんなことを考えた。
持久力はないが、瞬発力には自信のあるあすかは、気がつけば二位とも差をつけ、トップに躍り出る。
目の前に大和が近づく。バトンに想いを託して、渡そうとした。
──したのだが。
バトンが上手く渡らない。
放課後に受け渡しの練習を何回かしたところで、そんなのは付け焼刃でしかなかったのだ。
届きそうで、届かない。
もう少し、あと少し。
──届いた!
しかし、大和が握ったのは、バトンを握るあすかの手であった。
さっき、頭をポンポンしてくれた手が、自分の手と重なっている。
「っひゃぁ!」
その瞬間、
バトンは宙を舞った。
免疫のないあすかは、恥ずかしさから、衝動的に大和の手を振り払ったのだ。
無情にも、バトンは乾いた音を立てて地面に転がる。
スローモーションにも思える時のなか。
絶望に呑まれそうになるあすかを救ったのは、他でもない、大和だった。
大和はバトンを拾う。
そして、力強く走り出す。
一生懸命なうしろ姿。
ゴールへ向かう背中は、誰よりも眩しかった。
白井あすかにとって体育祭とは、
良くも悪くも忘れられない一日であり、初めて大和への気持ちを意識した、青春の一片である。




